第3章 第2話:友達の作法
翌朝、リゼ・グレイスは机の上に一枚の紙を置いていた。
題名は、昨日より少しだけ修正されている。
友人関係における基本行動指針。
その文字には、横線が引かれていた。
下に、新しい題名が書かれている。
友達の作法。
作法。
その方が、ミリアの説明に近い気がした。
計画ではなく、作法。
任務ではなく、関係。
命令ではなく、習慣。
リゼはペンを持ち、紙の上へ項目を書き出す。
一、挨拶。
二、雑談。
三、食事。
四、好きなものの共有。
五、相手の話を聞く。
六、話したくなさそうな時は待つ。
七、危険がある場合は確認。
八、確認しすぎない。
九、嬉しい時は、必要に応じて共有。
十、焼き菓子は有効。
十番目を書いたところで、背後から声がした。
「リゼさん」
「はい」
「また何か書いているわね」
ミリア・ファルネーゼは、寝台脇で髪を梳きながらこちらを見ていた。
朝の光が金色の髪に差し込み、柔らかく揺れている。彼女はすでに制服に着替えていたが、リボンはまだ結んでいない。
リゼは紙を持ち上げる。
「友達の作法です」
ミリアの表情が、昨日と同じように少し固まった。
「見せて」
「はい」
リゼは紙を差し出した。
ミリアは紙を受け取り、一つずつ項目を読む。
一、挨拶。
二、雑談。
三、食事。
四、好きなものの共有。
そこまでは、まだ穏やかな顔だった。
八、確認しすぎない。
九、嬉しい時は、必要に応じて共有。
十、焼き菓子は有効。
そこで、ミリアは口元を押さえた。
「笑っていますか」
「少し」
「不適切ですか」
「不適切ではないわ。むしろ、昨日よりだいぶ良くなっている」
「改善しましたか」
「ええ。護衛計画から、少しだけ友達の練習帳になったわ」
「練習帳」
「そう。あなたらしくて、悪くないと思う」
ミリアは紙を机へ戻した。
「ただし、一つ注意」
「はい」
「友達の作法は、相手によって変わるわ」
「個別最適化が必要ということですか」
「その言い方は少し硬いけれど、そうね。アルトさんにはアルトさんとの距離がある。カイさんにはカイさんとの距離がある。私との距離も違う」
「距離」
「ええ。物理的な距離だけではなく、言葉の距離、沈黙の距離、踏み込んでいい場所」
リゼはその言葉を記憶する。
言葉の距離。
沈黙の距離。
踏み込んでいい場所。
戦場では、距離は命に直結した。
敵との距離。
味方との距離。
射程。
退避距離。
爆風範囲。
だが、ミリアの言う距離はそれとは違う。
近すぎても傷つける。
遠すぎても届かない。
そして、その距離は相手によって変わる。
「難しいです」
リゼが言うと、ミリアは微笑んだ。
「だから練習するの」
「はい」
「今日の目標は?」
リゼは紙を見る。
「雑談」
「よろしい」
「雑談の定義は、目的達成のためではない会話」
「合っているけれど、そう言うと難しく聞こえるわね」
「では」
「今日は、好きなもの、苦手なもの、授業の感想。そういう話でいいわ」
「授業の感想」
「ええ。たとえば、王国史は眠くなるとか、魔術理論は難しいとか」
「それは教師への評価ですか」
「友達同士の感想よ」
リゼは少し考えた。
授業の評価。
友達同士の感想。
違いは曖昧だ。
だが、今日はそれを学ぶ日なのだろう。
「了解しました」
リゼは紙へ書き足した。
十一、授業の感想を共有。
ミリアがその文字を見て、肩を揺らして笑った。
「今日はそれでいいわ」
中庭へ向かうと、アルトは噴水の近くで待っていた。
昨日より少しだけ早い。
左手首には布が巻かれている。銀環痕は見えないが、リゼはその下の文字が濃くなっていることを知っている。
