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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第12章 第2話:王宮は二つに割れる


 王宮は、ひとつの建物ではなかった。


 白い城壁。


 高い塔。


 王冠を象った紋章。


 重厚な門。


 王都のどこからでも見えるそれらは、たしかに一つの王宮を形作っている。


 だが、その内側には無数の通路があり、部局があり、記録があり、命令があり、人がいた。


 中央記録鐘が誤同期を止めた瞬間、そのすべてが同じ方向を向いていないことが露わになった。


 王宮本会議は、臨時保護令を承認していないと言った。


 封印管理室は、銀環反応者の生体収容を承認していないと言った。


 監察局の一部は、中央記録鐘無許可使用を調査すると言った。


 中央記録局の一部警備兵は、使用許可記録が提示されていないと現認した。


 だが、臨時調整室の残存札は、なお黒く光っている。


 臨時保護令、継続。


 関係維持者、分散保護。


 灰銀戦時戦力、確保。


 旧ヴェルグラント血統関係者、保護拘束。


 外部声刺激、抑制。


 中央記録鐘の全域同期は止まった。


 それでも、すでに広がった命令は、人の手元に残っていた。


 門衛の台帳に。


 兵の命令札に。


 布告板の紙に。


 役所の控えに。


 そして、誰かの恐怖に。


 王宮が割れたのは、鐘が止まったからではない。


 最初から割れていたものが、鐘の停止によって見えるようになっただけだった。


 王立学園にも、その亀裂は届いていた。


 学園正門の布告板に、朝早く王宮臨時保護令の写しが貼られた。


 その黒い文字には、白い取消線が走っている。


 だが、消えたわけではない。


 関係維持者。


 危険生徒。


 白鐘資料保持者。


 王宮命令網妨害者。


 それらの分類語が、紙の上でまだ薄く残っている。


 生徒たちは布告板の前に集まり、不安そうに囁いていた。


「関係維持者って、友達って意味なのか?」


「リゼさんたちのこと?」


「アルト君、まだ戻ってないの?」


「王宮の命令、取り消されたんじゃないの?」


「でも、兵が来るって聞いた」


「学園から出ない方がいいのか?」


 校舎の窓には、白い布ではなく、学園の青い旗が掛けられている。


 王宮札の影響を避けるために、エレオノーラ・ヴィンスフェルトが古い学園結界を再起動したのだ。


 学園長室の机の上には、王宮からの文書、学園側の抗議文、各門からの報告、中央記録鐘停止の現認記録が積まれていた。


 学園長は、その全てを読んでいた。


 老いた指が、黒い三点印の残る紙で止まる。


「本人意思なき保護を、教育の名で認めることはできません」


 静かな声だった。


 だが、その場にいた教師たちは、背筋を伸ばした。


 エレオノーラが記録板を持って立っている。


「学園内記録網は、現在、王宮中央記録局経由の命令流入を遮断しています。ただし、臨時調整室残存札を経由した細い干渉が三件ありました。すべて未承認として隔離済みです」


