表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

96/167

第7章 第3話:姫は笑わない


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラントが来る朝、学園の鐘は鳴らなかった。


 その静けさは、もう三日目になる。


 最初の日は、誰もが少し落ち着かなかった。


 廊下で顔を上げる者がいた。


 窓の外の鐘楼を見てしまう者もいた。


 鐘が鳴らないことを安心する生徒もいれば、学園祭の余韻と襲撃の記憶を思い出して黙り込む者もいた。


 けれど三日目の朝になると、少しずつ新しい手順が定着し始めていた。


 授業開始は生徒会補助の声。


 廊下の布札。


 木の拍子。


 金属音のない朝。


 完全に慣れたわけではない。


 だが、人は音が変わっても動ける。


 アルト・レインフォードは、そのことを小さく確認しながら、左手首の布を巻き直した。


 痛みはない。


 熱は少し。


 声はない。


「現在地。男子寮自室。エリアナさん到着予定日」


 声に出すと、少し緊張が形になった。


 今日、エリアナが来る。


 旧敗戦国王家血統。


 隣国外交局保護下。


 保護観察対象。


 まだ会ったことのない少女。


 それでも、彼女を表す言葉だけは、もう何度も聞いた。


 敗戦国の姫。


 見もの。


 人質。


 政治的火種。


 白鐘を知るかもしれない人。


 そういう言葉が、本人より先に教室を歩いた。


 ロウ教師の授業で少し整えられたとはいえ、消えたわけではない。


 アルトは布を結び終え、自分の左手首へ軽く触れた。


「痛みなし。熱少し。声なし。緊張あり」


 今日は、それを言えるうちに言っておく必要がある気がした。


 食堂でリゼたちと合流した時、空気はいつもよりさらに静かだった。


 カイ・ロックハートはパンを噛みながら、何度も廊下の方を見ている。


 ミリア・ファルネーゼは紅茶のカップを持っているが、口をつけるまでに少し時間がかかっていた。


 リゼ・グレイスは姿勢を正し、朝食の皿に手をつけている。


 食べる速度はいつも通りに見える。


 だが、アルトにはわかった。


 彼女は一つ一つの動作を、いつも以上に確認している。


「状態」


 アルトが聞くと、リゼは少しだけ瞬きをした。


 以前なら、リゼがアルトに聞く言葉だった。


 最近は、時々逆になる。


「身体異常なし。感情、緊張。警戒。不快感少し。過去記録への接続可能性あり」


 リゼは淡々と答えた。


 だが、言葉の最後に少しだけ自分の感情が乗っていた。


 ミリアが頷く。


「言葉にできているわ」


「はい」


 カイがパンを飲み込む。


「俺も緊張してる」


 ミリアが微笑む。


「それは、見ればわかるわ」


「また顔に出てるか」


「ええ」


 カイは眉間を揉んだ。


「どう隠すんだ、これ」


 リゼが真面目に答える。


「隠す必要はありません。ただし、相手に敵意として見えないよう注意が必要です」


「なるほど……いや、難しいな」


 アルトは少し笑った。


 左手首の熱が少し下がる。


 緊張していても、いつものやり取りがある。


 それだけで、現在地が近くなる。


 朝食の後、四人は学園長室へ向かった。


 今日は授業前に、エリアナの到着と初回面談が行われる。


 同席者は限定されている。


 学園長。


 ロウ教師。


 ユリウスとエレオノーラ。


 クラウス。


 リゼ、ミリア、カイ、アルト。


 それに、隣国外交局の担当者と王宮監察側の立会人。


 オルド・ハイマン本人が来るかどうかは、直前まで明かされていない。


 それがまた、アルトの左手首に小さな熱を残していた。


 学園長室へ向かう廊下には、いつもより生徒が少ない。


 それでも、遠くからこちらを見る目はあった。


 灰銀の髪のリゼ。


 左手首を布で隠したアルト。


 貴族令嬢のミリア。


 落ち着かないカイ。


 その組み合わせだけで、何かあるとわかるのだろう。


 ミリアが小さく言った。


「見られているわね」


 カイが顔をしかめる。


「見せ物じゃねえぞ」


「ええ。だから、私たちは歩き方を乱さない」


 リゼが頷く。


「周囲視線、確認。敵意明確なものなし。好奇と警戒が中心」


 アルトは左手首に触れる。


「痛みなし。熱少し。声なし。見られるのは少し嫌です」


 ミリアがすぐに言う。


「嫌でいいわ」


 リゼも頷く。


「感情申告、良好です」


