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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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33/201

第3章 第3話:四人以外の距離


 朝の鐘が鳴る前から、アルト・レインフォードは落ち着かなかった。


 男子寮の自室で制服の袖を直し、左手首の布を巻き直し、机の上に置いた魔術理論の教科書を鞄へ入れる。昨日の夜から何度も確認しているのに、鞄の中身が気になって仕方ない。


 教科書。


 ノート。


 筆記具。


 課題用紙。


 予備の紙。


 リゼたちとの記録用の小さな紙片。


 全部ある。


 それでも、また確認したくなる。


 今日は放課後、ノエル・バートンとティナ・ベルたちの課題会に参加する予定だった。


 まだ正式に返事をしたわけではない。


 けれど、昨日の夕方に「行ってみたい」と言った。


 リゼは条件を考えてくれた。


 ミリアは「アルトさんが決めるのよ」と言った。


 カイは「成功したら焼き菓子」と言った。


 三人は近くにいる。


 見えなくても、完全に離れるわけではない。


 それなのに、胸の奥が落ち着かない。


 怖い。


 けれど、嫌ではない。


 むしろ、怖いのに嬉しい。


 それが不思議だった。


 王宮のことを聞くのは怖い。


 銀環が光るのも怖い。


 白鐘礼拝堂の夢も怖い。


 その怖さは、胸の奥を冷たくする。


 けれど、今日の怖さは違う。


 知らない教室の扉の前に立っているような怖さ。


 そこには危険があるかもしれない。


 でも、開けたら新しい景色があるかもしれない。


 アルトは左手首の布へ触れた。


 熱はない。


 痛みもない。


 銀環は静かだ。


 窓の外では、鐘楼が朝の光を受けていた。


 まだ鳴らない。


 アルトは小さく息を吸い、昨日リゼがしてくれたように自分で確認した。


「現在地は、男子寮の自室。朝。今日は授業の後、課題会に行くかもしれない。怖い。でも、行きたい」


 言葉にすると、少しだけ胸が落ち着いた。


 朝の鐘が鳴った。


 澄んだ音が窓ガラスを通して届く。


 左手首が淡く光る。


 アルトは目を閉じた。


「痛みなし。熱、少し。声なし。感情は、緊張。怖い。でも、行きたい」


 光は強くならなかった。


 よかった。


 アルトは鞄を持ち、部屋を出た。


 中庭には、リゼたちがいつもの場所で待っていた。


 リゼは今日も左側に立つ位置を空けている。彼女の灰銀の髪は朝の光の中で静かに揺れていた。制服のリボンは整っている。たぶん、ミリアが直したのだろう。


 ミリアは穏やかな表情でこちらを見ている。


 カイは腕を組んでいるが、昨日よりあまり前に出ていない。自分で意識しているらしい。


 アルトが近づくと、三人が同時に視線を向けた。


「おはよう」


「おはようございます」


 リゼはまず挨拶をした。


 一拍置いてから。


「体調は」


 アルトは少し笑った。


 この順番にも、もう慣れてきた。


「眠れた。夢はほとんど覚えていない。朝鐘で少し光った。痛みなし、熱少し、声なし。朝食はパン一つとスープ半分。気分は……緊張してる」


「課題会の件ですか」


「うん」


 カイが頷く。


「行くのか?」


「行ってみたい」


「なら行け」


 即答だった。


 アルトは少し驚く。


「そんな簡単に?」


「行きたいんだろ」


「うん」


「なら行け。危なくなったら戻ればいい」


 カイの言葉は単純だった。


 でも、その単純さがありがたい時がある。


 リゼは真剣に言った。


「条件を確認します」


「はい」


 アルトは少し背筋を伸ばした。


「場所は図書館塔一階の大机。人目がある。時間は三十分。左手首について聞かれた時は、怪我の痕だから今は触れないでほしい、と言う。具合が悪くなったら手を上げる。声が出せるならリゼさんたちを呼ぶ。声が出せない場合は、布に触れて合図」


