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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第11章 第4話:オルド・ハイマンの署名


 署名は、そこにあった。


 北棟正面扉の封印札。


 監察局補助室確認欄。


 その下に、整った筆跡で書かれた名前。


 オルド・ハイマン。


 王宮監察局補助室上席監察官。


 何度もリゼ・グレイスたちの前に現れた男の名だった。


 王宮の言葉を持ってきた男。


 灰銀の戦乙女を王宮の剣として扱おうとした男。


 アルト・レインフォードを「鍵」や「保護対象」と分類し、反応を管理対象として見ていた男。


 その署名が、今、アルトを第二保管層へ閉じ込めているかもしれない扉に貼られている。


 扉の黒い膜には、まだ文字が浮かんでいた。


 王宮保護移送、正式完了。


 対象者、到着済。


 外部確認不要。


 その下に、先ほど一瞬だけ現れた言葉があった。


 ここ。


 さむい。


 もう文字は消えている。


 だが、全員が見た。


 記録した。


 紙の完了の下から、本人の状態が浮かんだ。


 リゼは扉の前に立ち、封印札の署名を見ていた。


 筆跡は整っている。


 筆圧も安定している。


 王宮文書に慣れた者の字。


 だが、本人はすでに一度、北棟正面の確認欄について否定している。


 この文書には署名していない。


 内容も承認していない。


 しかし、もう一つの問題がある。


 署名が偽造されたことと、オルドが無関係であることは同じではない。


 彼の言葉。


 彼の分類。


 王宮の制度。


 それらが、アルトを「保管対象」にする紙を可能にしたのではないか。


 リゼはオルド・ハイマンを見た。


 彼は封印札の前に立っている。


 銀縁の眼鏡の奥の目は、いつものような冷静な観察者のものではなかった。


 疲労。


 困惑。


 そして、自分の足元の床が崩れていることを理解した人間の緊張。


 リゼは問うた。


「オルド・ハイマン上席監察官。本人確認を行います」


 オルドはリゼを見る。


「応じます」


 リゼは封印札を指す。


「この署名は、あなたのものですか」


 オルドは札へ近づき、距離を保ったまま確認した。


 直接触れない。


 クラウス・ヴァイゼルが封印札の周囲へ保護結界を薄く張っている。


 黒蔦層が反応する可能性があるからだ。


 オルドはしばらく署名を見た。


「筆跡は、私のものに似せています」


「あなたは、この封印札に署名しましたか」


「いいえ」


「第二保管層への銀環反応対象収容を承認しましたか」


「いいえ」


「アルト・レインフォード本人を確認しましたか」


「いいえ」


「本人意思を確認しましたか」


「いいえ」


「確認しました」


 ミリア・ファルネーゼが記録板に書き込む。


 北棟第二保管層封印札。


 監察局補助室確認欄。


 オルド・ハイマン署名様。


 本人、署名否定。


 収容承認否定。


 本人確認なし。


 本人意思確認なし。


 カイ・ロックハートは黙っていた。


 だが、肩が硬い。


 拳が握られている。


 今にも「じゃあ誰が書いたんだ」と言いそうな顔だった。


 しかし、彼はそれを飲み込んだ。


 ロウ教師が横目で見る。


 カイは低く言った。


「怒っています。でも、今は聞きます」


「よし」


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラントは、香草袋を胸の前に持っていた。


 北棟扉へ近づけすぎない。


 それでも、セリーネ草の香りは細く漂っている。


 扉の奥で、銀色の反応は今は見えない。


 黒い膜が正式完了の文字を覆っている。


 オルドは封印札から目を離さない。


「この署名は、私が過去に記した別文書から転写された可能性があります」


 ユリウス・エインズワースが問う。


「どの文書ですか」


「おそらく、王立学園への協力照会文です。第十章で送った、文書院紙の分析協力申し出。その際、私の署名入りの書式が臨時調整室を経由しました」


 ミリアが顔を上げる。


「あの文書ですね。学園が正式分析前に、王都文書院系統紙と書かれていた」


 オルドは頷く。


「はい。あの文書の控えが、王宮内のどこかで切り取られた可能性があります」


 カイが我慢できずに言った。


「自分の署名が切り取られるような文書を、なんで出したんですか」


 ミリアが止めようとしたが、オルドが先に答えた。


「私が、王宮の内部経路を信用していたからです」


 カイの眉が寄る。


 オルドは続ける。


「監察局補助室から出る文書が、臨時調整室を経由しても、無断転用されることはないと考えていました。少なくとも、そうあるべきだと」


 ロウ教師が低く言う。


「あるべき、は今ここでは何の保証にもならん」


「その通りです」


 オルドは否定しなかった。


「そして、その信用は破られました」


 リゼは静かに言った。


「署名が転用されたことは記録します。しかし、それだけでは終わりません」


 オルドは彼女を見た。


 リゼは続ける。


「あなたは過去に、アルトさんを“鍵”“反応対象”“保護対象”として扱う言葉を使いました」


「はい」


「あなたは、私を“灰銀の戦乙女”として王宮の剣に戻そうとしました」


「はい」


「あなたは、エリアナさんとアルトさんを“相互反応を示す保護対象二名”として扱う王宮分類を持ち込みました」


「はい」


 オルドは一つずつ認めた。


 そのたびに、カイの拳が震えた。


 エリアナの香草袋を持つ手にも力が入る。


 ミリアは記録板を持ちながら、リゼの横顔を見ていた。


 リゼは怒っている。


 だが、怒りでオルドを犯人にしようとしているわけではない。


 彼女は、言葉の責任を問うている。


 リゼは封印札を指した。


「その分類語が、人を保管する紙になりました」


 朝の冷気が、北棟前の石畳を這っている。


 遠くで、倉庫群の管理人が息を呑んだ。


 オルドは、何も言わなかった。


 リゼはさらに続ける。


「あなたが誘拐を命じたと、私は断定しません。あなたがこの封印札へ署名したとも、現時点では断定しません。ですが、あなたが使ってきた分類語は、この扉の言葉と同じ方向を向いています」


