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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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21/201

第2章 第6話:一人にしないという暴力


 翌朝、アルトはいつもの場所に来なかった。


 朝の鐘が鳴る少し前。


 女子寮から第一校舎へ向かう石畳の道で、リゼは足を止めていた。隣にはミリア。少し離れたところにはカイ。三人とも、男子寮へ続く道を見ている。


 昨日までなら、アルトはこの時間には姿を見せていた。


 歩幅は少し遅く、右肩を庇い、左手首の布を気にしながら。それでも、三人に気づくと小さく手を上げて、おはよう、と言っていた。


 今日は来ない。


 遅刻。


 寝坊。


 体調不良。


 銀環痕の異常。


 敵による接触。


 単独行動。


 リゼの頭の中で、可能性が次々と並んだ。


「男子寮へ向かいます」


 リゼが言うと、ミリアがすぐに袖を掴んだ。


「待って」


「異常の可能性があります」


「そうかもしれない。でも、男子寮へ女子生徒が駆け込むのは不自然よ」


「非常時です」


「まだ非常時と確定していないわ」


「確認が必要です」


 リゼは男子寮の方へ視線を向ける。


 距離。


 経路。


 見張りの教師。


 男子寮入口。


 正面から入るのは難しい。寮母または寮監への説明が必要。カイを先行させるべきか。


 カイもすでに落ち着かない様子で足を踏み出しかけていた。


「俺が見てくる」


「待ってください」


 リゼが制する。


「あなたが単独で向かうと、アルトさんと接触しても情報伝達が遅れます」


「でも、このまま待ってても」


 カイの声が大きくなりかける。


 彼は自分で口を押さえた。


 改善している。


 だが、今はその評価をしている場合ではない。


 朝の鐘が鳴った。


 学園中に澄んだ音が広がる。


 リゼは無意識に男子寮の方を見る。


 アルトの左手首は反応したか。


 彼は一人でその光を見ているのか。


 痛みはないか。


 声は聞こえていないか。


 戻れ、と呼ばれていないか。


 昨日の夕鐘で、アルトは初めて明確に声を聞いた。


 戻れ。


 その後、彼は「少し一人になりたい」と言った。


 七分。


 視界内。


 それは成功したように見えた。


 だが、今朝来ない。


 リゼは判断する。


 待機限界。


「カイさん、男子寮入口まで確認。中には入らない。アルトさんを見つけたら状態を確認し、ここへ連れてきてください。いない場合は即時戻る。追跡はしない」


「わかった」


 カイは走り出しかけた。


「足音」


 リゼが言う。


 カイは一瞬止まり、歩幅を抑えて早歩きに変えた。


 努力はしている。


 ミリアがリゼの隣で不安そうに息を吐いた。


「昨日のこと、やっぱり負担が大きかったのかしら」


「はい」


「リゼさん」


「はい」


「自分だけを責めないでね」


 リゼはミリアを見る。


「私は昨日、適切に止められませんでした」


「全員で判断したわ」


「しかし、私は護衛者です」


「だから全部あなたの責任、ではないわ」


 ミリアの声は静かだった。


 だが、リゼの中では答えが出ていた。


 昨日、リゼは紙片を読ませた。


 一文ごとに確認するという条件で。


 結果、アルトは強い心理的負荷を受けた。


 正論は届かなかった。


 彼は一人になりたいと言った。


 そして今朝、合流地点に来ない。


 護衛失敗の可能性。


「戻ってきた」


 ミリアが言った。


 カイが早足で戻ってくる。


 その表情は険しい。


「アルト、男子寮の入口にはいなかった」


「部屋は」