 学園長は頷いた。


「生徒への影響は」


「不安は広がっています。特に、リゼさん、アルトさん、エリアナさん、カイさん、ミリアさんと関わりの深い生徒ほど、分類語を自分のこととして受け止め始めています」


「関係を持つことを、危険として刷り込むわけですね」


「はい」


 エレオノーラの声は冷たい。


「関係を記録から消すのではなく、関係そのものを危険記録として扱う。悪質です」


 学園長は窓の外を見た。


 校庭では、教師たちが生徒を集め、現在地確認を行っている。


 名前。


 所属。


 体調。


 本人意思。


 王宮命令を受けたかどうか。


 不安があるかどうか。


 それを一人ずつ確認している。


 臨時保護令が人を分類するなら、学園は名前で確認する。


 それが、この場所でできる最初の防衛だった。


 扉が叩かれた。


 ロウ教師ではない。


 彼は今、リゼたちと王宮深部へ向かっている。


 入ってきたのは、学園の副教師長と、王宮本会議からの使者だった。


 使者は王宮の正装をしているが、外套の裾には埃がついている。


 急いで来たのだろう。


 彼は深く頭を下げた。


「王宮本会議補佐官、セルディ・アーレンです。学園長殿へ、非公式ながら緊急の通達をお持ちしました」


 学園長は座ったまま、しかし丁重に頷いた。


「伺いましょう」


 セルディは文書を出した。


 そこには王宮本会議の略式印がある。


 正式布告ではない。


 だが、三点印はない。


「王宮本会議は、臨時保護令を正式承認しておりません。中央記録鐘の使用も承認しておりません。現在、王宮内部で命令系統の齟齬が発生しています」


 エレオノーラが記録する。


「本会議未承認、再確認」


 セルディは続けた。


「本会議は、王立学園による現場証拠の提出と、中央記録鐘停止の現認記録を受領しました。現時点で、学園関係者を反逆者として扱う決議は存在しません」


 副教師長が息を吐く。


 だが、学園長は表情を緩めなかった。


「存在しないことと、現場の兵がそう動かないことは違います」


 セルディは苦い顔で頷いた。


「その通りです。王宮内には、臨時調整室側の命令を継続している部隊があります」


「王宮は、いま二つに割れているのですね」


 セルディは一瞬、答えをためらった。


 だが、ここで曖昧にすれば、また空白が生まれる。


 彼は目を伏せずに答えた。


「はい。少なくとも、命令系統は二つに割れています」


 学園長室の空気が重くなる。


 エレオノーラの筆が止まらない。


 学園長は静かに言った。


「では、本校も態度を明確にします」


 彼は立ち上がった。


 窓の外、校庭に集まる生徒たちを見下ろす。


「王立学園は、本人意思なき保護拘束を認めません。王宮臨時保護令の未承認状態を確認し、学園内への分類命令流入を遮断します。生徒を分類語で引き渡しません」


 セルディが息を呑む。


「それは、王宮側の一部からは抵抗と見なされます」


 学園長は振り返った。


「抵抗ではありません。教育機関としての責務です」


 エレオノーラが顔を上げる。


 学園長は続けた。


「ただし、言葉を間違えてはなりません。本校は王宮と戦争をするのではありません。本人意思を守るため、防衛します」


 副教師長が問う。


「防衛態勢に入りますか」


「入ります。学園門の閉鎖ではなく、本人確認線の確保です。生徒を閉じ込めるのではありません。勝手に運ばせない」


 エレオノーラは頷いた。


「学園内全域に本人確認札を配布します。王宮命令札と混同されないよう、青印を使います」


「青印の文言は」


 エレオノーラはすぐに答えた。


「名前、現在地、本人意思、体調、不安の有無。保護移動の同意確認。これ以外の分類語を記載しません」


「良い」


 学園長は窓を開けた。


 校庭へ声が届くように。


 教師たちが顔を上げる。


 生徒たちも、ざわめきを止めた。


 学園長の声は大きくない。


 しかし、学園全体へ届くように、古い講堂拡声の術式が起動した。


「生徒諸君」


 校庭が静まり返る。


「王宮臨時保護令は、現時点で未承認であることが確認されました。しかし、王都各所にはまだ誤った命令札が残っています。これにより、本校の生徒、関係者、友人関係そのものが分類される危険があります」


