表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

113/201

第8章 第4話:灰銀が守った荷車


 その日の資料は、紙の色からして違っていた。


 白い写しではない。


 少し黄ばんだ、古い記録紙の複写。


 端には王国軍の保管印が薄く残り、中央にはきっちりとした軍務書式の罫線が引かれている。


 戦時輸送記録。


 民間移送護衛任務。


 北西街道封鎖後、後方保護区域へ移送。


 その文字を見た瞬間、リゼ・グレイスの指先が、ほんの少しだけ止まった。


 アルト・レインフォードはそれを見て、左手首に触れた。


 痛みはない。


 熱は少し。


 声はない。


 けれど、生徒会室の空気は昨日よりさらに重かった。


 今日は、鳴らさぬ谷/北西第三補給枝道の「民間移送済み」の先を確認する日だった。


 王国軍記録に残っていた短い言葉。


 民間移送済み。


 その裏にあったかもしれない荷車列。


 その護衛に、リゼが関わっていた可能性。


 それを確かめるため、学園長名義で一部開示された戦時輸送記録が机の上に置かれている。


 生徒会室には、いつもの顔が揃っていた。


 ユリウス・エインズワース。


 エレオノーラ・ヴィンスフェルト。


 ミリア・ファルネーゼ。


 カイ・ロックハート。


 アルト。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラント。


 リゼ。


 ロウ教師とクラウス・ヴァイゼルも同席している。


 学園長は不在だが、扉一枚向こうに伝令を置いている。


 何かあればすぐ呼べるように。


 ユリウスが資料の束に手を置いた。


「開示された範囲は限定的だ。任務名、日付、区間、護衛配置、移送対象の分類、一部の積載物。個人名は大半が伏せられている」


 カイが低く言った。


「また名前なしか」


 ミリアが少しだけ視線を送る。


 カイは声を抑えた。


「……すみません。でも、またですね」


 エリアナは紙面を見たまま答えた。


「はい。またです」


 その声に、怒りはあった。


 だが、昨日より形がはっきりしている。


 何に怒っているのか。


 名前がないこと。


 短い分類だけで扱われること。


 その怒りが、少しずつ言葉になっていた。


 エレオノーラが記録範囲を読み上げる。


「本日の確認対象。戦時輸送記録、民間移送護衛任務。確認語句は、移送対象、護衛担当、積載物、到着先。個人名未開示部分は推定しない。本人の戦時記憶が出た場合、記録前に本人確認。エリアナさんの母方記録との関連は断定しない」


