第9話 それでも、あなたを想う
「よくも俺の顔に泥を塗ってくれたな」
路地裏に連れ込まれ、建物の外壁に押し付けられた。
背中に衝撃が走る。強い力ではなかったが、勢い余ってぶつけた頭が鈍く痛んだ。
「乱暴はやめて下さい」
「だったら、自分の行いを顧みることだ」
闇色の瞳が私を睨み据える。
「乱暴に扱われるような態度を取るお前が悪い」それが彼の言い分だ。
怒りと執着が混ざり合う強い視線。私も負けまいと睨み返した。
「今ならまだ許してやる。《《結婚式の続き》》をするぞ」
ガイウスが私の腕を強く引いた。痛みに顔が歪む。
エルディオン様も強引な所はあるけど、こんな風に私のことを強く引いたりしない。やっぱりこの人は、おかしい。
「嫌です。私はあなたとは結婚しません。婚約の話は……なかったことにして下さい」
「生意気だな。あの竜に洗脳されたのか」
その言葉に、頭に血が上るのを感じた。
エルディオン様のことを何も知らないくせに、勝手なことを言わないで。
「洗脳なんてされてません。私の意思です」
「あれに懸想しているようだが、その気持ちは所詮まやかしだ。お前の前世——女神の記憶がそう思わせてるに過ぎない」
突如冷や水を浴びせられたように背筋が冷えた。
——前世のことを、なぜ知っているの。
私の中に生まれつつあるこの感情がまやかしだと言われても、咄嗟に言い返せなかった。
闇の中に突き落とされたような感覚を覚える。
「いいから来い」
「嫌! 離して」
再度腕を引かれ、身体が引き寄せられた。
このままじゃ、連れて行かれる——
「私のフローリアに触れるな」
それは一瞬で場を制圧する、圧倒的な存在感。
エルディオン様の声だった。周囲に冷たい魔力が満ちてゆくのを感じる。
「お姫様のピンチに現れる騎士様気取りか? しゃらくせえんだよ、お前」
舌打ちをしたガイウスが粗暴な口調で吐き捨てた。
私を掴んでいた手を離し、腰の剣に手をかける。
しかし、結婚式の時と同じように、ガイウスは空間に縫い止められたように動かなくなった。
「くそ、妙な真似を……しやがって」
ガイウスが憎々しげに呟くと、彼を中心に黒い霧が漂い始めた。
足元には魔法陣のような紋様が浮かび上がる。
禍々しい魔力。思わず彼の魂花を盗み見ると、黒い薔薇が毒煙のような霧を吐き出していた。
「この力は……」
エルディオン様が何かに気づいたように表情を曇らせる。
その隙を狙ったかのようにガイウスの足元の魔法陣から黒い刃が放たれた。
しかし刃はエルディオン様のもとまで到達する前に透明な壁のようなものに当たり、粉々に砕け落ちた。
強い風が吹き上がり、ガイウスの身体が宙に浮く。
そのまま背中から石畳に叩きつけられ、彼は呻き声と共に大きく咳き込んだ。
「舐めやがって。必ず……後悔させてやる。それまでせいぜい竜ふぜいと仲良しこよしをしていればいい」
劣勢を悟ったのか、ガイウスは捨て台詞を吐いて走り去った。
幸い目撃者はおらず、騒ぎにはなっていない。
張り詰めていた緊張が解けた私はその場に力無くへたり込んだ。
「すまない、怖い思いをさせた。怪我はないか?」
「大丈夫です。来てくれるって、信じてました」
駆け寄ってきたエルディオン様が私を抱き寄せる。
紫の瞳が気遣わしげに揺れていた。
私は心配させないように努めて笑顔を作ったが、先ほどのガイウスの言葉が棘のように胸に刺さったままだった。
*
「わあ! お花がいっぱい咲いてますね」
私たちはエルダシアの町はずれ、小高い丘の上にある花畑に来ていた。
エルディオン様は私を心配してもう帰るかと何度も聞いてきたけど、どうしても花畑が見たかったので無理を言って連れてきてもらった。
幸い、後頭部にたんこぶができたくらいで大きな怪我はしていない。ガイウスだって今日の所はもう襲ってこないだろう。
花畑には、一面にゼラニウムやパンジー、スミレなどが咲いていた。
住宅の窓辺に飾られていたものも可愛いけど、自然のままの姿は壮観だ。
「今日、エルディオン様と来られて良かった」
柔らかな春風が頬を撫でる。
離れた所から私を見ていたエルディオン様と目が合うと、彼はハッとしたように硬直しどこか苦しそうに眉根を寄せた。
「え、エルディオン様? どこか痛いのですか」
慌ててエルディオン様の元へ走る。
その間も、彼はずっと眩しげに私を見つめていた。
「いや、フローリアに……見惚れていた」
不意打ちのような言葉に心臓が跳ねた。
そんなこと言われても、返答に困ってしまう。
戸惑いの表情を浮かべエルディオン様を見上げていると、さっきまで聞こえていたはずの風のざわめきが遠くなってゆく気がした。
世界の輪郭が徐々にぼやけていき、目の前のエルディオン様だけがはっきりと見える。
エルディオン様の瞳に、私が映っている。愛しい者を見る瞳だった。
彼の指先が壊れ物に触れるように私の頬をなぞり——
額に、口付けを落とした。
「今、何を……」
「唇のほうが良かったか?」
「い、いいえ、そんな……」
驚いて、思わず手で額を押さえた。
熱が全身を駆け巡り、甘い喜びに指先まで満たされてゆく。
エルディオン様——私の契花。
左手の魂花が、存在を示すように熱を持った。
綻びかけているのだと分かる。
『その気持ちは所詮まやかしだ。お前の前世——女神の記憶がそう思わせてるに過ぎない』
ガイウスの言葉が聞こえた気がして、現実に引き戻された。それは呪いのように私の中に反響し胸を軋ませる。
私は、もう気づかないふりはできないほどエルディオン様に惹かれていた。
でも、この気持ちは現在の私のものではなく、前世の思い出を反芻しているに過ぎないのだろうか。
分からない。それでも——
「フローリア、そろそろ戻るか。風が冷たくなってきた」
エルディオン様が差し出してくれた手を、そっと握った。
彼の微笑み、手の温もり、私の名前を呼ぶ、優しい声。
たとえそれが今目の前にいる私ではなく、前世の私に向けられたものだったとしても。
それでも構わないから。今は、この胸に宿る温かい気持ちを信じたい。
それは祈りにも似た、私のささやかな決意だった。
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次話より第2章となります。引き続きよろしくお願いします。