「良好です」


 リゼは頷いた。


「私たちは同じ階にいます。ただし、隣席には座りません。視界内、または即応可能距離を維持します」


 ミリアが補足する。


「私は少し離れた閲覧席にいるわ。リゼさんが怖い顔になりすぎないかも確認します」


「私は表情を調整します」


 リゼが言う。


 カイが少し笑う。


「俺は入口側だな」


「あなたは外部警戒です。ただし、立って睨むと目立ちます」


「座る」


「声を抑える」


「わかってる」


「突撃前に確認」


「それもわかってる」


 アルトは三人を見て、胸の奥が少し温かくなった。


 自分が行きたいと言ったことを、三人は止めなかった。


 危険を消すことはできない。


 でも、できる形を一緒に考えてくれた。


 昨日の夜より、少しだけ怖さが軽くなる。


「ありがとう」


 アルトが言うと、リゼはいつものように答えた。


「必要な調整です」


 ミリアが微笑む。


「それと、友達として応援しているの」


 リゼが少しだけ考え込む。


「はい。友達としても、応援しています」


 カイが言う。


「終わったら焼き菓子だ」


「それは応援なの?」


「成功報酬だ」


「任務みたい」


「じゃあ、ただの菓子」


 アルトは笑った。


 朝の二度目の鐘が鳴り、四人は第一校舎へ向かった。


 その日の授業は、妙に長く感じられた。


 午前の王国史も、基礎魔術も、いつも通り進んでいく。だがアルトの意識は、放課後の課題会へ何度も向いてしまう。


 ノエルは前方の席で教師の話を真剣に聞いている。


 ティナは友人と小声で何かを確認し、時々こちらを見て軽く笑う。


 嫌な視線ではない。


 むしろ、今日来るかどうかを気にしてくれているのだろう。


 それでも、見られると左手首へ意識が向かう。


 布の下の銀環痕。


 濃くなった文字。


 エルディアという名。


 もし聞かれたら。


 もし布のことを不思議がられたら。


 もし、自分が普通の同級生ではないと気づかれたら。


 そんな考えが頭を過ぎるたび、アルトは机の下で左手首に触れた。


 痛みはない。


 熱は少し。


 声はない。


 現在地は、一年C組の教室。


 授業中。


 リゼは左前方。


 ミリアは右隣に近い席。


 カイは今日も前列。


 ロウ教師の件以来、カイは前の席に移動させられていた。


 眠そうになっては、必死に目を開けている。


 その姿を見ると、少し笑いそうになる。


 笑いそうになると、左手首の熱が少し下がる。


 不思議だった。


 昼休み、四人はいつもの中庭の席へ向かった。


 カイは売店へ行く前に言った。


「今日は成功前だから、焼き菓子は少し多めでいいか?」


「なぜ成功前に増えるの?」


 アルトが尋ねる。


「緊張するだろ」


「する」


「じゃあ必要だ」


 ミリアは呆れたように笑う。


「一理あるわね」


「あるの?」


「精神安定用なら、少量は」


 リゼが真剣に言った。


「ただし、食べすぎると眠気の原因になります」


「じゃあ少量」


 カイは頷いて売店へ向かった。


 昼食中、アルトはいつもより少し口数が少なかった。


 ミリアは無理に話しかけない。


 リゼも、必要な確認以外は黙っている。


 カイは戻ってきてから、緊張を壊すように肉入りパンの具が増えたと報告した。


「今日は当たりだ」


「それ、昨日の果実水みたい」


 アルトが言う。


「当たりの日は大事だ」


 カイは真剣だった。


 その単純な話題に、アルトの肩の力が少し抜ける。


 昼食の終わり頃、リゼが尋ねた。


「課題会参加の最終意思確認です」


 アルトは少しだけ息を吸った。


「行きます」


「怖さは」


「ある」


「やめたい気持ちは」


「少し。でも、行きたい方が強い」


「了解しました。本人意思、参加」


 ミリアがそっと言う。


「不安になったら、途中で帰ってきてもいいわ」


「うん」


 カイが焼き菓子を差し出す。


「これは行く前用」


「また用途が増えたね」


「成功したらもう一個」


 アルトは小さく笑って、それを受け取った。


 放課後の図書館塔一階は、普段より少し賑やかだった。


 課題をする生徒、自習する上級生、資料を探す教師補助。


 窓からは夕方前の柔らかい光が差し込み、書架の間に細い影を作っている。


 大机は入口から少し奥にある。


 周囲には人目があり、完全な死角ではない。


