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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第12章 第8話:母の筆跡


 この子を――


 そこで、文字は黒く覆われていた。


 白布児記録の奥。


 薄い紙に残された、震えた筆跡。


 王の鐘の白い光に照らされながらも、その先は黒蔦に隠されている。


 アルト・レインフォードは、石台の上でその一文を見つめていた。


 左手首の銀環は、まだ冷たい。


 喉は痛み、声は掠れている。


 口元の黒布は少しずれているだけで、息をするたびに布の縁が肌を擦る。


 王の鐘は、低く呼び続けていた。


 エルディア・レインフォード。


 正名接続。


 王統系記録。


 孤独音。


 適性。


 そのたびに、銀環の奥が震える。


 けれど、白布の上にはアルト自身の文字が残っている。


 エルディア。


 アルト。


 どっちも、ぼく。


 かえる。


 その銀色の文字は細く、今にも消えそうで、それでもまだ消えない。


 外側で、リゼたちが記録しているからだ。


 ミリアが勝手に続きを書かないからだ。


 カイが名前を呼んでいるからだ。


 エリアナが香草を持ち続けているからだ。


 学園の青い線が、本人の言葉を保全しているからだ。


 アルトは、その細い繋がりに意識を乗せた。


 遠い。


 でも、ある。


 リゼの声が届く。


「アルトさん。母記録について、現時点での開封拒否と後日閲覧希望を確認しています。無理に読ませません」


 ミリアの声。


「今、嫌だという意思を保全しています。続きを求めません」


 カイの声。


「帰ってからでいい。今じゃなくていいからな」


 エリアナの声。


「白布は、待つためにも使えます」


 待つ。


 その言葉に、アルトの胸が少しだけ緩む。


 今すぐ全部知らなくていい。


 王の鐘の前で、室長に読まれなくていい。


 母の言葉を、材料にされなくていい。


 でも、知りたい。


 帰ってから。


 自分で。


 ちゃんと。


 アルトは白布を掴んだ。


 その時、臨時調整室長が動いた。


 顔を覆う薄布の奥から、冷たい声が落ちる。


「保留は非効率です」


 黒蔦が、白布児記録の包みを持ち上げる。


 母の筆跡が隠された紙。


 アルトが「今は嫌だ」と書いた紙。


 それを、室長は王の鐘の前へ掲げた。


「王の鐘接続には、母系記録の情緒反応が有効です。本人の抵抗を減衰できます」


 アルトの呼吸が止まった。


 情緒反応。


 抵抗を減衰。


 母の言葉を、優しいものとして使い、アルトを従わせようとしている。


 母の記録を、鍵にする。


 室長は言った。


「母の願いを確認すれば、君は王宮のために鳴ることを選ぶでしょう」


 違う。


 アルトはそう思った。


 でも、言葉にならない。


 母の願い。


 その言葉だけで、胸が揺れる。


 母は、何を願ったのか。


 自分に、何をしてほしかったのか。


 もし、皆を守れと書いてあったら。


 もし、王宮を助けろと書いてあったら。


 もし、エルディアとして役目を果たせと書いてあったら。


 怖い。


 知りたい。


 怖い。


 黒蔦が紙の黒塗りへ触れる。


 白布の光が抵抗する。


 だが、王の鐘の白い振動が重なり、紙の表面が震えた。


 室長の声が、柔らかい形に変わる。


「母の言葉を聞きなさい」


 その柔らかさが、いちばん怖かった。


 命令よりも。


 冷却よりも。


 黒布よりも。


 それは、アルトの中の痛い場所へ、直接手を伸ばしてくる。


 母の言葉を聞きたい。


 聞きたいに決まっている。


 でも、こんな形ではない。


 王の鐘の前ではない。


 室長の声で読み上げられるのではない。


 アルトは指を動かした。


 いや。


 そう書こうとした。


 だが、黒蔦が手首を締める。


 指先が白布に届かない。


 銀環が王の鐘へ引かれる。


 室長が紙を開こうとする。


 その瞬間、外側からリゼの声が鋭く届いた。


「母記録を、情緒反応誘導に使用することを拒否します」


