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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第11章 第15話:灰銀確保命令


 王宮中央塔の内側は、音がなかった。


 石の通路。


 高い天井。


 壁に埋め込まれた記録札。


 細い窓から差し込む朝の光。


 どれも静かだった。


 だが、静かだからといって、何も動いていないわけではない。


 白い石壁の奥で、黒い蔦が脈を打っている。


 床下を伝い、壁を這い、見えない鐘室へ向かって伸びている。


 王宮中央記録鐘は鳴っていない。


 けれど、塔全体が低く震えていた。


 耳で聞こえる音ではない。


 骨の奥に触れるような振動。


 北棟第二保管層の扉を冷やし、臨時保護令を王都全体へ同期し、アルト・レインフォードの銀環を遠くから押さえつけている無音の鐘。


 リゼ・グレイスは、中央塔監察門を越えた通路に立っていた。


 前にロウ教師。


 横にミリア・ファルネーゼ。


 少し後ろにユリウス・エインズワースとオルド・ハイマン。


 さらに後ろに連絡役二名。


 全員が、声を低くしている。


 ここでは、大きな声がどう作用するかわからない。


 黒蔦は声を拾う。


 名前を拾う。


 署名を拾う。


 分類へ変える。


 だから、短く、正確に話す。


 リゼは右手を握り、開いた。


「身体異常なし。右腕冷却感、軽度継続。耳奥圧迫感あり。感情、怒り、恐怖、焦燥。判断継続可能」


 ミリアがすぐに記録した。


「確認したわ」


 彼女の声は落ち着いている。


 だが、リゼは知っている。


 ミリアの指先も冷えている。


 それでも記録を止めない。


 北棟に残ったカイは、アルトの名前を呼び続けているはずだ。


 エリアナは香草袋を持っているはずだ。


 クラウスは冷却反応を測っているはずだ。


 セイル・ハルトは王宮兵として現場を見ているはずだ。


 扉前の声は途切れていない。


 だから、リゼはここに来られた。


 消えたのではない。


 関係線を維持して、別の場所から戻るために来ている。


 リゼは通路の奥を見た。


 白い石壁に、黒い文字が浮かび始めていた。


 中央記録局臨時通達。


 灰銀戦時戦力リゼ・グレイス。


 王宮命令網妨害の疑いにより、即時確保対象。


 その文言は、北棟で見たものと同じだった。


 しかし、ここではさらに濃い。


 壁そのものが、その命令を吐き出している。


 ミリアが低く言った。


「塔内にも出ているわ」


 ユリウスが文書束を抱え直す。


「中央記録局の内部表示です。正式同期済みとして扱われています」


 オルドが顔を険しくする。


「灰銀確保命令が、中央塔内の兵にも流れています」


 ロウ教師が短く言った。


「来るな」


 その言葉が終わる前に、通路の先から足音が響いた。


 王宮記録局警備兵。


 濃紺の外套。


 胸に中央記録局の印。


 その横に、小さな三点印が付いている。


 三人。


 さらに奥に二人。


 彼らはリゼたちを見るなり、手にした黒縁文書を開いた。


「灰銀戦時戦力リゼ・グレイス。王宮中央記録鐘への干渉疑義により、即時身柄確認を行う」


 通路の空気が凍った。


 リゼは一歩前に出た。


 剣には触れない。


 右手は開いたまま。


「私は灰銀戦時戦力として確認されません」


 兵の眉が動く。


 リゼは続けた。


「リゼ・グレイスです。アルト・レインフォード誘拐事件の現認者として、中央記録鐘の未承認誤同期を確認に来ました。監察局緊急確認権限、王立学園現場証拠保持者同行、封印管理室否認、本会議未承認回答を所持しています」


