第2章 第6話:一人にしないという暴力
翌朝、アルトはいつもの場所に来なかった。
朝の鐘が鳴る少し前。
女子寮から第一校舎へ向かう石畳の道で、リゼは足を止めていた。隣にはミリア。少し離れたところにはカイ。三人とも、男子寮へ続く道を見ている。
昨日までなら、アルトはこの時間には姿を見せていた。
歩幅は少し遅く、右肩を庇い、左手首の布を気にしながら。それでも、三人に気づくと小さく手を上げて、おはよう、と言っていた。
今日は来ない。
遅刻。
寝坊。
体調不良。
銀環痕の異常。
敵による接触。
単独行動。
リゼの頭の中で、可能性が次々と並んだ。
「男子寮へ向かいます」
リゼが言うと、ミリアがすぐに袖を掴んだ。
「待って」
「異常の可能性があります」
「そうかもしれない。でも、男子寮へ女子生徒が駆け込むのは不自然よ」
「非常時です」
「まだ非常時と確定していないわ」
「確認が必要です」
リゼは男子寮の方へ視線を向ける。
距離。
経路。
見張りの教師。
男子寮入口。
正面から入るのは難しい。寮母または寮監への説明が必要。カイを先行させるべきか。
カイもすでに落ち着かない様子で足を踏み出しかけていた。
「俺が見てくる」
「待ってください」
リゼが制する。
「あなたが単独で向かうと、アルトさんと接触しても情報伝達が遅れます」
「でも、このまま待ってても」
カイの声が大きくなりかける。
彼は自分で口を押さえた。
改善している。
だが、今はその評価をしている場合ではない。
朝の鐘が鳴った。
学園中に澄んだ音が広がる。
リゼは無意識に男子寮の方を見る。
アルトの左手首は反応したか。
彼は一人でその光を見ているのか。
痛みはないか。
声は聞こえていないか。
戻れ、と呼ばれていないか。
昨日の夕鐘で、アルトは初めて明確に声を聞いた。
戻れ。
その後、彼は「少し一人になりたい」と言った。
七分。
視界内。
それは成功したように見えた。
だが、今朝来ない。
リゼは判断する。
待機限界。
「カイさん、男子寮入口まで確認。中には入らない。アルトさんを見つけたら状態を確認し、ここへ連れてきてください。いない場合は即時戻る。追跡はしない」
「わかった」
カイは走り出しかけた。
「足音」
リゼが言う。
カイは一瞬止まり、歩幅を抑えて早歩きに変えた。
努力はしている。
ミリアがリゼの隣で不安そうに息を吐いた。
「昨日のこと、やっぱり負担が大きかったのかしら」
「はい」
「リゼさん」
「はい」
「自分だけを責めないでね」
リゼはミリアを見る。
「私は昨日、適切に止められませんでした」
「全員で判断したわ」
「しかし、私は護衛者です」
「だから全部あなたの責任、ではないわ」
ミリアの声は静かだった。
だが、リゼの中では答えが出ていた。
昨日、リゼは紙片を読ませた。
一文ごとに確認するという条件で。
結果、アルトは強い心理的負荷を受けた。
正論は届かなかった。
彼は一人になりたいと言った。
そして今朝、合流地点に来ない。
護衛失敗の可能性。
「戻ってきた」
ミリアが言った。
カイが早足で戻ってくる。
その表情は険しい。
「アルト、男子寮の入口にはいなかった」
「部屋は」
「寮監に聞いた。具合が悪いから少し遅れて登校するって伝言があったらしい」
「本人から?」
「たぶん。同室の上級生経由だって」
リゼは眉を寄せた。
直接確認ではない。
伝言。
危険。
「場所は」
「中庭の方へ出たって聞いた。男子寮からじゃなく、裏の小道」
単独行動。
リゼは即座に動いた。
「探します」
ミリアも続く。
「私も」
「カイさん、前方ではなく右側経路を確認。声を出さない。見つけたら笛」
「わかった」
四人で歩くはずだった朝の道を、三人は分かれて進んだ。
リゼは男子寮裏から中庭へ続く小道へ向かう。
石畳ではなく、木立の間を抜ける細い道。