 カイが少しだけ笑う。


「今日、全員良好って言われそうだな」


「必要なら言います」


「やっぱり」


 学園長室の前には、すでにユリウス・エインズワースとエレオノーラ・ヴィンスフェルトが待っていた。


 ユリウスは白い制服をきっちり整えている。


 エレオノーラは記録板を抱え、封筒と紙束を準備していた。


 彼女はアルトを見ると、まず言った。


「本日の記録では、身体反応詳細は本人同意範囲で扱います」


「はい」


 アルトは頷いた。


「今日は、痛み、熱、声、現在地までは言えます。詳細な感情は、必要な時だけでお願いします」


「了解しました」


 エレオノーラは即座に記録する。


 その手順があるだけで、少し安心する。


 ユリウスがリゼへ視線を向けた。


「リゼ、大丈夫?」


 リゼは一拍置いて答えた。


「身体異常なし。緊張あり。私は、エリアナさんを敵として扱いません。そうしたいです」


 ユリウスは小さく頷いた。


「うん」


 それ以上、余計なことは言わなかった。


 扉の向こうから、学園長の声がした。


「入れ」


 学園長室へ入ると、室内にはすでにロウ教師とクラウス・ヴァイゼルがいた。


 クラウスは壁際に立っている。


 王宮側の人間でありながら、今日は王宮立会人とは少し距離を置く位置だった。


 学園長の机の上には、隣国外交局からの書類が整えられている。


 青みがかった封紙。


 現行書式。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラント。


 その名が、まだ紙の上にある。


 やがて、廊下の向こうで足音がした。


 複数。


 一人は硬い靴音。


 一人は少し軽い。


 もう一人は、規則正しすぎる王宮式の歩調。


 アルトの左手首が少し熱を持った。


「痛みなし。熱少し。声なし。足音が近づいています」


 リゼが小声で確認する。


「現在地」


「学園長室」


「感情」


「緊張しています」


「良好です」


 扉が叩かれた。


 学園長が答える。


「入れ」


 扉が開いた。


 最初に入ってきたのは、隣国外交局の担当者だった。


 灰色の外套。


 胸元に青い小さな紋章。


 年齢は四十前後だろうか。


 表情は丁寧だが、疲労がある。


 その後ろに、王宮側の立会人。


 オルド本人ではない。


 ただ、監察局の白い外套を着た男だった。


 アルトは少し息を吐いた。


 オルドではない。


 その事実だけで、左手首の熱が少し下がる。


 そして最後に、一人の少女が入ってきた。


 淡い亜麻色の髪。


 肩より少し下まで伸ばされ、派手ではないが丁寧に結われている。


 瞳は薄紫。


 王国の制服ではなく、まだ隣国外交局が用意した淡い青灰色の移動用礼装を着ていた。


 背はリゼより少し低い。


 アルトよりも少し高いかもしれない。


 細い。


 だが、弱々しいわけではない。


 背筋は伸びている。


 両手は前で軽く重ねられている。


 礼儀正しい。


 完璧な立ち姿。


 けれど、アルトはすぐに気づいた。


 彼女は笑っていない。


 口元には、挨拶のための形がある。


 だが、目は笑っていない。


 部屋の入口から机までの距離。


 窓の位置。


 出入口。


 リゼの灰銀の髪。


 カイの体格。


 ミリアの視線。


 アルトの左手首。


 彼女は一瞬ですべてを見た。


 そして、何も見なかったような顔をした。


 外交局員が進み出る。


「隣国外交局、第三調整室のハルベルト・シェーンです。本日は短期留学生受け入れに関し、正式な引き渡しと初回説明に参りました」


 学園長が頷く。


「王立学園学園長だ。書類は受領している」


 王宮側立会人も一歩前へ出た。


「王宮監察局補助室より立会いに参りました、ベイセルです。保護観察対象の受け入れに関し——」


 その言葉で、少女の指がわずかに動いた。


 ほんの少し。


 誰も気づかないほどの動き。


 けれど、アルトは見た。


 保護観察対象。


 その言葉は、彼女にも刺さる。


 アルトの左手首が熱を持つ。


「痛みなし。熱中より少し弱い。声なし。保護観察対象という言葉で反応しました」


 言うと、王宮側立会人がちらりとこちらを見る。


 観察する目。


 だが、ユリウスがすぐに言った。


「アルト君の身体反応詳細は、本人同意範囲でのみ扱います。記録は学園側で管理します」


 ベイセルは口を閉じた。


 学園長が少女へ目を向ける。


「君から名乗れるか」


 少女は一歩前へ出た。