 続いて、ミリア。


「母記録の本人意思なき開封および誘導使用を拒否。本人は“今、嫌”“あとで聞きたい”と表示済み」


 ユリウスの声。


「本人関係記録の開示時期は、本人意思を優先すべきです。王の鐘接続目的での開示は不当です」


 エリアナ。


「母の言葉を、子どもを従わせる鎖にしないでください」


 カイ。


「アルトの母さんの声を、お前が勝手に使うな!」


 外側の声が重なった瞬間、白布が強く光った。


 黒蔦が紙から少し離れる。


 室長はわずかに動きを止めた。


「外部関係線が過剰です」


 リゼの声が返る。


「過剰ではありません。本人を孤独な音にしないための関係線です」


 王の鐘の振動が低くなる。


 苛立ちのように。


 その時、学園の青い記録線がさらに深く届いた。


 エレオノーラの文面。


 母記録、本人の後日閲覧希望を保全。


 誘導使用、拒否。


 情緒反応を同意に変換することを拒否。


 続いて、学園長の短い文。


 子の記録を、子の声を奪うために使うことを、本校は認めない。


 青い光が白布を包む。


 アルトは、その光を見た。


 学校。


 まだ帰っていない場所。


 でも、帰る場所として自分を待っている場所。


 その場所まで、母の記録を守ろうとしてくれている。


 アルトは、やっと指先に少し力を戻した。


 白布の端へ、爪のように細い銀色で書く。


 いま。


 よまないで。


 ミリアの声がすぐ届いた。


「“いま、よまないで”を確認。本人意思、再確認」


 リゼ。


「確認しました。今は読みません」


 室長の声が冷たく沈む。


「本人は混乱状態にあります。判断能力に疑義」


 リゼの声は揺れない。


「混乱状態を確認します。ですが、混乱していても、嫌だという意思は消えません」


 ミリア。


「混乱と拒否意思、併存として記録。拒否意思を無効化しません」


 カイ。


「怖くても嫌は嫌だ!」


 アルトは、その言葉に小さく息を吐いた。


 怖くても嫌は嫌。


 単純で、でも正しい。


 室長は沈黙した。


 白布児記録の紙束は、王の鐘の前で揺れている。


 完全に開かれてはいない。


 だが、黒蔦が一部を擦ったせいで、隠されていた文字の一部が浮かびかけた。


 どうか、この子を――


 その次。


 黒が薄くなり、ほんの一文字だけ見えた。


 孤。


 アルトは目を見開いた。


 孤。


 孤独。


 孤独な音。


 室長がすぐに黒蔦で覆おうとする。


 しかし、エリアナの声が届いた。


「今の文字を確認しました。孤、の可能性」


 ミリア。


「母記録内、“孤”の一字を確認可能性。断定せず保全」


 リゼ。


「続きを要求しません。ですが、見えた一字を消しません」


 アルトの胸が強く打つ。


 どうか、この子を孤――


 その先が、わかってしまいそうになる。


 でも、外側は完成させない。


 アルトも、完成させない。


 今は読まない。


 今は、待つ。


 室長は、紙束を再び箱へ戻そうとした。


 だが、白布が箱に収まる前に、別の記録が滑り落ちた。


 それは母の私的記録ではない。


 白鐘礼拝堂の受付記録だった。


 黒蔦がそれを掴む前に、白い文字が空中へ展開される。


 白布児一名、朝鐘保護。


 呼称、アルト。


 同行布、母持参。


 銀環反応あり。


 王宮中央照会、保留。


 保留理由。


 王の鐘接続危険。


 保護目的。


 孤独音化防止。


 アルトは、その文字を見た。


 孤独音化防止。


 母の私的記録ではない。


 白鐘礼拝堂の公式な記録。


 自分を孤独な音にしないための保護。


 隠すためではなく。


 王宮に渡さないため。


 利用されないため。


 孤独な音にしないため。


 胸の奥で、何かが崩れた。


 痛みを伴って。


 アルトは、白布を掴んだまま震えた。


 捨てられたのではなかった。


 少なくとも、その記録はそう言っている。


 母も、白鐘礼拝堂も、自分を王の鐘へ渡さないようにしていた。


 守ろうとしていた。


 でも、守りきれなかった。


 記録は王宮へ運ばれた。


 臨時調整室へ分類された。


 黒蔦に縛られた。