彼は三人に気づくと、少し表情を緩めた。
「おはよう」
「おはようございます」
リゼは昨日の反省を踏まえ、まず挨拶を返した。
一拍。
「体調は」
アルトは小さく笑った。
「今日もその順番なんだね」
「挨拶を優先しました」
「うん。わかった」
アルトは自分の左手首へ触れる。
「眠れた。夢は少し。白鐘礼拝堂じゃなくて、紙が干してある場所だった。水車の音がした。痛みなし、熱なし。朝食はパン一つとスープ半分。気分は……普通、かな」
「普通」
リゼはその言葉に少し反応した。
「良い状態ですか」
「たぶん。怖さもあるけど、今日は普通に近い」
ミリアが微笑む。
「普通に近い朝、いいわね」
「うん」
カイは少し遅れてやってきた。
今日は足音が比較的静かだった。
「おはよう」
声も抑えられている。
リゼは評価する。
「足音、声量ともに改善しています」
「朝から評価かよ」
「良い評価です」
「ならいいか」
カイは納得した。
アルトが笑う。
朝の鐘が鳴った。
鐘楼から澄んだ音が広がり、空気を震わせる。
アルトの左手首が淡く光る。
以前より少し強い。
だが、昨日と同程度。
安定している。
「痛みは」
リゼが尋ねる。
「なし」
「熱は」
「少し」
「声は」
「なし」
「現在地は」
アルトは目を閉じた。
「学園中庭。朝。噴水近く。リゼさんが左、ミリアさんが右、カイが前」
カイがすぐに言う。
「今日は前じゃないだろ」
「少し前だよ」
「まじか」
「自然に出ています」
リゼが補足する。
「護衛配置だな」
「目立たないように改善が必要です」
「はいはい」
ミリアが笑う。
「感情は?」
アルトは少し考えた。
「少し怖い。でも、普通」
「普通が戻ってきているのね」
ミリアが言う。
アルトは頷いた。
「うん。たぶん」
四人は第一校舎へ向かって歩き始めた。
リゼは左隣を維持しながら、昨日と今日の差を観察する。
アルトは昨日より周囲を見ている。
鐘楼だけではなく、花壇、校舎、歩いている生徒、図書館塔の柱廊。
危険確認ではなく、景色を見ているようだった。
それは良い兆候かもしれない。
ただし、注意散漫とも取れる。
いや、普通の学生は景色を見るものなのだろう。
リゼは判断を保留した。
第一校舎へ入る前、ミリアが言った。
「今日は、友達の作法を練習しましょう」
アルトが目を瞬く。
「作法?」
「ええ。リゼさんが今朝、作法表を作っていたの」
「作法表?」
アルトがリゼを見る。
リゼは正直に答えた。
「友達の作法です。昨日の護衛計画から修正しました」
アルトは少しだけ笑いをこらえた。
「見たい」
「現在は試作段階です」
「見たいな」
「放課後に共有可能です」
カイが言った。
「友達に作法なんかいるか?」
「カイさんにも声量の作法が必要です」
ミリアがすかさず言う。
「それは別だろ」
「同じく練習です」
カイは少し不満そうにしたが、反論しなかった。
アルトは楽しそうに笑った。
授業が始まると、ミリアの言う「雑談の練習」が思ったより難しいことがわかった。
午前の一時間目は王国史。
ロウ教師は西方戦争後の地方統治について講義した。
王宮管理地。
戦後処理。
貴族家の再編。
その言葉に、アルトの左手首は何度か弱く反応した。
しかし、強いものではない。
机の下で小さく合図。
痛みなし。
熱、微弱。
声なし。
リゼは頷く。
授業が終わった休み時間、ミリアが小声で言った。
「では、授業の感想」
リゼは少し姿勢を正した。
「王宮管理地の説明は、アルトさんの旧領と関連します」
「それは調査報告ね」
「違いましたか」
「感想よ」
「感想」
リゼは考える。
「情報量は有用でした」
「まだ報告寄りね」