 動きに無駄がない。


 美しい礼。


 しかし、その美しさは、何度も訓練されたものに見えた。


「エリアナ・ルクス・ヴェルグラントです」


 声は澄んでいた。


 少し硬い。


「短い間ですが、学ばせていただきます」


 その名が、初めて本人の口から聞こえた。


 アルトの左手首が淡く温かくなる。


 痛みはない。


 声もない。


 リゼがわずかに息を吸ったのがわかった。


 エリアナ。


 ルクス。


 ヴェルグラント。


 紙の上の名前ではなく、そこに立つ少女の名。


 学園長が頷く。


「エリアナ・ルクス・ヴェルグラント。王立学園は、君を短期留学生として受け入れる」


「ありがとうございます」


「ここでは、まず生徒として扱う」


 その言葉に、エリアナの瞳がほんの少し揺れた。


 だが、すぐに整えられる。


「承知いたしました」


 王宮側立会人が口を挟む。


「ただし、保護観察対象としての制限は——」


「承知しております」


 エリアナが静かに言った。


 声は丁寧だった。


 だが、ほんのわずかに冷えていた。


「何度も聞きました」


 室内が静かになる。


 外交局員のハルベルトが少し目を伏せる。


 ベイセルは表情を変えない。


 学園長は短く言った。


「この室内では、必要な範囲を除き、その呼称を避ける。彼女の名前はエリアナだ」


 ベイセルがわずかに眉を動かす。


「記録上は必要な分類です」


「記録上必要な場では使う。本人の前で雑に繰り返す必要はない」


 ロウ教師が低く補足した。


「昨日の授業内容だ。学園内方針でもある」


 エリアナはロウ教師を見た。


 一瞬だけ、意外そうに。


 それから小さく礼をした。


「ご配慮、感謝いたします」


 礼儀正しい言葉。


 しかし、そこに安心はまだない。


 アルトはそれを感じた。


 自分もそうだった。


 配慮されたからといって、すぐ安心できるわけではない。


 何度も扱われ、何度も分類されてきたなら、なおさら。


 学園長は紹介を続けた。


「こちらはロウ教師。君の王国史および戦後史の授業を担当する」


「よろしくお願いいたします」


「うむ」


「こちらはユリウス・エインズワース。生徒会側の受け入れ管理を担当する」


「よろしくお願いいたします」


 ユリウスは丁寧に礼を返した。


「困った時は、生徒会へ。王宮や外交局を通す前に、学園内で扱えることもある」


 エリアナは少しだけ目を細めた。


「その区別を、私が判断してよいのでしょうか」


「一人で判断しなくていい。そのための相談先だ」


 ユリウスの言葉に、エリアナは少しだけ黙った。


「覚えておきます」


 次にエレオノーラ。


「記録担当です。学園内での公式記録を扱います」


 エリアナはエレオノーラを見る。


「私の記録も、ですか」


「はい。ただし、本人に過度な負荷を与えない範囲で扱います。呼称や身体反応、行動制限については、本人確認を挟みます」


 エリアナの指がまたわずかに動いた。


「本人確認」


「はい」


「……珍しいのですね」


 誰に向けた言葉かわからなかった。


 けれど、アルトには少しわかった。


 自分も、本人確認という言葉に救われた。


 次に、クラウスが紹介された。


 エリアナは彼が王宮側の人間だと知ると、一瞬だけ警戒を強めた。


 クラウスはその視線を受け止める。


「クラウス・ヴァイゼル。王宮側の人間だが、現在は学園側の要請で白鐘および封印関連の確認に協力している」


 白鐘。


 その言葉が出た瞬間、アルトの左手首が淡く熱を持った。


 同時に、エリアナの視線が一瞬だけアルトの手首へ向いた。


 ほんの一瞬。


 しかし、確かに。


 アルトは息を止めた。


 見られた。


 測られたのではない。


 けれど、知っている目だった。


「痛みなし。熱中。声なし。白鐘という言葉と、エリアナさんの視線で反応しました」


 言ってから、アルトはエリアナを見た。


 彼女はすでに視線を外している。


 何もなかったように立っている。


 だが、口元が少し硬い。


 彼女も何かを感じたのかもしれない。


 学園長は一拍置いて、今度はリゼたちを紹介した。


「こちらはリゼ・グレイス」


 その名前が出た瞬間、エリアナの呼吸が止まった。


 ほんの短い間。


 だが、部屋全体が気づくには十分だった。


 灰銀の髪。


 静かな姿勢。


 王国の戦場で名を広めた少女。


 リゼは一歩前へ出た。


 手は剣に触れていない。


 背筋を伸ばし、深すぎず浅すぎない礼をする。