「寮監に聞いた。具合が悪いから少し遅れて登校するって伝言があったらしい」


「本人から?」


「たぶん。同室の上級生経由だって」


 リゼは眉を寄せた。


 直接確認ではない。


 伝言。


 危険。


「場所は」


「中庭の方へ出たって聞いた。男子寮からじゃなく、裏の小道」


 単独行動。


 リゼは即座に動いた。


「探します」


 ミリアも続く。


「私も」


「カイさん、前方ではなく右側経路を確認。声を出さない。見つけたら笛」


「わかった」


 四人で歩くはずだった朝の道を、三人は分かれて進んだ。


 リゼは男子寮裏から中庭へ続く小道へ向かう。


 石畳ではなく、木立の間を抜ける細い道。


 人目が少ない。


 危険が多い。


 昨日、アルトが「少し一人になりたい」と言った後に座った男子寮前庭とは違う。ここは視界が悪く、木陰が多く、鐘楼裏へも旧校舎方面へも移動できる。


 なぜここへ。


 息ができないから。


 誰かに見られていると苦しいから。


 リゼは昨日のアルトの声を思い出した。


 それでも、危険だ。


 一人は危険だ。


 護衛対象が単独で死角へ入るなど、許可できない。


 リゼは足音を消し、木立の奥を進んだ。


 朝の光が葉の隙間から落ちている。鳥の声。遠くの生徒たちの話し声。鐘の余韻はもう消えていた。


 そして、噴水の裏手にある古い石のベンチに、アルトが座っていた。


 左手首を布の上から押さえ、俯いている。


 敵影なし。


 周囲の茂み、異常なし。


 上方、異常なし。


 ただし、アルトの顔色は悪い。


 リゼは一気に近づこうとして、足を止めた。


 近づきすぎない。


 昨日、学んだ。


 だが、今は単独行動中。


 危険確認が必要。


「アルトさん」


 リゼは声をかけた。


 アルトは肩を震わせ、顔を上げた。


 目元が赤い。


 眠れていない。


 泣いたのかもしれない。


「リゼさん」


 声はかすれていた。


「体調は」


 いつもの問い。


 だが、アルトは答えなかった。


 彼は視線を外し、ベンチの端に置いた小さな紙片を握った。


 リゼは数歩近づく。


「銀環痕は」


「……今は光ってない」


「痛みは」


「ない」


「声は」


「聞こえない」


「なぜ単独行動を」


 言った瞬間、アルトの表情が硬くなった。


 しまった。


 問い方が尋問に近い。


 ミリアなら、まず「心配した」と言う場面か。


 だが、言い直す前にアルトが口を開いた。


「一人になりたかったから」


「単独行動は危険です」


「わかってる」


「昨日、声が発生しました。銀環反応も強かった。今日の朝鐘でも反応したはずです。にもかかわらず、死角の多い場所へ一人で移動するのは」


「わかってるって言ってる!」


 アルトの声が、初めてリゼに向かって強くぶつかった。


 リゼは止まった。


 アルト自身も、自分の声に驚いたように息を呑む。


 それでも、彼は目を逸らさなかった。


「わかってる。危ないってことくらい、わかってるよ」


「では、なぜ」


「わかっていても、一人になりたかったんだ!」


 朝の木立が静まり返る。


 遠くで生徒たちの笑い声が聞こえた。


 ここだけが、別の空気に沈む。


 アルトは拳を握った。


「昨日から、ずっと考えてた。僕がいたら村が消されるかもしれなかったって。僕がいたから、誰かが家を捨てて、名前を消して、道を隠して、王都へ送って……そういうことを考えてた」


「それはあなたの責任では」


「それも、わかってる!」


 アルトはリゼを見た。


 目に涙は浮かんでいない。


 怒りと苦しさがあった。


「リゼさんが正しいことを言ってくれているのはわかってる。ミリアさんが優しいことを言ってくれているのも、カイが僕を気にしてくれているのも。でも、全部わかっていても、苦しいんだ」


