第2章 第7話:白い制服の上級生
翌日の朝、アルトはいつもの時間に来た。
男子寮から続く石畳の道を、少しゆっくり歩いてくる。右肩の動きは前より滑らかになっている。左手首には、変わらず布が巻かれていた。
昨日の朝、彼は来なかった。
木立の奥で一人になっていた。
怒った。
リゼに向かって、初めて強い声を出した。
僕は記録じゃない。
荷物じゃない。
鍵でもない。
護衛対象だけでもない。
その言葉は、リゼの中に残っていた。
だから今朝、アルトがいつもの道に現れたことを確認した瞬間、リゼは自分でも気づかないほど小さく息を吐いた。
ミリアが隣で微笑む。
「来たわね」
「はい」
「安心した?」
「状況が安定しました」
「そういうことにしておきましょう」
アルトは三人の前で立ち止まる。
「おはよう」
「おはようございます」
リゼが返す。
ミリアも柔らかく言った。
「おはよう、アルトさん」
カイは少し気合を入れたように背筋を伸ばした。
「おはよう」
声は低い。
足音も昨日より抑えられていた。
アルトはそのことに気づいたのか、少し笑った。
「カイ、静か時間?」
「おう。訓練中だ」
「成果が出ています」
リゼが言うと、カイは満足げに頷いた。
「だろ」
ミリアがすかさず付け加える。
「ただ、今の“だろ”は少し大きかったわ」
「厳しいな」
「必要です」
リゼとミリアの声が重なる。
アルトが小さく笑った。
昨日の痛みは消えていないはずだ。
紙片の一文は、彼の胸に残っているはずだ。
それでも、彼は笑った。
リゼはその笑みを確認してから尋ねる。
「体調は」
アルトは自分の左手首を軽く押さえた。
「眠れた。夢は見たけど、昨日より遠い。手首は熱なし。痛みなし。朝起きた時の光も弱かった。気分は……まだ重いけど、昨日より息はできる」
「一人時間の効果が継続している可能性があります」
「たぶん、あると思う」
アルトはそう言ってから、少しだけリゼを見る。
「昨日は、ありがとう。距離を取ってくれて」
「必要な調整です」
リゼは答えた。
それから、少し迷って言い足す。
「あなたが戻ってきたので、成立しました」
アルトは一瞬目を丸くした。
それから、小さく頷く。
「うん。戻るよ」
朝の鐘が鳴った。
いつもの澄んだ音が、学園の空へ広がっていく。
アルトの左手首が布の下で淡く光る。
四人はもう、その反応に慌てなくなっていた。
慣れたわけではない。
軽視しているわけでもない。
ただ、確認する順番ができた。
「痛みは」
リゼが尋ねる。
「なし」
「熱は」
「少し」
「声は」
「なし」
「感情は」
アルトは少し考えた。
「今日は、不安が少し。でも、昨日より静か」
「記録します」
ミリアが頷く。
「いい傾向ね」
カイが小声で言う。
「朝飯は食ったか」
「食べた。パン一つとスープ」
「昨日よりいいな」
「うん」
アルトは少し照れたように笑った。
リゼは歩き出す。
位置はいつもの通り。
アルトの左隣にリゼ。
右側にミリア。
外側にカイ。
完全な護衛隊列ではない。
けれど、四人で歩く形は自然になりつつあった。
石畳を進みながら、アルトがふと言った。
「昨日、一人時間の後に思ったんだけど」
「はい」
「一人になりたい時って、一人にされたいわけじゃないのかもしれない」
リゼはその言葉の意味を考えた。
「矛盾しています」
「うん。自分でもそう思う」
アルトは苦笑する。
「でも、完全に放っておかれると怖い。近すぎると苦しい。だから、見えるところにいてほしい。でも、見つめ続けられると落ち着かない」
ミリアが静かに頷く。
「とても自然なことだと思うわ」
「自然?」
「ええ。人との距離って、近ければいいわけでも、遠ければいいわけでもないもの」
カイが腕を組む。
「難しいな」
「あなたは近すぎることが多いから、覚えておくといいわ」
「俺か?」
「ええ」
カイは少し考え、真面目に頷いた。
「わかった」
リゼはアルトの言葉を記憶した。
