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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第7章 第2話:同じ教室に立つ条件


 翌日の王国史の授業は、いつもより早く始まった。


 鐘は鳴らない。


 学園祭襲撃後、鐘楼の使用は停止されたままだ。授業開始の合図は、廊下を回る生徒会補助の声と、教室前に掲げられた布札に変わっている。


 最初は少し落ち着かなかった。


 鐘が鳴らないことに安心する自分がいる。


 同時に、鐘が鳴らない朝を不自然だと思う自分もいる。


 アルト・レインフォードは、窓際から二列目の席で左手首に触れた。


 痛みはない。


 熱は少し。


 声はない。


 昨日からずっと、銀環はおおむね静かだ。


 けれど、教室の中には別の熱があった。


 ざわめき。


 視線。


 言葉になる前の噂。


 留学生。


 旧敗戦国王家血統。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラント。


 まだ本人は来ていない。


 三日後に到着する予定だ。


 それなのに、彼女の名前より先に、役割だけが教室を歩き回っている。


「敗戦国の姫、だって」


「本当に同じ教室に入るのかしら」


「灰銀の戦乙女もいるのに?」


「王宮は何を考えているんだ」


「人質みたいなものじゃないのか」


 小さな声。


 机の間を滑る声。


 誰かが悪意を持っているとは限らない。


 ただ珍しいから口にしているだけの者もいる。


 不安だから先に名前をつけようとしている者もいる。


 でも、その言葉は本人がいない場所で、本人の形を勝手に作っていく。


 アルトは左手首を押さえた。


「痛みなし。熱少し。声なし」


 小さく言う。


 隣の席ではカイ・ロックハートが眉間に皺を寄せていた。


「言ってるな」


「はい」


「本人来てねえのに」


「はい」


 カイは机の上で拳を握りかけ、途中で開いた。


「怒鳴ると逆に目立つよな」


「たぶん」


「じゃあ今は止めとく」


 アルトは少しだけ笑った。


「良好です」


「リゼみたいに言うな」


 そのリゼ・グレイスは、前方の席に座っていた。


 背筋はいつも通り伸びている。


 灰銀の髪は整えられ、手元には授業用の筆記具が置かれている。


 けれど、彼女の肩はいつもより少し硬い。


 教室に入ってから、彼女は一度も「敗戦国」という語を口にしていない。


 ただ、聞いている。


 聞こえている。


 それでも振り返らない。


 注意もしない。


 剣にも触れない。


 リゼは今、自分の中で何かを確認しているのだろう。


 アルトには、それがわかった。


 ミリア・ファルネーゼはリゼの斜め後ろに座っていた。


 彼女は教室の空気を見ている。


 誰が好奇心で言っているのか。


 誰が悪意で言っているのか。


 誰が不安で黙っているのか。


 誰が面白がっているのか。


 ミリアの視線は柔らかいが、逃さない。


 教室の後方では、セレナ・アイゼンベルグが静かに座っていた。


 彼女は窓の外を見るふりをしながら、教室の魔力の揺れを見ているようだった。


 ラウル・ヴァレンシュタインは少し離れた席で、噂話には加わらず、机の上に手を置いている。


 騎士家の生徒らしく、姿勢は正しい。


 だが、口元はいつもより硬かった。


 教室の扉が開いた。


 ロウ教師が入ってくる。


 いつもの黒い外套。


 手には教科書ではなく、数枚の古い地図と白紙の記録板。


 教室のざわめきが、一瞬で下がった。


 ロウ教師は教壇に立つと、鐘の代わりに木の棒で机を一度だけ叩いた。


 乾いた音。


 金属ではない。


 アルトの銀環は反応しなかった。


「今日は予定を変える」


 ロウ教師は言った。


「戦争後の名前について扱う」


 教室の空気が、さらに静かになった。


 誰かが息を呑む。


 誰かが視線をリゼへ向ける。


 すぐに逸らす。


 ロウ教師はそれを見ていた。


「今、視線を動かした者は、その動きを覚えておけ。お前たちはもう、今日の授業の中にいる」


 誰も話さない。


 ロウ教師は黒板に大きく書いた。


 名前。


 その横に、少し間を空けて書く。


 称号。


 血統。


 役割。


 対象。


 敵。


 味方。


 教室の中に、文字が並ぶ。


 アルトの左手首が、ほんの少し熱を持った。


 対象。


 その文字だけが、胸の奥に引っかかる。


「状態」


 後ろから小さな声がした。


 リゼではない。


 ミリアだった。


 振り返ると、彼女が視線だけで問いかけていた。


 アルトは小さく答える。


「痛みなし。熱少し。声なし」


 ミリアは頷いた。


 ロウ教師は授業を続ける。


「戦争は、人に名前をつける。英雄。裏切り者。敗者。勝者。王家。反逆者。保護対象。危険人物。戦力。人質。そういった名前は便利だ」


 教室の誰かが、小さく身じろぎした。


「便利な名前は、早い。相手を知らなくても扱える。考えなくても分類できる。報告書にも書きやすい。命令にも使いやすい」


 ロウ教師は教室を見渡した。


「だから危険だ」


 静かな声だった。


 だが、よく通った。


「灰銀の戦乙女」


 その言葉が出た瞬間、教室の空気が変わった。


 リゼは動かなかった。


 アルトの左手首が少し熱を持つ。


 カイが机の下で拳を握りかけ、また開く。


 ロウ教師は続けた。


「これは戦時称号だ。戦場で広まり、王宮の報告書に残り、民衆の噂にも使われた。事実を含む。リゼ・グレイスが戦場で功績を上げたことは事実だ」


 ロウ教師は黒板に「灰銀の戦乙女」と書いた。


 その下に、別の文字を書く。


 リゼ・グレイス。


「だが、この二つは同じではない」


 リゼの肩がわずかに揺れた。


「灰銀の戦乙女という名で呼ぶ時、人はリゼ・グレイス個人の意思、疲労、恐怖、変化、現在の所属を見落としやすくなる。王宮が彼女を即応戦力として扱おうとしたのも、この名が便利だからだ」