人目が少ない。
危険が多い。
昨日、アルトが「少し一人になりたい」と言った後に座った男子寮前庭とは違う。ここは視界が悪く、木陰が多く、鐘楼裏へも旧校舎方面へも移動できる。
なぜここへ。
息ができないから。
誰かに見られていると苦しいから。
リゼは昨日のアルトの声を思い出した。
それでも、危険だ。
一人は危険だ。
護衛対象が単独で死角へ入るなど、許可できない。
リゼは足音を消し、木立の奥を進んだ。
朝の光が葉の隙間から落ちている。鳥の声。遠くの生徒たちの話し声。鐘の余韻はもう消えていた。
そして、噴水の裏手にある古い石のベンチに、アルトが座っていた。
左手首を布の上から押さえ、俯いている。
敵影なし。
周囲の茂み、異常なし。
上方、異常なし。
ただし、アルトの顔色は悪い。
リゼは一気に近づこうとして、足を止めた。
近づきすぎない。
昨日、学んだ。
だが、今は単独行動中。
危険確認が必要。
「アルトさん」
リゼは声をかけた。
アルトは肩を震わせ、顔を上げた。
目元が赤い。
眠れていない。
泣いたのかもしれない。
「リゼさん」
声はかすれていた。
「体調は」
いつもの問い。
だが、アルトは答えなかった。
彼は視線を外し、ベンチの端に置いた小さな紙片を握った。
リゼは数歩近づく。
「銀環痕は」
「……今は光ってない」
「痛みは」
「ない」
「声は」
「聞こえない」
「なぜ単独行動を」
言った瞬間、アルトの表情が硬くなった。
しまった。
問い方が尋問に近い。
ミリアなら、まず「心配した」と言う場面か。
だが、言い直す前にアルトが口を開いた。
「一人になりたかったから」
「単独行動は危険です」
「わかってる」
「昨日、声が発生しました。銀環反応も強かった。今日の朝鐘でも反応したはずです。にもかかわらず、死角の多い場所へ一人で移動するのは」
「わかってるって言ってる!」
アルトの声が、初めてリゼに向かって強くぶつかった。
リゼは止まった。
アルト自身も、自分の声に驚いたように息を呑む。
それでも、彼は目を逸らさなかった。
「わかってる。危ないってことくらい、わかってるよ」
「では、なぜ」
「わかっていても、一人になりたかったんだ!」
朝の木立が静まり返る。
遠くで生徒たちの笑い声が聞こえた。
ここだけが、別の空気に沈む。
アルトは拳を握った。
「昨日から、ずっと考えてた。僕がいたら村が消されるかもしれなかったって。僕がいたから、誰かが家を捨てて、名前を消して、道を隠して、王都へ送って……そういうことを考えてた」
「それはあなたの責任では」
「それも、わかってる!」
アルトはリゼを見た。
目に涙は浮かんでいない。
怒りと苦しさがあった。
「リゼさんが正しいことを言ってくれているのはわかってる。ミリアさんが優しいことを言ってくれているのも、カイが僕を気にしてくれているのも。でも、全部わかっていても、苦しいんだ」
リゼは何も言えなかった。
「ずっと誰かに守られてきた。危ないから一人になるな。危ないから外へ出るな。危ないから聞くな。危ないから近づくな。危ないから黙っていろ」
アルトの声が震える。
「今も同じだ。危ないから一人になるな。危ないから勝手に動くな。危ないから、危ないから、危ないから」
「それは事実です」
リゼは言った。
言ってから、また硬すぎると気づく。
だが、アルトはもう止まらなかった。
「事実なら、僕の気持ちは全部後回しでいいの?」
その言葉が、リゼの胸を打った。
アルトは立ち上がった。
左手首の布がわずかに光り始めている。
感情反応。
怒り。
リゼは警戒を上げるが、動けない。
動けば、さらに追い詰める。
「守るって言えば、僕の気持ちは全部後回しでいいの?」
「違います」
リゼは即座に答えた。
「では、なぜ聞いてくれないんですか」
アルトの声は低くなった。