 兵は文書を見る。


「中央記録局表示では、灰銀戦時戦力は危険分類です」


「危険分類は本人確認ではありません」


 リゼの声は冷静だった。


「私の現在地、目的、同行者、本人意思を確認してください」


 ミリアが一歩横へ出る。


「ミリア・ファルネーゼです。現場記録者として同行しています。リゼ・グレイス本人は、身柄確認のための移動に同意していません」


 ユリウスも証拠束を開く。


「ユリウス・エインズワース。王立学園代表補助。学園長抗議文を保持しています。灰銀確保命令は、王宮本会議未承認の臨時保護令に接続しています」


 オルドが監察局緊急封筒を示した。


「オルド・ハイマン。王宮監察局補助室上席監察官。中央記録鐘無許可使用の疑いについて、監察局長代理より現場確認権限を一時付与されています」


 兵たちは一瞬、互いに視線を交わした。


 しかし、壁の黒文字が強く光る。


 灰銀戦時戦力。


 即時確保。


 王宮命令網妨害。


 その文言が、兵たちの判断を押している。


 先頭の兵が言った。


「それでも、中央記録局表示が優先される」


 ロウ教師が低く問う。


「お前の名前は」


 兵が動きを止める。


「何?」


「名前だ。肩書きではなく」


 兵は眉を寄せた。


「中央記録局警備隊、第三班――」


「名前」


 ロウ教師の声は短い。


 兵は一瞬黙った。


「……ガレン・トール」


 ミリアがすぐに記録する。


「ガレン・トールさん。中央記録局表示を、本人確認より優先すると発言」


 ガレンの顔色が変わった。


「いや、私は命令に基づき――」


「記録します」


 ミリアの声は柔らかい。


 だが、逃さない。


「命令に基づき、中央記録局表示を本人確認より優先しようとしている。そう記録します」


 ガレンは言葉に詰まった。


 リゼは彼を見る。


「ガレン・トールさん。あなたは、私本人の現在地、目的、同行者、本人意思を確認しましたか」


「……今、聞いた」


「では、記録してください。私は身柄確認に同意していません」


 黒文字が壁で揺れた。


 灰銀戦時戦力、という文字の端がわずかに崩れる。


 ミリアがそれを見逃さない。


「名前で確認すると、表示が揺れるわ」


 オルドが頷く。


「中央塔内でも同じです。分類表示は、本人確認に弱い」


 奥の兵の一人が苛立ったように言った。


「通すわけにはいかない。灰銀は危険戦力だ」


 その言葉に、黒い蔦が壁から伸びた。


 リゼの足元へ。


 灰銀。


 危険戦力。


 戦時称号。


 戦力分類。


 リゼの過去を、今の彼女から切り離して使う言葉。


 リゼは足を引かなかった。


「私は灰銀ではありません」


 黒蔦が止まる。


「私はリゼ・グレイスです」


 ミリアが続けた。


「彼女は本校生徒です」


 ユリウスが言った。


「王宮の道具ではありません」


 ロウ教師が低く加える。


「戦場に戻すな」


 黒蔦が震えた。


 壁の文字が歪む。


 灰銀戦時戦力。


 その下から、別の表示が浮かびかける。


 リゼ・グレイス。


 しかし、すぐに黒蔦が覆おうとする。


 リゼはその文字を見た。


 自分の名前が、壁の中で押し潰されかけている。


 王宮の記録が、自分を灰銀に戻そうとしている。


 ここで折れれば、北棟のアルトも同じだ。