完全に放置されると怖い。
近すぎると苦しい。
見えるところにいてほしい。
見つめ続けられると落ち着かない。
護衛距離の再定義が必要。
視界内。
非注視。
即応可能。
本人の選択を保持。
難しい。
だが、必要。
第一校舎へ近づいた時、リゼは視線を感じた。
正面ではない。
左前方、図書館塔の柱廊。
白い制服。
淡い金髪。
以前見た女生徒。
彼女は柱の影からこちらを見ていた。
隠れているというより、見える位置に立っている。
観察。
警告。
あるいは、意図的な接触準備。
リゼは足を止めなかった。
止まればアルトが気づく。
いや、アルトはすでに気づいていた。
彼の歩幅がわずかに乱れた。
ミリアも気づく。
カイは少し遅れて視線を向けた。
「昨日の白い制服」
カイが小声で言う。
「はい」
リゼは女生徒を観察した。
背筋が伸びている。
姿勢に隙が少ない。
貴族的な教育を受けている可能性。
生徒会補佐章。
王宮推薦枠の可能性。
年齢は二年または三年。
敵意は薄いが、こちらを確実に認識している。
女生徒はゆっくり会釈した。
アルトへ。
次にリゼへ。
そして、そのまま柱廊の奥へ消えた。
追うべきか。
リゼは一瞬判断する。
朝。
授業前。
アルト同行中。
分断不可。
追跡せず。
「追いません」
リゼが言うと、カイは驚いたように見る。
「何も言ってないぞ」
「言いそうでした」
「……言いそうだった」
カイは素直に認めた。
ミリアが少し険しい表情で言う。
「あの制服、本当に何者かしら」
「本日中に確認します」
リゼは答えた。
アルトは柱廊の奥を見つめていた。
「僕を見ていた」
「はい」
「怖い、というより……またか、って思った」
その言葉に、リゼは少し胸の奥が重くなった。
またか。
アルトは、自分を知る者が現れることに慣れすぎている。
それは危険だ。
殺意に慣れると、生きたい理由を忘れる。
かつて自分が言った言葉を、リゼは思い出す。
「慣れるべきではありません」
リゼは言った。
アルトは少し驚いて彼女を見る。
「はい」
「誰かに見られ、知られ、利用されることを、当然にしないでください」
アルトは黙った。
それから、静かに頷く。
「うん」
ミリアがリゼを見る。
今の言葉は、少し柔らかかった。
授業は平穏に進んだ。
ただし、リゼの意識は白い制服の女生徒に向いたままだった。
午前の魔術理論の授業中、リゼはノートの端に特徴を書き出す。
白い制服。
生徒会補佐章。
淡金髪。
身長、ミリアより少し高い。
姿勢、貴族または宮廷教育。
視線、アルトとリゼ。
会釈。
接触せず。
ユリウスとの関連要確認。
ミリアが横から紙片を寄越した。
昼休みに生徒会名簿を確認しましょう。
リゼは頷いた。
カイは授業中に眠りかけ、リゼに視線だけで起こされた。
彼は慌てて背筋を伸ばす。
アルトはいつもより静かだった。
白い制服の女生徒を気にしているのだろう。
左手首の反応はない。
だが、指先が時々布に触れる。
リゼはその回数を数えかけ、途中でやめた。
見つめ続けられると落ち着かない。
今朝のアルトの言葉。
観察は必要。
しかし、注視は圧になる。
リゼは窓の反射だけで確認することにした。
昼休み。
四人は図書館塔へ向かった。
いつもの閲覧席ではなく、今日は一階奥の掲示板前へ向かう。
そこには生徒会関連の告知、補佐役一覧、委員会活動予定が貼られている。
ミリアが掲示を確認する。
「生徒会補佐は三年生が中心ね。王宮推薦枠と成績優秀者、それから各家の推薦者」
カイが覗き込む。
「字が小さい」
「読む努力をしてください」
リゼが言う。
「してる」
アルトは少し離れて立っている。
人目がある場所なので、手首の布を強く押さえないよう意識しているようだった。
リゼは掲示板を確認した。
白い制服の女生徒に近い特徴。
淡金髪。
生徒会補佐。
三年生。
該当者は二名。
エレオノーラ・ヴィンスフェルト。
サリア・ローレン。