 教室の空気が重くなる。


 第6章の王宮要請を知っている者は少ない。


 だが、ロウ教師は詳細を伏せたまま、核心だけを置いた。


「便利な名は、人を物に近づける」


 アルトの胸が少し痛くなった。


 測定対象。


 保護対象。


 鍵。


 ロウ教師は次に黒板へ書いた。


 敗戦国の姫。


 教室中の視線が、一瞬その文字に吸い寄せられた。


「三日後、この学園に旧ヴェルグラント王家傍系血統の留学生が来る」


 ざわめきが起こりかけたが、ロウ教師の視線で止まった。


「まだ来ていない。お前たちは、まだ会っていない。声も聞いていない。歩き方も知らない。何が好きかも、何を嫌うかも知らない」


 彼は黒板の文字を棒で軽く指した。


「それでも、もうこう呼んでいる者がいる。敗戦国の姫」


 教室のどこかで、誰かが気まずそうに目を伏せた。


「この名にも事実は含まれる。彼女は旧敗戦国ヴェルグラント王家の血筋を持つ。政治的に扱いづらい立場にある。王宮や外交局は、その血筋を理由に彼女を扱う」


 ロウ教師はゆっくり言った。


「だが、それで彼女の全てが決まるわけではない」


 沈黙。


 ロウ教師はさらに書いた。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラント。


 長い名前。


 教室の中で、初めて彼女が「敗戦国の姫」ではなく名前として書かれた。


 アルトは、その文字を見た。


 エリアナ。


 ルクス。


 ヴェルグラント。


 左手首が、ほんの少し温かくなる。


 痛みはない。


 声もない。


 名前に反応したのか、血統に反応したのか、まだわからない。


 けれど、怖いだけの熱ではなかった。


「先生」


 カイが手を挙げた。


 教室の生徒たちが少し驚いたように見る。


 カイが王国史の授業中に手を挙げるのは、珍しい。


「何だ、ロックハート」


「会ってもねえのに敵とか姫とか決めるの、変だと思います」


 教室が少しざわついた。


 カイは言葉を続ける。


「いや、血筋とか戦争とか、俺は詳しくないです。でも、本人来る前から決めたら、本人が何言っても聞けなくなる気がします」


 ロウ教師は頷いた。


「その通りだ」


 カイは少しだけほっとした顔をした。


 だが、ロウ教師は続ける。


「ただし、無知を善意の言い訳にするな。戦争や血筋を知らないことは、相手を傷つけない保証にはならない」


 カイの顔が引き締まる。


「はい」


「知らないなら学べ。決めつけないことと、何も知らないまま近づくことは違う」


「はい」


 カイは真面目に頷いた。


 ロウ教師は次にアルトを見た。


「レインフォード」


「はい」


「保護対象、と呼ばれた時、どう感じる」


 教室が静かになった。


 アルトの左手首が熱を持つ。


 痛みはない。


 声もない。


 けれど、胸が少し重くなる。


 全員の前で言うのは怖い。


 でも、この授業は自分にも関係している。


「嫌です」


 アルトは答えた。


 声は小さかったが、届いた。


「理由は」


「僕の安全を考えてくれている言葉でもあると思います。でも、それだけで呼ばれると、僕の意思が後ろに行きます」


 ロウ教師は頷く。