アルトが小さく笑った。
「僕は、少し嫌だった」
その言葉で、リゼとミリアはアルトを見る。
アルトは左手首に触れながら続けた。
「王宮管理地って言葉を聞くと、自分の家がどこかの書類の中に入れられている気がする。でも、授業として聞くと、皆にとってはただの歴史なんだなって思った」
ミリアは静かに頷く。
「それは、苦しかったわね」
「うん。でも、前よりは大丈夫だった」
リゼは記録したい衝動を抑える。
雑談の練習。
今は会話を続ける。
「私は」
リゼは慎重に言った。
「王宮管理地という言葉を聞くと、情報が整理されているようで、実際には多くのものが隠されると感じます」
アルトが少し驚いた顔をする。
「それ、感想だと思う」
「成功ですか」
「うん。たぶん」
ミリアも微笑んだ。
「良い感想ね」
カイが後ろの席から身を乗り出す。
「俺は眠かった」
ミリアが即座に振り返る。
「それも感想ではあるけれど、もう少し何かないの?」
「王宮の話はややこしい」
「それはそうね」
「あと、ロウ先生は声が眠くなる」
その瞬間、教室前方で書類を整理していたロウ教師が顔を上げた。
カイが固まる。
ロウ教師は淡々と言った。
「ロックハート君。次回から、眠くならないよう前列へ」
「……はい」
アルトは必死に笑いをこらえた。
リゼは真剣に言う。
「授業の感想は、教師がいる場所では注意が必要ですね」
「それは今学ぶことじゃないだろ」
カイが小声で嘆いた。
二時間目の魔術理論では、属性魔力の流れについて学んだ。
アルトはまだ実習を制限されているため、見学と記録が中心だった。
授業後、ミリアがまた言った。
「感想」
今度はアルトが少し考えた。
「魔術の流れって、見えないから難しい。でも、銀環の熱はわかるから、似ているのかもしれないと思った」
リゼは頷く。
「身体感覚による魔力把握。参考になります」
「それは感想?」
「半分は分析です」
「リゼさんらしい」
カイは前列でぐったりしていた。
「俺は魔術より剣の方がいい」
「カイさんはそうでしょうね」
ミリアが言う。
「魔術も使えたら便利だろうけど、詠唱してる間に殴った方が早い」
「その発想は魔術教師には見せない方がいいわ」
アルトが笑う。
リゼはカイの言葉を聞きながら、少し考えた。
「私は、魔術理論は手順が明確で理解しやすいです。ただし、感覚に依存する部分は不確定性が高く、不安定です」
ミリアが微笑む。
「かなり感想らしくなってきたわ」
「そうですか」
「ええ」
アルトはリゼを見た。
「リゼさんにも、難しい授業ってあるんだね」
「あります」
「何が難しい?」
リゼはすぐ答えられなかった。
戦術理論。
武器学。
歴史。
魔術基礎。
暗記や分析を要するものは、比較的処理できる。
だが。
「詩文読解」
リゼは言った。
ミリアが少し驚く。
「そうなの?」
「比喩表現の解釈が難しいです。文字通りに読むと、意味がずれます」
アルトは目を輝かせた。
「わかる。僕も少し苦手」
「そうですか」
「うん。月が泣く、とか書かれても、月は泣かないよね」
「はい」
リゼは強く頷いた。
「月に涙腺はありません」
カイが笑い出した。
ミリアも口元を押さえている。
アルトも笑った。
「でも、そういう話をリゼさんとできるの、少し嬉しい」
「詩文読解が苦手な点ですか」
「うん。リゼさんも苦手なものがあるんだなって」
「苦手があると嬉しいのですか」
「少し。近く感じる」
近く。
それは物理距離ではない。
リゼはその言葉を記憶した。
苦手の共有により心理距離が近づく可能性。
記録したい。
後で。
昼休み。
四人は中庭の休憩席へ向かった。