 オルドの目が、微かに揺れた。


「同じ方向」


「はい。本人の名前より、分類を先に置く方向です」


 カイが低く言う。


「アルトをアルトじゃなくする方向」


 ミリアが続ける。


「リゼさんを、リゼさんではなく灰銀にする方向」


 エリアナも静かに言った。


「私を、私ではなく旧王家の血にする方向」


 その言葉に、オルドは目を伏せた。


 彼の返答はすぐにはなかった。


 いつものように、法文や制度語で整えた返事を出すこともできたはずだ。


 だが、今それをすれば、扉の黒い膜と同じになる。


 正式完了。


 外部確認不要。


 分類語で現実を覆うだけになる。


 オルドは沈黙の後、言った。


「私は、移送を命じていません」


 リゼは頷く。


「はい」


「誘拐を承認していません」


「はい」


「この封印札に署名していません」


「はい」


 オルドは一度息を吸った。


「ですが、分類の仕方に責任がないとは言えません」


 その言葉で、扉の黒膜がわずかに揺れた。


 全員が反応する。


 クラウスが測定具を見る。


「銀環系反応、微弱上昇。扉内、冷却継続」


 リゼは扉へ向かって言う。


「アルトさん。聞こえるかは不明です。現在、オルド・ハイマン上席監察官が、分類語の責任を認めました。あなたを保管対象として扱う記録を、私たちは認めていません」


 カイが続ける。


「アルト。お前はアルトだ。分類じゃない」


 扉の奥で、銀色が一瞬だけ細く揺れた。


 黒膜はすぐにそれを覆う。


 だが、消えきらない。


 ミリアが記録する。


 オルド発言後、銀環系反応微弱上昇。


 呼びかけ反応あり。


 エリアナが香草袋を少しだけ近づける。


「これは戻るための匂いです。あなたの名前を隠させません」


 黒膜の端が、かすかに白く浮いた。


 クラウスが頷く。


「香草反応、継続」


 その時、管理棟から新たな台帳が運ばれてきた。


 今度は北棟内部の封印層管理台帳だった。


 管理人は顔色を悪くしたまま、台帳を仮設机に置く。


「第二保管層の詳細は、本来この場で開示できない。だが……」


 彼は扉を見た。


 正式完了。


 外部確認不要。


 そして、その下に一度浮かんだ「ここ」「さむい」。


 管理人は小さく首を振った。


「人間が入っているなら、話が違う」


 ロウ教師が低く言う。


「最初から違う」


 管理人は反論しなかった。


 台帳が開かれる。


 第二保管層。


 封印具長期保管。


 白鐘式消音布、旧式流用。


 黒蔦補助層、臨時調整室追設。


 冷却安定化区画。


 搬入経路、予備搬入口。


 確認者欄。


 封印管理室。


 臨時調整室。


 監察局補助室。


 そして、そこにも署名があった。


 オルド・ハイマン。


 今度は先ほどよりさらに精巧だった。


 オルドは台帳を見て、顔をこわばらせた。


「これは……」


 リゼが問う。


「あなたの署名ですか」


「違います」


「署名していませんか」


「していません」


「承認していませんか」


「していません」


 ユリウスが紙質を確認する。


「このページだけ新しい。挿入されたものです」


 クラウスも頷く。


「紙は王都文書院系統。台帳本体とは異なる」


 ミリアが記録する。


 第二保管層管理台帳、挿入紙。


