第3章 第3話:四人以外の距離
朝の鐘が鳴る前から、アルト・レインフォードは落ち着かなかった。
男子寮の自室で制服の袖を直し、左手首の布を巻き直し、机の上に置いた魔術理論の教科書を鞄へ入れる。昨日の夜から何度も確認しているのに、鞄の中身が気になって仕方ない。
教科書。
ノート。
筆記具。
課題用紙。
予備の紙。
リゼたちとの記録用の小さな紙片。
全部ある。
それでも、また確認したくなる。
今日は放課後、ノエル・バートンとティナ・ベルたちの課題会に参加する予定だった。
まだ正式に返事をしたわけではない。
けれど、昨日の夕方に「行ってみたい」と言った。
リゼは条件を考えてくれた。
ミリアは「アルトさんが決めるのよ」と言った。
カイは「成功したら焼き菓子」と言った。
三人は近くにいる。
見えなくても、完全に離れるわけではない。
それなのに、胸の奥が落ち着かない。
怖い。
けれど、嫌ではない。
むしろ、怖いのに嬉しい。
それが不思議だった。
王宮のことを聞くのは怖い。
銀環が光るのも怖い。
白鐘礼拝堂の夢も怖い。
その怖さは、胸の奥を冷たくする。
けれど、今日の怖さは違う。
知らない教室の扉の前に立っているような怖さ。
そこには危険があるかもしれない。
でも、開けたら新しい景色があるかもしれない。
アルトは左手首の布へ触れた。
熱はない。
痛みもない。
銀環は静かだ。
窓の外では、鐘楼が朝の光を受けていた。
まだ鳴らない。
アルトは小さく息を吸い、昨日リゼがしてくれたように自分で確認した。
「現在地は、男子寮の自室。朝。今日は授業の後、課題会に行くかもしれない。怖い。でも、行きたい」
言葉にすると、少しだけ胸が落ち着いた。
朝の鐘が鳴った。
澄んだ音が窓ガラスを通して届く。
左手首が淡く光る。
アルトは目を閉じた。
「痛みなし。熱、少し。声なし。感情は、緊張。怖い。でも、行きたい」
光は強くならなかった。
よかった。
アルトは鞄を持ち、部屋を出た。
中庭には、リゼたちがいつもの場所で待っていた。
リゼは今日も左側に立つ位置を空けている。彼女の灰銀の髪は朝の光の中で静かに揺れていた。制服のリボンは整っている。たぶん、ミリアが直したのだろう。
ミリアは穏やかな表情でこちらを見ている。
カイは腕を組んでいるが、昨日よりあまり前に出ていない。自分で意識しているらしい。
アルトが近づくと、三人が同時に視線を向けた。
「おはよう」
「おはようございます」
リゼはまず挨拶をした。
一拍置いてから。
「体調は」
アルトは少し笑った。
この順番にも、もう慣れてきた。
「眠れた。夢はほとんど覚えていない。朝鐘で少し光った。痛みなし、熱少し、声なし。朝食はパン一つとスープ半分。気分は……緊張してる」
「課題会の件ですか」
「うん」
カイが頷く。
「行くのか?」
「行ってみたい」
「なら行け」
即答だった。
アルトは少し驚く。
「そんな簡単に?」
「行きたいんだろ」
「うん」
「なら行け。危なくなったら戻ればいい」
カイの言葉は単純だった。
でも、その単純さがありがたい時がある。
リゼは真剣に言った。
「条件を確認します」
「はい」
アルトは少し背筋を伸ばした。
「場所は図書館塔一階の大机。人目がある。時間は三十分。左手首について聞かれた時は、怪我の痕だから今は触れないでほしい、と言う。具合が悪くなったら手を上げる。声が出せるならリゼさんたちを呼ぶ。声が出せない場合は、布に触れて合図」
「良好です」
リゼは頷いた。
「私たちは同じ階にいます。ただし、隣席には座りません。視界内、または即応可能距離を維持します」
ミリアが補足する。
「私は少し離れた閲覧席にいるわ。リゼさんが怖い顔になりすぎないかも確認します」
「私は表情を調整します」
リゼが言う。
カイが少し笑う。
「俺は入口側だな」
「あなたは外部警戒です。ただし、立って睨むと目立ちます」