ミリアが小さく息を呑んだ。
「ヴィンスフェルト……」
「知っていますか」
リゼが問う。
「王宮文官家系よ。代々、王宮記録院や監察系統に人を出している家。エインズワース家ほど表舞台には出ないけれど、情報を扱う家として有名だわ」
「監察系統」
アルトが反応する。
リゼは掲示を見る。
エレオノーラ・ヴィンスフェルト。
三年。
生徒会記録補佐。
王宮推薦枠。
淡金髪。
可能性が高い。
「対象はエレオノーラ・ヴィンスフェルトの可能性」
リゼが言う。
「ユリウスと同じ王宮推薦枠か」
カイが低い声で言う。
「はい」
「また王宮かよ」
アルトは黙っていた。
その表情には、怒りより疲れがあった。
王宮。
後見人。
監察。
通信制限。
学園内保護派。
引き渡し派。
そして白い制服の観察者。
アルトにとって、王宮は守るものなのか、縛るものなのか、ますますわからなくなっているはずだ。
ミリアが掲示を見ながら言う。
「ユリウス様に聞けば、何かわかるかもしれない」
「探します」
リゼが言った瞬間だった。
「探す必要はないよ」
背後から声がした。
低すぎず、高すぎない、落ち着いた声。
四人が振り返る。
白い制服の上級生が、図書館塔の入口に立っていた。
ただし、淡金髪の女生徒ではない。
銀灰色に近い薄茶の髪。
整った顔立ち。
白い制服。
胸元には生徒会補佐章と、王宮推薦枠を示す小さな銀章。
ユリウス・エインズワース。
第2章に入ってから、名前だけが出ていた上級生。
彼は穏やかに微笑んでいた。
「君たちが僕を探すより、僕が来た方が早いと思ってね」
カイが一歩前へ出ようとする。
リゼが腕で制した。
ミリアが礼儀正しく姿勢を整える。
「ユリウス・エインズワース様ですね」
「様はいらないよ、ファルネーゼ嬢。学園では一応、ただの上級生だから」
「王宮推薦枠の三年生を、ただの上級生とは呼びにくいですわ」
「では、ユリウス先輩で」
ユリウスは柔らかく言った。
視線がアルトへ向く。
「アルト・レインフォード君」
アルトの肩がわずかに強ばる。
「君と話したかった」
リゼはアルトの前に出た。
完全に遮るのではなく、半歩前。
護衛圧を抑える。
だが、即応できる位置。
「目的は」
リゼが問う。
ユリウスの視線が彼女へ移る。
「君がリゼ・グレイスさんだね」
「回答を」
「噂通り、直線的だ」
「回答を」
ユリウスは小さく笑った。
「敵意はない。少なくとも、ここで彼をどうこうするつもりはないよ」
「信用できません」
「正しい」
あっさりと肯定した。
リゼは警戒を上げる。
「では、何を」
「警告と確認」
「内容は」
ユリウスは周囲を見る。
図書館塔の入口付近には生徒がいる。
会話を聞かれる距離ではないが、完全な密談には向かない。
「ここでは少し目立つ。中庭の東側回廊へ行こう。人目はあるが、声は届きにくい」
「誘導ですか」
「そう取ってもらって構わない。ただし、君たち四人で来ていい。分断するつもりはない」
リゼは一瞬考える。
危険。
だが、ユリウスは隠れていない。
王宮推薦枠。
生徒会補佐。
人目のある場所で接触。
情報価値高。
拒否すれば、別の形で接触される可能性。
「場所を確認します」
リゼは言った。
ユリウスは少し肩をすくめる。
「もちろん」
東側回廊は、図書館塔と第一校舎をつなぐ石造りの通路だった。
柱が並び、外から中庭が見える。昼休みの生徒たちが遠くを行き交っており、完全な密室ではない。声量を抑えれば、会話は聞かれにくい。
リゼは配置を決めた。
アルトは柱を背にする位置。
ミリアは右側。
カイは外側。
リゼはユリウスとアルトの間。
ユリウスはその配置を見て、少し感心したように言った。
「よく考えられている」
「会話を」
「急かすね」
「時間が限られています」
「では本題に入ろう」
ユリウスはアルトを見た。
「君は、自分が何に巻き込まれているか、どこまで知っている?」
アルトは少し沈黙した。
リゼを見る。