 アルトではなく銀環反応対象。


 エリアナではなく旧ヴェルグラント血統関係者。


 ミリアではなく関係維持者。


 カイではなく外部声刺激。


 その連鎖を止めるには、名前を戻し続けるしかない。


 リゼははっきり言った。


「リゼ・グレイスとして、中央記録鐘外部制御室へ進みます」


 壁の黒文字が、さらに揺れた。


 ガレン・トールは唇を引き結び、文書を見た。


 そこには、即時確保とある。


 しかし、目の前の少女は名乗り、本人意思を示し、証拠を持っている。


 彼はゆっくり、道を半歩開けた。


「……中央記録鐘確認行動として、通行を一時保留しない」


 ミリアがすぐに記録する。


「ガレン・トールさん、通行妨害なし」


「私は、完全に許可したわけでは」


「通行妨害なし、と記録します。ありがとうございます」


 ガレンは複雑な顔をした。


 リゼは彼へ短く頷いた。


「確認しました」


 隊列は進んだ。


 背後で、壁の黒文字が不安定に揺れている。


 灰銀戦時戦力。


 リゼ・グレイス。


 二つの言葉が、石壁の中でぶつかっていた。


 通路を進むほど、無音の振動は強くなる。


 リゼの耳奥が圧迫される。


 胸の奥も冷える。


 北棟のアルトは、この振動をもっと直接受けているのだろう。


 銀環を通じて。


 冷却層を通じて。


 黒布を通じて。


 リゼは足を速めそうになり、抑えた。


 扉へ走るな。


 ここでも同じだ。


 中央記録鐘へ走ることも、罠かもしれない。


 急ぐ。


 だが、走らない。


 ロウ教師が横目で見た。


「状態」


「耳奥圧迫感、増加。右腕冷却、変化なし。判断継続可能」


「よし」


 ミリアが低く言う。


「北棟への定時連絡まで少しよ」


 連絡役が後ろから頷いた。


 リゼは歩きながら言った。


「伝達文を準備します。リゼ・グレイス、中央塔内部通過中。灰銀確保命令に対し、本人意思で身柄確認拒否。分類表示、本人確認により揺らぎあり。中央記録鐘へ向け移動継続。関係線維持」


 連絡役が復唱する。


「リゼ・グレイス、中央塔内部通過中。灰銀確保命令に対し、本人意思で身柄確認拒否。分類表示、本人確認により揺らぎあり。中央記録鐘へ向け移動継続。関係線維持」


 ミリアが頷く。


「良好よ」


 連絡役が走り去る。


 北棟へ。


 カイのいる場所へ。


 アルトのいる扉へ。


 声の線を切らさないために。


 中央塔の階段は、螺旋状に上へ伸びていた。


 壁には古い記録札が埋まっている。


 王都門の開閉。


 税記録。


 兵配置。


 避難経路。


 災害時の物資流通。


 本来なら、人々を守るための記録が並んでいる。


 だが、その隙間に黒蔦が入り込んでいた。


 旧い札の縁から、新しい黒い線が伸びている。


 そこに、三点印が浮かぶ。


 ユリウスが顔をしかめる。


「中央記録局の古い札まで侵食されている」


 オルドが低く言う。


「中央記録鐘だけではなく、周辺記録札も使われています。だから布告が早かった」


 ミリアが問う。


「いつから?」


 オルドは首を横に振る。


「現時点では不明です。ただ、今日突然ではない。少なくとも灰銀一七経路再利用、白鐘紙、本人意思偽造文書の準備段階から、中央記録局の一部が使われていた可能性があります」