「続けろ」


「保護対象、危険資産、鍵、測定対象。そう呼ばれると、僕が何をしたいかより、僕がどう反応するか、どこに置くか、どう使うか、という話になります」


 左手首が少し熱くなる。


 でも、痛みはない。


「僕は、対象だけではありません」


 教室の空気が変わった。


 何人かの生徒が、はっとしたようにアルトを見る。


 アルトは少し怖くなった。


 だが、カイが隣で机の下から小さく親指を立てた。


 ミリアが静かに頷く。


 リゼは前を向いたまま、ほんの少しだけ肩を緩めた。


 ロウ教師は黒板に書いた。


 対象だけではない。


「覚えておけ」


 ロウ教師は教室へ言った。


「相手が保護対象とされている時、保護を名目に本人の意思を奪うことがある。危険だから黙っていろ。未成年だから決めるな。怖がっているから判断できない。そうやって、人は簡単に本人を置き去りにする」


 ユリウスがいれば、きっと昨日の会話を思い出しただろう。


 本人意思を軽く扱いすぎています。


 アルトも思い出した。


 ロウ教師は次にリゼを見た。


「グレイス」


「はい」


「灰銀の戦乙女と呼ばれることを、今どう扱っている」


 リゼは立ち上がらなかった。


 座ったまま、背筋を伸ばした。


「戦時称号として記録しています。私個人の全体ではありません」


「嫌か」


 教室がさらに静かになった。


 リゼは少しだけ目を伏せる。


 以前なら「有用な呼称です」と言ったかもしれない。


 危険評価上必要、戦時識別上妥当、記録上確認可能。


 そう答えたかもしれない。


 しかし、今のリゼは違った。


「嫌です」


 短い言葉だった。


 教室の空気が少し揺れた。


「理由」


「その名で呼ばれる時、私は王宮の剣、戦力、戦場の記録として扱われやすくなります」


 リゼは少し息を吸った。


「私は王宮の剣ではありません」


 アルトの左手首が淡く温かくなった。


 昨日の小講義室。


 正式回答。


 見届けクッキー。


 リゼがペンで書いた言葉。


 それが、今、教室の中で再び言われた。


 ロウ教師は頷いた。


「よし」


 それだけだった。


 しかし、それで十分だった。


 リゼは少しだけ肩の力を抜いた。


 ミリアが手を挙げた。


「ファルネーゼ」


「はい。役割名や血統名を完全に使わないことは、現実には難しいと思います。外交文書、警備記録、家名、称号、どれも必要な場があります」


「その通りだ」


「では、使う時の条件を決めるべきだと思います」


 ロウ教師の目がわずかに細くなる。


「言ってみろ」


 ミリアは教室全体へ視線を向けた。


「本人を前にして、本人が望まない呼称を雑に使わないこと。正式な場では必要な範囲で使い、説明を添えること。噂話では、役割名だけで相手を語らないこと。そして、相手の名前を知っているなら、まず名前を使うこと」


 教室の何人かが頷いた。


 ミリアは続ける。


「三日後に来る方は、エリアナ・ルクス・ヴェルグラントさんです。旧敗戦国王家血統という情報は政治的には重要です。でも、教室で最初に必要なのは、その方がどこに座るか、何に困っているか、何を嫌がるか、どう呼ばれたいかを確認することだと思います」