 オルド署名様。


 本人否定。


 王都文書院系統紙。


 臨時調整室追設、黒蔦補助層。


 カイが言う。


「同じ手口だ。アルトの字も、リゼの印も、オルドさんの署名も」


 オルドはカイを見る。


 カイは少しだけ言葉を止め、それから言い直した。


「あなたを許したわけじゃないです。でも、これ、同じ手口ですよね」


 オルドは頷いた。


「はい。同じ手口です」


 リゼが言う。


「本人から離れた記号を、本人意思として使う」


 エリアナが続ける。


「名前、印、血、署名。すべて同じです」


 クラウスが台帳の追記欄を調べる。


「黒蔦補助層の追設日付が、アルト君誘拐直前になっています。準備されていた」


 リゼの瞳が鋭くなる。


「誘拐前から、第二保管層を準備していた」


「可能性が高い」


 ロウ教師が低く唸った。


「行き当たりばったりじゃないな」


 ユリウスが台帳をめくる。


「搬入予定欄があります。対象分類、銀環反応対象。対象名秘匿。搬入後処理、冷却安定化。外部照会、不要。学園側照会、完了記録をもって回答」


 ミリアが眉をひそめる。


「学園が問い合わせたら、“完了しています”と返すための欄ね」


 カイが吐き捨てるように言った。


「返事じゃない。壁だ」


 リゼは頷いた。


「正式記録の壁です」


 扉の奥で、かすかな銀色が揺れた。


 リゼはすぐに扉へ向き直る。


「アルトさん。あなたの状態確認を継続します。痛み、熱、冷え、声。答えられなくても、確認を続けます。あなたは外部照会不要ではありません。あなたの声が必要です」


 扉は沈黙する。


 黒膜が少し厚くなる。


 しかし、エリアナが香草袋を近づけると、その端がまた白く浮いた。


 クラウスが測定具を見て言う。


「黒蔦層は、呼びかけに対して抑制を強めています。長時間の連続呼びかけは負荷になる可能性がある」


 ミリアがすぐに言う。


「間隔を決めましょう。短く、意味のある呼びかけ。呼びすぎて黒蔦層を強めないように」


 カイが悔しそうに頷く。


「呼び続けたいけど、届かなくなるなら嫌だ」


 リゼが言う。


「呼びかけ手順を修正します。五分ごとに短文。名前、現在地、本人意思拒否、孤独ではないこと。香草反応は短時間。黒蔦抑制上昇時は停止」


 クラウスが頷く。


「適切です」


 オルドは台帳の署名を見たまま、低く言った。


「この内部承認を無効化するには、監察局補助室から正式な否認文を出す必要があります」


 ユリウスが問う。


「出せますか」


「私名義では出せます。ただし、臨時調整室が先に“正式完了”を王宮上層へ同期している場合、私の否認文は補助室内で止められる可能性があります」


 リゼが問う。


「直接、この場で否認できますか」


「現場記録としてなら」


 ミリアがすぐに記録板を構える。


 ユリウスも学園側証書を用意する。


 オルドは姿勢を正した。


 監察官としての所作。


 しかし、今度は制度を覆うためではなく、制度の中の嘘を切り分けるための姿勢だった。


「私は、王宮監察局補助室上席監察官オルド・ハイマンとして、北棟第二保管層封印札および管理台帳挿入紙に記載された私名義の署名について、本人署名ではないと現場で否認します。また、当該文書に記載された銀環反応対象の収容、冷却安定化処理、外部照会不要処理を承認していません」