 リゼは階段を上りながら、壁の札を見る。


 そこに、灰銀一七の文字が一瞬だけ浮いた。


 古い通行記録。


 再利用可。


 その文字が黒く光り、すぐに消える。


 リゼは足を止めかけた。


 ミリアが横から声をかける。


「今のも記録するわ。あなたが全部背負う必要はない」


「確認しました」


 リゼは息を吸う。


「灰銀一七経路再利用表示、中央塔内部記録札にも確認。本人承認なし」


 ミリアが記録する。


 ユリウスが言う。


「王宮内の複数経路で、リゼさんの戦時識別番号が通行根拠として使われている」


 オルドが苦く頷く。


「それが中央記録鐘に接続されていれば、灰銀確保命令も通りやすくなります。過去の戦時記録を、現在の危険分類に変換している」


 リゼは低く言った。


「私の過去確認を、現在の本人意思に変換することを認めません」


 壁の黒蔦が揺れた。


 階段の先から、さらに強い冷気が下りてくる。


 中央記録鐘外部制御室が近い。


 その手前に、広い踊り場があった。


 そこに、王宮記録局の高位職員らしき男が立っていた。


 灰色の長衣。


 胸に中央記録局の正式印。


 その右手の手袋に、三点印。


 隠していない。


 男は穏やかに微笑んだ。


「ここから先は、中央記録局管理区域です」


 オルドが前へ出る。


「中央記録鐘無許可使用の現場確認です。監察局緊急確認権限により通行を求めます」


 男はオルドを見た。


「ハイマン上席監察官。あなたの権限は、現在一時停止されています」


 オルドの顔が固まる。


 男が手元の文書を開く。


「臨時保護令発布下において、王宮命令網妨害に関与した疑い。監察局補助室上席監察官オルド・ハイマン、職務確認対象」


 ミリアがすぐに記録する。


「オルドさんへの職務確認対象表示」


 ユリウスが文書を見る。


「また中央記録局表示ですか」


 男は穏やかなままだ。


「正式表示です」


 リゼは言った。


「正式表示は本人確認ではありません」


 男の視線がリゼへ移る。


「灰銀戦時戦力が、ここまで来るとは」


「私は灰銀戦時戦力ではありません」


「中央記録局はそう分類しています」


「本人確認を行ってください」


 男は笑みを深めた。


「本人確認は、保護後に行われます」


 カイがいれば怒鳴っただろう。


 しかしここにはいない。


 代わりに、ミリアが静かに言った。


「保護後の本人確認は、本人意思確認ではありません」


 ユリウスが続ける。


「拘束後に同意を取ることを、事前同意とは呼びません」


 オルドも言った。


「中央記録鐘の使用許可記録を提示してください」


 男は答えない。


 リゼは男を見た。


「あなたの名前を確認します」


 男の笑みが、わずかに止まった。


「必要ありません」


「必要です。現場記録のためです」


 男は無言でリゼを見た。


 名前を出さない。


 また、空白。


 ミリアが記録した。


「中央記録局高位職員、氏名確認を拒否」


 男のこめかみがわずかに動く。


「記録の権限は、中央記録局にあります」


「現場記録の権限は、現認者にあります」


 ミリアは微笑まなかった。


「私はミリア・ファルネーゼとして、ここで見たことを記録しています」


 男の手袋の三点印が黒く光った。


 周囲の壁に黒い文字が浮かぶ。


 関係維持者ミリア・ファルネーゼ。


 王宮命令網妨害補助。


 保護拘束準備。


 リゼが一歩横へ出る。


「ミリアさんを関係維持者として拘束することを認めません」


 ミリアがすぐに言う。


「私はミリア・ファルネーゼです。本人意思として、拘束に同意しません」