「僕が一人になりたいって言った時、リゼさんは最初に危険だって言う。僕が怖いって言っても、危険情報として記録する。僕が苦しいって言っても、対処法を考える」
「必要です」
「僕は、記録じゃない」
リゼは息を止めた。
「僕は荷物じゃない。鍵でもない。護衛対象だけでもない」
アルトの左手首が強く光った。
リゼは反射的に半歩踏み出す。
アルトはその動きに気づき、身を引いた。
その小さな後退が、リゼの足を止めた。
怖がらせた。
自分が。
「アルトさん」
ミリアの声がした。
振り返ると、木立の入口にミリアが立っていた。少し息が上がっている。カイも少し離れた場所にいるが、近づかずに止まっていた。
ミリアはリゼではなく、まずアルトを見た。
「近づいてもいい?」
アルトは少しだけ迷い、頷いた。
ミリアはゆっくり歩いてくる。
走らない。
問い詰めない。
リゼの隣ではなく、アルトから少し距離を取った位置で止まった。
「一人になりたかったのね」
ミリアが言う。
アルトは俯く。
「はい」
「それを、誰にも邪魔されたくなかった」
「……はい」
「でも、完全に一人になるのは危険」
「わかってます」
「なら、折り合いを作りましょう」
ミリアの声は静かだった。
怒っていない。
責めていない。
「折り合い?」
「ええ。安全と、あなたの自由の間の折り合い」
リゼはミリアを見る。
安全と自由。
護衛上は、安全を優先する。
だが、それだけではアルトは息ができない。
ミリアは続けた。
「ここは死角が多いわ。リゼさんが心配するのは当然よ。でも、アルトさんが一人で考える時間を欲しいと思うのも当然」
アルトは黙って聞いている。
「だから、場所を変えましょう。中庭の見える開けた場所。人目がある。私たちは少し離れる。アルトさんは一人で座る。時間を決める。異常があれば合図する」
「昨日みたいに?」
「ええ。でも、今日は最初からアルトさんの希望として決める」
ミリアはリゼを見る。
「リゼさんも、それならどう?」
リゼはすぐに計算した。
候補地。
中庭中央の噴水横。
人通り多。
死角少。
鐘楼から距離あり。
旧校舎方面への経路は見える。
敵接近時、視認可能。
アルトから十歩から二十歩。
時間管理。
危険はある。
だが、現在地より大幅に低い。
「可能です」
リゼは答えた。
アルトはリゼを見る。
その目には、まだ怒りが残っている。
当然だ。
リゼは言葉を探した。
正論ではない言葉。
記録ではない言葉。
「私は」
リゼは口を開いた。
「あなたを守ろうとして、息を塞いだ可能性があります」
アルトの目がわずかに揺れた。
「すみません」
謝罪。
任務上の謝罪ではない。
うまくできているかわからない。
だが、今はそれしか言えなかった。
「ただ、危険があるのは事実です。完全に一人にすることは、まだできません」
アルトは目を伏せた。
「はい」
「ですが、距離を取る方法を検討します」
リゼは続けた。
「あなたが息をできる距離を」
その言葉を言うのは、少し難しかった。
アルトはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……お願いします」
カイが遠くから言った。
「俺は、どこにいればいい?」
声は抑えている。
近づいてこない。
彼なりに、今は踏み込まない方がいいと理解しているらしい。
リゼは位置を指定する。
「噴水の東側。植え込みと鐘楼側の通路が見える位置。立たずに座ってください。目立ちます」
「わかった」
ミリアがアルトへ手を差し出しかけ、途中で止めた。
「歩ける?」
「はい」
「手は?」
アルトは少し考えた。
「今は、大丈夫……じゃなくて、自分で歩けます」
ミリアは微笑んだ。
「よろしい」
四人は中庭中央へ移動した。