 リゼは到着するなり、静かに周囲を確認した。


 入口。


 階段。


 司書席。


 窓。


 書架の間。


 非常口。


 ノエル、ティナ、ほか二名。


 危険低から中。


 心理的負荷、中から高。


 リゼはアルトへ向き直った。


「私たちはあちらの閲覧席にいます」


 少し離れた席を指す。


 視界には入るが、会話は聞こえにくい距離。


 アルトは頷く。


「うん」


 ミリアは柔らかく言った。


「最初の三十分だけ。時計を見ておくわ」


「ありがとう」


 カイは入口近くの席を指差した。


「俺はあそこ」


「睨まないでね」


 ミリアが言う。


「睨まねえよ」


 リゼが付け加える。


「腕を組んで入口を凝視すると、睨んでいるように見えます」


「座って本読む」


「本は上下を確認してください」


「そこまで言うか」


 アルトは思わず笑った。


 笑えた。


 それだけで、少し勇気が出る。


 ノエルが大机から手を振った。


「アルト君、こっち」


 アルトはリゼたちを一度見た。


 リゼは頷かない。


 指示ではなく、待っている。


 ミリアは微笑む。


 カイは親指を立てた。


 アルトは自分で一歩踏み出した。


 たった数歩。


 それなのに、胸が大きく鳴る。


 大机へ近づくと、ノエルが少し席を空けてくれた。


「来てくれてありがとう」


「誘ってくれてありがとう」


 アルトは椅子に座った。


 リゼたちからは少し離れている。


 でも、見える。


 完全に一人ではない。


 それがわかると、呼吸が少し楽になった。


 課題会の参加者は四人だった。


 ノエル・バートン。


 ティナ・ベル。


 背の高い少年、ダリオ・エルム。


 そして、静かな雰囲気の少女、リリア・ノース。


 ダリオは赤茶色の髪を短く切り、いかにも剣術が得意そうな体つきをしていた。授業中はあまり発言しないが、体育や基礎剣術の時間によく目立つ生徒だ。


 リリアは小さな声で挨拶した。


「よろしく」


「よろしく」


 アルトも返す。


 ノエルが教科書を開く。


「今日の魔術理論の課題は、属性魔力の流れを図にするやつ。僕、流れの向きはわかるんだけど、説明文がうまくまとまらなくて」


 ティナがアルトのノートを見る。


「アルト君のノート、見てもいい?」


 左手首ではなく、ノート。


 アルトは少し安堵した。


「うん」


 ノートを差し出す。


 ティナがページを開き、目を丸くした。


「本当に綺麗。字もだけど、見出しがわかりやすい」


「そうかな」


「うん。私、すぐ余白がなくなるから」


 ダリオが覗き込む。


「俺も余白消える」


「ダリオは字が大きいだけでしょ」


 ティナが言う。


「見やすいだろ」


「場所を取るのよ」


 ノエルが笑う。


 アルトはそのやり取りを見て、少しだけ緊張が解けた。


 普通だ。


 課題の話。


 ノートの話。


 字が大きいとか、余白がないとか。


 王宮でも、銀環でも、鍵でもない。


 アルトは自分のノートを指でなぞりながら言った。


「僕は、あとで見返した時にわからなくなるのが嫌だから、見出しをつけるようにしてる」


 ノエルが頷く。


「それ、真似していい?」


「もちろん」


 嬉しい。


 左手首がほんの少し温かくなる。


 アルトは机の下で軽く触れる。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 感情は、嬉しい。


 リゼの方を見そうになって、止めた。


 今は自分で確認できた。


 そう思った瞬間、少し誇らしい気持ちになった。


 離れた閲覧席から、リゼはその様子を見ていた。


 いや、見すぎないようにしていた。


 正確には、書架の反射、窓の影、周辺の動き、ミリアの視線の先を使いながら、アルトの状態を確認している。


 大机までの距離は十五歩より遠い。


 二十二歩。


 障害物は椅子二脚、机一つ、通行する生徒。


 緊急時には三秒以内に到達可能。


 ただし、相手が術式を使った場合は遅い。


 ノエル。


 敵意なし。


 ティナ。


 社交的。


 ダリオ。


 体格あり。剣術経験者の可能性。


 リリア。


 口数少。観察傾向。


 全員、今のところ危険兆候なし。


 アルトは緊張しているが、会話に参加している。


 左手首への接触一回。


 強反応なし。


 リゼは小さく息を吐いた。


 ミリアが向かいで囁く。