 リゼは何も言えなかった。


「ずっと誰かに守られてきた。危ないから一人になるな。危ないから外へ出るな。危ないから聞くな。危ないから近づくな。危ないから黙っていろ」


 アルトの声が震える。


「今も同じだ。危ないから一人になるな。危ないから勝手に動くな。危ないから、危ないから、危ないから」


「それは事実です」


 リゼは言った。


 言ってから、また硬すぎると気づく。


 だが、アルトはもう止まらなかった。


「事実なら、僕の気持ちは全部後回しでいいの?」


 その言葉が、リゼの胸を打った。


 アルトは立ち上がった。


 左手首の布がわずかに光り始めている。


 感情反応。


 怒り。


 リゼは警戒を上げるが、動けない。


 動けば、さらに追い詰める。


「守るって言えば、僕の気持ちは全部後回しでいいの?」


「違います」


 リゼは即座に答えた。


「では、なぜ聞いてくれないんですか」


 アルトの声は低くなった。


「僕が一人になりたいって言った時、リゼさんは最初に危険だって言う。僕が怖いって言っても、危険情報として記録する。僕が苦しいって言っても、対処法を考える」


「必要です」


「僕は、記録じゃない」


 リゼは息を止めた。


「僕は荷物じゃない。鍵でもない。護衛対象だけでもない」


 アルトの左手首が強く光った。


 リゼは反射的に半歩踏み出す。


 アルトはその動きに気づき、身を引いた。


 その小さな後退が、リゼの足を止めた。


 怖がらせた。


 自分が。


「アルトさん」


 ミリアの声がした。


 振り返ると、木立の入口にミリアが立っていた。少し息が上がっている。カイも少し離れた場所にいるが、近づかずに止まっていた。


 ミリアはリゼではなく、まずアルトを見た。


「近づいてもいい?」


 アルトは少しだけ迷い、頷いた。


 ミリアはゆっくり歩いてくる。


 走らない。


 問い詰めない。


 リゼの隣ではなく、アルトから少し距離を取った位置で止まった。


「一人になりたかったのね」


 ミリアが言う。


 アルトは俯く。


「はい」


「それを、誰にも邪魔されたくなかった」


「……はい」


「でも、完全に一人になるのは危険」


「わかってます」


「なら、折り合いを作りましょう」


 ミリアの声は静かだった。


 怒っていない。


 責めていない。


「折り合い?」


「ええ。安全と、あなたの自由の間の折り合い」


 リゼはミリアを見る。


 安全と自由。


 護衛上は、安全を優先する。


 だが、それだけではアルトは息ができない。


 ミリアは続けた。


「ここは死角が多いわ。リゼさんが心配するのは当然よ。でも、アルトさんが一人で考える時間を欲しいと思うのも当然」


 アルトは黙って聞いている。


「だから、場所を変えましょう。中庭の見える開けた場所。人目がある。私たちは少し離れる。アルトさんは一人で座る。時間を決める。異常があれば合図する」


「昨日みたいに?」


「ええ。でも、今日は最初からアルトさんの希望として決める」


 ミリアはリゼを見る。


「リゼさんも、それならどう?」


 リゼはすぐに計算した。


 候補地。


 中庭中央の噴水横。


 人通り多。


 死角少。


 鐘楼から距離あり。


 旧校舎方面への経路は見える。


 敵接近時、視認可能。


 アルトから十歩から二十歩。


 時間管理。


 危険はある。


 だが、現在地より大幅に低い。


「可能です」


 リゼは答えた。


 アルトはリゼを見る。


 その目には、まだ怒りが残っている。


 当然だ。


 リゼは言葉を探した。


 正論ではない言葉。


 記録ではない言葉。


「私は」


 リゼは口を開いた。


「あなたを守ろうとして、息を塞いだ可能性があります」


 アルトの目がわずかに揺れた。


「すみません」


 謝罪。


 任務上の謝罪ではない。


 うまくできているかわからない。


 だが、今はそれしか言えなかった。


「ただ、危険があるのは事実です。完全に一人にすることは、まだできません」


 アルトは目を伏せた。


「はい」


「ですが、距離を取る方法を検討します」


 リゼは続けた。


「あなたが息をできる距離を」


 その言葉を言うのは、少し難しかった。


 アルトはしばらく黙っていた。


 やがて、小さく頷く。


「……お願いします」


 カイが遠くから言った。


「俺は、どこにいればいい?」


 声は抑えている。


 近づいてこない。