朝の中庭は、生徒たちが行き交っている。噴水の水音。石畳を歩く靴音。どこかで笑う声。ここなら、完全な孤独にはなれない。だが、死角の多い木立より安全だ。
リゼは位置を決めた。
アルトは噴水横の石ベンチ。
リゼは十五歩離れた木陰。
ミリアはその中間より少し右。
カイは東側通路の近く。
全員が互いに視界に入る。
アルトから見ると、三人は見える。
だが、近すぎない。
「時間は」
リゼが尋ねる。
アルトは少し考えた。
「十分」
「五分」
「リゼさん」
ミリアが横から言う。
「今日は、最初から折り合いを作る練習よ」
リゼは一拍置く。
「七分」
アルトも少しだけ口元を緩めた。
「昨日と同じだ」
「実績があります」
「じゃあ、七分」
アルトはベンチに座った。
三人はそれぞれ離れる。
リゼは十五歩の距離で立ち止まった。
見える。
アルトの横顔。
左手首の布。
呼吸。
姿勢。
だが、彼の表情の細部は少し読み取りにくい。
不安。
近づきたい。
確認したい。
それを抑える。
アルトは前を向いていた。
膝の上で両手を組み、噴水の水面を見ている。
左手首の光は弱まっている。
怒りが収まってきたのかもしれない。
リゼは時間を測る。
一分。
二分。
アルトは動かない。
三分。
彼は少しだけ肩の力を抜いた。
四分。
カイがくしゃみをしそうになり、必死にこらえている。
ミリアがそれを睨んだ。
五分。
アルトが左手首に触れる。
リゼは動きかける。
だが、アルトは合図しない。
待つ。
六分。
噴水の水音が続く。
七分。
リゼは声をかけようとした。
その前に、アルトが立ち上がった。
彼はこちらへ歩いてくる。
顔はまだ疲れている。
だが、木立で見つけた時より呼吸は落ち着いていた。
「ありがとう」
アルトは言った。
「少し、考えられた」
「危険は」
「わかってる。でも、こういう時間がないと、僕は自分が何を考えているのかわからなくなる」
リゼは頷いた。
「記録します」
言ってから、少しだけ迷う。
「……記録してもいいですか」
アルトは驚いた後、小さく笑った。
「うん。いいよ」
その笑顔は、まだ弱い。
だが、怒りだけではない。
ミリアが近づいてくる。
「では、今後は“開けた場所での一人時間”を選択肢に入れましょう」
「一人時間」
カイが戻ってきながら言う。
「俺、遠くにいる練習も必要だな」
「そうね」
ミリアが頷く。
「あなたは近くにいると存在感が強いから」
「どういう意味だ」
「そのままの意味です」
リゼが言う。
「お前まで」
アルトが少し笑った。
朝の衝突の後、初めての笑みだった。
その笑みを見て、リゼは胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。
しかし、完全に解決したわけではない。
リゼとアルトの間には、今朝の言葉が残っている。
僕は、記録じゃない。
荷物じゃない。
鍵でもない。
護衛対象だけでもない。
その言葉は、リゼの中にも残った。
午前の授業には少し遅れた。
ロウ教師は四人を見たが、詳しくは追及しなかった。ただ一言、「体調管理も学生の務めだ」とだけ言い、席に着くよう促した。
授業中、リゼはノートを取っていた。
だが、頭の半分は朝の出来事を反復している。
守る。
監視する。
管理する。
寄り添う。
距離を取る。
どこからが護衛で、どこからが暴力なのか。
一人にしないことは安全だ。
だが、一人にしないことが相手の呼吸を奪うなら。
それは守ることなのか。
授業の途中、ミリアから紙片が回ってきた。
今日の昼は調査を休みましょう。
リゼは頷いた。
正しい。
昨日の紙片の続きを読むべきではない。
アルトの精神的負荷が高い。
昼休み。
四人は図書館塔ではなく、中庭の休憩席に集まった。
調査なし。
記録だけ。
ミリアが基礎魔術・自習記録ノートを出す。
アルトは自分の欄に少しずつ書き始めた。
朝、一人になりたかった。