今日は風が穏やかで、噴水の水しぶきが光っている。
カイは売店へ行く前に、ミリアへ確認した。
「普通の四人分、焼き菓子少し」
「ええ」
「果実水は濃い方?」
アルトが冗談めかして聞く。
「売店に言ってみる」
「言えるの?」
「濃いめで、って」
カイは本当に言うつもりらしく、売店へ向かった。
ミリアが少し笑う。
「売店の人が困らなければいいけれど」
リゼは席を確認する。
周囲に不審者なし。
白い制服なし。
教師の巡回あり。
危険低。
アルトは席に座り、少しだけ左手首を押さえた。
「反応ですか」
リゼが尋ねる。
「ううん。癖。今日はあまり熱くない」
「よい傾向です」
「うん」
少し沈黙が落ちた。
その沈黙は重くない。
ただ、何を話せばいいのかわからない沈黙。
アルトは思い出す。
友達の作法。
雑談。
好きなもの。
授業の感想。
「詩文読解の話、ちょっと嬉しかった」
アルトが言うと、リゼがこちらを見る。
「苦手の共有がですか」
「うん。リゼさんって何でもできるように見えるから」
「何でもはできません」
「でも、剣もできるし、観察もできるし、記録もできるし」
「詩文読解は苦手です」
「うん」
アルトは少し笑う。
「僕は、魔術実習も苦手かも。怖いから」
ミリアが静かに聞いている。
リゼはすぐに分析しそうになり、少し止めた。
友人として聞く。
まず受け取る。
「怖いのですね」
「うん。魔力が動くと、銀環も反応するかもしれないって思う。前よりは大丈夫だけど」
「今後、実習時に事前確認を」
リゼは言いかけて止める。
護衛計画になりかけている。
アルトはそれに気づいて、少し笑った。
「言っていいよ。そういう確認は助かる」
「そうですか」
「うん。でも、怖いって言った時に、すぐ対策だけじゃなくて、怖いんだねって言ってもらえると、もっと助かる」
リゼはゆっくり頷いた。
「怖いのですね」
「うん」
「その上で、必要なら対策を考えます」
「それがいい」
ミリアが満足そうに微笑む。
「とても良い会話ね」
リゼは少しだけ姿勢を正した。
「成功ですか」
「成功です」
カイが戻ってきた。
両手にパンとスープと果実水。
果実水の瓶を掲げる。
「濃いめは無理だったけど、よく混ぜてくれた」
アルトは笑った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
四人で昼食を取る。
昨日と同じようで、少し違う。
今日は授業の感想を話した。
詩文読解が難しいこと。
魔術実習が怖いこと。
カイが前列送りになったこと。
ロウ教師の声が眠くなることは、もう言わない方がいいこと。
そのどれもが、事件の核心には関係ない。
王宮も、銀環も、白鐘礼拝堂も、封信蔦も出てこない。
それなのに、アルトの左手首は昼食の途中で何度か淡く光った。
痛みはない。
声もない。
熱は少しだけ。
感情は、安心と嬉しさ。
「嬉しい時用」
カイがまた焼き菓子を渡す。
「毎回くれるね」
「効くからな」
ミリアが笑う。
「そろそろ本当に記録されるわね」
「もうされています」
リゼが言うと、カイは少し誇らしげになった。
「俺の焼き菓子、術式対策だな」
「精神安定補助です」
「かっこよさが減った」
「でも重要です」
「ならいい」
午後の授業後、四人は図書館塔へは向かわず、中庭の木陰に集まった。
ミリアが言った。
「今日は“友達の作法”の続きとして、好きなものだけでなく、苦手なものも話してみましょう」
アルトが少し緊張した顔をする。
「苦手なもの」
「嫌なら言わなくていいわ。軽いものからでいいの。苦手な食べ物とか、授業とか、天気とか」
カイが即答した。
「長い詠唱」