 彼なりに、今は踏み込まない方がいいと理解しているらしい。


 リゼは位置を指定する。


「噴水の東側。植え込みと鐘楼側の通路が見える位置。立たずに座ってください。目立ちます」


「わかった」


 ミリアがアルトへ手を差し出しかけ、途中で止めた。


「歩ける?」


「はい」


「手は?」


 アルトは少し考えた。


「今は、大丈夫……じゃなくて、自分で歩けます」


 ミリアは微笑んだ。


「よろしい」


 四人は中庭中央へ移動した。


 朝の中庭は、生徒たちが行き交っている。噴水の水音。石畳を歩く靴音。どこかで笑う声。ここなら、完全な孤独にはなれない。だが、死角の多い木立より安全だ。


 リゼは位置を決めた。


 アルトは噴水横の石ベンチ。


 リゼは十五歩離れた木陰。


 ミリアはその中間より少し右。


 カイは東側通路の近く。


 全員が互いに視界に入る。


 アルトから見ると、三人は見える。


 だが、近すぎない。


「時間は」


 リゼが尋ねる。


 アルトは少し考えた。


「十分」


「五分」


「リゼさん」


 ミリアが横から言う。


「今日は、最初から折り合いを作る練習よ」


 リゼは一拍置く。


「七分」


 アルトも少しだけ口元を緩めた。


「昨日と同じだ」


「実績があります」


「じゃあ、七分」


 アルトはベンチに座った。


 三人はそれぞれ離れる。


 リゼは十五歩の距離で立ち止まった。


 見える。


 アルトの横顔。


 左手首の布。


 呼吸。


 姿勢。


 だが、彼の表情の細部は少し読み取りにくい。


 不安。


 近づきたい。


 確認したい。


 それを抑える。


 アルトは前を向いていた。


 膝の上で両手を組み、噴水の水面を見ている。


 左手首の光は弱まっている。


 怒りが収まってきたのかもしれない。


 リゼは時間を測る。


 一分。


 二分。


 アルトは動かない。


 三分。


 彼は少しだけ肩の力を抜いた。


 四分。


 カイがくしゃみをしそうになり、必死にこらえている。


 ミリアがそれを睨んだ。


 五分。


 アルトが左手首に触れる。


 リゼは動きかける。


 だが、アルトは合図しない。


 待つ。


 六分。


 噴水の水音が続く。


 七分。


 リゼは声をかけようとした。


 その前に、アルトが立ち上がった。


 彼はこちらへ歩いてくる。


 顔はまだ疲れている。


 だが、木立で見つけた時より呼吸は落ち着いていた。


「ありがとう」


 アルトは言った。


「少し、考えられた」


「危険は」


「わかってる。でも、こういう時間がないと、僕は自分が何を考えているのかわからなくなる」


 リゼは頷いた。


「記録します」


 言ってから、少しだけ迷う。


「……記録してもいいですか」


 アルトは驚いた後、小さく笑った。


「うん。いいよ」


 その笑顔は、まだ弱い。


 だが、怒りだけではない。


 ミリアが近づいてくる。


「では、今後は“開けた場所での一人時間”を選択肢に入れましょう」


「一人時間」


 カイが戻ってきながら言う。


「俺、遠くにいる練習も必要だな」


「そうね」


 ミリアが頷く。


「あなたは近くにいると存在感が強いから」


「どういう意味だ」


「そのままの意味です」


 リゼが言う。


「お前まで」


 アルトが少し笑った。


 朝の衝突の後、初めての笑みだった。


 その笑みを見て、リゼは胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。


 しかし、完全に解決したわけではない。


 リゼとアルトの間には、今朝の言葉が残っている。


 僕は、記録じゃない。


 荷物じゃない。


 鍵でもない。


 護衛対象だけでもない。


 その言葉は、リゼの中にも残った。


 午前の授業には少し遅れた。


 ロウ教師は四人を見たが、詳しくは追及しなかった。ただ一言、「体調管理も学生の務めだ」とだけ言い、席に着くよう促した。


 授業中、リゼはノートを取っていた。


 だが、頭の半分は朝の出来事を反復している。


 守る。


 監視する。


 管理する。


 寄り添う。


 距離を取る。


 どこからが護衛で、どこからが暴力なのか。


 一人にしないことは安全だ。


 だが、一人にしないことが相手の呼吸を奪うなら。


 それは守ることなのか。


 授業の途中、ミリアから紙片が回ってきた。


 今日の昼は調査を休みましょう。


 リゼは頷いた。