危険だとわかっていた。
でも、誰かに見られていると息ができなかった。
リゼさんに怒った。
言いすぎたかもしれない。
でも、本当に思った。
僕は鍵だけじゃない。
護衛対象だけじゃない。
七分だけ一人で座った。
少し楽になった。
完全に一人ではなかったけれど、自分の時間だった。
リゼはその文章を読んだ。
胸の奥が重くなる。
「言いすぎていません」
リゼは言った。
アルトが顔を上げる。
「事実でした」
「でも、きつく言った」
「必要な指摘です」
ミリアが静かに補う。
「リゼさんは、きつく言われたから傷ついたのではなく、自分が気づけなかったことを知って苦しくなったのだと思うわ」
リゼはミリアを見る。
そうなのか。
自分では判断できない。
だが、近い気はした。
アルトはリゼを見た。
「ごめん」
「謝罪は不要です」
「でも」
「私も謝罪しました」
「うん」
「では、相互に改善します」
アルトは少しだけ笑った。
「リゼさんらしい」
カイがパンを置く。
「とりあえず食おう」
「また?」
アルトが言う。
「今日は調査しないんだろ。だったら飯くらい普通に食え」
ミリアが頷く。
「賛成。今日は普通の昼食にしましょう」
普通の昼食。
リゼは周囲を確認する。
安全完全ではない。
だが、人目があり、席も悪くない。
「可能です」
「許可制なのかよ」
カイが笑う。
四人は昼食を取った。
会話は多くなかった。
だが、沈黙は朝のように張り詰めていない。
カイがパンを食べすぎ、ミリアが野菜不足を指摘し、アルトが少し笑う。リゼはそれを見ながら、自分の野菜入りパンを食べた。
午後の授業後、アルトは再び一人時間を求めた。
今度は、最初から言った。
「七分だけ、噴水のところで座ってもいい?」
リゼは即答しなかった。
状況確認。
夕方。
人通りあり。
朝と同じ場所。
危険中。
銀環反応、午前以降なし。
体調、やや疲労。
「可能です」
リゼは答えた。
「条件は朝と同じ」
「うん」
アルトはベンチに座った。
三人は離れる。
今度は、リゼも少しだけ呼吸がしやすかった。
待つことは不安だ。
だが、朝よりは耐えられる。
七分後、アルトは自分から戻ってきた。
「今日は、二回も一人時間をもらった」
「一人時間という名称で定着するのですか」
リゼが言うと、アルトは少し笑う。
「ミリアさんが言ったから」
「では、正式名称ですね」
ミリアが微笑む。
「そうしましょう」
カイが腕を組む。
「俺も一人時間いるかな」
「あなたはまず静か時間です」
ミリアが言う。
「何だそれ」
「声を抑える時間」
「訓練か」
「ええ」
カイは真剣に考え始めた。
アルトが笑う。
その笑いは、昨日より弱く、朝よりは強かった。
夕鐘が鳴った。
アルトの左手首が光る。
四人は自然に立ち止まる。
アルトは目を閉じた。
「痛みなし。熱、少し。声なし」
「感情は」
リゼが聞く。
アルトは少し考えた。
「不安はある。でも、朝より落ち着いてる」
「一人時間の効果がある可能性」
リゼが言う。
ミリアが頷く。
「ええ。自分で選べたことも大きいと思うわ」
「自分で選ぶ」
リゼは繰り返す。
アルトは目を開けた。
「うん。危ないから駄目、じゃなくて、どうすればできるかを考えてもらえると、少し楽」
その言葉は、リゼの中に静かに沈んだ。
どうすればできるか。
これまで、リゼは危険を見れば止めた。
当然だった。
しかし、アルトにとって必要なことが、危険を伴う場合もある。
その時、止めるだけでは足りない。
条件を作る。
距離を取る。
時間を決める。
合図を決める。
守りながら、本人の選択を残す。
それが折り合い。
ミリアが言った言葉。
安全と自由の折り合い。
男子寮への分岐点で、アルトは立ち止まった。
「リゼさん」
「はい」
「朝、怒鳴ってごめん」
「謝罪は不要です」
「それでも、ごめん」