 ミリアが書く。


 ユリウスも写す。


 リゼは確認する。


「本人確認なし、本人意思確認なしも記載してください」


 オルドは頷いた。


「当該処理に関し、対象者本人の確認および本人意思確認を私は行っていません」


 カイが言う。


「アルトは拒否してます」


 オルドはカイを見る。


「記載します。対象者アルト・レインフォードは、王立学園側記録上、移送を拒否していると承知しています」


 リゼが補足する。


「黒布馬車による奪取、直前発言、歩きたくない、一人で行きません。現認者複数」


 オルドは頷く。


「記載します」


 オルドの否認文が、その場で作成された。


 監察局補助室の正式な書式ではない。


 だが、現場記録としては強い。


 王立学園、ユリウス、ミリア、クラウス、ロウ教師、倉庫群管理人が立会人として記録される。


 カイも名乗った。


「俺も見ました」


 ミリアが言う。


「カイさんは現認者として記録できるわ」


「してください」


 エリアナも言った。


「私も、現認者です」


 ユリウスが頷く。


「記録します」


 オルドが自分の否認文に署名した。


 今度は本物の署名。


 彼は筆を置き、その横に自分の印を押した。


 封印札にある署名と、並べて比較される。


 似ている。


 だが、違う。


 筆の止め方。


 最後の払い。


 名の一字の角度。


 本人ならではの癖が、封印札にはない。


 クラウスが言う。


「偽造の可能性が高い。詳細鑑定に回します」


 リゼは頷く。


「確認しました」


 その瞬間、北棟扉の黒膜が強く波打った。


 正式完了の文字が揺れる。


 外部確認不要の文字が崩れかける。


 代わりに、黒い蔦が封印札へ走った。


 封印札の偽署名へ。


 オルドの名へ。


 黒蔦が、署名を強く黒く染めようとする。


 クラウスが叫んだ。


「否認文に反応しています!」


 リゼが扉へ一歩近づく。


「封印札を保護」


 クラウスが封じ札を展開する。


 ユリウスも補助結界を張る。


 黒蔦は偽署名を覆い、まるで本物に固めようとしているようだった。


 リゼは扉に向かって言う。


「偽署名を本人署名として固定することを認めません」


 カイが続ける。


「勝手に名前を本物にするな!」


 エリアナが香草袋を近づける。


「本人から離れた名前を、縛るために使わせません」


 黒蔦が白く浮く。


 少しだけ弱まる。


 その時、扉の奥で銀色が揺れた。


 そして、黒膜の下に、また文字が浮かんだ。


 こえ。


 たった二文字。


 カイが息を呑む。


「声……」


 ミリアの手が震えた。


 だが、記録する。


 扉表面、「こえ」。


 内部状態報告可能性。


 リゼはすぐに扉へ向けて言った。


「アルトさん。声が出ない、または声が届かない状態を確認しました。あなたの声を外部確認不要とは扱いません」


 エリアナが低く言う。


「静けさと、声を奪うことは違います」


 カイが扉に向かって呼んだ。


「アルト。声が出なくても、俺たちは聞くからな」


 黒膜の奥で、銀色が一度だけ強く光った。


 その光は、偽署名を覆う黒蔦へ反発するように走る。


 黒蔦の一部が剥がれ、封印札の端から小さな紙片が落ちた。


 クラウスが保護具で拾う。


 紙片には、印があった。


 三点。


 完全ではないが、今までより明確な三点印。


 そして、その下に小さな文字。


 臨時調整室長承認。


 その瞬間、オルドの顔色が変わった。


「臨時調整室長……」


 リゼが問う。


「誰ですか」


 オルドはすぐに答えなかった。


 その沈黙は、知らない沈黙ではなかった。


 知っていて、言葉を選んでいる沈黙だった。


 ロウ教師が低く言う。


「言え」


 オルドはゆっくり息を吐いた。


「臨時調整室長の名義は、表向きには空席です」


 ユリウスが眉を寄せる。


「空席?」


「はい。複数部局の臨時合同処理のため、室長印は使用されますが、個人名は公表されていません。実務上は、王宮上層の委任印として扱われてきました」


 ミリアが言う。


「名前のない責任者」


 カイが低く言った。


「また名前を隠してる」


 エリアナの目が冷たくなる。


「本人がいない印で、人を運ぶのですね」


 オルドは何も言えなかった。


 リゼは紙片を見た。


 臨時調整室長承認。


 空席の室長。


 個人名のない権限。


 責任のない印。


 それが、オルドの偽署名を本物のように固定し、アルトを第二保管層へ保管しようとしている。