 生徒たちは息を詰めて聞いている。


「本校は、本人意思なき保護を認めません。生徒を分類語で引き渡しません。名前を、現在地を、本人意思を確認します」


 校庭の端で、一人の下級生が涙ぐんだ。


 その隣の友人が、手を握る。


 学園長は続ける。


「これは王宮との戦争ではありません。けれど、もし誰かが君たちの名前を奪い、友人関係を危険として扱い、本人意思を消そうとするなら、本校はそれに従いません」


 エレオノーラが、その言葉を記録へ落とす。


 学園長は最後に言った。


「これは、卒業のための戦争です。誰かの名前を奪う世界から、生徒を卒業させるための」


 校庭に、静かなざわめきが広がった。


 卒業戦争。


 その言葉は、兵を集める号令ではなかった。


 剣を抜けという命令でもなかった。


 自分の名前で立て、という確認だった。


 エレオノーラは窓辺から一歩下がり、学園内記録網を開いた。


 青い光が、校舎の壁を伝う。


 教室。


 廊下。


 食堂。


 寮。


 訓練場。


 医務室。


 学園のあらゆる場所へ、細い青い線が伸びる。


 王宮の黒い命令線ではない。


 生徒が自分で応答するための線。


 最初の応答は、食堂から来た。


 料理係の老女が、少し震える字で書く。


 名前、マーヤ・レント。


 現在地、食堂。


 本人意思、生徒に温かい食事を出す。


 保護移動、同意しない。


 次に、寮監。


 名前、トルナ・ベリス。


 現在地、女子寮東棟。


 本人意思、寮生確認を継続。


 保護移動、同意しない。


 生徒たちも続く。


 名前。


 現在地。


 本人意思。


 体調。


 不安。


 次々に青い記録が増えていく。


 エレオノーラはそのすべてを見つめた。


「記録は、人を閉じ込めるためではなく、戻すためにあります」


 彼女の声は小さかった。


 しかし、そばにいた学園長には聞こえた。


 学園長は頷いた。


「ええ。今こそ、それを示しましょう」


 その頃、王宮へ向かう通路では、リゼたちが深部封印区画へ進んでいた。


 北棟から王宮深部へ向かう道は、正式な王宮正路ではない。


 旧封印管理倉庫群と王宮外縁を繋ぐ、戦後処理期の搬送路だった。


 高い石壁に挟まれ、途中に古い検問台がある。


 検問台の札には、中央記録鐘停止の白い線が走っていたが、その下にまだ黒い三点印の影が残っている。


 リゼが足を止める。


「札に残留反応あり」


 クラウスが測定具を近づけた。


「黒蔦残留。臨時保護令の全域同期は止まっていますが、局所札としてまだ機能しています。触れないでください」


 カイが眉を寄せる。


「また関係維持者とか出ますか」


「可能性があります」


 ミリアが記録板を構える。


「なら、出た言葉をそのまま記録するわ」


 エリアナは香草袋を胸に当てた。


「香草に対して、弱い反応があります。深部方向から吸われるようです」


 リゼは頷く。


「エリアナさん、無理に強めないでください」


「はい。置きません。持っています」


 旧搬送路の検問台を越えようとした時、王宮兵の一隊が横道から現れた。


 彼らは疲労と混乱を顔に浮かべている。


 先頭の兵が文書を握っていた。


 そこには白い取消線が走った臨時保護令と、その上から手書きで加えられた黒い文字がある。


 臨時調整室命令、継続。


 灰銀戦時戦力、拘束。


 旧ヴェルグラント血統関係者、隔離。


 関係維持者、分散。


 カイが低く言った。


「まただ」


 ロウ教師が一歩前へ出る。


「止まれ。先に抜くな」


 兵たちは剣の柄に手をかけたが、抜いてはいない。


 先頭の兵がリゼを見た。


「灰銀戦時戦力リゼ・グレイス、王宮深部への接近を禁ずる」


 リゼは答えた。


「私は灰銀戦時戦力ではありません。リゼ・グレイスです。アルト・レインフォード誘拐事件の追跡中です。中央記録鐘誤同期停止、臨時保護令未承認、本人救出未完了を確認しています」