「それは魔術の話ね」
「あと、薄いスープ」
アルトが笑う。
「カイらしい」
「お前は?」
カイが尋ねる。
アルトは少し考えた。
「苦い薬」
「それは誰でも苦手だろ」
「あと、人にじっと見られること」
その言葉で、リゼの意識が鋭くなる。
アルトはすぐにリゼを見る。
「前よりは大丈夫。リゼさんの確認は嫌じゃない。でも、知らない人に見られると、王宮の人かなって思う時がある」
ミリアが頷く。
「それは苦手というより、怖いに近いわね」
「うん。怖い」
リゼは言った。
「私は今後、直接注視を減らします」
「もう減らしてくれてるよね」
「はい」
「ありがとう」
「どういたしまして」
ミリアが言う。
「私は、突然大声を出されるのが苦手かしら」
カイが気まずそうにする。
「俺か?」
「あなた限定ではないけれど、あなたも含むわ」
「悪い」
「最近は良くなっているわ」
「ならいいか」
「完全ではないけれど」
「そこまで言うか」
アルトが笑う。
リゼは自分の番になり、少し考えた。
苦手なもの。
詩文読解。
不明情報。
命令系統の隠蔽。
背後から近づく足音。
雨の匂い。
ヴァルム補給線。
それらは軽い話題ではない。
まずは、軽いもの。
「不規則に揺れるカーテン」
三人がリゼを見る。
カイが首を傾げる。
「カーテン?」
「風で揺れた時、背後に人がいる可能性を考えます」
「それ、苦手っていうか警戒だろ」
「該当します」
ミリアが少し切なそうに微笑んだ。
「リゼさんらしいけれど、少し悲しいわね」
「悲しいですか」
「ええ。でも、教えてくれてありがとう」
リゼは少し戸惑う。
苦手なものを言っただけで、感謝される。
情報共有だからか。
いや、ミリアの言う感謝は、それだけではなさそうだった。
アルトは静かに言った。
「じゃあ、風が強い日は教えるね」
「何をですか」
「カーテンが揺れてるだけだよって」
リゼは一瞬、返答に迷った。
必要ない。
そう言いそうになった。
だが、必要かどうかではない。
友達の作法。
相手の苦手を覚える。
それに対して、何かしたいと思う。
「お願いします」
リゼは答えた。
アルトは少し嬉しそうに頷いた。
その時だった。
「アルト君」
少し離れた場所から声がした。
四人が振り返る。
同じ一年C組の男子生徒が立っていた。
名前は、ノエル・バートン。
小柄で、丸い眼鏡をかけている。魔術理論の成績が良く、授業中によく教師に質問している生徒だ。
その隣には、同じく一年の女生徒、ティナ・ベル。
明るい茶髪を肩のあたりで切り揃え、いつも数人の友人と一緒にいる。
二人とも、少し緊張した顔をしていた。
アルトは戸惑いながら返事をする。
「何?」
ノエルが手に持っていた教科書を少し持ち上げる。
「今日の魔術理論の課題なんだけど、放課後に何人かでやる予定なんだ。アルト君も、よかったら一緒にどうかなって」
アルトは目を瞬いた。
「僕?」
「うん。見学だったけど、ノートが丁寧だったから。あと、ロウ先生の王国史のまとめも見やすいって聞いた」
「誰から?」
アルトが驚く。
ティナが笑う。
「隣の席の子。アルト君、字が綺麗なんだって」
アルトは返答に困った。
誘われている。
四人以外の同級生に。
課題を一緒にしようと。
それは、昨日まで考えていた友達の作法の延長にあるものかもしれない。
けれど、同時に怖い。
リゼたちから少し離れることになる。
知らない人に見られる。
左手首のことを聞かれるかもしれない。
リゼは即座に周囲を確認した。
ノエル、ティナ。
敵意なし。
手元に教科書。
後方にもう二人、同級生らしき生徒。
場所は放課後の課題会。
危険は低から中。
