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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第11章 第13話:王宮内の空白


 関係維持者、分散保護へ移行。


 その黒い文字が、北棟第二保管層の扉に浮かんでいた。


 分散保護。


 きれいな言葉だった。


 守るために離す。


 危険を分ける。


 混乱を避ける。


 王宮文書は、そう読ませるように書かれている。


 だが、リゼ・グレイスはもう知っている。


 それは関係遮断だ。


 アルト・レインフォードを一人にするための手順。


 リゼを「灰銀戦時戦力」として別に運ぶ手順。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラントを「旧ヴェルグラント血統関係者」として隔離する手順。


 ミリア・ファルネーゼを「関係維持者」として記録から外す手順。


 カイ・ロックハートの声を、外部声刺激として抑制する手順。


 保護という名で、ひとりずつ離していく。


 リゼは扉の前から動かなかった。


 扉の奥では、銀色の文字がまだ残っている。


 こわい。


 でも。


 ひとりではない。


 黒蔦がそれを消そうとしている。


 しかし、完全には消えない。


 白鐘の警告も残っている。


 鐘を鳴らすな。


 扉へ走るな。


 王の血で、扉を叩くな。


 それらが、黒い臨時保護令の下で、細く光り続けていた。


 カイ・ロックハートは、扉と王宮兵たちの間に立っている。


 彼の声は少し枯れていた。


 何度もアルトの名前を呼んだからだ。


 それでも、呼び方は乱れていない。


 大声で押し潰さない。


 届く長さで呼ぶ。


 ミリアが決めた順番を守っている。


 エリアナは香草袋を胸に当てたまま、カイの斜め後ろに立っている。


 彼女も動かない。


 香草袋を置かない。


 血を鍵にしない。


 旧王家の名を承認印にしない。


 自分のものとして、戻るための匂いを持っている。


 ミリアは記録板を抱え、分散保護の文字を写した。


「分散保護、関係遮断として記録。本人意思確認なし。移動不同意。現場関係維持継続」


 彼女の筆先は、冷気のせいで少し硬くなっている。


 それでも、文字は崩れなかった。


 リゼは頷く。


「確認しました」


 王宮封印管理兵セイル・ハルトは、臨時保護令の写しを持ったまま固まっていた。


 彼には命令がある。


 関連対象を分散保護へ移行。


 だが、彼は扉に浮かぶ銀色の文字を見た。


 「ここ」も。


 「なまえ」も。


 「ひとりではない」も。


 そして今、自分の名前で現認記録に署名している。


 セイルは、命令文から目を上げた。


「分散保護について、現場で本人意思が確認されていません」


 声は大きくなかった。


 だが、周囲の兵が聞くには十分だった。


 ミリアが即座に記録する。


「セイル・ハルト、分散保護の本人意思未確認を指摘」


 セイルの喉が動く。


 自分の言葉が記録された。


 後戻りしづらい場所へ、一歩進んだ自覚があるのだろう。


 それでも彼は続けた。


「また、第二保管層内から“ひとりではない”と表示されている以上、関係者を分散させる命令は、内部者の状態に影響を与える可能性があります」


 クラウス・ヴァイゼルが測定具を見て頷いた。


「その通りです。関係声の停止時、冷却反応が上がる傾向があります。分散保護は内部冷却を悪化させる可能性がある」


 オルド・ハイマンがセイルを見た。


 その目に、わずかな驚きがあった。