「顔」


「調整中です」


「眉間に力が入っているわ」


 リゼは意識して力を抜く。


「改善しましたか」


「少し」


 カイは入口側の席で本を開いている。


 上下は正しい。


 ただし、視線は本ではなく入口と大机を交互に見ている。


 かなり目立つ。


 しかし以前よりはましだ。


 ミリアが静かに言う。


「リゼさん」


「はい」


「アルトさん、ちゃんと話せているわ」


「はい」


「今すぐ何かしなくても大丈夫」


「はい」


 リゼは答えた。


 だが、体はすぐ動けるように備えたままだ。


 守るために離れる。


 これは想像以上に難しい。


 近くにいる方が簡単だ。


 視界内で細部を確認し、異常があれば即座に手を伸ばせる距離。


 だが、それではアルトの世界は広がらない。


 ミリアが昨日言った。


 世界が広がるって、そういうことよ。


 危険も増える。


 不安も増える。


 それでも、広がること自体を止めてはいけない。


 リゼは指先を軽く握った。


 待つ。


 見守る。


 必要になったら動く。


 今は動かない。


 課題会は、思ったより穏やかに進んだ。


 ノエルが理論を説明し、ティナが図を描き、ダリオが途中で混乱して「結局どっちに流れるんだ」と言い、リリアが小さな声で正しい方向を指摘する。


 アルトはノートを見せたり、見出しの作り方を説明したりした。


 魔術の実技は得意ではない。


 けれど、理論の整理はできる。


 それを誰かの役に立てるのは、少し嬉しかった。


「アルト君、まとめるの上手いね」


 ティナが言った。


「そんなことないよ」


「あるよ。先生の話って長いから、どこが大事かわからなくなるんだよね」


 ダリオが頷く。


「ロウ先生の話は眠くなる」


 アルトは思わず笑いそうになった。


「カイも昨日同じこと言って、前列にされたよ」


「ロックハートが?」


 ダリオが笑う。


「あいつらしい」


 アルトは少し驚いた。


「カイのこと、知ってるの?」


「基礎剣術で何度か組んだ。力はあるけど突っ込みすぎ」


「そうなんだ」


 カイの話題。


 リゼたち以外の同級生が、カイのことを普通に知っている。


 それが少し不思議だった。


 自分の周りの世界だけが学園ではない。


 それぞれの場所で、皆が関わっている。


 当たり前のことなのに、アルトには新鮮だった。


 ノエルが少し躊躇いながら言った。


「アルト君って、いつもグレイスさんたちといるよね」


 その言葉で、アルトの背筋がわずかに硬くなる。


 来た。


 そう思った。


 質問。


 リゼさんたちは何なのか。


 なぜいつも一緒なのか。


 布は何なのか。


 王宮と関係あるのか。


 アルトは机の下で左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱、少し上がる。


 声なし。


 感情、緊張。


「うん」


 アルトは答えた。


「友達だから」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 その言葉が自然に出た。


 護衛だから、ではなく。


 事情があって、でもなく。


 友達だから。


 ティナが微笑む。


「仲いいよね」


「うん。最近、そう言えるようになった」


「最近?」


 アルトは少し笑った。


「うん。僕、友達の作法を練習中だから」


 ノエルが目を瞬く。


「作法?」


「リゼさんが作法表を作ってる」


 ティナが笑う。


「グレイスさん、真面目そうだもんね」


「真面目だよ。すごく」


 アルトは少しだけ誇らしいような気持ちで言った。


 すると、リリアが初めて少し長く話した。


「グレイスさん、怖いと思ってたけど、昨日カーテンの話してた時、少し面白かった」


 アルトは驚いた。


「聞こえてた?」


「少しだけ。ごめん」


「ううん」


 リリアは小さく言う。


「不規則に揺れるカーテンが苦手って、ちょっとわかる。私も夜に影が動くのは苦手」


 アルトはそれを聞いて、少し嬉しくなった。


 リゼの苦手なものが、誰かに少し届いた。


 変だと笑われるのではなく、わかると言われた。


 それが自分のことのように嬉しかった。


 ダリオがふとアルトの左手首を見た。


「その布、怪我?」


 空気が少し変わった。


 リゼの視線が、離れた席から一瞬だけ鋭くなるのがわかった。