 ロウ教師は頷いた。


「良い」


 カイが小声で言う。


「さすがミリア」


 アルトも頷いた。


 ミリアの言葉は、場の温度を整える。


 優しいだけではない。


 相手を逃がさない。


 噂が無責任に膨らむ前に、線を引く。


 その時、教室の後ろの方で一人の男子生徒が手を挙げた。


 名はたしか、オスカー・ベイル。


 貴族家の分家出身で、普段から王宮寄りの発言が多い生徒だった。


「先生、質問しても?」


「許可する」


 オスカーは立ち上がった。


「敗戦国の血筋を持つ者を警戒するのは、当然ではありませんか。相手を知らないうちに敵と決めるのは早いとしても、王国にとって危険な血筋である可能性はあると思います」


 教室の空気がまた変わった。


 悪意だけではない。


 だが、鋭い。


 多くの生徒が、内心では似た不安を持っているかもしれない。


 ロウ教師はすぐに否定しなかった。


「警戒は必要だ」


 オスカーの表情が少しだけ緩む。


 ロウ教師は続ける。


「だが、警戒と侮辱は違う。警戒と断罪も違う。危険可能性があるから手順を組むことと、本人を危険そのものとして扱うことは違う」


 アルトの胸に、その言葉が入ってくる。


 危険そのものではありません。


 リゼが自分に言った言葉。


 今、それがまだ見ぬエリアナへも向けられている。


 オスカーは少し不満そうだった。


「しかし、王家の血は政治的意味を持ちます」


「持つ」


 ロウ教師は即答した。


「だからこそ、記録と手順が必要だ。王家の血を理由に監視する者は出る。利用する者も出る。逆に、敵意を向ける者も出る。重要なのは、その血を持つ本人が、今ここで何をしているかを見落とさないことだ」


 オスカーは黙った。


 その時、セレナが静かに手を挙げた。


「アイゼンベルグ」


「関係性そのものが、術式より厄介な場合があります」


 唐突な言葉に、教室の何人かが振り返った。


 セレナは淡々と続ける。


「白い紙片や小鐘のような術式は、見つければ保全できます。焼き切ることもできます。でも、噂や呼称は空気に混じります。誰が発したのかわからなくなり、本人に届く頃には形を変えます」


 ロウ教師は頷く。


「続けろ」


「だから、教室内の呼称は術式管理に近いと思います。雑に放つと、後で回収できません」


 カイが小声で言う。


「セレナらしいな」


 ミリアが小さく笑う。


「でも、正しいわ」


 ロウ教師は黒板に書いた。


 呼称は回収しにくい。


「覚えておけ」


 セレナはそれ以上言わず、静かに座った。


 次に、ラウルが手を挙げた。


「ヴァレンシュタイン」


「騎士家の立場として言えば、旧敗戦国王家血統を警戒することは教えられてきました。ですが、相手が生徒として学園に入るなら、剣を向ける前に礼を尽くすべきだと思います」