「リゼ・グレイスです」


 エリアナはリゼを見た。


 薄紫の瞳に、初めて感情らしいものが浮かんだ。


 恐怖。


 ではない。


 憎悪。


 でもない。


 もっと複雑なもの。


 痛みを押し殺したような、遠い場所を見るような目。


 彼女は丁寧に礼を返した。


「存じています」


 その一言で、リゼの表情が少しだけ固まった。


 アルトの左手首が温かくなる。


 痛みはない。


 声もない。


 でも、胸が重い。


 存じています。


 その言葉には、ただ有名人を知っているという響きではなかった。


 戦場の名前として知っている。


 故国で語られた名前として知っている。


 失われたものと一緒に知っている。


 そんな響きだった。


 リゼはすぐには何も言わなかった。


 以前なら、情報確認をしたかもしれない。


 自分の戦時称号がどの程度知られているか。


 エリアナの敵意の有無。


 危険評価。


 だが、今のリゼは少し違った。


「あなたを、敵として扱いません」


 静かな声だった。


 エリアナの瞳がわずかに動く。


「それは、学園の方針ですか」


 問いは鋭かった。


 部屋の空気が、ぴんと張る。


 リゼは一度言葉を止めた。


 ロウ教師の授業。


 方針か、意思か。


 まだ本人から問われる前に、まるで見透かされたようだった。


 リゼはゆっくり答える。


「学園の方針でもあります」


 エリアナは黙っている。


 続きを待っている。


 リゼは続けた。


「そして、私の意思です」


 その言葉に、エリアナの表情は変わらなかった。


 だが、ほんのわずかに、指の力が抜けたように見えた。


「そうですか」


 それだけだった。


 許しでも、受け入れでもない。


 ただ、受け取ったという返事。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱少し。声なし」


 ミリアが小さく頷く。


 次に学園長がミリアを紹介した。


「ミリア・ファルネーゼ。学園内の生活面と教室での調整を一部手伝ってもらう」


 ミリアは優雅に礼をした。


「ミリア・ファルネーゼです。困ったことがあれば、学園の手順に沿って一緒に確認します」


 エリアナはミリアを見た。


 今度は少しだけ警戒が違う。


 貴族令嬢同士の視線。


 家格、礼法、言葉の裏。


 そういうものを互いに測る空気。


 けれど、ミリアは柔らかく微笑むだけだった。


「あなたを見ものにする言葉は、できるだけ止めます」


 エリアナの目がわずかに開いた。


「……もう、ありましたか」


「少し」


 ミリアは隠さなかった。


「ですが、昨日の授業でかなり整えました。完璧ではありません。でも、放置はしません」


 エリアナはしばらくミリアを見ていた。


 それから、小さく礼をする。


「ありがとうございます」


 その言葉は、さっきまでより少しだけ本物に近かった。


 カイが紹介される。


「カイ・ロックハート」


「カイ・ロックハートです」


 カイは少し硬い声で言った。


 礼がややぎこちない。


 だが、ちゃんと礼をした。


「……よろしくお願いします」


 エリアナはカイを見る。


 王宮関係者や貴族令嬢を見る時とは違う視線。


 どう扱えばいいのか、少し迷ったようだった。


「よろしくお願いいたします」


 カイは少し考えてから言った。


「飯は食った方がいいです」


 室内が一瞬止まった。


 ミリアが目を閉じかける。


 リゼは真面目に頷きそうになる。


 アルトは思わずカイを見た。


 エリアナは初めて、ほんの少しだけ瞬きを乱した。


「……はい?」


 カイは自分でも少しまずいと思ったのか、言葉を足した。


「いや、緊張してると食えないかもしれないけど、食堂の飯はわりとうまいです。嫌なもんあったら言った方がいいです」


 エリアナはしばらく彼を見ていた。


 それから、ほんの少しだけ口元を動かした。


 笑った、と言うには弱すぎる。


 でも、礼儀の形ではない動きだった。


「覚えておきます」


 カイは少しだけ安心した顔をした。


 最後に、学園長はアルトを紹介した。


「アルト・レインフォード」


 エリアナの視線がこちらへ来る。


 今度は、はっきりと。


 アルトは立ち上がった。


 左手首が熱い。


 痛みはない。


 声もない。


 だが、見られている。


 銀環ではなく、自分を見ているのか。


 それとも、銀環を知っているのか。


 まだわからない。