 王宮兵が、命令文ではなく現認事実から疑義を述べた。


 その意味を、彼は理解している。


 オルドは静かに言った。


「今の発言は重要です。現場兵からの命令実施上の疑義として記録してください」


 ミリアが頷く。


「記録済みです」


 臨時調整室枠が、黒く揺れた。


 扉の上の分散保護の文字が、一瞬だけ乱れる。


 黒蔦は現場証言を嫌っている。


 リゼはそれを見た。


「現認者の疑義が、黒蔦層に作用しています」


 クラウスが頷く。


「はい。記録の壁は、現実に基づく複数証言に弱い。特に王宮側人員の証言は効いています」


 カイがセイルを見る。


「じゃあ、もっと見てください。見たことを、そのまま」


 セイルはカイを見返した。


 少年同士と言うには立場が違う。


 一方は学園の生徒。


 一方は王宮兵。


 だが、今、二人は同じ扉を見ている。


 セイルは頷いた。


「見ています」


 カイは扉へ向き直った。


「アルト。見てる人、増えてる。命令だけじゃなくて、ちゃんと見てる」


 扉の奥で、銀色が揺れた。


 弱い。


 だが、返った。


 ミリアが時計を見る。


「次の呼びかけ、短くなら可能よ」


 リゼは頷いた。


「アルトさん。リゼ・グレイスです。分散保護命令が出ています。私たちは関係遮断として記録し、拒否しています。現場兵セイル・ハルトさんも、本人意思未確認を指摘しました。あなたを一人にしません」


 カイが続ける。


「アルト。カイだ。俺、ここにいる。分散しない。名前を呼ぶ。アルト」


 ミリア。


「ミリアです。記録を切りません。あなたの“ひとりではない”を、保護継続の理由にはしません」


 エリアナ。


「エリアナです。香草袋はここにあります。私のものとして持っています。血ではなく、匂いと名前でここにいます」


 オルド。


「オルド・ハイマンです。分散保護命令に異議を申し立てています。本人意思のない分散を保護とは認めません」


 クラウス。


「クラウス・ヴァイゼルです。冷却反応を記録しています。関係声の維持が内部負荷低下に作用しています」


 銀色が、黒膜の奥で小さく灯った。


 文字にはならない。


 だが、消えない。


 リゼは言った。


「反応確認。無理に文字化しなくていいです」


 銀色は静かに揺れ、沈んだ。


 扉の黒い文字はまだ残っている。


 分散保護。


 しかし、その輪郭は少し崩れていた。


 ユリウス・エインズワースは、王宮から届いた複数の文書を仮設机に並べていた。


 臨時保護令。


 反逆警告文。


 外部干渉停止命令。


 王宮保護移送正式完了通知。


 第二保管層の封印札写し。


 臨時調整室長承認紙片。


 監察局補助室署名偽造文書。


 それらは、すべて王宮の正式文書の形をしている。


 だが、印の組み合わせが異常だった。


 王宮正式印。


 中央記録局印。


 保護管理局印。


 臨時調整室の三点印。


 そして、あるべき印がない。


 ユリウスは言った。


「王宮本会議印がありません。封印管理室の正式承認印も、本文の承認欄にはない。監察局補助室の署名は偽造。にもかかわらず、中央記録局の同期印だけが動いている」


 オルドはその文書を見下ろした。


「中央記録局を経由すれば、王宮全体の命令に見せられます」


 ミリアが問う。


「でも、本来は途中に複数の承認が必要なのよね」


「はい」


 オルドは文書の一枚を指した。


「保護管理局が保護処理を出す。封印管理室が封印層使用を承認する。監察局が手続き違反を確認する。王宮本会議または緊急上席会議が全体令を承認する。中央記録局は、それを同期する」