 正しい。


 昨日の紙片の続きを読むべきではない。


 アルトの精神的負荷が高い。


 昼休み。


 四人は図書館塔ではなく、中庭の休憩席に集まった。


 調査なし。


 記録だけ。


 ミリアが基礎魔術・自習記録ノートを出す。


 アルトは自分の欄に少しずつ書き始めた。


 朝、一人になりたかった。


 危険だとわかっていた。


 でも、誰かに見られていると息ができなかった。


 リゼさんに怒った。


 言いすぎたかもしれない。


 でも、本当に思った。


 僕は鍵だけじゃない。


 護衛対象だけじゃない。


 七分だけ一人で座った。


 少し楽になった。


 完全に一人ではなかったけれど、自分の時間だった。


 リゼはその文章を読んだ。


 胸の奥が重くなる。


「言いすぎていません」


 リゼは言った。


 アルトが顔を上げる。


「事実でした」


「でも、きつく言った」


「必要な指摘です」


 ミリアが静かに補う。


「リゼさんは、きつく言われたから傷ついたのではなく、自分が気づけなかったことを知って苦しくなったのだと思うわ」


 リゼはミリアを見る。


 そうなのか。


 自分では判断できない。


 だが、近い気はした。


 アルトはリゼを見た。


「ごめん」


「謝罪は不要です」


「でも」


「私も謝罪しました」


「うん」


「では、相互に改善します」


 アルトは少しだけ笑った。


「リゼさんらしい」


 カイがパンを置く。


「とりあえず食おう」


「また?」


 アルトが言う。


「今日は調査しないんだろ。だったら飯くらい普通に食え」


 ミリアが頷く。


「賛成。今日は普通の昼食にしましょう」


 普通の昼食。


 リゼは周囲を確認する。


 安全完全ではない。


 だが、人目があり、席も悪くない。


「可能です」


「許可制なのかよ」


 カイが笑う。


 四人は昼食を取った。


 会話は多くなかった。


 だが、沈黙は朝のように張り詰めていない。


 カイがパンを食べすぎ、ミリアが野菜不足を指摘し、アルトが少し笑う。リゼはそれを見ながら、自分の野菜入りパンを食べた。


 午後の授業後、アルトは再び一人時間を求めた。


 今度は、最初から言った。


「七分だけ、噴水のところで座ってもいい?」


 リゼは即答しなかった。


 状況確認。


 夕方。


 人通りあり。


 朝と同じ場所。


 危険中。


 銀環反応、午前以降なし。


 体調、やや疲労。


「可能です」


 リゼは答えた。


「条件は朝と同じ」


「うん」


 アルトはベンチに座った。


 三人は離れる。


 今度は、リゼも少しだけ呼吸がしやすかった。


 待つことは不安だ。


 だが、朝よりは耐えられる。


 七分後、アルトは自分から戻ってきた。


「今日は、二回も一人時間をもらった」


「一人時間という名称で定着するのですか」


 リゼが言うと、アルトは少し笑う。


「ミリアさんが言ったから」


「では、正式名称ですね」


 ミリアが微笑む。


「そうしましょう」


 カイが腕を組む。


「俺も一人時間いるかな」


「あなたはまず静か時間です」


 ミリアが言う。


「何だそれ」


「声を抑える時間」


「訓練か」


「ええ」


 カイは真剣に考え始めた。


 アルトが笑う。


 その笑いは、昨日より弱く、朝よりは強かった。


 夕鐘が鳴った。


 アルトの左手首が光る。


 四人は自然に立ち止まる。


 アルトは目を閉じた。


「痛みなし。熱、少し。声なし」


「感情は」


 リゼが聞く。


 アルトは少し考えた。


「不安はある。でも、朝より落ち着いてる」


「一人時間の効果がある可能性」


 リゼが言う。


 ミリアが頷く。


「ええ。自分で選べたことも大きいと思うわ」


「自分で選ぶ」


 リゼは繰り返す。


 アルトは目を開けた。


「うん。危ないから駄目、じゃなくて、どうすればできるかを考えてもらえると、少し楽」


 その言葉は、リゼの中に静かに沈んだ。


 どうすればできるか。


 これまで、リゼは危険を見れば止めた。


 当然だった。


 しかし、アルトにとって必要なことが、危険を伴う場合もある。


 その時、止めるだけでは足りない。


 条件を作る。


 距離を取る。


 時間を決める。


 合図を決める。


 守りながら、本人の選択を残す。


 それが折り合い。


 ミリアが言った言葉。


 安全と自由の折り合い。