リゼは頷かない。
代わりに、アルト自身の判断に任せる。
昨日の反省。
彼は護衛対象だけではない。
アルトは息を吸い、答えた。
「僕が銀環に関係していること。旧校舎の銀環室が僕に反応したこと。王宮が僕を昔から見ていたらしいこと。それから、誰かが僕を鍵と呼んでいること」
ユリウスの目がわずかに細くなった。
「思ったより知っている」
「知りたくて調べています」
「危険だ」
「それは、よく言われます」
アルトの声は静かだった。
ユリウスはしばらく彼を見ていた。
「君は、守られるだけの子ではないらしい」
「守られるだけでは、いたくありません」
その言葉に、リゼは少しだけ反応した。
昨日の言葉。
護衛対象だけではいたくない。
アルトはそれを、上級生にも言った。
ユリウスは頷いた。
「なら、少し正直に話そう。王宮は鍵の存在を忘れていない」
空気が重くなる。
カイが拳を握る。
ミリアの表情が固くなる。
アルトは目を伏せない。
「鍵とは、僕のことですか」
「その可能性が高い」
「王宮は僕をどうするつもりですか」
ユリウスはすぐには答えなかった。
少しだけ間を置く。
「王宮は一枚岩ではない。君を保護すべきだと考える者がいる。管理すべきだと考える者がいる。旧校舎の封印から遠ざけるべきだという者もいれば、逆に君を利用して封印の正体を確かめるべきだという者もいる」
アルトの顔色が悪くなる。
ミリアが低く言った。
「利用」
「言葉を飾っても仕方がない。そう考える者はいる」
カイが一歩出る。
「ふざけんなよ」
「カイさん」
リゼが制する。
カイは歯を食いしばったが、止まった。
ユリウスはカイを見る。
「怒るのは当然だ。でも、怒りで王宮は止まらない」
「だから黙ってろって言うのか」
「違う。怒るなら、相手を間違えないことだ」
ユリウスの声は穏やかだが、冷たい現実を含んでいた。
リゼは問う。
「あなたはどの立場ですか」
「学園内保護派、とでも言っておこう」
「保護派」
「君たちから見れば、管理派と大差ないかもしれないがね」
「自覚はあるのですね」
「あるよ」
ユリウスは淡く笑う。
「王宮で育つと、自分たちの言う保護が、相手から見れば監視や拘束になることくらいは学ぶ」
アルトが小さく息を吸った。
昨日の衝突と重なる言葉だった。
リゼはそれを感じる。
ユリウスは続けた。
「ただ、僕は少なくとも、君を今すぐ王宮へ引き渡すべきではないと思っている」
「なぜ」
アルトが問う。
「君が不安定だから」
リゼの視線が鋭くなる。
「危険評価ですか」
「そうだ。だが、君が思うより広い意味での危険だ」
ユリウスはアルトの左手首を見る。
「銀環の痕が出ているのだろう?」
アルトが反射的に手首を隠した。
リゼが前へ出る。
「どこで知りましたか」
「測定記録、旧校舎の反応、昨日の鐘楼付近の観測。情報はいくつかある」
「監視していた」
「否定しない」
「敵対行為です」
「見方によっては」
ユリウスは悪びれない。
それがリゼの警戒をさらに上げた。
ミリアが低く言う。
「ユリウス先輩。あなたは協力を求めに来たのですか。それとも、支配を宣言しに来たのですか」
ユリウスはミリアを見る。
「ファルネーゼ嬢は、やはり話が早い」
「答えを」
「協力を求めに来た。ただし、君たちが僕を信用しないことも前提にしている」
「賢明です」
リゼが言う。
「グレイスさんにそう言われると、少し怖いね」
「怖がる必要があります」
ユリウスは小さく笑った。
その余裕が本物なのか、仮面なのかは判断しづらい。
「白い制服の女生徒は、あなたの関係者ですか」
リゼが問う。
「エレオノーラ・ヴィンスフェルトのことかな」
「はい」
「彼女は生徒会記録補佐。王宮記録院の家の出だ。僕と同じく、学園内保護派に近い」
「監視役ですか」
「観測役、と言った方が近い」
「同じです」
「否定はしない」
カイが苛立ったように言う。
「何でも言い方変えればいいってもんじゃねえだろ」