 そして今、王の鐘の前にいる。


 守られようとしていた事実と、今ここにいる現実が、同時に胸を締めつける。


 涙が出そうになる。


 でも、冷えで涙は出ない。


 代わりに、喉が痛む。


「……」


 声にならない音が漏れる。


 外側から、カイの声が震えて届いた。


「アルト……捨てられてない。お前、捨てられてないぞ」


 ミリアの声が優しく続く。


「断定しすぎないわ。でも、少なくとも、守ろうとした記録があります」


 リゼ。


「確認します。アルトさんを孤独音化から守る目的の白鐘礼拝堂記録が存在します」


 エリアナ。


「白鐘は、孤独な音を砕くためではなく、孤独にしないために使われていました」


 アルトは、白布に指を動かした。


 す。


 て。


 ら。


 れて。


 そこで手が止まる。


 胸が苦しい。


 続きが書けない。


 ミリアがすぐに言う。


「“すてられて”まで確認。続きを断定しません」


 リゼの声。


「無理に続きを書かなくていいです」


 アルトは息を吸う。


 手が震える。


 でも、書きたい。


 書かないと、自分の中で消えそうだった。


 な。


 い。


 すてられて、ない。


 銀色の文字が白布に浮かんだ。


 その瞬間、胸の奥が崩れた。


 今度は、痛みだけではなかった。


 温かいものも混じっていた。


 外側で、カイが泣いたような声を出す。


「そうだ! 捨てられてない!」


 ミリアの声も少し震えている。


「“すてられて、ない”を確認。本人感情表明として記録します」


 リゼの声は低く、静かだった。


「確認しました。アルトさん。あなたがそう受け取ったことを記録します」


 エリアナ。


「守ろうとした人がいました」


 アルトは目を閉じた。


 母の顔はまだ思い出せない。


 名前も黒く塗られている。


 でも、声の感触が少しだけ戻る。


 アルト。


 朝に残る小さな音。


 どうか。


 どうか、この子を――


 孤。


 その先はまだ読まない。


 でも、もう完全な空白ではない。


 室長の声が冷たく響いた。


「情緒反応、上昇。銀環接続に利用可能」


 その言葉で、温かさが一瞬凍りかけた。


 室長は、今の感情すら使おうとしている。


 捨てられていないと知った安堵。


 母が守ろうとしたかもしれない痛み。


 それすら、王の鐘へ接続する材料にする。


 リゼの声が鋭く届く。


「情緒反応を接続材料として使用することを拒否します」


 ミリア。


「“すてられて、ない”は本人感情表明であり、王の鐘接続同意ではありません」


 カイ。


「泣いたからって、鐘になっていいわけないだろ!」


 エリアナ。


「白鐘の保護記録を、王の鐘への橋にしないでください」


 王の鐘が、低く震えた。


 室長は黙った。


 だが、黒蔦は止まらない。


 白布児記録の中から、今度は輸送記録が展開される。


 灰銀一七。


 北西第三補給枝道。


 王都南門管理口。


 個人記録類小型封箱。


 白布児記録、移管。


 戦後処理。


 臨時調整室預かり。


 整理未了。


 整理未了。


 整理未了。


 そして、最後に追加された黒い文字。


 孤独音候補、保留。


 アルトの胸が冷える。


 守る記録が、いつの間にか候補にされている。


 白布児が、孤独音候補に変えられている。


 保護が、利用に変わっている。


 その転換点に、灰銀一七の外装確認印がある。


 外側で、リゼの呼吸がわずかに乱れた気がした。


 ミリアがすぐに言う。


「リゼさん、状態」


 リゼの声。


「胸部痛。感情、怒り、痛み。自己責任化の兆候、軽度。判断継続可能」


 ミリア。


「自己責任化を単独で進めない」


 リゼ。


「はい。私の印が使われたことを確認します。しかし、白布児記録を孤独音候補へ変換した承認者は別に存在します。外装確認と内容分類を同一視しません」


 オルドの声が続く。


「その通りです。灰銀一七は外装搬送確認です。臨時調整室預かり後の分類変更とは切り分けます」


 ユリウス。


「分類変更の承認者名を確認すべきです」


 ミリアが記録する。


 白布児記録から孤独音候補への分類変更。