「座る」
「声を抑える」
「わかってる」
「突撃前に確認」
「それもわかってる」
アルトは三人を見て、胸の奥が少し温かくなった。
自分が行きたいと言ったことを、三人は止めなかった。
危険を消すことはできない。
でも、できる形を一緒に考えてくれた。
昨日の夜より、少しだけ怖さが軽くなる。
「ありがとう」
アルトが言うと、リゼはいつものように答えた。
「必要な調整です」
ミリアが微笑む。
「それと、友達として応援しているの」
リゼが少しだけ考え込む。
「はい。友達としても、応援しています」
カイが言う。
「終わったら焼き菓子だ」
「それは応援なの?」
「成功報酬だ」
「任務みたい」
「じゃあ、ただの菓子」
アルトは笑った。
朝の二度目の鐘が鳴り、四人は第一校舎へ向かった。
その日の授業は、妙に長く感じられた。
午前の王国史も、基礎魔術も、いつも通り進んでいく。だがアルトの意識は、放課後の課題会へ何度も向いてしまう。
ノエルは前方の席で教師の話を真剣に聞いている。
ティナは友人と小声で何かを確認し、時々こちらを見て軽く笑う。
嫌な視線ではない。
むしろ、今日来るかどうかを気にしてくれているのだろう。
それでも、見られると左手首へ意識が向かう。
布の下の銀環痕。
濃くなった文字。
エルディアという名。
もし聞かれたら。
もし布のことを不思議がられたら。
もし、自分が普通の同級生ではないと気づかれたら。
そんな考えが頭を過ぎるたび、アルトは机の下で左手首に触れた。
痛みはない。
熱は少し。
声はない。
現在地は、一年C組の教室。
授業中。
リゼは左前方。
ミリアは右隣に近い席。
カイは今日も前列。
ロウ教師の件以来、カイは前の席に移動させられていた。
眠そうになっては、必死に目を開けている。
その姿を見ると、少し笑いそうになる。
笑いそうになると、左手首の熱が少し下がる。
不思議だった。
昼休み、四人はいつもの中庭の席へ向かった。
カイは売店へ行く前に言った。
「今日は成功前だから、焼き菓子は少し多めでいいか?」
「なぜ成功前に増えるの?」
アルトが尋ねる。
「緊張するだろ」
「する」
「じゃあ必要だ」
ミリアは呆れたように笑う。
「一理あるわね」
「あるの?」
「精神安定用なら、少量は」
リゼが真剣に言った。
「ただし、食べすぎると眠気の原因になります」
「じゃあ少量」
カイは頷いて売店へ向かった。
昼食中、アルトはいつもより少し口数が少なかった。
ミリアは無理に話しかけない。
リゼも、必要な確認以外は黙っている。
カイは戻ってきてから、緊張を壊すように肉入りパンの具が増えたと報告した。
「今日は当たりだ」
「それ、昨日の果実水みたい」
アルトが言う。
「当たりの日は大事だ」
カイは真剣だった。
その単純な話題に、アルトの肩の力が少し抜ける。
昼食の終わり頃、リゼが尋ねた。
「課題会参加の最終意思確認です」
アルトは少しだけ息を吸った。
「行きます」
「怖さは」
「ある」
「やめたい気持ちは」
「少し。でも、行きたい方が強い」
「了解しました。本人意思、参加」
ミリアがそっと言う。
「不安になったら、途中で帰ってきてもいいわ」
「うん」
カイが焼き菓子を差し出す。
「これは行く前用」
「また用途が増えたね」
「成功したらもう一個」
アルトは小さく笑って、それを受け取った。
放課後の図書館塔一階は、普段より少し賑やかだった。
課題をする生徒、自習する上級生、資料を探す教師補助。
窓からは夕方前の柔らかい光が差し込み、書架の間に細い影を作っている。
大机は入口から少し奥にある。
周囲には人目があり、完全な死角ではない。
リゼは到着するなり、静かに周囲を確認した。
入口。
階段。
司書席。
窓。
書架の間。
非常口。
ノエル、ティナ、ほか二名。
危険低から中。
心理的負荷、中から高。
リゼはアルトへ向き直った。