 カイが難しい顔をした。


「つまり、中央記録局は連絡板みたいなものですか」


 オルドは少しだけ考え、頷いた。


「近いです。本来は、決まった命令を王都全体へ正しく伝える場所です」


 カイは文書を指差した。


「じゃあ、決まってない命令を連絡板に書いた人がいる」


 オルドは彼を見る。


 そして、静かに頷いた。


「はい。王宮の命令に見えて、王宮全体の命令ではない」


 ユリウスが続ける。


「しかも、途中の承認が空白です。封印管理室は生体収容を否認。監察局補助室は署名を否認。王宮本会議印もない。それでも中央記録局から発布されている」


 ミリアが低く言った。


「空白の承認経路」


 オルドは口元を硬くした。


「そうです」


 リゼはその言葉を聞いた。


 空白。


 名前のない室長。


 個人名のない承認。


 誰も本人確認をしていないのに、命令だけが正式に流れる経路。


 アルトの名前を隠し、銀環反応対象にする。


 リゼの印を、灰銀一七確認済として再利用する。


 エリアナの血を、旧ヴェルグラント血統関係者として分類する。


 オルドの署名を、本人から切り離して使う。


 そこには、いつも本人がいない。


 空白がある。


 そして、その空白を三点印が埋めている。


 リゼは言った。


「空白に、三点印が入っています」


 オルドは頷く。


「おそらく」


 クラウスが文書の透かしを確認する。


「三点印は、単なる偽造印ではありません。中央記録局の同期系統に接続されています。つまり、王宮のどこかで正式な処理権限として扱われている」


 エリアナが眉をひそめる。


「名前のない権限が、名前のある人を運んでいる」


 その言葉に、リゼの胸が冷えた。


 名前のない権限。


 名前を奪う力。


 白鐘の禁句が、頭の中で鳴る。


 名を呼ぶ声が、名を奪うから。


 名前を呼ぶこと自体が悪いのではない。


 名前を本人から離し、鍵や印や分類として使うことが、名を奪う。


 王宮内の空白は、そのための場所になっている。


 ロウ教師が低く言った。


「これはもう誘拐だけじゃないな」


 ユリウスが頷く。


「はい。王宮記録権限の簒奪です」


 カイが眉を寄せる。


「簒奪って、奪うってことですよね」


「そうです」


「誰かが王宮の連絡板を勝手に書いてるだけじゃなくて、書く権利ごと取ってるってことですか」


 ユリウスは頷いた。


「その理解でいい」


 カイは顔をしかめた。


「最悪じゃないですか」


 ミリアが静かに言う。


「だから、こちらは現実を記録し続ける必要があるわ」


 オルドは文書を見下ろしながら言った。


「私はこれまで、王宮の文書経路を信じすぎていました。中央記録局を通ったものは、どこかで承認されたものだと考えていた」


 リゼはオルドを見る。


「現在は」


「現在は、そう考えません」


 彼は顔を上げた。


「承認の空白を確認します。どの部局で、誰の名が消され、どの印が代わりに使われたのか」


 リゼは頷く。


「行動として確認します」


 オルドは静かに頭を下げた。


「承知しました」


 その時、管理棟から新しい連絡役が走ってきた。


 息を切らし、紙を握っている。


 ミリアがすぐに言う。


「落ち着いて。文面を崩さずに」


 連絡役は頷き、息を整えて読み上げた。


「学園長より追加伝達。王宮本会議筋の一部協力者から非公式回答。臨時保護令は本会議未承認。中央記録鐘の使用許可記録なし。王宮内で命令系統の齟齬発生」


 オルドの顔色が変わった。


「本会議未承認」


 ユリウスが即座に問う。


「中央記録鐘の使用許可記録なし?」


 連絡役は復唱する。