 ロウ教師が頷く。


「礼は、敵意を消す魔法ではない。だが、剣を抜く前に人を見るための手順にはなる」


 ラウルは真面目に頷いた。


「はい」


 教室の空気が、少しずつ変わっていく。


 最初にあった好奇と不安だけのざわめきが、少し形を持ち始める。


 警戒は消えない。


 それでいいのだろう。


 消えたふりをする必要はない。


 ただ、警戒を侮辱にしない。


 役割名を本人の全てにしない。


 名前を先に置く。


 ロウ教師は黒板に最後の言葉を書いた。


 会う前に決めるな。


 会った後も、一度で決めるな。


「三日後、エリアナ・ルクス・ヴェルグラントが来る」


 ロウ教師は言った。


「彼女は旧敗戦国王家血統だ。保護観察対象でもある。政治的意味を持つ。危険がないとは言わない」


 教室の全員が聞いている。


「だが、この教室へ入った時、彼女はまず生徒だ。本人を見ろ。言葉を聞け。嫌がる呼称を使うな。警戒するなら、手順で警戒しろ。噂で殴るな」


 沈黙。


 その沈黙は、最初のものとは違っていた。


 重いが、少し整っている。


 授業が終わる少し前、ロウ教師はリゼを見た。


「グレイス」


「はい」


「お前は彼女を見る時、何を見る」


 リゼは少し考えた。


 教室全体が静かに待つ。


「まず、名前を確認します」


「その次は」


「本人の状態を見ます。表情、呼吸、視線、距離」


「その次は」


 リゼは一度言葉に詰まった。


 手順なら、まだ出せる。


 危険評価、導線、周囲反応。


 だが、ロウ教師の問いはそこではない。


「私は」


 リゼはゆっくり言った。


「彼女を敵として扱わないようにしたいです」


 ロウ教師は黙っている。


 リゼは言い直した。


「彼女を敵として扱いません。私は、そうしたいです」


 ロウ教師は頷いた。


「よし」


 アルトの左手首が淡く温かくなる。


 痛みはない。


 声もない。


 リゼが「したい」と言うたびに、何かが少し変わる。


 次に、ロウ教師はアルトを見た。


「レインフォード」


「はい」


「お前は彼女を見る時、何を避ける」


 避ける。


 少し考える。


「自分と同じだと決めることを、避けます」


「理由」


「似ているところがあっても、同じではないからです。僕が保護対象と呼ばれるのが嫌でも、彼女がどう感じるかは本人に聞かないとわかりません」


 ミリアが静かに頷いた。


「それから」


 アルトは続けた。


「僕の銀環が反応しても、彼女が危険だと決めないようにします」


 教室が少しざわつきかけた。


 ロウ教師の視線がそれを抑える。


「反応は情報であって、判決ではありません」


 クラウスが昨日言った言葉。


 アルトはそれを自分のものとして言った。


 ロウ教師は少しだけ口元を動かした。


「よし」


 授業終了の時間になっても、鐘は鳴らなかった。


 代わりに廊下から、生徒会補助の声が聞こえた。


「一時限目、終了です」


 教室の中で、何人かが無意識に鐘を待つように顔を上げた。


 しかし、何も鳴らない。


 静かな終了。


 ロウ教師は木の棒で机を軽く叩いた。


「終わりだ。だが、この授業は三日後に続く」


 生徒たちが立ち上がる。


 いつもの授業後より、会話は少なかった。


 しかし、完全に沈黙しているわけではない。


 何人かは黒板の文字を見ている。


 名前。


 称号。


 血統。


 役割。


 対象。


 敵。


 味方。


 そして、その下に書かれた名前。


 リゼ・グレイス。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラント。


 対象だけではない。


 呼称は回収しにくい。


 会う前に決めるな。


 アルトは席を立った。


 左手首は静かだった。


「痛みなし。熱少し。声なし。授業終了」


 カイが隣で伸びをする。


「重い授業だったな」


「はい」


「でも必要だった」


「はい」


 ミリアが近づいてきた。


「二人とも、大丈夫?」


 アルトは頷く。


「大丈夫です。少し疲れました」


「それは自然よ」


 リゼも来た。


 彼女は黒板を見ていた。


 灰銀の戦乙女という文字は、もう消されかけている。


 ロウ教師が布で拭いていた。


 黒板から称号が消えていく。


 その下のリゼ・グレイスという名前は、まだ残っている。


 リゼはそれを見て、小さく息を吐いた。


「状態は?」


 今度はアルトが聞いた。


 リゼは少し考えた。


「身体異常なし。感情、疲労。警戒継続。不快感はありますが、言葉にできました」


 ミリアが微笑む。


「良好ね」


 リゼは頷いた。


「はい。良好です」


 カイが言う。


「じゃあ、授業後用食うか」


「ありますか」


 アルトが聞くと、カイは当然のように布包みを取り出した。


「ある。戦争後の名前の授業後用」


