第14話 契花の香り
「最近、兄上の様子が心配なんだ」
昼下がり、食堂で本を読んでいるとエルディオン様の弟であるクロトが私に声をかけてきた。
最近のエルディオン様は朝の時間を一緒に過ごした後、神殿の方に出かけてしまい夜まで戻らない。
日中に何をしているのかは私も知らなかった。
「エルディオン様、何かおかしいの?」
「疲れた顔してるし……眠そう」
クロトが金色の瞳を物憂げに伏せる。長い睫毛が頬に影を落とした。
彼は、かつての戦いでも傷ついた兄の姿を見ている。
また何かあったら。そう思うと気が気でないのだろう。
「竜にとって睡眠って暇つぶしとか娯楽に近くて、丸3日くらいなら寝なくても全然大丈夫なんだ。普通に過ごしてるだけで疲れることなんてないし、まずいんじゃないかなって。フローリアからも休むように伝えてよ」
「分かった」
私は、クロトに言われるまでエルディオン様が疲れているなんて分からなかった。
おそらく、私の前では極力疲れた様子を見せないようにしているんだと思う。
魂樹の件とか、最近は気がかりなことも多いから色々心労があるのかもしれない。
「エルディオン様、お疲れのようですけど最近寝てますか?」
「いや、寝ていないな」
エルディオン様と話すタイミングは朝しかない。
私は、朝の散歩のタイミングで切り出してみることにした。
濁されるかと思ったけど、彼は意外にも素直に答えてくれた。
「ちなみに、どのくらい……?」
「10日くらいだろうか」
「え! 人間だったら死んじゃいますよ!」
そんなに寝ていないなんて。思わずエルディオン様の顔を見上げる。
私を見つめる柔らかな表情はいつもと変わらない。でも、言われてみれば顔色が少し悪いような気がした。
「しかし、気が張って眠れないのだ」
エルディオン様が小さくため息をつく。瞳の奥に翳りが見えた気がした。
「私に何かできることありますか? 子守唄でも歌いましょうか」
「そうだな……ならば歌よりも、添い寝をしてもらいたい」
「ええ! む、無理です」
「何故だ。襲ったりはしないぞ」
驚きのあまり咄嗟に断ってしまった。
エルディオン様は怒ってはいないけど不服そうで、自分から言い出したことなのに不誠実だったかなと思う。
「そ、それは分かってます。ちょっとびっくりしちゃって……でも、そうですね。では今夜、参ります」
*
夜、失礼のないように念入りに身体を清め、手触りの良い寝間着を身に纏った。
エルディオン様に何かされるとは、当然思っていない。
彼はそこまで深く考えていないだろう。
私は寝るために男性の部屋を訪れるなんて初めてだから、それが特別な意味を持つのではないかと勝手に緊張してしまう。
エルディオン様の私室には、シンプルだけど上質な造りの家具や調度品が整然と並べられていた。
壁際に置かれた天蓋付きのベッドは大きくて、4人くらいなら余裕で寝られそうだった。
「本当はフローリアの部屋に置こうかと用意していたんだが、趣味じゃないだろうからここに置いた」
「確かに1人でこれは、逆にゆっくり寝られなさそうですね」
ベッドに腰掛けると、程よく身体が沈んだ。
洗い立てのような真新しいシーツの手触りが心地良い。
「恥ずかしいので、後ろ向いてていいですか?」
「ああ。自由にしてくれ」
エルディオン様に背を向ける形で横になる。
すぐ後ろに彼の気配を感じて、触れてはいないのに妙に意識してしまう。
「魂樹の根に残る呪いを消す方法を調べているが……なかなか手がかりがない」
「私も本で色々調べてますけど、芳しくないです」
「邪竜戦役の当事者である私に分からないことが分かる者など、いないのかもしれないな」
ぽつりぽつりと、エルディオン様が語る。
いつの間にか、私の左手にエルディオン様の手が重ねられていた。
半身に重みを感じて、後ろから抱かれるような体勢になっていると気付く。
「あの、エルディオン様……ちょっとこれは……」
逃げようと身じろぎするけど全然動けない。
触れている背中が熱い。竜は人間より体温が高いのだ。
寝間着越しにエルディオン様の心臓の鼓動を感じる。
それはやがて私の鼓動と混ざり合い、どちらのものか分からなくなっていく。
「良い香りがするな。フローリアの香り……契花の香りだ」
私が緊張に身を固くしていると、背後からすやすやと規則正しい寝息が聞こえ始めた。
エルディオン様、寝ちゃった……
体勢的に動けないままだけど、とりあえず求められる役目は果たせたとほっと一息つく。
ふと、今までも何度か感じたことのあるハーブの香りが漂ってきた。
意識を集中させて香りを感じる。
ミントと、ラベンダー。それにローズマリーだろうか。少しだけ、蜂蜜のような甘さがある気もする。
香りに包まれていると、だんだん緊張がほどけて心が安らいでくる。
エルディオン様が香水を付けているのかと思ったけど、もしかしたらこれが契花の香りなのかな……そう思っているうちに、私も眠りに落ちた。
*
「久しぶりによく眠れた」
私の背後で、身体を起こしたエルディオン様が伸びをしている。
大きな窓からは朝の光が差し込んでいた。
「それは、良かったです」
私もよろよろと起き上がる。一晩中同じ体勢でいたせいか身体が痛い。
しかし契花の香りのおかげかよく眠れて、気分は晴れやかだった。
「フローリアのおかげだ。礼を言う」
エルディオン様はこちらに身体を寄せると、私の前髪をかき上げ、額に口付ける。それから、頬にも。
「ま、また、そのようなことを……エルディオン様といると心臓が持ちません」
「フローリアこそ、よほど私の心臓に負担をかけたいように見えるが?」
妖艶な微笑み。エルディオン様の目線がいつもよりやや下にあることを不思議に思い、つられて下を見る。
寝間着の胸元にあるリボンがほどけていた。別にそれだけ、大きくはだけているわけでもないけど、消え去りたいほどの羞恥に襲われる。
「な、なんで言ってくれないんですか!」
「顔が真っ赤じゃないか。私の契花は可愛いな」
「もう、お部屋に戻って着替えてきます!」
逃げるように自室に戻った。
ソファに並べられたクッションを抱いて深呼吸する。
——まだ、触れられた場所が熱い。
エルディオン様が私に向ける、まっすぐな愛。
それがくすぐったくて、嬉しかった。
だけど、光が強くなるほど影もまた濃くなるように……私にそれを受け取る権利などあるのだろうかと、迷いも、膨らんできている。
エルディオン様の瞳には『今の私』は映っているのだろうか?
前世と同じように、私も魂樹のために命を捧げる運命なのだろうか?
そう思うと、どうしようもなく苦しくなる。
エルディオン様のことを、これ以上好きになるのが、怖かった。