 リゼが頷く。


「了解しました」


 エリアナも少し遅れて頷いた。


「はい」


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱少し。声なし。聞けます」


 ユリウスは一枚目を開いた。


「任務名。北西街道封鎖後民間移送護衛任務。王国軍分類では、後方保護区域への非戦闘員移送。日付は、鳴らさぬ谷周辺封鎖の三日後」


 リゼの呼吸が少しだけ浅くなった。


 すぐに戻る。


 アルトは声をかけた。


「リゼさん」


「はい」


「状態は」


 リゼは資料を見たまま答えた。


「身体異常なし。感情、重い。戦時記録との一致を確認中。継続可能です」


 ロウ教師が言う。


「無理に硬く言うな。怖ければ怖いと言え」


 リゼは少し間を置いた。


「怖いです」


 その一言で、生徒会室の空気が少しだけ変わった。


 リゼが怖いと言えること。


 それ自体が、今の彼女が戦場に戻りきっていない証だった。


 ユリウスは続けた。


「護衛担当。前衛二名、側面護衛四名、後方護衛三名。特別遊撃護衛一名」


 リゼの目が細くなる。


 ユリウスは紙面を見た。


「特別遊撃護衛の識別符号。灰銀一七」


 室内が止まった。


 アルトの左手首が熱を持つ。


 痛みはない。


 声もない。


 ただ、空気が一段冷える。


 灰銀。


 その言葉は、いまでもリゼの周りに影を落とす。


 リゼはしばらく黙っていた。


 そして、静かに言った。


「私の戦時識別符号です」


 誰もすぐに言葉を返せない。


 エリアナの指が硬くなる。


 カイが息を飲む。


 ミリアは表情を変えず、しかしリゼとエリアナの両方を見ている。


 エレオノーラが確認する。


「記録してよろしいですか」


 リゼは頷いた。


「はい。灰銀一七は、私の戦時識別符号です」


 ペンが走る。


 その音が、生徒会室にやけにはっきり響いた。


 ユリウスは続ける前に一度資料を置いた。


「ここで止めるか」


 リゼは首を横に振った。


「続けてください」


 ロウ教師が低く言う。


「続けたい、か」


 リゼは言い直した。


「続けたいです」


「よし」


 ユリウスは二枚目を開く。


「移送対象。非戦闘員二十七名。うち成人十一名、未成年十六名。地方記録管理家族を含む。白布および儀礼物品を携行する者あり」


 エリアナが小さく息を吸った。


 白布。


 儀礼物品。


 母方の記録管理家族。


 その可能性が、紙の上から立ち上がる。


 アルトの左手首が少し熱を持った。


「痛みなし。熱少し上昇。声なし。“白布”で反応しました」


 リゼが一瞬こちらを見る。


 アルトは頷いた。


「大丈夫です」


 エリアナは紙面を見ていた。


「未成年十六名」


 小さな声だった。


「子どもが、十六人」


 ユリウスは頷いた。


「記録上はそうだ」


「名前は」


「伏せられている」


「伏せられているのではなく、ここにはないのですね」


 ユリウスは少し沈黙した。


「そうだ。この写しにはない」


 エリアナは目を伏せた。


「また、数です」


 リゼの顔が少しだけ苦しくなる。


 だが、彼女は言った。


「はい」


「あなたは、その数を護衛したのですか」


「記録上、私はその移送列の特別遊撃護衛です」


「つまり、守ったのですか」


 エリアナの問いは、刃のようだった。


 しかし、ただ斬るための刃ではない。


 確かめるための刃。


 リゼはすぐに答えなかった。


 自分の中の言葉を確認している。


「当時の私の任務は、移送列を外部襲撃から守ることでした」


 彼女は言った。


「私は、荷車列の進行を妨害する敵性兵、追撃、盗賊化した残兵を排除する役割でした」


 カイの顔が硬くなる。


 エリアナの瞳は動かない。


「外から守ったのですね」


「はい」


「中にいた人が、どこへ行きたいかは」


「確認していません」


「移送先がどんな場所かは」


「確認していません」


「荷車から降りたい人がいたかは」


 リゼの指がわずかに震えた。


「確認していません」