ただし、アルトの心理的負荷。
護衛距離の調整が必要。
リゼは同行を提案しようとした。
だが、その前にミリアがそっとリゼの袖を摘んだ。
止める合図。
アルトの選択を待つ。
リゼは口を閉じた。
アルトは少しだけリゼを見た。
リゼは頷かない。
代わりに、待った。
アルト自身が決めるために。
アルトはノエルへ向き直った。
「今日は、少し考えてもいい?」
ノエルはすぐに頷く。
「もちろん。無理にじゃないよ。場所は図書館塔の一階の大机。人も多いし、短い時間だけだから」
人が多い。
大机。
開けた場所。
その条件なら、護衛面でも悪くない。
ティナが少し笑って言う。
「リゼさんたちも一緒でもいいよ。ただ、課題会だから、あまり怖い顔で見張られると緊張するかも」
カイが小声で吹き出す。
リゼは真剣に受け取った。
「表情の調整が必要ですか」
ティナは一瞬固まり、それから笑った。
「えっと、たぶん?」
ミリアが柔らかく場を収める。
「お誘いありがとう。アルトさんと相談して、返事をするわ」
「うん。待ってるね」
ノエルとティナは軽く手を振り、去っていった。
アルトはその背中を見送っていた。
左手首が微かに光っている。
リゼは尋ねる。
「痛みは」
「なし」
「熱は」
「少し」
「声は」
「なし」
「感情は」
アルトは少し困ったように笑った。
「嬉しい。怖い。どうすればいいかわからない」
ミリアが静かに言う。
「それも、友達の作法の一つね」
「誘われること?」
「ええ。四人以外の距離」
リゼはアルトを見る。
アルトの世界が広がる。
それは危険を増やす。
だが、世界が広がること自体を止めるなら、王宮と同じ過ちに近づく。
昨日、第2章から何度も学んだ。
本人抜きで決めない。
孤立させない。
囲い込みも避ける。
「条件を設定すれば、参加可能です」
リゼは言った。
アルトはリゼを見る。
「条件?」
「開けた場所。時間制限。事前に左手首について聞かれた場合の返答を決める。私たちは近くにいますが、過度に接近しません」
ミリアが微笑む。
「いい提案ね」
カイが腕を組む。
「俺は外で見る」
「突撃前に確認してください」
「わかってる」
アルトは少しだけ笑った。
「まだ行くって決めたわけじゃないよ」
「はい」
リゼは頷いた。
「決定はアルトさんです」
アルトはしばらく考えていた。
怖い。
でも、嬉しい。
四人以外の誰かが、自分を課題会に誘ってくれた。
護衛対象でも、鍵でも、エルディアでもなく。
ノートが丁寧な同級生として。
それは、とても小さくて、とても大きなことだった。
「行ってみたい」
アルトは言った。
声は少し震えていた。
「でも、今日は不安だから、短い時間だけ」
「可能です」
リゼはすぐに答えた。
「時間は?」
ミリアが尋ねる。
「三十分」
アルトは言った。
「最初は三十分」
「妥当です」
リゼが頷く。
カイが言う。
「終わったら飯……じゃないな。菓子食えばいい」
「また焼き菓子?」
「成功したら成功用」
アルトは笑った。
「用途が増えたね」
夕鐘が鳴った。
アルトの左手首が光る。
今日の光は、少し揺れていた。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
「現在地は」
リゼが尋ねる。
「学園中庭。夕方。リゼさん、ミリアさん、カイといる。さっき、課題会に誘われた」
「感情は」
ミリアが聞く。
アルトは深く息を吸った。
「怖い。でも、少し楽しみ」
その言葉に、銀環の光が少しだけ弱まった。
リゼはその様子を見て、記録した。
恐怖と楽しみが同時に存在。
未知の関係への接近。
銀環は強反応せず。
良好。