 黒文字が揺れる。


 男が言った。


「あなた方は、保護対象の周辺で感情的に動いている」


 リゼは答える。


「感情はあります。怒り、恐怖、焦燥。判断は継続可能です」


 ミリアが記録する。


「感情あり、判断継続可能」


 男の笑みが消えかける。


 リゼは続けた。


「アルトさんの寒さ、声のなさ、恐怖を確認しています。感情を理由に本人確認を停止しません」


「アルト・レインフォードは保護管理下です」


「本人は“ここ”“さむい”“こえ”“ぼく”“ひとりではない”“なまえ”“こわい”“でも”“ひらくな”“みんな”“いかないで”“まってる”と反応しています」


 男の手袋が強く黒く光った。


 まってる。


 その言葉を出した瞬間、黒蔦が壁から伸びる。


 男は低く言った。


「それは、保護管理下での反応記録です。外部に解釈権はありません」


 リゼの目が冷える。


「本人の言葉の解釈権を、中央記録局が独占することを認めません」


 ユリウスが強く言う。


「王立学園は、アルト・レインフォード本人の反応記録を所持しています。中央記録局がそれを一方的に保護同意へ変換することに抗議します」


 オルドが男へ問う。


「中央記録鐘の使用許可記録を提示してください」


 男はまた答えない。


 沈黙。


 それが答えだった。


 ミリアが記録する。


「中央記録鐘使用許可記録、提示なし」


 男の背後で、外部制御室の扉が黒く光った。


 扉には中央記録局の正式印。


 その上に、三点印。


 さらに黒蔦が絡み、鍵穴の周囲に白鐘の歪んだ紋様が浮かんでいる。


 クラウスがいれば、もっと詳しく読めただろう。


 だが、今ここにクラウスはいない。


 リゼは扉を見た。


 鐘を鳴らすな。


 扉へ走るな。


 王の血で叩くな。


 中央塔のこの扉もまた、罠かもしれない。


 リゼは剣に手をかけなかった。


「外部制御室扉の開放条件を確認します」


 男が言う。


「開ける必要はありません」


「必要があります。中央記録鐘の未承認誤同期を停止するためです」


「それは反逆です」


「未承認の命令同期停止は、反逆ではありません」


 壁の黒文字が一斉に光った。


 反逆。


 灰銀戦時戦力。


 関係維持者。


 職務確認対象。


 その言葉が通路を埋める。


 同時に、遠くから連絡役の足音が聞こえた。


 北棟からの伝達だ。


 兵たちが止めようとするが、ロウ教師が前に出る。


「通せ」


 短い一言。


 それだけで兵が足を止めた。


 連絡役が息を切らしながら、文面を復唱する。


「北棟扉前より伝達。カイ・ロックハート、名前呼称継続。エリアナ・ルクス・ヴェルグラント、香草反応維持。クラウス・ヴァイゼル、中央塔方向からの無音同期増加を確認。アルト・レインフォード、銀色文字表示」


 リゼの全身が反応した。


「文字は」


 連絡役は息を整え、はっきり言った。


「“まってる”“リゼ”」


 通路の黒文字が揺れた。


 ミリアの手が止まりかける。


 カイが北棟でどう声を繋いだのか。


 エリアナの香草がどれほど細く届いたのか。


 アルトがどれほどの冷えの中で、その二つを書いたのか。


 リゼは、その全てを一瞬で考え、すぐに声を整えた。


「“まってる”“リゼ”を確認しました。本人反応可能性。返答を作成します」


 ミリアが記録する。


 リゼは外部制御室前の男を見たまま言った。


「返信。リゼ・グレイス、中央記録鐘外部制御室前。灰銀確保命令に対し、リゼ・グレイスとして本人意思を確認中。中央記録鐘の誤同期停止を継続。戻る導線維持。アルトさんを孤独な音にしません」