 アルトは深く息を吸う。


 事前に決めた返答。


 怪我の痕だから、今は触れないでほしい。


 アルトは左手首を布の上から軽く押さえた。


「うん。昔の怪我みたいなもの。今は触れないでほしい」


 ダリオはすぐに手を引いた。


「あ、悪い」


「大丈夫」


 ティナがダリオを軽く睨む。


「いきなり聞かないの」


「悪かったって」


 ノエルも少し慌てて話題を戻した。


「えっと、課題の三問目なんだけど」


 空気が戻る。


 アルトは胸の中で息を吐いた。


 左手首の熱は少し上がっている。


 でも、声はない。


 痛みもない。


 現在地は図書館塔一階。


 大机。


 ノエル、ティナ、ダリオ、リリアと課題会。


 リゼたちは近くにいる。


 自分で答えられた。


 その事実が、少しだけ自信になった。


 三十分は、思ったより早く過ぎた。


 ミリアが離れた席から時計を確認し、こちらへ軽く視線を送る。


 アルトはそれに気づいた。


 まだ少し続けられそうだった。


 でも、最初の約束は三十分。


 無理をしない。


 ここで終われることも大事。


「ごめん。今日はここまでにする」


 アルトが言うと、ノエルは頷いた。


「うん。来てくれてありがとう。助かった」


 ティナも笑う。


「また一緒にやろうよ」


 また。


 その言葉に、アルトの胸が少し跳ねる。


「うん。都合が合えば」


 ダリオが言う。


「今度、剣術の授業の話も聞かせてくれよ。ロックハートとよくいるなら、あいつの突っ込み癖の止め方知ってる?」


「知らない」


 アルトは笑った。


「リゼさんなら知ってるかも」


「グレイスさん、剣もできるの?」


 その問いに、アルトは一瞬迷った。


 リゼの正体。


 灰銀の戦乙女。


 言えない。


 でも、完全に隠す必要もない範囲で。


「たぶん、かなり」


 アルトは言った。


 ダリオの目が少し輝いた。


「へえ」


 その反応を、リゼは遠くから見ていた。


 アルトが大机から戻ってくる。


 歩幅は少し疲れているが、足取りは悪くない。


 左手首への接触回数は課題会中に三回。


 強反応なし。


 会話継続。


 時間内終了。


 成功。


 リゼは立ち上がらずに待った。


 アルトが自分から戻ることが重要だからだ。


 アルトは三人の席まで来ると、少しだけ息を吐いた。


「戻りました」


 リゼは頷いた。


「確認しました」


 ミリアが微笑む。


「おかえりなさい」


 カイが焼き菓子の袋を掲げた。


「成功用」


 アルトは笑った。


「ありがとう」


 リゼは確認する。


「体調は」


「疲れた。痛みなし。熱、少し。声なし。感情は……緊張したけど、嬉しい」


「何か聞かれましたか」


「左手首の布のこと。決めた通りに答えた。昔の怪我みたいなもの。触れないでほしいって」


「相手の反応は」


「謝ってくれた。深く聞かれなかった」


「良好です」


 ミリアがアルトの顔を見て言った。


「少し誇らしそうね」


 アルトは照れたように目を逸らした。


「自分で答えられたから」


「すごいじゃない」


「うん」


 カイが焼き菓子を渡す。


「食え。成功したから」


 アルトは受け取った。


 甘い香りがする。


 一口食べると、緊張で固まっていた体が少し緩んだ。


「おいしい」


「だろ」


 カイは満足そうだった。


 リゼは言った。


「課題会参加、三十分完了。本人状態、安定。会話成功。質問対応成功」


「任務みたい」


 アルトが言う。


 リゼは少し考えた。


「では、友人関係拡張の第一段階、成功」


「それも少し硬いね」


 ミリアが笑う。


 カイが言う。


「普通に、よくやった、でいいだろ」


 アルトはカイを見る。


 カイは真顔で続けた。


「よくやった」


 その言葉が、なぜか胸に響いた。


 アルトは小さく頷いた。


「ありがとう」


 図書館塔を出る頃には、夕方の光が校舎の白壁を赤く染めていた。


 四人は中庭の噴水横へ向かった。


 いつもの場所。


 しかし、今日のアルトにとっては、少し違う場所に見えた。


 ここから出て、少し離れて、また戻ってきた。


 戻る場所があるから、少し外へ行けた。


 その感覚があった。


 ベンチに座ると、アルトは息を吐いた。


「疲れた」


「心理的負荷が高かったためです」


 リゼが言う。