「私たちはあちらの閲覧席にいます」
少し離れた席を指す。
視界には入るが、会話は聞こえにくい距離。
アルトは頷く。
「うん」
ミリアは柔らかく言った。
「最初の三十分だけ。時計を見ておくわ」
「ありがとう」
カイは入口近くの席を指差した。
「俺はあそこ」
「睨まないでね」
ミリアが言う。
「睨まねえよ」
リゼが付け加える。
「腕を組んで入口を凝視すると、睨んでいるように見えます」
「座って本読む」
「本は上下を確認してください」
「そこまで言うか」
アルトは思わず笑った。
笑えた。
それだけで、少し勇気が出る。
ノエルが大机から手を振った。
「アルト君、こっち」
アルトはリゼたちを一度見た。
リゼは頷かない。
指示ではなく、待っている。
ミリアは微笑む。
カイは親指を立てた。
アルトは自分で一歩踏み出した。
たった数歩。
それなのに、胸が大きく鳴る。
大机へ近づくと、ノエルが少し席を空けてくれた。
「来てくれてありがとう」
「誘ってくれてありがとう」
アルトは椅子に座った。
リゼたちからは少し離れている。
でも、見える。
完全に一人ではない。
それがわかると、呼吸が少し楽になった。
課題会の参加者は四人だった。
ノエル・バートン。
ティナ・ベル。
背の高い少年、ダリオ・エルム。
そして、静かな雰囲気の少女、リリア・ノース。
ダリオは赤茶色の髪を短く切り、いかにも剣術が得意そうな体つきをしていた。授業中はあまり発言しないが、体育や基礎剣術の時間によく目立つ生徒だ。
リリアは小さな声で挨拶した。
「よろしく」
「よろしく」
アルトも返す。
ノエルが教科書を開く。
「今日の魔術理論の課題は、属性魔力の流れを図にするやつ。僕、流れの向きはわかるんだけど、説明文がうまくまとまらなくて」
ティナがアルトのノートを見る。
「アルト君のノート、見てもいい?」
左手首ではなく、ノート。
アルトは少し安堵した。
「うん」
ノートを差し出す。
ティナがページを開き、目を丸くした。
「本当に綺麗。字もだけど、見出しがわかりやすい」
「そうかな」
「うん。私、すぐ余白がなくなるから」
ダリオが覗き込む。
「俺も余白消える」
「ダリオは字が大きいだけでしょ」
ティナが言う。
「見やすいだろ」
「場所を取るのよ」
ノエルが笑う。
アルトはそのやり取りを見て、少しだけ緊張が解けた。
普通だ。
課題の話。
ノートの話。
字が大きいとか、余白がないとか。
王宮でも、銀環でも、鍵でもない。
アルトは自分のノートを指でなぞりながら言った。
「僕は、あとで見返した時にわからなくなるのが嫌だから、見出しをつけるようにしてる」
ノエルが頷く。
「それ、真似していい?」
「もちろん」
嬉しい。
左手首がほんの少し温かくなる。
アルトは机の下で軽く触れる。
痛みなし。
熱少し。
声なし。
感情は、嬉しい。
リゼの方を見そうになって、止めた。
今は自分で確認できた。
そう思った瞬間、少し誇らしい気持ちになった。
離れた閲覧席から、リゼはその様子を見ていた。
いや、見すぎないようにしていた。
正確には、書架の反射、窓の影、周辺の動き、ミリアの視線の先を使いながら、アルトの状態を確認している。
大机までの距離は十五歩より遠い。
二十二歩。
障害物は椅子二脚、机一つ、通行する生徒。
緊急時には三秒以内に到達可能。
ただし、相手が術式を使った場合は遅い。
ノエル。
敵意なし。
ティナ。
社交的。
ダリオ。
体格あり。剣術経験者の可能性。
リリア。
口数少。観察傾向。
全員、今のところ危険兆候なし。
アルトは緊張しているが、会話に参加している。
左手首への接触一回。
強反応なし。
リゼは小さく息を吐いた。
ミリアが向かいで囁く。
「顔」
「調整中です」
「眉間に力が入っているわ」
リゼは意識して力を抜く。
「改善しましたか」
「少し」