 連絡役が復唱する。


 そして、北棟へ走って戻っていく。


 男はそのやり取りを見て、初めて明確に不快な顔をした。


「関係線を維持しすぎている」


 リゼは彼を見る。


「それが目的です」


「だから危険なのです」


「友人関係を危険分類にすることを認めません」


 男の手袋の三点印が黒く燃える。


 外部制御室の扉が反応し、壁に新たな命令が浮かぶ。


 灰銀戦時戦力、確保実行。


 関係維持者ミリア・ファルネーゼ、拘束補助対象。


 王立学園代表補助ユリウス・エインズワース、文書妨害対象。


 監察局補助室上席監察官オルド・ハイマン、職務停止対象。


 男は静かに言った。


「これ以上は、中央記録局の秩序を守るため、保護拘束を行います」


 ロウ教師が低く言う。


「誰も先に抜くな」


 リゼは頷く。


「はい」


 兵たちが動こうとした。


 その瞬間、ミリアが前に出た。


 リゼを庇うようにではない。


 記録板を掲げるために。


「保護拘束実行前に、全員の名前を確認します」


 兵たちが止まる。


 ミリアの声は、通路の黒い文字よりも静かで、強かった。


「分類ではなく、名前を。あなた方が誰として、本人意思のない拘束に関与するのかを記録します」


 兵たちの足が止まる。


 ガレン・トールが背後から言った。


「……待て」


 男が振り返る。


「ガレン」


 ガレンは顔をこわばらせながらも、一歩前に出た。


「中央記録鐘使用許可記録が提示されていません。監察局緊急確認権限も提示されています。即時拘束は、現場判断として危険です」


 男の目が冷える。


「中央記録局表示に逆らうのか」


 ガレンは唇を引き結ぶ。


「私は、ガレン・トールとして、現場で未確認事項があると記録します」


 その言葉に、壁の黒文字が大きく揺れた。


 灰銀確保命令の一部が崩れる。


 リゼはガレンを見た。


「確認しました」


 男の手袋から黒蔦が伸びた。


 ガレンへ向かう。


 リゼは動いた。


 剣は抜かない。


 だが、ガレンと黒蔦の間へ入る。


 右手に短い防護布を広げ、黒蔦を受ける。


 冷たい衝撃。


 右腕が凍るように痺れる。


 だが、リゼは下がらない。


「王宮兵への現場証言妨害を確認」


 ミリアが即座に記録する。


「黒蔦によるガレン・トールさんへの干渉。リゼさん、防護」


 オルドが叫ぶ。


「中央記録局職員による現認者妨害として記録します!」


 ユリウスが文書を掲げる。


「学園長名で抗議します!」


 黒蔦が一瞬鈍った。


 記録されることを嫌うように。


 リゼの右腕の冷えが増す。


 ミリアがすぐに声をかける。


「リゼさん、状態」


「右腕冷却増加。握力、低下軽度。行動継続可能。感情、怒り強」


「確認したわ。下がれる?」


「下がりません。ただし、単独突出しません」


 ロウ教師が横に出る。


「よし」


 男の顔から笑みが消えた。


「灰銀は、やはり危険だ」


 リゼは答えた。


「私は灰銀ではありません。リゼ・グレイスです」


 その瞬間、北棟からの連絡役が再び声を上げた。


 走り戻る途中だった別の連絡役だ。


「北棟扉前、追加伝達!」


 全員が一瞬そちらを見る。


 連絡役は叫ばず、しかしはっきりと文面を届けた。


「アルト・レインフォード、銀色文字表示。“リゼは、リゼ”」


 通路の空気が変わった。


 黒い文字が一斉に揺れる。


 灰銀戦時戦力。


 危険分類。


 即時確保。


 そのすべての下から、リゼ・グレイスという文字が浮かぶ。


 リゼは息を吸った。


 冷えた右腕。


 中央塔の無音振動。


 目の前の三点印。


 背後のミリア。


 北棟のカイ。


 香草を持つエリアナ。


 扉の奥のアルト。


 その全てを、同時に確認した。


「返信」


 リゼは言った。


「リゼ・グレイス、確認しました。アルトさんはアルトさんです。私はリゼです。中央記録鐘の誤同期を止めます。戻ります」


 連絡役が復唱し、走り出す。


 男が手を上げた。


「止めろ!」


 兵が動きかける。


 しかしガレンが、今度は明確に立ちはだかった。


「現場伝達を止める根拠がありません」


 男が睨む。


「ガレン・トール、命令違反だ」


 ガレンは顔を青くしながらも言った。


「命令の承認記録が提示されていません」


 その瞬間、外部制御室の扉が大きく震えた。


 黒い蔦が剥がれ、中央記録局の正式印が一瞬だけ白く光る。


 オルドが叫ぶ。


「今です! 扉の中央記録局層が、三点印から分離しています!」


 ユリウスが証拠束を扉へ掲げる。


「中央記録鐘使用許可記録なし。王宮本会議未承認。封印管理室生体収容承認なし。監察局署名偽造。学園長抗議。現認者複数。外部制御室の開放を要求します」


 ミリアが続ける。


「本人反応記録、“ここ”“さむい”“こえ”“ぼく”“ひとりではない”“なまえ”“こわい”“でも”“ひらくな”“みんな”“いかないで”“まってる”“リゼ”。これを正式完了記録では消せません」