 承認者名、要確認。


 灰銀一七外装確認との同一視拒否。


 アルトは、胸の奥で何かを理解した。


 リゼも、使われた。


 自分の記録を運ぶ箱に。


 知らないまま。


 それを今、リゼは逃げずに見ている。


 でも、自分ひとりの罪にしていない。


 リゼは、過去の紙と現在の本人を分けている。


 アルトも、そうしていいのかもしれない。


 エルディアという出生名。


 アルトという呼び名。


 王宮の孤独音候補。


 現在の自分。


 どれか一つの紙に、全部を奪われなくていい。


 アルトは指を動かした。


 りぜ。


 ちがう。


 その文字を見て、外側が少し静かになった。


 リゼの声が届く。


「“リゼ”“ちがう”を確認しました。意味を断定しません。ただし、私は現在、あなたの王の鐘接続を承認していません」


 カイが言う。


「アルト、優しいな。でも、今は自分のことも言えよ」


 アルトは、少しだけ笑いたくなった。


 カイは泣きながら、そういうことを言う。


 自分のこと。


 アルトは白布を見る。


 すてられて、ない。


 かえる。


 アルト。


 エルディア。


 どっちも、ぼく。


 そして、母の記録。


 アルトは、もう一度指を動かした。


 ききたい。


 あとで。


 母。


 ミリアの声。


「“ききたい”“あとで”“母”を再確認。本人希望、継続」


 リゼ。


「確認しました。帰還後、あなたが望む形で確認します」


 室長が言う。


「帰還後という選択肢はありません。対象は王の鐘接続準備下にあります」


 リゼの声が即座に返る。


「あります。本人が“かえる”と伝えました」


 カイ。


「帰るって言ったんだよ!」


 エリアナ。


「白布児記録も、孤独音化防止を示しています。王の鐘接続は、白鐘本来目的に反します」


 クラウスの声が重なる。


「測定上、白布児記録の白鐘層は王の鐘接続に抵抗しています。黒蔦側が強制転用を試みています」


 室長は静かに言った。


「白鐘層は、王宮封印下で再解釈されます」


 エリアナの声が硬くなる。


「白鐘を、王宮だけの言葉にしないでください」


 その時、王の鐘の周囲に白い古文字が浮かんだ。


 アルトの目にも見えた。


 鐘を鳴らすな。


 扉へ走るな。


 王の血で扉を叩くな。


 名を鍵にするな。


 孤独な音を、王の鐘にしてはならない。


 そして、その下に、細い一行が現れる。


 白布は、帰る音を包む。


 エリアナが外側で息を呑む。


「今の文字……」


 クラウス。


「深部側白鐘層、自発表示。王の鐘周辺にも白鐘本来警告が残っています」


 アルトは、その文字を見た。


 白布は、帰る音を包む。


 白布児記録。


 白い布。


 隠すため。


 守るため。


 帰る音を包むため。


 アルトは白布を掴んだ。


 この布は、箱に閉じ込めるためだけの布ではない。


 自分を王の鐘にするための材料でもない。


 帰る音を包む布。


 母が、自分を包んだ布かもしれない。


 アルトは胸の奥で、母の声をもう一度聞いた。


 アルト。


 朝に残る小さな音。


 どうか、この子を――


 黒蔦が暴れる。


 王の鐘が強く震える。


 室長の声が冷たくなる。


「白鐘旧語の自発表示は、接続阻害要因です。除去します」


 黒蔦が白い古文字へ伸びる。


 アルトは、反射的に左手を動かした。


 銀環が痛む。


 でも、王の鐘へ向けるのではない。


 白布の上へ。


 自分の文字へ。


 かえる。


 その上に指を置く。


 行きたくない。


 帰りたい。


 母の言葉は、あとで聞きたい。


 白布を、鐘の材料にされたくない。


 その意思が、銀環を通じて白布へ流れた。


 王の鐘へではなく、白布へ。


 白布児記録の白い光が強くなる。


 黒蔦が焼けるように後退した。


 室長が低く言う。


「銀環反応の方向が逸れています」


 アルトは、掠れた声を出した。


「……かえ……る……」


 今度は、自分にも聞こえた。


 小さい。


 苦しい。


 でも、声。


 外側で、カイが叫ぶ。


「聞こえた! 今度は絶対聞こえた!」