 兵は顔をしかめる。


「しかし、この命令札には継続とある」


 ユリウスが前へ出た。


「その命令札は、中央記録鐘停止後に手書きで上書きされています。承認者名を確認してください」


 兵は札を見る。


 そこには三点印だけがある。


 名前はない。


 ミリアが静かに言う。


「名前がありません」


 兵の手が止まる。


「臨時調整室承認だ」


「室長名は」


「……記載なし」


「では、誰が確認した命令ですか」


 兵は答えられなかった。


 リゼは彼へ問う。


「あなたの名前を確認します」


 兵は警戒しながらも答えた。


「王宮外縁第二警備隊、ダルク・ノイ」


 ミリアが記録する。


「ダルク・ノイさん。氏名確認しました。現在、承認者名なしの命令札に基づき、リゼ・グレイス、エリアナ・ルクス・ヴェルグラント、関係者一行の通行を止めています」


 ダルクは唇を引き結んだ。


「私は、命令に従っている」


 オルドが言った。


「その命令の承認者が空白です。中央記録鐘の誤同期は停止しました。王宮本会議も臨時保護令を未承認と回答しています」


 ダルクは困惑した。


 背後の兵たちも顔を見合わせる。


 エリアナが一歩前に出た。


 カイが反射的に横へ立つ。


 エリアナは小さく頷き、兵たちへ向けて言った。


「私は、旧ヴェルグラント血統関係者として隔離されることに同意しません。エリアナ・ルクス・ヴェルグラントとして、白鐘知識を本人意思で共有し、アルトさんを孤独な音にしないために同行しています」