アルトは少しだけ俯いた。
「でも、言ったことは本当」
「はい」
「僕は、護衛対象だけではいたくない」
「はい」
「だから、これからも危ないことを言うかもしれない。知りたいとか、一人になりたいとか、行きたいとか」
「はい」
「その時、止めるだけじゃなくて、どうすればできるか、一緒に考えてほしい」
リゼはアルトを見た。
それは、任務上難しい要求だった。
だが、もう答えは出ていた。
「努力します」
アルトは少し笑った。
「リゼさんらしい」
「ただし、危険が高すぎる場合は止めます」
「うん」
「緊急時は強制的に退避させます」
「それも、うん」
「一人時間は、開けた場所、視界内、時間制限あり」
「わかった」
「合図を決めます」
リゼは制服の袖から小さな笛を取り出した。
「これは緊急用です。通常時は手を上げる。異常時は声を出す。声が出ない場合は、布を外して見せてください」
アルトは真剣に頷いた。
「わかった」
カイが横から言う。
「俺も見る」
「あなたは飛び出す前に確認」
リゼが言う。
「わかってるって」
ミリアが微笑んだ。
「少しずつね」
その言葉に、四人全員が少しだけ反応した。
少しずつ。
今朝は衝突した。
怒鳴った。
謝った。
距離を作った。
七分待った。
また歩いた。
それが少しずつなら、今日の一日も前進なのかもしれない。
夜。
三〇七号室で、リゼは今日の記録を書いていた。
アルト、単独行動。
理由、息苦しさ。
リゼの護衛行動が監視圧となった可能性。
衝突。
アルト発言。
僕は記録じゃない。
荷物じゃない。
鍵でもない。
護衛対象だけでもない。
安全と自由の折り合い。
一人時間。
開けた場所。
視界内。
時間制限七分。
効果あり。
自分で選べたことが心理安定に寄与。
リゼはペンを止める。
そして、少し離れた余白に書いた。
一人にしないことは、安全である。
しかし、一人にしないことが暴力になる場合がある。
守るとは、相手の自由を全て奪うことではない。
条件を作り、戻れる距離で待つことも含む。
書き終えてから、リゼはしばらくその文を見ていた。
ミリアがお茶を置く。
「今日は、大事なことを学んだ日ね」
「はい」
「苦しかった?」
リゼは少し考えた。
「はい」
ミリアは静かに頷いた。
「そう」
「私は、アルトさんを怖がらせました」
「でも、謝ったわ」
「謝罪で消えるものではありません」
「ええ。でも、謝らないよりずっといい」
ミリアは向かいに座った。
「リゼさん。あなたも、守られる側の気持ちを全部知っているわけではない。アルトさんも、守る側の怖さを全部知っているわけではない。だから、ぶつかるのは当然よ」
「当然」
「ええ。大事なのは、ぶつかった後に戻ってこられるかどうか」
リゼは今日の噴水を思い出した。
七分後、アルトは戻ってきた。
自分から。
朝の怒りを抱えたまま、それでも。
「戻ってきました」
「ええ」
「では、成功ですか」
ミリアは少し笑った。
「完璧ではないけれど、失敗でもないわ」
また曖昧な評価。
だが、今日のリゼには少しわかる。
完璧ではない。
失敗でもない。
そういう日がある。
見張りの前半はリゼだった。
ミリアはベッドに入り、浅く眠り始める。
リゼは窓際の椅子に座り、外を見た。
夜の中庭。
噴水は止まっている。
昼間、アルトが座っていたベンチが見える。
あの距離。
十五歩。
近すぎず、遠すぎず。
完全に一人ではなく、それでも自分の時間を持てる距離。
護衛距離の新しい基準。
リゼは手元の記録に、もう一行だけ書き足した。
アルトさんは、戻ってくる。
だから、待つ。
その文字を見て、彼女は静かに息を吐いた。
戦場では、待つことは危険だった。
だが、学園では。
人を守るために、待たなければならない時がある。
リゼはその事実を、夜の静けさの中で何度も確かめた。