 エリアナは黙った。


 その沈黙が、一番重かった。


 アルトは胸が苦しくなり、左手首を押さえる。


「痛みなし。熱少し。声なし。苦しいです」


 ミリアが小さく頷く。


「ええ。苦しいわ」


 ロウ教師が腕を組んでいる。


 止めない。


 ただ、崩れすぎないよう見ている。


 リゼは自分から言った。


「私は守ったつもりでした」


 声は静かだった。


「ですが、どこへ連れて行かれるのかを知りませんでした。本人たちがそれを望んでいたかも、確認していませんでした」


 エリアナがゆっくり言う。


「守った剣が、檻の入口まで運んだ可能性もあります」


 リゼは目を伏せない。


「はい」


「それを、認めるのですね」


「はい」


「あなたが檻を作ったとは、まだ言いません」


「はい」


「でも、入口まで守った可能性はあります」


「はい」


 その繰り返しが、アルトにはとても痛かった。


 でも、必要だった。


 エリアナはリゼを断罪しているのではない。


 簡単に許してもいない。


 ただ、言葉を曖昧にしないようにしている。


 守った。


 護衛した。


 移送した。


 連れて行った。


 それぞれ違う。


 混ぜてしまえば、誰かの痛みが消える。


 ユリウスが次の欄を読む。


「移送手段。荷車六台。徒歩同行者あり。荷車二台は記録物品および高齢者、幼児を優先搭載」


 カイが小さく言う。


「荷車六台……」


 彼は何かを想像しているようだった。


 焼き菓子の箱ではない。


 学園祭の屋台でもない。


 荷車に人と荷物を積んで、封鎖された街道を進む。


 それを想像しようとしている。


 ユリウスは続けた。


「積載物。白布包み三。木箱二。紙束五。香草束一。灯皿複数。その他生活物資」


 エリアナの表情が揺れた。


 白布包み三。


 木箱二。


 紙束五。


 香草束一。


 灯皿複数。


 それはもう、ただの物品ではなかった。


 白鐘の鳴らさない祝祭。


 香草パン。


 母の手帳。


 布で覆われた鐘。


 それらへ繋がるものかもしれない。


 リゼが資料を見つめたまま、ぽつりと言った。


「香りを覚えています」


 全員がリゼを見る。


 彼女自身も、その言葉が出たことに少し驚いたようだった。


「香り?」


 ミリアが優しく問いかける。


 リゼは目を閉じた。


 ほんの数秒。


 戦場へ沈みすぎないために、片手を机の端に置いている。


「乾いた草の匂いです。荷車の一台から、甘いような、苦いような匂いがしていました」


 エリアナの息が止まった。


 カイも動かない。


 アルトの左手首が、淡く熱を持つ。


 セリーネ草。


 香草パン。


 遠くから近づいてくる香り。


「当時は、薬草か防虫用の束だと思いました」


 リゼは言った。


「それ以上、確認しませんでした」


 エリアナの指が、机の上で強く握られる。


「それは」


 声が震えかけて、彼女は一度止まった。


 ミリアが静かに言う。


「急がなくていいわ」


 エリアナは少し息を吸った。


「それは、セリーネ草かもしれません」


 リゼは目を開けた。


「はい」


「でも、断定はできません」


「はい」


「あなたの記憶で、私の故国の香りを確定しないでください」


「はい。推定として扱います」


 エリアナは頷いた。


 その頷きは小さいが、確かだった。


 エレオノーラが記録する。


「リゼさん、荷車内の乾燥香草様の匂いを想起。甘苦い香り。セリーネ草の可能性あり。ただし断定しない」


 リゼは続けた。


「白い布を抱えた子どもがいました」


 室内の空気がさらに重くなる。


 エリアナの顔がわずかに青ざめた。


 アルトの左手首が熱を持つ。


 痛みはない。


 声なし。


 リゼは、ゆっくり言葉を選んだ。


「顔は、覚えていません」


 先にそう言った。


 エリアナの目が揺れる。


 リゼは続ける。


「荷車の二台目、後方寄り。白い布を抱えていた小柄な未成年者がいました。年齢、性別、顔、名前は覚えていません。布の端に、蔦のような刺繍があった気がしますが、記憶は不確実です」