「うん。でも、嫌な疲れじゃない」


 ミリアが隣に座る。


「楽しかった?」


 アルトは少し考えた。


「少し。怖かったけど、楽しかった。ノートを褒めてもらえた。課題も一緒にできた。左手首のことを聞かれたけど、自分で答えられた」


「大きな前進です」


 リゼが言う。


 その言い方はいつも通り硬い。


 けれど、アルトには嬉しかった。


 カイが石段に座りながら聞いた。


「誰がいたんだ?」


「ノエル君、ティナさん、ダリオ君、リリアさん」


「ダリオ?」


「カイと剣術で組んだことがあるって言ってた」


「あいつか。突っ込み癖とか言ってなかったか?」


 アルトは笑った。


「言ってた」


「余計なことを」


「リゼさんなら止め方を知ってるかもって言った」


 カイがリゼを見る。


「知ってるのか?」


「あなたが突っ込む前に肩を押さえる、または進路を塞ぐ。状況によっては足を払う」


「足を払うな」


「必要時のみ」


 アルトは笑った。


 夕鐘が鳴った。


 鐘の音が中庭に広がる。


 アルトの左手首が光る。


 課題会の緊張が残っているせいか、いつもより少し強い。


 けれど、怖くはなかった。


「痛みなし。熱、少し強め。声なし」


「現在地は」


 リゼが尋ねる。


 アルトは目を閉じた。


「学園中庭。夕方。噴水横。リゼさん、ミリアさん、カイといる。課題会から戻ってきた」


「感情は」


 ミリアが聞く。


 アルトは目を開けた。


「疲れた。嬉しい。少し誇らしい」


 カイが笑う。


「いいじゃねえか」


 リゼも頷いた。


「良好です」


 銀環の光は、ゆっくり弱まっていった。


 男子寮への分岐点で、アルトは三人へ言った。


「今日は、ありがとう」


「何に対してですか」


 リゼが問う。


「待ってくれたこと。近くにいてくれたこと。近すぎなかったこと」


 リゼは少しだけ黙った。


「難しかったです」


「うん。僕も難しかった」


「しかし、成功しました」


「うん」


 ミリアが微笑む。


「両方の練習だったわね」


 カイが言う。


「次も行けそうか?」


 アルトは少し考えた。


「たぶん。でも、毎回三十分くらいから」


「十分だろ」


「うん」


 その時、背後から声がした。


「アルト君」


 四人が振り返る。


 ティナが小走りで近づいてきた。


 少し息を弾ませている。


「さっき言い忘れてた。今日、来てくれて本当に助かった。また誘っていい?」


 アルトは少し驚いた。


 すぐに答えられない。


 リゼは口を出さない。


 ミリアも待っている。


 カイも黙っている。


 アルトは自分で言った。


「うん。予定が合えば」


「よかった」


 ティナは笑った。


 それから、ふとリゼを見た。


「あの、グレイスさん」


「はい」


「今日、少し離れて見てましたよね」


「はい」


「アルト君の護衛……じゃなくて」


 ティナは言葉を探した。


 リゼは静かに待つ。


 アルトも少し緊張する。


「えっと、アルト君の何なんですか?」


 その問いは、真っ直ぐだった。


 悪意はない。


 ただ、不思議に思ったから聞いている。


 だが、空気は一瞬で変わった。


 護衛。


 友人。


 同級生。


 リゼは何なのか。


 アルトにとって。


 リゼ自身にとって。


 リゼはすぐに答えられなかった。


 護衛です。


 そう言うのは事実に近い。


 しかし、言えない。


 友人です。


 それも事実になり始めている。


 だが、それだけでは説明できない。


 アルトはリゼを見る。


 ミリアも。


 カイは「友達だろ」と言いかけたが、ミリアが視線で止めた。


 リゼは口を開いた。


「私は」


 言葉が止まる。


 夕方の風が制服の裾を揺らす。


 不規則に揺れる布。


 けれど、今は誰かが背後にいるわけではない。


 ただの風。


 アルトが昨日言ったように。


 カーテンが揺れているだけ。


 リゼはゆっくり息を吸った。


「私は、アルトさんの」


 護衛。


 同級生。


 友人。


 どれも正しい。


 どれか一つでは足りない。


 答えを探す間、ティナは不思議そうに待っていた。


 アルトも、リゼの答えを待っていた。


 リゼはまだ、答えられなかった。


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