「使用許可記録なし」


 クラウスが測定具を握り直した。


「中央記録鐘が無許可で使われた」


 カイが言う。


「鐘まで勝手に鳴らしたってことですか」


 オルドは苦い声で答えた。


「そうなります」


 エリアナは扉の白文字を見た。


 鐘を鳴らすな。


 まるで、その言葉が王都そのものに向けられていたかのようだった。


 王都中央鐘を鳴らすな。


 人を分類するために鳴らすな。


 孤独な音を王都全体へ広げるために鳴らすな。


 エリアナは低く言った。


「白鐘の警告は、ここだけのものではないのかもしれません」


 クラウスが頷く。


「王都中央鐘と白鐘系封印が接続されているなら、十分ありえます」


 リゼは扉を見る。


「中央記録鐘の使用停止が必要ですか」


 クラウスは少し沈黙した。


 そして答える。


「おそらく、必要になります。第二保管層の黒蔦補助層は、中央記録鐘の同期を受けて強化されています。鐘が動き続ける限り、臨時調整室枠は王都命令網から力を受け続ける」


 ユリウスが顔を険しくする。


「中央記録鐘を止めることは、王宮命令網を止めることです」


 オルドが言った。


「反逆と見なされます」


 カイが即座に返す。


「もう反逆って書かれてます」


 ミリアが小さく息を吐く。


「そうね。でも、言葉に飲まれないで」


 リゼは言った。


「止めるのは王宮ではありません。誤った完了記録と、無許可の命令同期です」


 オルドはリゼを見た。


「その整理は重要です」


「記録してください」


 ミリアがすでに書いている。


 中央記録鐘停止検討。


 目的、王宮停止ではなく誤同期停止。


 臨時保護令未承認。


 中央記録鐘使用許可なし。


 王宮内命令系統齟齬。


 扉の黒膜が、その記録に反応するように波打った。


 臨時調整室枠が強く光る。


 黒文字が浮かぶ。


 中央記録鐘への干渉、反逆行為。


 関係維持者、拘束優先。


 灰銀戦時戦力、即時確保準備。


 リゼはその文字を見た。


 灰銀戦時戦力。


 自分を、またそう呼ぶ。


 リゼ・グレイスではなく。


 灰銀の戦乙女でもなく、さらに事務的な戦力分類。


 カイが怒った顔で言った。


「リゼを戦力って書くな」


 ミリアが続ける。


「本人の名前があります」


 エリアナも。


「彼女は、道具ではありません」


 リゼは扉の黒文字へ向けて言った。


「私は灰銀戦時戦力として確保されません。リゼ・グレイスとして、アルト・レインフォード誘拐事件の本人確認を継続しています」


 扉の奥で、銀色が揺れた。


 弱いが、確かに。


 カイが扉へ言う。


「アルト。リゼはリゼだ」


 銀色が少し強くなる。


 ミリアが続ける。


「あなたも、アルトさんです」


 エリアナ。


「私はエリアナです」


 カイ。


「俺はカイ」


 ミリア。


「私はミリア」


 オルドが少し間を置いて言った。


「私は、オルド・ハイマンです」


 セイルも、戸惑いながら口を開く。


「私は……セイル・ハルトです」


 その瞬間、扉の黒膜に細かい亀裂が入った。


 名前が並ぶ。


 分類ではなく、本人の名前。


 中央記録鐘の黒い同期に対して、現場の名前が重なる。


 クラウスが測定具を見る。


「黒蔦層、剥離進行。臨時調整室枠、揺らいでいます」


 リゼは扉へ向けて言った。


「アルトさん。ここにいる人の名前を確認します。リゼ・グレイス。ミリア・ファルネーゼ。カイ・ロックハート。エリアナ・ルクス・ヴェルグラント。クラウス・ヴァイゼル。ロウ先生。ユリウス・エインズワース。オルド・ハイマン。セイル・ハルト。私たちは分類ではなく、名前でここにいます」