 ミリア。


「“かえる”発声確認可能性高。本人帰還意思、音声反応として記録」


 リゼの声が、静かに、しかし強く届いた。


「確認しました。アルトさん。あなたの帰還意思を受け取りました。迎えに行きます」


 室長の周囲で、黒蔦が激しく震えた。


「帰還先はありません」


 カイが即座に怒鳴る。


「ある!」


 ミリア。


「学園、確認済み。寮、確認済み。食堂、確認済み。友人関係、確認済み」


 エリアナ。


「香草の戻る匂い、確認済み」


 リゼ。


「関係線、維持。帰還先は存在します」


 学園の青い線が強く光り、いくつもの名前が深部へ届いた。


 マーヤ・レント、食堂。温かい食事準備継続。


 トルナ・ベリス、女子寮東棟。寮生確認継続。


 エレオノーラ・ヴィンスフェルト、学園記録室。本人帰還記録受入準備。


 学園長、学園長室。アルト・レインフォード帰還意思を確認対象として保持。


 それらの名前が、王の鐘の冷たい空間に流れ込む。


 帰還先はない、という黒い文字が、青い記録線に押されて揺らいだ。


 アルトは、その青い光を見た。


 帰る場所が、文書ではなく、人の名前でできている。


 それが、今はっきりわかった。


 室長は、白布児記録の箱を強く閉じようとした。


「母記録、再封鎖」


 リゼの声が届く。


「再封鎖理由を確認します」


「王宮秩序保護」


「本人保護理由ではありません。記録します」


 ミリア。


「母記録再封鎖理由、王宮秩序保護。本人保護理由との説明なし」


 黒蔦が揺れる。


 レアナの声が外側から届いた。


「封印管理室副管理官レアナ・フィスとして確認します。本人関係記録の王宮秩序保護目的による再封鎖は、封印管理室規程上も再審査対象です」


 ナイル。


「王宮本会議補佐官ナイル・ヴァートとして、本会議未承認のまま母系記録を王の鐘接続へ利用することを認めません」


 オルド。


「オルド・ハイマンとして、臨時調整室による本人記録の情緒誘導使用に異議を申し立てます」


 名前が増える。


 責任が、空白から人へ戻っていく。


 黒蔦は、それを嫌う。


 白布児記録の箱は、完全には閉じなかった。


 母の私的記録は、まだ読まれない。


 でも、消されない。


 アルトはそれを見て、ゆっくり息を吐いた。


 今は読まない。


 でも、あとで聞く。


 帰ってから。


 リゼたちと。


 自分の声で。


 その時、白布児記録の上に、母の筆跡がもう一度だけ浮かんだ。


 黒蔦が覆いきれなかったのか。


 白布が見せたのか。


 わからない。


 でも、今回は少し長く見えた。


 この子を、孤独な音にしないでください。


 アルトの胸が止まりそうになった。


 文字はすぐに黒蔦で覆われた。


 けれど、見た。


 確かに見た。


 母の願い。


 王の鐘になれ、ではない。


 王宮を救え、ではない。


 孤独な音にしないでください。


 アルトは息を吸った。


 声にならない音が漏れる。


 外側でも、誰かがその文字を見たらしい。


 エリアナの声が震えていた。


「今の……」


 ミリアの声も、かすかに震えている。


「母記録内文言、“この子を、孤独な音にしないでください”確認可能性。断定しすぎず、ただし視認者複数。記録します」


 リゼの声は、深く静かだった。


「確認しました。アルトさん。あなたの母は、あなたを孤独な音にすることを望んでいなかった可能性が高いです」


 カイが泣きながら言う。


「ほらな。やっぱり、王の鐘なんかじゃない」


 アルトは、白布を握ったまま目を閉じた。


 母の顔はまだわからない。


 名前もまだ黒い。


 全部はわからない。


 でも、一つわかった。


 母は、自分を孤独な音にしたかったのではない。


 王の鐘にしたかったのではない。


 アルト。


 朝に残る小さな音。


 どうか、この子を、孤独な音にしないでください。


 その願いが、王の鐘の冷たい白光の中で、小さく、しかし消えずに残っている。


 室長が低く言った。


「母記録は、解釈の余地があります」


 リゼが即座に答えた。


「あります。だから、あなたが王の鐘接続同意へ解釈することも認めません」