 オルドが前へ出る。


「オルド・ハイマンとして、中央記録鐘無許可同期の現場確認を要求します」


 リゼが最後に言った。


「リゼ・グレイスとして、誤った完了記録の停止を要求します」


 扉の白い正式印が強く光った。


 三点印が黒く反発する。


 男が手袋を押さえる。


「開くな」


 その言葉に、リゼの目が細くなった。


 ひらくな。


 アルトが伝えた言葉。


 ここで男が言った「開くな」は違う。


 自分たちを止めるための言葉だ。


 リゼは言った。


「これは罠の開放ではありません。誤同期確認のための正式監察開放です」


 ミリアが即座に記録する。


「罠開放ではない。正式監察開放」


 扉が、重い音を立てた。


 中央記録鐘外部制御室の扉が、少しずつ開いていく。


 奥から、黒い冷気と白い鐘の振動が流れ出した。


 リゼの右腕がさらに冷える。


 だが、彼女は一歩踏み出した。


 男が叫ぶ。


「灰銀戦時戦力を止めろ!」


 ガレンが叫び返した。


「リゼ・グレイスです!」


 その声が通路に響いた。


 兵たちが止まる。


 黒い文字がまた崩れる。


 リゼは振り返らなかった。


 外部制御室の中には、巨大な記録盤があった。


 円形の盤。


 王都全域へ伸びる細い記録線。


 その中央に、鐘の形をした白い核。


 本来なら白く静かに光るはずの中央記録鐘の制御核。


 しかし今、その周囲には黒い蔦が巻きついていた。


 三点印が、核の下に浮かんでいる。


 黒蔦は、北棟第二保管層へ伸びる線を特に太くしていた。


 そこから冷気が流れている。


 アルトへ。


 リゼはそれを見た瞬間、胸の奥が凍りついた。


「北棟第二保管層線を確認」


 ミリアが後ろで記録する。


 オルドが顔を歪める。


「中央記録鐘が、第二保管層の冷却強化を直接支えています」


 ユリウスが言う。


「止めましょう」


 リゼは頷いた。


 だが、黒蔦の上に新しい文字が浮かぶ。


 停止実行には、灰銀戦時戦力承認を要求。


 リゼの目が冷えた。


 最後まで、自分を灰銀として使うつもりだ。


 中央記録鐘の誤同期停止さえ、灰銀戦時戦力の承認として記録しようとしている。


 リゼは首を横に振った。


「拒否します」


 黒蔦が揺れる。


 リゼは制御核へ向けて、はっきり言った。


「灰銀戦時戦力として承認しません。リゼ・グレイスとして、未承認誤同期の停止を要求します」


 黒蔦が強く反発する。


 右腕の冷えが肩まで上がる。


 ミリアが声を飛ばす。


「リゼさん、一人で触らない!」


「了解しました」


 リゼは手を止める。


 ユリウスが証拠束を制御盤の読み取り台へ置く。


 オルドが監察局緊急封筒を重ねる。


 ミリアが現場記録を置く。


 リゼは青いリボンに触れた。


 戻るための目印。


 そして言った。


「証拠複数、現認者複数、本人反応複数。単独承認ではなく、現場確認として停止を要求します」


 制御核が白く揺れた。


 黒蔦が剥がれかける。


 北棟へ伸びる線の冷気が、少しだけ弱まった。


 遠く、伝達線の向こうで、カイの声がかすかに聞こえた気がした。


 アルト。


 リゼは制御核を見据えた。


「この鐘が嘘を完了させるなら、私はその完了を止めます」


 黒蔦が、悲鳴のように軋んだ。


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