「その通りだ」
ユリウスは頷いた。
「だから正直に言う。彼女はアルト君を見ていた。危険な反応が出た場合、生徒会経由で一部教師へ通すために」
「誰へ」
「ロウ先生、場合によっては寮母。そして、僕」
「セレスティア先生は」
リゼが問う。
ユリウスの表情が少しだけ変わった。
「彼女には直接通さない」
「理由は」
「彼女は十年前の件に近すぎる」
ミリアが息を呑む。
アルトも表情を強ばらせる。
リゼはユリウスを見た。
「あなたは十年前の事件を知っている」
「概要だけなら」
「セレスティア先生は敵ですか」
「わからない」
即答だった。
「ただ、彼女は銀環室を開けようとする側ではないと僕は見ている」
「根拠は」
「十年前、彼女は止めようとして失敗した側だから」
回廊の空気が重くなる。
セレスティア。
十年前。
戻らなかった生徒。
銀環の痕。
鍵を扉にしないで。
リゼはユリウスの言葉を記録する。
セレスティア、止めようとして失敗した側。
ただし情報源不明。
要確認。
アルトが口を開いた。
「ユリウス先輩」
「何かな」
「僕は、王宮にとって何ですか」
ユリウスはアルトを見る。
その視線は少しだけ鋭かった。
「価値ある危険物」
ミリアが眉を寄せる。
カイが怒りで一歩前へ出る。
リゼも警戒を上げた。
だが、アルトは逃げなかった。
「人間ではなく?」
「僕個人にとっては、君は人間だ」
「王宮にとっては?」
「鍵。血統保持者。封印反応体。政治的火種。場合によっては、王権に関わる証拠」
言葉が重く落ちる。
アルトは唇を結んだ。
左手首が布の下で淡く光り始める。
リゼは即座に確認したい衝動を抑えた。
見つめすぎない。
だが、見逃さない。
アルトは自分で言った。
「痛みなし。熱、少し。声なし。感情は……嫌だ」
ミリアが静かに頷いた。
「当然よ」
カイが低く言う。
「俺も嫌だ」
リゼはユリウスを見た。
「今の説明は、アルトさんへの精神的負荷が高い」
「わかっている」
「ならなぜ言う」
「嘘をつけば、彼はもっと傷つく」
ユリウスの声は静かだった。
「知らないまま守られることに、彼はもう耐えられないのだろう?」
リゼは答えなかった。
その通りだった。
だからこそ、難しい。
アルトは息を整え、ユリウスを見た。
「なら、僕も言います」
「聞こう」
「僕を、僕抜きで決めないでください」
ユリウスの目がわずかに開いた。
アルトの声は震えていた。
けれど、逃げていなかった。
「僕が鍵かもしれないのは、もうわかっています。王宮が僕を見ていたことも、たぶん本当なんだと思います。でも、僕を王宮へ連れていくとか、学園に隠すとか、封印に近づけるとか、そういうことを僕抜きで決めないでください」
カイが小さく拳を握った。
ミリアは誇らしそうにアルトを見ている。
リゼは、アルトの立つ姿を見た。
昨日、息ができないと言った少年。
今、王宮推薦枠の上級生に、自分の意思を言っている。
ユリウスはしばらく黙っていた。
やがて、深く頷いた。
「覚えておく」
「覚えるだけですか」
アルトが聞き返す。
強い。
リゼは少し驚いた。
ユリウスも同じだったのか、ほんの少し笑った。
「では、可能な限り、君に事前に伝える。決定を押しつけないよう努力する」
「可能な限り」
アルトはその言葉を繰り返す。
「リゼさんみたいですね」
リゼは瞬きした。
ミリアが小さく笑う。
カイも少しだけ空気を緩めた。
ユリウスはリゼを見る。
「君の影響かな」
「未確定です」
「そこも似ている」
ユリウスは一歩下がった。
「今日はここまでにしよう。伝えたいことは二つ。王宮内には君を狙う敵も、保護を望む者もいる。白い制服の者全てを敵と思う必要はないが、信用しすぎてもいけない」
「二つ目は」
リゼが問う。
ユリウスの表情が少しだけ険しくなる。
「黒外套は、王宮側ではない可能性が高い」
「根拠は」
「使っている術式が古すぎる。王宮監察系統の術式ではない。あれは、もっと旧いものに仕える者の手だ」