 男子寮への分岐点で、アルトは立ち止まった。


「リゼさん」


「はい」


「朝、怒鳴ってごめん」


「謝罪は不要です」


「それでも、ごめん」


 アルトは少しだけ俯いた。


「でも、言ったことは本当」


「はい」


「僕は、護衛対象だけではいたくない」


「はい」


「だから、これからも危ないことを言うかもしれない。知りたいとか、一人になりたいとか、行きたいとか」


「はい」


「その時、止めるだけじゃなくて、どうすればできるか、一緒に考えてほしい」


 リゼはアルトを見た。


 それは、任務上難しい要求だった。


 だが、もう答えは出ていた。


「努力します」


 アルトは少し笑った。


「リゼさんらしい」


「ただし、危険が高すぎる場合は止めます」


「うん」


「緊急時は強制的に退避させます」


「それも、うん」


「一人時間は、開けた場所、視界内、時間制限あり」


「わかった」


「合図を決めます」


 リゼは制服の袖から小さな笛を取り出した。


「これは緊急用です。通常時は手を上げる。異常時は声を出す。声が出ない場合は、布を外して見せてください」


 アルトは真剣に頷いた。


「わかった」


 カイが横から言う。


「俺も見る」


「あなたは飛び出す前に確認」


 リゼが言う。


「わかってるって」


 ミリアが微笑んだ。


「少しずつね」


 その言葉に、四人全員が少しだけ反応した。


 少しずつ。


 今朝は衝突した。


 怒鳴った。


 謝った。


 距離を作った。


 七分待った。


 また歩いた。


 それが少しずつなら、今日の一日も前進なのかもしれない。


 夜。


 三〇七号室で、リゼは今日の記録を書いていた。


 アルト、単独行動。


 理由、息苦しさ。


 リゼの護衛行動が監視圧となった可能性。


 衝突。


 アルト発言。


 僕は記録じゃない。


 荷物じゃない。


 鍵でもない。


 護衛対象だけでもない。


 安全と自由の折り合い。


 一人時間。


 開けた場所。


 視界内。


 時間制限七分。


 効果あり。


 自分で選べたことが心理安定に寄与。


 リゼはペンを止める。


 そして、少し離れた余白に書いた。


 一人にしないことは、安全である。


 しかし、一人にしないことが暴力になる場合がある。


 守るとは、相手の自由を全て奪うことではない。


 条件を作り、戻れる距離で待つことも含む。


 書き終えてから、リゼはしばらくその文を見ていた。


 ミリアがお茶を置く。


「今日は、大事なことを学んだ日ね」


「はい」


「苦しかった?」


 リゼは少し考えた。


「はい」


 ミリアは静かに頷いた。


「そう」


「私は、アルトさんを怖がらせました」


「でも、謝ったわ」


「謝罪で消えるものではありません」


「ええ。でも、謝らないよりずっといい」


 ミリアは向かいに座った。


「リゼさん。あなたも、守られる側の気持ちを全部知っているわけではない。アルトさんも、守る側の怖さを全部知っているわけではない。だから、ぶつかるのは当然よ」


「当然」


「ええ。大事なのは、ぶつかった後に戻ってこられるかどうか」


 リゼは今日の噴水を思い出した。


 七分後、アルトは戻ってきた。


 自分から。


 朝の怒りを抱えたまま、それでも。


「戻ってきました」


「ええ」


「では、成功ですか」


 ミリアは少し笑った。


「完璧ではないけれど、失敗でもないわ」


 また曖昧な評価。


 だが、今日のリゼには少しわかる。


 完璧ではない。


 失敗でもない。


 そういう日がある。


 見張りの前半はリゼだった。


 ミリアはベッドに入り、浅く眠り始める。


 リゼは窓際の椅子に座り、外を見た。


 夜の中庭。


 噴水は止まっている。


 昼間、アルトが座っていたベンチが見える。


 あの距離。


 十五歩。


 近すぎず、遠すぎず。


 完全に一人ではなく、それでも自分の時間を持てる距離。


 護衛距離の新しい基準。


 リゼは手元の記録に、もう一行だけ書き足した。


 アルトさんは、戻ってくる。


 だから、待つ。


 その文字を見て、彼女は静かに息を吐いた。


 戦場では、待つことは危険だった。


 だが、学園では。


 人を守るために、待たなければならない時がある。


 リゼはその事実を、夜の静けさの中で何度も確かめた。


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