 兵の一人が、命令札とエリアナを見比べた。


 分類語と本人の声。


 その間で、判断が揺れている。


 カイが言った。


「俺は関係維持者じゃなくて、カイ・ロックハートです。アルトの友達です。名前を呼ぶために行きます」


 ミリアも続ける。


「ミリア・ファルネーゼです。現場記録者として同行します。本人の言葉を勝手に書き換えさせません」


 リゼは最後に言った。


「本人確認を終えました。通行妨害を継続しますか」


 ダルクは黙った。


 札は黒く光ろうとする。


 だが、中央記録鐘の支えを失っているため、弱い。


 さらに、本人の名前が重なるたび、黒い文字が薄れていく。


 ダルクはやがて、剣から手を離した。


「……通行を保留しない」


 ミリアが記録する。


「ダルク・ノイさん、通行妨害なし」


 ダルクは複雑な顔をした。


「ただし、私は深部で何が起きているのか知らない」


 リゼは頷いた。


「見たことを、見たまま記録してください」


 ダルクは小さく頷いた。


「……わかった」


 リゼたちは進む。


 背後で、兵たちが命令札を見直していた。


 王宮は割れている。


 だが、その割れ目に、人の名前が入り始めている。


 誰が確認したのか。


 誰が見たのか。


 誰が同意したのか。


 その問いが、黒い命令を少しずつ止めていた。


 搬送路の奥へ進むほど、空気は古くなる。


 王宮の華やかな香の匂いはない。


 石。


 紙。


 封蝋。


 古い布。


 そして、白鐘に似た乾いた冷気。


 エリアナの香草袋が微かに震える。


「この先、白鐘の気配が強いです」


 クラウスも頷く。


「深部封印区画に近づいています。黒蔦層も濃い。ただし、中央記録鐘のものとは違います。もっと古い王宮封印層に絡んでいる」


 ユリウスが低く言う。


「王の鐘か」


「可能性があります」


 カイがアルトの名を呼んだ。


 短く。


 低く。


「アルト」


 全員が足を止めず、しかし耳を澄ませる。


 深部方向へ伸びる銀色の線が、かすかに揺れた。


 クラウスが測定具を見る。


「反応あり。弱いですが、名前に反応しています」


 カイは少しだけ息を吐いた。


「よし」


 ミリアが言う。


「続けすぎない」


「わかってます」


 彼はもう一度だけ、小さく言った。


「聞こえてるなら、返さなくていい。俺が呼ぶ」


 銀色は、ゆっくり揺れて沈んだ。


 搬送路の終点には、大きな石門があった。


 王宮深部封印区画外縁門。


 扉には、三つの空欄がある。


 王宮本会議印。


 封印管理室長印。


 王族直轄印。


 本来なら、この三つが揃わなければ開かない。


 だが今、その三つの欄の間に、黒い三点印が滲んでいた。


 空欄を埋めるように。


 責任のない承認で、すべてを代用するように。


 ミリアが低く言う。


「また、空白に入っているわ」


 オルドは唇を引き結んだ。


「王宮本会議印なし。封印管理室長印なし。王族直轄印なし。にもかかわらず、三点印が外縁門に接続している」


 ユリウスが問う。


「開けられますか」


 クラウスは測定具を近づけ、首を横に振った。


「正規開放は無理です。三点印が空欄を偽装しています。無理に開ければ、深部側で王の鐘が反応する可能性があります」


 カイが息を詰める。


「鳴らしちゃ駄目なやつ」


「はい」


 リゼは扉を見る。


 白い古文字が、扉の中央に浮かび始めていた。


 孤独な音を、王の鐘にしてはならない。


 その下に、もう一行。


 エリアナが読み上げる。


「名を……鍵にするな」


 北棟で出た禁句の続き。


 ここでは、より直接的だった。


 名を鍵にするな。


 カイが口を閉じる。


 自分の名前呼びが、鍵になってはいけない。


 アルトを戻すために呼ぶ。


 扉を開くためではない。


 リゼも頷いた。


「名前を開門条件として使用しません。本人確認として使用します」


 ミリアが記録する。


 名を鍵にするな。


 深部外縁門白鐘文字。


 名前呼称、開門条件として使用禁止。


 本人確認として継続。


 その時、門の奥から声がした。


 人間の声。


 男とも女とも判別しにくい、平坦な声。


「王宮深部封印区画への接近を確認しました」


 全員が身構える。


 リゼは剣に手をかけない。


 ロウ教師も抜かない。


 声は続けた。


「灰銀戦時戦力。旧ヴェルグラント血統関係者。関係維持者。外部声刺激。監察局逸脱者。王立学園文書妨害者。分類済みです」


 カイが歯を食いしばる。


 ミリアが静かに記録する。


 リゼが一歩前へ出た。


「分類語を拒否します。私はリゼ・グレイスです」


 カイが続ける。


「カイ・ロックハートです」


 ミリア。


「ミリア・ファルネーゼです」


 エリアナ。


「エリアナ・ルクス・ヴェルグラントです。血を鍵として使いません」


 ユリウス。


「ユリウス・エインズワースです」


 オルド。


「オルド・ハイマンです」


 クラウス。


「クラウス・ヴァイゼルです」


 ロウ教師が最後に短く言う。


「ロウだ」