ミリアが低く言う。
「王の影……?」
ユリウスは答えなかった。
しかし、その沈黙が肯定に近かった。
「近いうちに、君の後見人が学園へ来る」
ユリウスはアルトへ言った。
アルトの顔色が変わる。
「後見人」
「表向きの後見人か、実質的な管理者かはわからない。だが、王宮内で動きがある」
「誰ですか」
「今はまだ言えない」
「また、言えない」
アルトの声に、疲れと怒りが混じる。
ユリウスは少しだけ目を伏せた。
「すまない」
「謝るなら、言ってください」
「言えば、君たちが動く。そして、動けば相手にも知られる」
リゼは問う。
「あなたは私たちを誘導しているのですか」
「半分はそうだ」
「残り半分は」
「警告している」
ユリウスは回廊の外へ視線を向けた。
「君たちは、思ったより早く核心に近づいている。だが、まだ足元が危うい。特にアルト君。孤独と自責は、銀環を強く響かせる」
アルトの手が、左手首に触れる。
「それを知っているなら」
リゼは言った。
「なぜ王宮は彼を孤独にしたのですか」
ユリウスは答えなかった。
それが答えだった。
ミリアの表情が冷える。
カイは低く呟く。
「守るの下手すぎだろ」
ユリウスは苦笑した。
「本当にね」
その言い方に、初めて自嘲が混じった。
「では、また」
ユリウスは去ろうとする。
リゼは声をかけた。
「ユリウス先輩」
「何かな」
「エレオノーラ・ヴィンスフェルトさんが次に接触する場合、正面から来るよう伝えてください。柱の影から観察されると、アルトさんの負荷が上がります」
ユリウスは少し驚いたようにリゼを見た。
それから、静かに頷く。
「伝えておく」
彼は白い制服を翻し、回廊の奥へ去っていった。
四人はしばらくその場に残った。
カイが最初に口を開く。
「腹立つやつだな」
「敵意は薄いですが、信用はできません」
リゼが答える。
「でも、情報は重要だったわ」
ミリアが言う。
「王宮内の派閥、白い制服、後見人、黒外套が王宮側ではない可能性」
アルトは黙っていた。
リゼは彼を見る。
「一人時間が必要ですか」
アルトは少し驚いた。
そして、小さく笑う。
「うん。少し」
「場所は」
「中庭の噴水横。七分」
「許可します」
リゼは言った。
言ってから、言葉を修正する。
「一緒に行きます。距離を取ります」
アルトはゆっくり頷いた。
「ありがとう」
中庭の噴水横。
昨日と同じ場所。
アルトはベンチに座った。
リゼは十五歩離れる。
ミリアは少し右。
カイは東側通路。
七分。
リゼは時間を測りながら、アルトを見る。
今日は怒っていない。
泣いてもいない。
ただ、考えている。
王宮にとって自分は何か。
価値ある危険物。
鍵。
血統保持者。
封印反応体。
政治的火種。
その言葉は残酷だった。
だが、アルトは逃げなかった。
僕を、僕抜きで決めないでください。
それは、彼の意思だった。
七分が過ぎる少し前、アルトは立ち上がった。
自分から戻ってくる。
「戻りました」
彼はそう言った。
リゼは頷く。
「確認しました」
ミリアが微笑む。
「おかえりなさい」
アルトは少しだけ照れたような顔をした。
「ただいま、でいいのかな」
カイが当然のように言う。
「いいだろ」
アルトは小さく笑った。
「ただいま」
リゼはそのやり取りを聞いた。
戻る。
おかえり。
ただいま。
帰る場所を知らないと言っていたアルトが、今ここでその言葉を使った。
記録すべきか。
いや。
これは記録だけでは足りないかもしれない。
午後の授業後、四人は基礎魔術・自習記録ノートを開いた。
今日の記録。
白い制服の女生徒。
エレオノーラ・ヴィンスフェルト可能性。
ユリウス・エインズワース接触。
王宮内派閥。
学園内保護派。
アルトへの価値評価。
黒外套、王宮外または古いもの側の可能性。
後見人来訪予告。
アルトの意思表明。
僕を、僕抜きで決めないでください。