 ミリアが少しだけ笑った。


「用途がどんどん長くなるわね」


「必要だろ」


「ええ。必要ね」


 四人は廊下の隅で、小さな焼き菓子の欠けを分けた。


 商品ではない。


 小さな灯の店はもう開いていない。


 けれど、味は同じだった。


 アルトは一口食べた。


 甘さが舌に広がる。


 左手首の熱が少し下がる。


「痛みなし。熱少し低下。声なし」


 リゼが記録しようとして、やめた。


 ミリアがそれに気づいて微笑む。


「今は食べていていいのよ」


「はい」


 リゼも小さな欠けを食べた。


 カイが満足そうに頷く。


 その時、廊下の向こうから、数人の生徒の声が聞こえた。


「でも、実際どうなのかしら」


「灰銀と敗戦国の姫を並べるなんて」


「見ものね」


 ミリアの表情が変わった。


 柔らかさは残っている。


 だが、目が冷静になる。


 リゼが動きかける。


 カイも眉を寄せる。


 アルトの左手首が少し熱を持った。


 本人がいない場所で、もう見ものと言われている。


 まだ来ていないのに。


 ミリアが静かに言った。


「私が行くわ」


 彼女は焼き菓子の欠けを飲み込み、廊下の先へ歩き出した。


 リゼが続こうとすると、ミリアが振り返る。


「リゼさんはここで」


「しかし」


「今、あなたが行くと、“灰銀が反応した”という話になるわ。私が行く方がいい」


 リゼは止まった。


 少し悔しそうに。


 だが、頷いた。


「了解しました」


 ミリアはにこやかに、しかし隙のない足取りで生徒たちへ近づいた。


 声は穏やかだった。


「その話、少しよろしいかしら」


 生徒たちが驚いたように振り返る。


 ミリアは微笑んでいる。


 だが、逃げ道はもうなかった。


「三日後に来る方についての話なら、名前で呼ぶ練習から始めた方が良いと思うの。エリアナ・ルクス・ヴェルグラントさん。少し長いけれど、大事なことよ」


 一人の女生徒が気まずそうに言う。


「別に、悪気があったわけでは」


「ええ。だから今、直せるわ」


 ミリアの声は優しい。


 優しいのに、強い。


「“見もの”という言い方は、本人がいない場でも適切ではないと思うの。灰銀の戦乙女と敗戦国の姫、という構図を楽しむ言葉になるから」


 相手は黙る。


 ミリアは続ける。


「私たちが見るべきなのは、対立の見世物ではなく、同じ教室に立つための条件よ」


 廊下が静かになる。


 アルトは少し離れた場所で、その言葉を聞いた。


 同じ教室に立つ条件。


 それが、この授業の本当の続きなのかもしれない。


 リゼは黙ってミリアを見ていた。


 カイは小声で言う。


「ミリア、強え」


「はい」


 アルトは頷いた。


 ミリアは最後に、にっこりと笑った。


「噂は広がりやすいわ。だから、良い形に整えてから広げましょう」


 それはお願いの形をした指示だった。


 生徒たちは小さく頷き、散っていく。


 ミリアが戻ってきた時、少しだけ息を吐いた。


「疲れたわ」


 リゼがすぐに言う。


「状態は」


 ミリアは目を瞬かせ、それから笑った。


「身体異常なし。感情、少し怒り。疲労あり。言いたいことは言えました」


 リゼが頷く。


「良好です」


 カイが焼き菓子の欠けをもう一つ差し出す。


「噂止めた用」


 ミリアは受け取って、少し笑った。


「ありがとう」


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 まだ、エリアナは来ていない。


 それでも、彼女のための場所は少しずつ作られている。


 完璧ではない。


 警戒も、不安も、噂もある。


 でも、名前を先に置こうとする人たちがいる。


 見ものにしないよう止める人がいる。


 敵と決める前に会おうとする人がいる。


 リゼは廊下の窓から中庭を見た。


 学園祭の跡は、もうほとんど片付けられている。


 ただ、青い布で塞がれた鐘楼側の導線だけが残っていた。


 リゼは小さく言った。


「同じ教室に立つ条件」


 アルトが見る。


 リゼは続けた。


「私は、まだ準備中です」


 ミリアが優しく言う。


「それでいいのよ」


 カイも言った。


「三日あるしな」


 アルトは頷いた。


「僕も、準備中です」


 リゼがこちらを見る。


「はい」


 まだ会っていない少女。


 敗戦国の名を持つ留学生。


 王家血統として扱われ、保護観察対象と呼ばれ、本人より先に噂が歩いている人。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラント。


 アルトはその名前を、心の中で一度ゆっくり読んだ。


 銀環は痛まなかった。


 声もなかった。


 ただ、ほんの少しだけ温かかった。


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