 ミリア。


「母記録の解釈権独占を拒否。本人帰還後、本人同席で再確認」


 エリアナ。


「白布は待てます。黒蔦が急がせているだけです」


 カイ。


「帰ってから聞く。アルトがそう決めた」


 アルトは、もう一度白布に指を動かした。


 母。


 あとで。


 きく。


 かえる。


 銀色の文字が並ぶ。


 王の鐘の振動が乱れる。


 室長の黒蔦が、王の鐘の白い線を無理に束ねようとする。


 だが、白布児記録は完全には従わない。


 白い光が、アルトの指先と母の筆跡を細く繋いでいる。


 それは、鍵ではない。


 鎖でもない。


 帰るための布のようだった。


 室長の声が、初めてはっきりと冷たい怒りを含んだ。


「母の願いを盾に、王宮の統一を妨害するのですか」


 アルトは、声を出そうとした。


 喉が痛い。


 息が震える。


 でも、言う。


「……母……は……」


 黒蔦が口元へ戻ろうとする。


 アルトは白布を握った。


「……ぼくを……」


 外側の声が、一斉に静まる。


 続きを待っている。


 勝手に言わない。


 アルトは、痛む喉で、小さく言った。


「……かぎに……したく……ない……」


 声はかすれ、途切れた。


 でも、届いた。


 ミリアの声。


「発声確認。“母は、僕を鍵にしたくない”可能性。本人解釈として記録」


 リゼ。


「確認しました。アルトさんの母記録に対する本人解釈として扱います。外部が上書きしません」


 カイ。


「そうだ! 鍵じゃない!」


 エリアナ。


「白鐘も、そう告げています」


 王の鐘が低く唸った。


 その振動は、もはや静かな呼び声ではなかった。


 抵抗に対する苛立ち。


 黒蔦が王の鐘の周囲に集まり、母記録と銀環と白布児記録を一度に絡め取ろうとする。


 クラウスの声が外側から鋭く届いた。


「王の鐘、強制接続準備へ移行しています!」


 リゼ。


「状況確認」


 クラウス。


「母記録の情緒反応利用に失敗したため、黒蔦が直接銀環へ接続しようとしています。深部外縁門の黒蔦も活性化!」


 カイが叫ぶ。


「アルト!」


 アルトの銀環が痛むほど冷たくなる。


 王の鐘の白い線が、左手首へ伸びる。


 室長が言った。


「本人意思が複雑すぎます。接続後に整理します」


 リゼの声が、低く、鋭く届いた。


「本人意思を接続後に整理することを拒否します」


 ミリア。


「本人意思の後整理、拒否」


 カイ。


「今聞け!」


 エリアナ。


「孤独な音にしないために、今、待ってください」


 学園の青い線が強く光る。


 名前がまた増える。


 現在地。


 本人意思。


 不安。


 待機。


 温かい食事。


 寮の窓。


 教室の机。


 誰かが帰る場所として用意している日常。


 それらが、王の鐘の白い線に絡みつく。


 アルトは、左腕を必死に引いた。


 ほんの少し。


 でも、引いた。


 白布児記録の白布が、その手首に触れる。


 母の筆跡が、また一瞬光る。


 孤独な音にしないでください。


 アルトは、喉の痛みに逆らって息を吐いた。


「……ひとり……じゃ……ない……」


 その声は、消えそうだった。


 だが、王の鐘の前で確かに響いた。


 外側から、カイの声が泣きながら返る。


「ひとりじゃない!」


 ミリア。


「本人発声、“ひとりじゃない”確認可能性高」


 リゼ。


「確認しました。あなたは孤独な音ではありません」


 エリアナ。


「白布は、帰る音を包みます」


 王の鐘の振動が、一瞬だけ乱れた。


 黒蔦は止まらない。


 しかし、白布児記録の箱は、もう王の鐘の材料としては完全に従っていない。


 母の筆跡は、黒く塗り潰されながらも、アルトの中に届いた。


 この子を、孤独な音にしないでください。


 それだけで、今は十分だった。


 アルトは、白布に最後の力で書いた。


 ひとりではない。


 銀色の文字が、母の筆跡の下で小さく光った。


 王の鐘の冷たい光の中、母の願いとアルトの声が、初めて同じ方向を向いた。


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