夜。
三〇七号室で、リゼは友達の作法の紙を更新していた。
十一、授業の感想を共有。
十二、苦手なものを共有。
十三、相手の苦手を覚える。
十四、四人以外の関係拡張時は本人意思を最優先。
十五、見守る距離を調整。
十六、表情の調整。
ミリアが横から覗き込む。
「表情の調整、入れたのね」
「ティナさんから指摘されました」
「ええ。リゼさんは真剣な顔が少し怖いもの」
「どの程度ですか」
「相手によるけれど、初対面なら八割怖いわ」
「改善困難です」
「少しずつでいいわ」
リゼはペンを置いた。
今日の記録も開く。
友達の作法、二日目。
授業の感想共有。
アルトさん、王宮管理地の言葉に不快感。
自分、王宮管理地は整理と隠蔽を同時に行うと感想。
詩文読解が苦手と共有。
アルトさんも比喩表現が苦手。
心理距離が近づいた可能性。
苦手なもの共有。
アルトさん、人にじっと見られること。
自分、不規則に揺れるカーテン。
アルトさん、風が強い日はカーテンが揺れているだけだと教えると発言。
四人以外の同級生、ノエル・バートン、ティナ・ベルより課題会の誘い。
アルトさん、嬉しい、怖い、どうすればいいかわからないと申告。
本人意思、行ってみたい。
条件付き参加を検討。
リゼはそこまで書き、少しだけ止まった。
今日、アルトの世界は少し広がった。
それは危険でもある。
しかし、嬉しいことでもある。
自分は最初、同行しようとした。
ミリアに止められた。
もし止められなければ、アルトの選択を待たずに護衛方針を決めていたかもしれない。
それは、王宮と同じ過ちへ近づく。
リゼは余白に書いた。
友人を守ることは、世界を狭めることではない。
安全な形で世界が広がる方法を考えること。
ミリアがその文を見て、静かに頷いた。
「とても大事ね」
「はい」
「明日は、リゼさんにとっても練習になるわ」
「見守る練習ですか」
「ええ。それと、怖い顔をしない練習」
「難度が高いです」
「頑張りましょう」
リゼは頷いた。
同じ頃、男子寮でアルトは紙片を書いていた。
今日、ノエル君とティナさんに課題会へ誘われた。
嬉しかった。
怖かった。
どうすればいいかわからなかった。
リゼさんは条件を考えてくれた。
ミリアさんは、僕が決めるのを待ってくれた。
カイは、成功したら焼き菓子と言った。
行ってみたい。
でも、怖い。
四人以外の人と話すのは、少し怖い。
でも、僕のノートが丁寧だと言ってくれた。
鍵でも、王宮でも、銀環でもなく。
同級生として誘われた。
それが嬉しかった。
アルトはペンを止めた。
左手首が少しだけ温かい。
安心ではない。
不安だけでもない。
新しい場所へ踏み出す前の、落ち着かない熱。
彼は小さく言った。
「現在地は、男子寮の自室。夜。明日は課題会に行くかもしれない。リゼさんたちは近くにいる。でも、僕が決める」
銀環の熱は少しだけ下がった。
アルトは紙片を折り、引き出しへしまう。
窓の外には、夜の鐘楼が静かに立っている。
怖いことは、まだ多い。
王宮からの返答も来る。
王の影も消えていない。
クラウスの話も、白鐘礼拝堂も、母のことも、まだわからない。
でも明日は、課題会がある。
魔術理論の課題を、同級生と一緒にする。
それだけのことが、今のアルトには小さな冒険のように思えた。
彼はベッドに横になり、目を閉じた。
夢の中で鐘が鳴るかもしれない。
白鐘礼拝堂が見えるかもしれない。
けれど、今夜はそれより先に、昼間の会話が浮かんだ。
月に涙腺はありません。
そう真面目に言ったリゼの顔。
アルトは布団の中で小さく笑った。
その笑いと一緒に、眠気がゆっくり降りてきた。