 扉の奥で、銀色が揺れる。


 今度は文字になった。


 短い。


 けれど、明確だった。


 みんな。


 カイが息を詰めた。


 ミリアの目が潤む。


 エリアナは香草袋を胸に押し当てる。


 リゼは、声を震わせないように息を整えた。


「“みんな”を確認しました。あなたは、外部の複数名を認識している可能性があります。孤独ではない状態を継続確認します」


 カイが笑い泣きのような顔で言う。


「そうだ、みんなだ」


 ミリアが続ける。


「みんな、ここにいるわ」


 エリアナ。


「孤独な音にはしません」


 扉の黒膜が大きく揺れた。


 分散保護の文字が崩れ始める。


 関係維持者、拘束優先。


 その文字もひび割れる。


 しかし、臨時調整室枠が再び黒く光った。


 黒い蔦が承認板から伸び、扉の亀裂を埋めようとする。


 クラウスが鋭く言う。


「中央記録鐘から再同期が来ています!」


 遠く、王都の中心で鐘は鳴っていない。


 だが、無音の振動が走った。


 鳴らない鐘塔と同じ。


 聞こえないのに、反応だけが来る。


 リゼの背筋が冷えた。


「無音同期」


 クラウスが頷く。


「はい。中央記録鐘は現在、音ではなく記録振動で扉を支えています」


 エリアナが青ざめる。


「鳴らさずに、鳴らしている」


 カイが眉をひそめる。


「ずるいな、それ」


 ロウ教師が低く言う。


「敵は大体ずるい」


 リゼは黒く光る臨時調整室枠を見た。


 中央記録鐘。


 空白の承認経路。


 臨時調整室長印。


 王宮本会議未承認。


 それでも王都全体へ流れる命令。


 このままでは、扉前でいくら黒蔦を剥がしても、鐘から再び補強される。


 なら、止める必要がある。


 王宮の連絡板を、誰かが勝手に書いている。


 その板へ墨を流し続けている鐘を。


 リゼは言った。


「中央記録鐘の停止手順を確認します」


 オルドがすぐに答える。


「中央記録鐘は王宮中央塔にあります。外部制御室は王宮記録局区画。通常は中央記録局長、王宮本会議代表、封印管理室代表の三者で使用許可を出します」


 ユリウスが問う。


「無許可使用の場合、停止できる権限者は」


「中央記録局長、もしくは監察局上席緊急停止権限。ただし、私は補助室上席であり、単独では足りません」


 ロウ教師が言う。


「また足りない権限か」


 オルドは苦い顔をした。


「はい。ただ、無許可使用の現場証拠があり、王宮本会議筋の未承認回答があるなら、緊急停止申請を出せます」


 ミリアが問う。


「通るの?」


 オルドは正直に答えた。


「中央記録局が握られていれば、通りません」


 カイが言う。


「じゃあ、直接止める?」


 ユリウスが厳しい顔をする。


「王宮中央塔へ直接介入すれば、それこそ反逆として扱われます」


 リゼは静かに言った。


「すでに本人確認を反逆と呼ばれています」


 ミリアがリゼを見る。


「ただし、言葉に飲まれない」


「はい」


 リゼは頷く。


「中央記録鐘を止める目的は、王宮への攻撃ではありません。未承認の記録同期停止。アルトさんへの冷却強化停止。臨時保護令の誤配信停止」


 ミリアが記録する。


 目的を明確にする。


 それが、これから重要になる。


 王宮へ行くなら、剣ではなく言葉も持たなければならない。


 証拠。


 現認者。


 本人反応。


 未承認回答。


 偽署名否認。


 封印管理室否認。


 学園長抗議。


 すべてを持って行く。


 その時、扉の銀色がまた揺れた。


 リゼはすぐに向き直る。


「アルトさん。無理に返さなくていいです」


 銀色は細く伸びる。


 文字になる。


 いかないで。


 北棟前が静まり返った。


 カイの顔が歪む。


「アルト……」


 リゼの胸が、強く痛んだ。


 中央記録鐘を止めるには、誰かがここを離れなければならない。


 だが、アルトは「いかないで」と返した。


 これをどう読むか。


 助けに行くな、か。


 扉前から離れるな、か。


 誰に向けた言葉か。


 黒蔦偽装か。


 本人の恐怖か。


 リゼはすぐに言った。


「“いかないで”を確認しました。発信元、本人反応可能性高。ただし、対象不明。誰に対して、どこへ行かないでかを断定しません」


 ミリアが震える手で記録する。


 いかないで。


 対象不明。


 断定せず。


 カイが言う。


「でも、アルトが言ってるなら、俺はここにいる」


 リゼは頷いた。


「カイさんは扉前を維持してください」


「はい」