 扉の三点印が揺れた。


 だが、声は変わらない。


「個人名は処理に不要です」


 リゼの目が冷える。


「名を不要とする者に、本人意思は確認できません」


 沈黙。


 扉の奥の声は、一瞬だけ止まった。


 それから、淡々と告げた。


「本人意思は、王宮保護下で整理されます」


 ミリアが即座に言う。


「整理ではなく、確認が必要です」


 ユリウスも続ける。


「保護下に置いた後で本人意思を作ることは、本人確認ではありません」


 声は応じない。


 代わりに、門の黒い三点印が濃くなった。


「孤独な音は、王宮の混乱を収めるために必要です」


 カイが一歩出た。


「アルトは必要な道具じゃない!」


 リゼも言う。


「アルトさんを孤独な音として扱うことを認めません」


 エリアナが白い文字を見る。


「王の鐘にしてはならないと、ここに出ています」


 声は初めて、わずかに揺れた。


「白鐘の旧語は、解釈済みです」


 クラウスが低く言う。


「解釈済み、ですか」


 ミリアが記録する。


 白鐘旧語、臨時調整室側により解釈済みとの発言。


 オルドが扉へ向かって言った。


「あなたは臨時調整室の者ですか」


 声は答えた。


「臨時調整室長、在室」


 その文字が、扉の上に黒く浮かんだ。


 臨時調整室長、在室。


 しかし、名前はない。


 肩書きだけ。


 空白の中心。


 王宮の中に作られた、もう一つの王宮。


 責任なき承認の奥にいる者。


 リゼは扉を見据えた。


「室長名を確認します」


 声は答えない。


「名前を確認します」


 沈黙。


「名は不要です」


 リゼは言った。


「不要ではありません。現場記録に必要です」


 ミリアが記録板を掲げる。


「臨時調整室長、氏名確認を拒否。名は不要と発言」


 扉の黒い三点印が強く揺れた。


 名を記録されることを嫌う。


 それ自体が、敵の性質を示している。


 その時、深部方向の銀色が強く震えた。


 クラウスが測定具を見る。


「アルト君の反応、上昇!」


 カイが扉へ向けて叫びそうになる。


 だが、すぐに声を整えた。


「アルト。俺だ。カイ。扉を開けるためじゃない。お前を戻すために名前を呼ぶ。アルト」


 銀色が震える。


 扉の黒い三点印が、その反応を吸おうとする。


 リゼが即座に言う。


「名前呼称を開門に使用しません。アルトさんを鍵にしません」


 エリアナが香草袋を持ち上げる。


「香草を届けます。王の鐘へ行くためではなく、戻るために」


 白い文字が強く光った。


 名を鍵にするな。


 孤独な音を、王の鐘にしてはならない。


 門の奥から、アルトの銀色が一瞬だけ浮かんだ。


 文字になる。


 遠く、震えながら。


 よばれてる。


 カイの顔が歪む。


 リゼはすぐに言った。


「“よばれてる”を確認しました。呼ばれていることと、行きたいことは違います。アルトさん、無理に応答しなくていいです」


 銀色が揺れる。


 次の文字は出ない。


 ミリアが記録する。


 よばれてる。


 深部方向銀色反応。


 呼び声と本人意思を分離。


 リゼは深部外縁門へ向き直った。


「臨時調整室長。アルトさんは呼ばれていると伝えました。本人が行きたいと確認したわけではありません」


 声は淡々と返す。


「呼応は適性です」


「適性は同意ではありません」


「反応は機能です」


「反応は情報です。判決ではありません」


 リゼの言葉に、扉の黒い三点印がまた揺れた。


 カイが低く言った。


「アルトは機能じゃない」


 エリアナも続ける。


「孤独な音でもありません」


 ミリアが記録しながら言う。


「そして、私たちは関係維持者ではなく、名前のある同行者です」


 扉の奥の声はしばらく黙った。


 その沈黙の奥で、遠く、低い振動が始まる。


 中央記録鐘ではない。


 もっと深い。


 もっと古い。


 王宮の床下から響くような、無音に近い震え。


 クラウスの測定具がゆっくり沈む。


「深部側で、別の鐘系統が反応しています」


 エリアナが白くなる。


「王の鐘……」


 リゼは青いリボンに触れた。


 戻るための目印。


 彼女は深部外縁門を見た。


 王宮は二つに割れた。


 学園は防衛態勢に入った。


 王都には未承認の命令と、それを見直そうとする人の名が混ざっている。


 そして、王宮深部では、アルトを呼ぶ鐘が動き始めている。


 リゼは言った。


「王の鐘反応を確認。アルトさんを王の鐘にしません」


 カイが並ぶ。


「名前を呼ぶ。鍵じゃなくて、友達として」


 エリアナが香草袋を握る。


「白鐘の意味を戻します」


 ミリアが記録板を構える。


「分類語ではなく、名前で進みます」


 深部外縁門の白い文字が、もう一度強く光った。


 孤独な音を、王の鐘にしてはならない。


 その下で、黒い三点印がゆっくりと開くように滲んだ。


 門はまだ開かない。


 けれど、その奥で、王宮のもう一つの心臓が確かに動き始めていた。


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