その一文を、アルトは自分で書いた。
少し震えた字。
だが、強い字。
ミリアがその下に書く。
本人意思、最優先確認事項。
カイが横から大きめの字で書く。
勝手に決めるな。
リゼは最後に書いた。
護衛方針修正。
アルトさんの意思確認を、可能な限り全判断に含める。
リゼが書き終えると、アルトが小さく言った。
「ありがとう」
「必要です」
「うん」
アルトは少し笑う。
「でも、ありがとう」
「どういたしまして」
夕方。
男子寮への分岐点で、夕鐘が鳴った。
アルトの左手首が光る。
今日は、少し強い。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
アルトは自分から言う。
「感情は?」
ミリアが尋ねる。
アルトは鐘楼を見る。
「怖い。でも、今日は少し怒ってる」
「怒り」
リゼが確認する。
「うん。僕のことを勝手に決めようとする人たちに」
カイが笑った。
「いい怒りだ」
ミリアが頷く。
「ええ。自分を守るための怒りね」
リゼはアルトを見る。
怒りは危険な感情だ。
判断を鈍らせる。
銀環にも反応する。
だが、今日の怒りは、昨日の自責とは違う。
自分を責めるためではなく、自分を守るための怒り。
それが銀環にどう影響するかは不明。
だが、アルトの目は昨日より前を向いていた。
「記録します」
リゼは言った。
アルトは笑う。
「うん。これは記録してほしい」
夜。
三〇七号室。
リゼは今日の記録をまとめていた。
ユリウス・エインズワース。
王宮推薦枠。
学園内保護派を自称。
信用は限定。
情報価値高。
エレオノーラ・ヴィンスフェルト。
王宮記録院系。
観測役。
柱の影からの観察はアルトの負荷増。
後見人来訪予告。
黒外套は王宮側ではなく、旧いものに仕える可能性。
アルト、対外的意思表明に成功。
僕を、僕抜きで決めないでください。
自責から怒りへ一部転化。
銀環反応あり。
危険性と安定性、両面あり。
リゼはペンを止めた。
ミリアがお茶を置く。
「今日は、アルトさんが強かったわね」
「はい」
「リゼさんも、止めなかった」
「本人の意思表明は重要です」
「ええ」
ミリアは椅子に座り、少しだけ疲れたように息を吐いた。
「でも、王宮が絡むと厄介ね」
「はい」
「ユリウス先輩は、敵ではないかもしれない。でも、味方とも言い切れない」
「限定的協力者候補です」
「あなた、その分類好きね」
「便利です」
「そうね」
リゼは窓の外を見る。
鐘楼の影。
遠くの男子寮。
そして、見えない王宮。
アルトの周囲には、新しい線が増えている。
王宮。
学園。
白い制服。
セレスティア。
寮母。
黒外套。
王の影。
後見人。
多すぎる。
それでも、今日アルトは自分の言葉で立った。
それは大きい。
護衛対象ではなく、少年として。
いや。
アルトとして。
リゼは記録の最後に、小さく書いた。
アルトさんは、自分のことを自分抜きで決めるなと言った。
これは生存意志の表明である。
その下に、さらに一行だけ加える。
守る対象ではなく、共に判断する相手として扱う必要。
ペンを置く。
ミリアがそれを見て、少しだけ微笑んだ。
「進んでいるわね」
「危険も増えています」
「それでも」
ミリアは窓の外を見た。
「今日は、アルトさんが少し自分を取り戻した日だと思うわ」
リゼはその言葉を否定しなかった。
夜が深くなる。
鐘楼は静かに立っている。
いつかまた、あの鐘がアルトを呼ぶかもしれない。
王宮も、黒外套も、王の影も、彼を鍵として扱うかもしれない。
だが、今日のアルトは言った。
僕を、僕抜きで決めないでください。
リゼはその言葉を頭の中で繰り返した。
護衛とは、相手の代わりにすべてを決めることではない。
相手が自分で決めるために、生きていられるよう支えること。
まだ、うまくできるかはわからない。
けれど、今日の記録にはそう書いた。
そして、リゼはその記録を消さなかった。