カイは入口側の席で本を開いている。
上下は正しい。
ただし、視線は本ではなく入口と大机を交互に見ている。
かなり目立つ。
しかし以前よりはましだ。
ミリアが静かに言う。
「リゼさん」
「はい」
「アルトさん、ちゃんと話せているわ」
「はい」
「今すぐ何かしなくても大丈夫」
「はい」
リゼは答えた。
だが、体はすぐ動けるように備えたままだ。
守るために離れる。
これは想像以上に難しい。
近くにいる方が簡単だ。
視界内で細部を確認し、異常があれば即座に手を伸ばせる距離。
だが、それではアルトの世界は広がらない。
ミリアが昨日言った。
世界が広がるって、そういうことよ。
危険も増える。
不安も増える。
それでも、広がること自体を止めてはいけない。
リゼは指先を軽く握った。
待つ。
見守る。
必要になったら動く。
今は動かない。
課題会は、思ったより穏やかに進んだ。
ノエルが理論を説明し、ティナが図を描き、ダリオが途中で混乱して「結局どっちに流れるんだ」と言い、リリアが小さな声で正しい方向を指摘する。
アルトはノートを見せたり、見出しの作り方を説明したりした。
魔術の実技は得意ではない。
けれど、理論の整理はできる。
それを誰かの役に立てるのは、少し嬉しかった。
「アルト君、まとめるの上手いね」
ティナが言った。
「そんなことないよ」
「あるよ。先生の話って長いから、どこが大事かわからなくなるんだよね」
ダリオが頷く。
「ロウ先生の話は眠くなる」
アルトは思わず笑いそうになった。
「カイも昨日同じこと言って、前列にされたよ」
「ロックハートが?」
ダリオが笑う。
「あいつらしい」
アルトは少し驚いた。
「カイのこと、知ってるの?」
「基礎剣術で何度か組んだ。力はあるけど突っ込みすぎ」
「そうなんだ」
カイの話題。
リゼたち以外の同級生が、カイのことを普通に知っている。
それが少し不思議だった。
自分の周りの世界だけが学園ではない。
それぞれの場所で、皆が関わっている。
当たり前のことなのに、アルトには新鮮だった。
ノエルが少し躊躇いながら言った。
「アルト君って、いつもグレイスさんたちといるよね」
その言葉で、アルトの背筋がわずかに硬くなる。
来た。
そう思った。
質問。
リゼさんたちは何なのか。
なぜいつも一緒なのか。
布は何なのか。
王宮と関係あるのか。
アルトは机の下で左手首に触れた。
痛みなし。
熱、少し上がる。
声なし。
感情、緊張。
「うん」
アルトは答えた。
「友達だから」
言ってから、自分でも少し驚いた。
その言葉が自然に出た。
護衛だから、ではなく。
事情があって、でもなく。
友達だから。
ティナが微笑む。
「仲いいよね」
「うん。最近、そう言えるようになった」
「最近?」
アルトは少し笑った。
「うん。僕、友達の作法を練習中だから」
ノエルが目を瞬く。
「作法?」
「リゼさんが作法表を作ってる」
ティナが笑う。
「グレイスさん、真面目そうだもんね」
「真面目だよ。すごく」
アルトは少しだけ誇らしいような気持ちで言った。
すると、リリアが初めて少し長く話した。
「グレイスさん、怖いと思ってたけど、昨日カーテンの話してた時、少し面白かった」
アルトは驚いた。
「聞こえてた?」
「少しだけ。ごめん」
「ううん」
リリアは小さく言う。
「不規則に揺れるカーテンが苦手って、ちょっとわかる。私も夜に影が動くのは苦手」
アルトはそれを聞いて、少し嬉しくなった。
リゼの苦手なものが、誰かに少し届いた。
変だと笑われるのではなく、わかると言われた。
それが自分のことのように嬉しかった。
ダリオがふとアルトの左手首を見た。
「その布、怪我?」
空気が少し変わった。
リゼの視線が、離れた席から一瞬だけ鋭くなるのがわかった。
アルトは深く息を吸う。
事前に決めた返答。
怪我の痕だから、今は触れないでほしい。