 ミリアが静かに言った。


「全員が行かない、はできないわ。でも、全員が離れる必要もない」


 エリアナが扉を見る。


「香草はここに残します。いえ、私がここに残ります。白鐘層の確認には私が必要です」


 クラウスも言う。


「私も扉前に残ります。反応測定と黒蔦層の剥離管理が必要です」


 ミリアはリゼを見る。


「あなたは?」


 リゼは答えなかった。


 扉の銀色が、まだ揺れている。


 いかないで。


 その言葉が、胸の奥を引く。


 リゼが離れれば、アルトは不安定になるかもしれない。


 しかし、中央記録鐘を止めなければ、冷却強化は続く。


 臨時調整室枠は補強され続ける。


 分散保護は王都全体へ広がる。


 誰かが行かなければならない。


 そして、王宮中央塔には、灰銀戦時戦力確保命令が出る可能性が高い。


 リゼが行けば、狙われる。


 だが、王宮に自分の名と印が使われている以上、彼女が確認すべきこともある。


 ミリアがそっと言った。


「一人では行かせないわ」


 リゼは彼女を見る。


 ミリアの目は、穏やかだが揺るがない。


「行くなら、関係を切らずに行く。扉前と中央塔を繋ぐ。そうすれば、“いかないで”を完全には破らない」


 カイが言う。


「そうだ。連絡を切らなきゃ、リゼがいなくなるんじゃなくて、別の場所から繋ぐってことになる」


 エリアナも頷く。


「戻るための道を残せば、行くことと消えることは違います」


 リゼは息を吸う。


 それは、アルトがずっと教えてくれたことだ。


 離れることと、孤独にすることは違う。


 静かにすることと、声を奪うことは違う。


 保護することと、閉じ込めることは違う。


 行くことと、関係を切ることは違う。


 リゼは扉へ向かって言った。


「アルトさん。“いかないで”を確認しました。私は、あなたを一人にして離れません。もし中央記録鐘停止のために移動する場合も、扉前との連絡を維持します。カイさん、ミリアさん、エリアナさん、クラウスさんが扉前に残ります。私は消えません。戻る導線を維持します」


 銀色が震える。


 黒蔦がその文字を覆おうとする。


 ミリアが続ける。


「私が記録を繋ぐわ。リゼさんがどこへ行っても、ここに現在地を戻す」


 カイ。


「俺が名前を呼ぶ。リゼがいなくなったんじゃないって、ちゃんと言う」


 エリアナ。


「香草はここにあります。戻る匂いを切らしません」


 クラウス。


「反応を維持します。銀環を鳴らしません」


 銀色が、少しだけ落ち着いたように見えた。


 文字は消えた。


 いかないで、の痕は残らない。


 だが、冷却はわずかに下がった。


 クラウスが測定具を見る。


「冷却、微減。黒蔦層の反発も低下」


 リゼは頷いた。


「確認しました」


 その時、王宮側から新たな文書が届いた。


 管理棟を通さず、封信蔦のような黒い紙片が北棟前の空気に現れ、床へ落ちる。


 クラウスが即座に保護結界を張る。


 紙片は黒く冷えていた。


 ユリウスが保護具で拾い、読み上げる。


「王宮中央記録局臨時通達。灰銀戦時戦力リゼ・グレイス、王宮命令網妨害の疑いにより、即時身柄確認対象へ移行」


 カイが怒鳴った。


「来た!」


 ミリアの顔が冷える。


「灰銀確保命令」


 エリアナが香草袋を握る。


 オルドが文書の印を見る。


「正式印と三点印。中央記録局同期済み」


 リゼは紙片を見た。


 自分の名前。


 灰銀戦時戦力。


 身柄確認対象。


 また、分類が先に来る。


 リゼ・グレイスは、その文字を見つめた。


 そして、静かに言った。


「私は灰銀戦時戦力として確認されません」


 扉の奥で、銀色が揺れる。


 リゼは続けた。


「リゼ・グレイスとして、現在地と本人意思を確認します」


 北棟の外、王都中央塔の方角で、無音の鐘がもう一度震えた。


 王宮内の空白が、こちらを見ている。


 名前のない承認が、名前のある人間を捕まえようとしている。


 だが、北棟前には、まだ声があった。


 記録があった。


 香草の匂いがあった。


 焼き菓子の記憶があった。


 そして、扉の奥から届いた「みんな」があった。


 リゼは扉の前で背筋を伸ばした。


「中央記録鐘の誤同期を確認します。アルトさんとの関係線を維持したまま、王宮内の空白を記録します」


 銀色が、黒い膜の奥で小さく光った。


 それは、返事ではないかもしれない。


 けれど、リゼは確かに見た。


 消えていない光を。


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