 リゼは言った。


「個人名のない承認で、本人意思を消すことを認めません」


 扉の奥で、銀色が微かに揺れる。


 こえ、の文字は消えかけている。


 リゼは続けた。


「アルトさん。あなたの声が出ないことを確認しました。ですが、あなたの意思は消えていません。移送拒否、保管拒否、孤独ではないことを継続記録します」


 カイが言う。


「アルト、声がないなら、俺が呼ぶ。何回でも呼ぶ」


 ミリアが静かに補う。


「ただし、届く形でね」


「うん。届く形で」


 クラウスは三点印紙片を遮蔽箱へ入れた。


「この紙片は重要です。偽署名固定に使われていた可能性があります」


 ユリウスが言う。


「学園長へ送ります。臨時調整室長承認印、現場で確認。オルド・ハイマン本人が署名否認。アルト本人反応、“ここ”“さむい”“こえ”。第二保管層収容可能性極めて高い」


 ミリアが頷く。


「伝達文に“正式完了”を事実として書かないで」


「もちろん」


 オルドは北棟扉を見ていた。


 彼は自分の署名が偽造された怒りだけで動いているのではない。


 その顔には、もっと苦いものがあった。


 自分が信じていた王宮の文書経路。


 自分が使ってきた分類語。


 その両方が、今、目の前で人を閉じ込める扉になっている。


 オルドはリゼへ向き直った。


「第二保管層の開放には、王宮上層部の三者承認が必要です」


 リゼが問う。


「三者とは」


「封印管理室長。保護管理局臨時調整室長。監察局補助室上席確認官」


「あなたは上席確認官ですか」


「はい。ただし、私の承認だけでは足りません。そして臨時調整室長印が、この状態では敵側に使われている可能性が高い」


 カイが顔をしかめる。


「敵の印がないと開かないってことですか」


「通常手続き上は」


 ロウ教師が言う。


「通常手続き以外は」


 オルドは一度沈黙した。


 それから、低く答えた。


「白鐘式消音布の本来手順を使えば、黒蔦補助層だけを剥がせる可能性があります。ただし、私の知識では不十分です」


 全員の視線が、エリアナへ向いた。


 エリアナは香草袋を持ったまま、扉を見る。


「白鐘の本来手順」


 クラウスが頷く。


「あなたの知る禁句、礼拝堂跡の構造、香草反応が必要になるかもしれません」


 エリアナの顔に緊張が走った。


 旧ヴェルグラント王家。


 白鐘。


 王の血。


 扉へ走ってはいけない。


 名を呼ぶ声が、名を奪う。


 それらは彼女自身の痛みでもある。


 だが、彼女は香草袋を握り直した。


「私の知る範囲で話します。ただし、私の血を鍵として使わないでください」


 リゼは即座に頷く。


「使いません」


 カイも。


「使わない」


 ミリアも。


「あなたの知識として扱うわ。あなた自身を道具にしない」


 エリアナは小さく頷いた。


 扉の奥で、銀色がまた揺れた。


 今度は、先ほどより少しだけ長い。


 リゼはそれを見て、静かに言った。


「アルトさん。開放手順を確認します。あなたを鍵にしません。エリアナさんの血を鍵にしません。名前、声、香草、記録を、本人から切り離して使いません」


 黒膜は沈黙している。


 正式完了の文字はまだ消えない。


 しかし、その下に残った「こえ」の薄い痕は、完全には消えていなかった。


 オルドはその文字を見つめ、深く頭を下げた。


 誰に向けてか、明確には言わなかった。


 アルトへか。


 リゼへか。


 王宮の記録に傷つけられた全員へか。


 ただ、彼は言った。


「私は、これ以上、分類だけで人を扱う側には立ちません」


 リゼは彼を見た。


「言葉として記録します。行動で確認します」


 オルドは頭を上げた。


「承知しました」


 北棟前の朝は、ようやく明るくなり始めていた。


 だが、第二保管層の中はまだ暗い。


 冷えている。


 声が奪われている。


 扉の上には、偽造された署名と三点印。


 紙の上では、すべてが正式に完了している。


 それでも、扉の奥から「こえ」と届いた。


 その二文字を、誰も消さなかった。


 リゼは北棟扉へ向き直る。


「声の確認を継続します。正式完了記録ではなく、本人の状態を優先します」


 カイが隣で頷いた。


「アルト。俺たち、ここにいる」


 ミリアが記録板を抱える。


「聞き続けるわ」


 エリアナが香草袋を胸に当てる。


「奪われた声を、記録だけで終わらせません」


 黒い膜の奥で、銀色の光が、朝の光とは別に、小さく灯っていた。


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