「アルト・レインフォードです」


 声が少し震えた。


 それでも、言えた。


「よろしくお願いします」


 エリアナはじっとアルトを見た。


 その視線は、オルドのように測るものではなかった。


 だが、何も知らない目でもない。


 知っていて、言わない目。


 恐れていて、隠している目。


「エリアナ・ルクス・ヴェルグラントです」


 彼女は改めて名乗った。


「よろしくお願いいたします」


 アルトの左手首が淡く温かくなる。


 痛みはない。


 声もない。


「痛みなし。熱少し。声なし。エリアナさんと挨拶しました」


 言うと、エリアナがまた少しだけ左手首を見た。


 今度はすぐに視線を外さなかった。


「その確認は」


 彼女が静かに尋ねる。


 部屋の空気が少し変わる。


 ユリウスが止めるか迷ったように視線を動かした。


 だが、アルトは答えた。


「僕が、自分の状態を言うための手順です」


 エリアナは少し考えた。


「誰かに報告するためではなく?」


「最初は、そうでした。でも今は、自分がどこにいるか確認するためでもあります」


 エリアナの瞳が揺れた。


「そうですか」


 それ以上、聞かなかった。


 だが、何かを覚えたようだった。


 初回説明が始まった。


 学園長が学園内での基本方針を説明する。


 エリアナはまず生徒として扱われること。


 ただし、安全上の理由で一部行動範囲は段階的に広げること。


 外部通信は学園長管理下で確認されること。


 王宮および隣国外交局への報告は、本人に過度な負荷を与えない範囲で行うこと。


 王宮側立会人ベイセルが何度か「保護観察対象として」と言いかけ、そのたびに学園長やユリウスが表現を修正した。


 エリアナはそのたびに表情を変えなかった。


 しかし、指先は少しずつ硬くなっていた。


 アルトにはわかる。


 聞き慣れているから平気なのではない。


 聞き慣れてしまったから、表情を変えないようにしているのだ。


 ミリアもそれを見ていた。


 説明が終わる頃、エリアナは完璧な礼をした。


「承知いたしました。ご配慮に感謝いたします」


 言葉は整っている。


 隙がない。


 感情がないわけではない。


 感情を出す場所がないのだ。


 学園長は少しだけ声を和らげた。


「今日はこの後、教室へ短時間入る。全員への挨拶のみだ。授業参加は明日からでよい」


「承知いたしました」


 エリアナは答える。


 その時、王宮側立会人のベイセルが言った。


「安全上、灰銀の戦乙女との近接配置は避けるべきではありませんか。心理的負荷を考慮し——」


 灰銀の戦乙女。


 その呼称が室内に落ちた瞬間、リゼの瞳が冷えた。


 アルトの左手首も熱を持つ。


 エリアナの表情が硬くなる。


 誰の負荷を考慮しているのか。


 リゼの意思はどこにあるのか。


 エリアナの意思は。


 ロウ教師が低く言った。


「その呼称を学園内で不用意に使うな」


 ベイセルは口を閉じた。


 しかし、エリアナはリゼを見た。


 そして、静かに言った。


「あなたが、灰銀の戦乙女なのですね」


 避けられなかった言葉。


 本人の口から出た言葉。


 リゼはその言葉を受けた。


 逃げなかった。


 否定もしなかった。


「はい」


 短く答えた。


「そう呼ばれていました」


 エリアナはじっと見ている。


 部屋の空気が重い。


 アルトは左手首を押さえた。


「痛みなし。熱中。声なし」


 リゼは続けた。


「現在、私はリゼ・グレイスです。王立学園の生徒です」


 エリアナの目がわずかに細くなった。


「私も」


 彼女は小さく言った。


「現在、エリアナ・ルクス・ヴェルグラントです」


 誰もすぐには言葉を挟まなかった。


 それは和解ではない。


 理解でもない。


 ただ、二人がそれぞれ自分の名前を置いた瞬間だった。


 学園長が静かに言う。


「では、教室へ向かおう」


 学園長室を出る時、廊下の空気は少し冷たかった。


 エリアナは外交局員の少し後ろを歩く。


 王宮側立会人はさらにその後ろ。


 リゼはエリアナの斜め前ではなく、少し距離を置いた横を歩いた。


 近すぎない。


 避けすぎない。


 ミリアはその間の空気を見ている。


 カイは何か言いたそうだが、今は黙っている。


 アルトは左手首の熱を確認しながら歩いた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 教室へ近づくにつれ、廊下の視線が増える。