アルトは左手首を布の上から軽く押さえた。
「うん。昔の怪我みたいなもの。今は触れないでほしい」
ダリオはすぐに手を引いた。
「あ、悪い」
「大丈夫」
ティナがダリオを軽く睨む。
「いきなり聞かないの」
「悪かったって」
ノエルも少し慌てて話題を戻した。
「えっと、課題の三問目なんだけど」
空気が戻る。
アルトは胸の中で息を吐いた。
左手首の熱は少し上がっている。
でも、声はない。
痛みもない。
現在地は図書館塔一階。
大机。
ノエル、ティナ、ダリオ、リリアと課題会。
リゼたちは近くにいる。
自分で答えられた。
その事実が、少しだけ自信になった。
三十分は、思ったより早く過ぎた。
ミリアが離れた席から時計を確認し、こちらへ軽く視線を送る。
アルトはそれに気づいた。
まだ少し続けられそうだった。
でも、最初の約束は三十分。
無理をしない。
ここで終われることも大事。
「ごめん。今日はここまでにする」
アルトが言うと、ノエルは頷いた。
「うん。来てくれてありがとう。助かった」
ティナも笑う。
「また一緒にやろうよ」
また。
その言葉に、アルトの胸が少し跳ねる。
「うん。都合が合えば」
ダリオが言う。
「今度、剣術の授業の話も聞かせてくれよ。ロックハートとよくいるなら、あいつの突っ込み癖の止め方知ってる?」
「知らない」
アルトは笑った。
「リゼさんなら知ってるかも」
「グレイスさん、剣もできるの?」
その問いに、アルトは一瞬迷った。
リゼの正体。
灰銀の戦乙女。
言えない。
でも、完全に隠す必要もない範囲で。
「たぶん、かなり」
アルトは言った。
ダリオの目が少し輝いた。
「へえ」
その反応を、リゼは遠くから見ていた。
アルトが大机から戻ってくる。
歩幅は少し疲れているが、足取りは悪くない。
左手首への接触回数は課題会中に三回。
強反応なし。
会話継続。
時間内終了。
成功。
リゼは立ち上がらずに待った。
アルトが自分から戻ることが重要だからだ。
アルトは三人の席まで来ると、少しだけ息を吐いた。
「戻りました」
リゼは頷いた。
「確認しました」
ミリアが微笑む。
「おかえりなさい」
カイが焼き菓子の袋を掲げた。
「成功用」
アルトは笑った。
「ありがとう」
リゼは確認する。
「体調は」
「疲れた。痛みなし。熱、少し。声なし。感情は……緊張したけど、嬉しい」
「何か聞かれましたか」
「左手首の布のこと。決めた通りに答えた。昔の怪我みたいなもの。触れないでほしいって」
「相手の反応は」
「謝ってくれた。深く聞かれなかった」
「良好です」
ミリアがアルトの顔を見て言った。
「少し誇らしそうね」
アルトは照れたように目を逸らした。
「自分で答えられたから」
「すごいじゃない」
「うん」
カイが焼き菓子を渡す。
「食え。成功したから」
アルトは受け取った。
甘い香りがする。
一口食べると、緊張で固まっていた体が少し緩んだ。
「おいしい」
「だろ」
カイは満足そうだった。
リゼは言った。
「課題会参加、三十分完了。本人状態、安定。会話成功。質問対応成功」
「任務みたい」
アルトが言う。
リゼは少し考えた。
「では、友人関係拡張の第一段階、成功」
「それも少し硬いね」
ミリアが笑う。
カイが言う。
「普通に、よくやった、でいいだろ」
アルトはカイを見る。
カイは真顔で続けた。
「よくやった」
その言葉が、なぜか胸に響いた。
アルトは小さく頷いた。
「ありがとう」
図書館塔を出る頃には、夕方の光が校舎の白壁を赤く染めていた。
四人は中庭の噴水横へ向かった。
いつもの場所。
しかし、今日のアルトにとっては、少し違う場所に見えた。
ここから出て、少し離れて、また戻ってきた。
戻る場所があるから、少し外へ行けた。
その感覚があった。
ベンチに座ると、アルトは息を吐いた。
「疲れた」
「心理的負荷が高かったためです」
リゼが言う。