 噂が、本人の姿に追いつこうとしている。


 淡い亜麻色の髪。


 薄紫の瞳。


 青灰色の礼装。


 完璧な礼。


 笑わない姫。


 誰かが小さく囁いた。


「本当に来た」


 別の誰かが言う。


「ヴェルグラント……」


 ミリアがその方向へ視線を向ける。


 囁きは止まる。


 ロウ教師が教室の扉を開けた。


 中は静かだった。


 昨日の授業が効いているのだろう。


 好奇の目はある。


 警戒の目もある。


 だが、無責任なざわめきは抑えられていた。


 エリアナは教室の入口で一瞬だけ足を止めた。


 そのほんの一瞬に、彼女がどれだけ多くの視線を感じているか、アルトにはわかった。


 自分も、何度も見られてきた。


 でも、これはまた別の視線だ。


 敵国の名。


 王家の血。


 敗戦の記憶。


 それを背負わされる視線。


 ロウ教師が教壇へ立つ。


「今日から短期留学生として加わる」


 教室の全員が見ている。


 ロウ教師は一拍置いた。


 敗戦国の姫。


 保護観察対象。


 そういう言葉は使わない。


「エリアナ・ルクス・ヴェルグラントだ」


 エリアナは一歩前へ出た。


 美しい礼。


 完璧な声。


「エリアナ・ルクス・ヴェルグラントです。短い間ですが、学ばせていただきます」


 教室は静かだった。


 誰も拍手をしない。


 誰も冷やかさない。


 それが今は、たぶん正しい。


 歓迎の拍手すら、彼女を見世物にする可能性がある。


 ロウ教師が言う。


「席は一時的に前方左側。授業参加は明日からだ。今日は顔合わせのみ」


 エリアナが頷く。


 その時、彼女の視線がリゼへ向いた。


 一瞬。


 次に、アルトの左手首へ。


 さらに一瞬。


 そして、教室全体へ戻る。


 作られた微笑みは、やはり浮かばない。


 姫は笑わない。


 いや。


 笑えないのかもしれない。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱少し。声なし」


 自分だけに聞こえる声で言った。


 エリアナが、その小さな声に気づいたように目を動かした。


 アルトと視線が合う。


 ほんの短い間。


 彼女は何も言わなかった。


 けれど、その目にわずかな問いがあった。


 あなたも、見られる人なのですか。


 そう言われた気がした。


 アルトは小さく頷いた。


 エリアナは表情を変えない。


 ただ、ほんの少しだけ目を伏せた。


 顔合わせは短く終わった。


 エリアナは再び学園長室へ戻り、午後からは居室や行動範囲の確認をする予定だ。


 教室から出る時、彼女はリゼの横を通った。


 足が一瞬止まる。


 リゼも動かない。


 エリアナは小さく言った。


「あなたの名は、故国でよく知られています」


 リゼは静かに受けた。


「はい」


「良い意味だけではありません」


「はい」


 エリアナはそれ以上言わなかった。


 ただ、少しだけ顔を上げる。


「私は、あなたを憎むためだけに来たわけではありません」


 その言葉だけを残して、彼女は廊下へ出た。


 リゼはその場に立っていた。


 アルトは彼女を見る。


 リゼの表情は変わらない。


 だが、指先が少しだけ震えていた。


「リゼさん」


「はい」


「状態は」


 リゼはゆっくり息を吸った。


「身体異常なし。感情、重いです。恐怖ではありません。罪悪感に近いものがあります。対応、確認中」


 ロウ教師が近くで言った。


「確認中で止めるな」


 リゼは目を伏せる。


 少し考える。


 それから言った。


「私は、彼女と話す必要があります」


「方針か」


 ロウ教師が問う。


 リゼは静かに答えた。


「私の意思です」


 アルトの左手首が、淡く温かくなった。


 痛みはない。


 声もない。


 廊下の先には、エリアナの足音が遠ざかっていく。


 本人より先に歩いていた名前は、今日、ようやく本人に追いついた。


 けれど、その名前の重さは消えていない。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラント。


 姫は笑わなかった。


 灰銀の戦乙女も、笑わなかった。


 それでも二人は、同じ教室に立った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