「うん。でも、嫌な疲れじゃない」
ミリアが隣に座る。
「楽しかった?」
アルトは少し考えた。
「少し。怖かったけど、楽しかった。ノートを褒めてもらえた。課題も一緒にできた。左手首のことを聞かれたけど、自分で答えられた」
「大きな前進です」
リゼが言う。
その言い方はいつも通り硬い。
けれど、アルトには嬉しかった。
カイが石段に座りながら聞いた。
「誰がいたんだ?」
「ノエル君、ティナさん、ダリオ君、リリアさん」
「ダリオ?」
「カイと剣術で組んだことがあるって言ってた」
「あいつか。突っ込み癖とか言ってなかったか?」
アルトは笑った。
「言ってた」
「余計なことを」
「リゼさんなら止め方を知ってるかもって言った」
カイがリゼを見る。
「知ってるのか?」
「あなたが突っ込む前に肩を押さえる、または進路を塞ぐ。状況によっては足を払う」
「足を払うな」
「必要時のみ」
アルトは笑った。
夕鐘が鳴った。
鐘の音が中庭に広がる。
アルトの左手首が光る。
課題会の緊張が残っているせいか、いつもより少し強い。
けれど、怖くはなかった。
「痛みなし。熱、少し強め。声なし」
「現在地は」
リゼが尋ねる。
アルトは目を閉じた。
「学園中庭。夕方。噴水横。リゼさん、ミリアさん、カイといる。課題会から戻ってきた」
「感情は」
ミリアが聞く。
アルトは目を開けた。
「疲れた。嬉しい。少し誇らしい」
カイが笑う。
「いいじゃねえか」
リゼも頷いた。
「良好です」
銀環の光は、ゆっくり弱まっていった。
男子寮への分岐点で、アルトは三人へ言った。
「今日は、ありがとう」
「何に対してですか」
リゼが問う。
「待ってくれたこと。近くにいてくれたこと。近すぎなかったこと」
リゼは少しだけ黙った。
「難しかったです」
「うん。僕も難しかった」
「しかし、成功しました」
「うん」
ミリアが微笑む。
「両方の練習だったわね」
カイが言う。
「次も行けそうか?」
アルトは少し考えた。
「たぶん。でも、毎回三十分くらいから」
「十分だろ」
「うん」
その時、背後から声がした。
「アルト君」
四人が振り返る。
ティナが小走りで近づいてきた。
少し息を弾ませている。
「さっき言い忘れてた。今日、来てくれて本当に助かった。また誘っていい?」
アルトは少し驚いた。
すぐに答えられない。
リゼは口を出さない。
ミリアも待っている。
カイも黙っている。
アルトは自分で言った。
「うん。予定が合えば」
「よかった」
ティナは笑った。
それから、ふとリゼを見た。
「あの、グレイスさん」
「はい」
「今日、少し離れて見てましたよね」
「はい」
「アルト君の護衛……じゃなくて」
ティナは言葉を探した。
リゼは静かに待つ。
アルトも少し緊張する。
「えっと、アルト君の何なんですか?」
その問いは、真っ直ぐだった。
悪意はない。
ただ、不思議に思ったから聞いている。
だが、空気は一瞬で変わった。
護衛。
友人。
同級生。
リゼは何なのか。
アルトにとって。
リゼ自身にとって。
リゼはすぐに答えられなかった。
護衛です。
そう言うのは事実に近い。
しかし、言えない。
友人です。
それも事実になり始めている。
だが、それだけでは説明できない。
アルトはリゼを見る。
ミリアも。
カイは「友達だろ」と言いかけたが、ミリアが視線で止めた。
リゼは口を開いた。
「私は」
言葉が止まる。
夕方の風が制服の裾を揺らす。
不規則に揺れる布。
けれど、今は誰かが背後にいるわけではない。
ただの風。
アルトが昨日言ったように。
カーテンが揺れているだけ。
リゼはゆっくり息を吸った。
「私は、アルトさんの」
護衛。
同級生。
友人。
どれも正しい。
どれか一つでは足りない。
答えを探す間、ティナは不思議そうに待っていた。
アルトも、リゼの答えを待っていた。
リゼはまだ、答えられなかった。