 エリアナは何も言わない。


 言葉を探している。


 リゼは逃げずに言った。


「覚えているふりはしません。私は、その子の顔を覚えていません」


 生徒会室に沈黙が落ちた。


 それは、以前エリアナが求めたことだった。


 覚えていないなら、覚えていないと言ってください。


 私たちの過去を、あなたの罪悪感で作らないでください。


 リゼは、それを守っている。


 エリアナの目元が、痛そうに歪んだ。


「……白い布を抱えた子ども」


 彼女は小さく繰り返した。


「私ではありません」


「はい」


「私は、その移送列にはいなかったと思います」


「はい」


「でも」


 声が少し細くなる。


「母方の従姉妹かもしれません」


 その言葉で、空気が変わった。


 確定ではない。


 でも、ただの分類だった未成年十六名の中に、急に顔のない誰かが現れた。


 エリアナの従姉妹かもしれない子。


 白い布を抱えた子。


 荷車の二台目にいたかもしれない子。


 顔はまだない。


 名前もまだない。


 でも、数ではなくなった。


 リゼの表情が、静かに痛みに沈みかける。


 アルトはすぐに言った。


「リゼさん」


「はい」


「全部持たないでください」


 リゼの瞳がアルトへ向く。


 アルトは続けた。


「でも、見ないで済ませないでください」


 リゼの呼吸が止まり、すぐに戻る。


「はい」


 エリアナがアルトを見る。


 そして、少しだけ頷いた。


「そうです」


 彼女はリゼへ向き直った。


「全部持たないでください。私の従姉妹かもしれない子の人生を、あなたの罪悪感だけにしないでください」


 リゼは頷く。


「はい」


「でも、見てください」


「はい」


「顔を覚えていないことも、記録してください」


「はい」


「それから、布の端の刺繍についても。断定しない形で」


「はい」


 エレオノーラが記録する。


 ミリアが静かに言った。


「正確さは、冷たさではないわ」


 リゼが目を伏せずに頷いた。


「はい」


 エリアナも小さく頷く。


「今は、正確であってほしいです」


 ユリウスは資料に視線を戻した。


「移送経路。北西街道から王国軍臨時保護集積所へ。その後、後方保護区域へ再移送」


 アルトは眉を寄せた。


「一度で後方保護区域へ行ったわけではないんですか」


「記録上は、臨時保護集積所を経由している」


 クラウスが低く言った。


「集積所か。そこで接収物と人員が分けられた可能性がある」


 エリアナの指が再び硬くなる。


「人と物を」


「可能性だ」


 クラウスはすぐに言い直した。


「断定ではない」


 リゼは資料を見ていた。


「私は、臨時保護集積所までの護衛だった可能性が高いです」


 ユリウスが頷く。


「記録上、灰銀一七の任務終了地点は臨時保護集積所になっている」


「その後は」


「別部隊引継ぎ。記録名は伏せられている」


 リゼは静かに息を吸った。


「私は、入口まで守った」


 エリアナの表情が少し歪む。


 リゼは続けた。


「その後を、見ていませんでした」


 ロウ教師が低く言う。


「そこまでが、今日確認できる事実だ」


 ユリウスも頷く。


「それ以上は、別記録が必要だ」


 カイが低く言った。


「じゃあ、その集積所の記録を探すんですよね」


「そうだ」


 ユリウスは答える。


「次に必要なのは、臨時保護集積所の受領記録、引継ぎ部隊、移送対象名簿、接収物分配記録」


 エレオノーラが項目を書き出す。


 エリアナが言う。


「白い布を抱えた子どもも」


「はい」


 エレオノーラが頷く。


「未成年者、白布携行者。顔不明、名前不明、推定記録対象として記載します」


 リゼは静かに言った。


「私の記憶の不確実性も併記してください」


「はい」


 記録が増えていく。


 民間移送済みという短い言葉の中から、荷車が出てきた。


 香草束が出てきた。


 白布が出てきた。


 顔を覚えられていない子どもが出てきた。


 臨時保護集積所という中継点が出てきた。


 終わっていなかった。


 「済み」ではなかった。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱少し。声なし。済みではなかったことが増えました」


 ロウ教師が頷く。


「増えたな」


 カイが小さく言う。


「増えるの、いいことなのか悪いことなのかわかんねえな」


 ミリアが静かに答える。


「重くなるけれど、消えたままよりはいいのだと思うわ」


 エリアナは机の上の資料を見たまま言った。


「私は、消えたままの方が楽だったと思う時があります」


 その言葉は、正直だった。


 誰も否定しなかった。


 エリアナは続ける。


「でも、消えたままだと、誰かが勝手に意味をつけます。民間移送済み。安全確保。保護対象。そういう言葉だけが残ります」


 彼女はゆっくり顔を上げた。


「だから、重くても、開く方を選びます」


 リゼが静かに頷く。


「はい」


 ユリウスは資料を閉じる準備をした。


「今日の確認はここまでにしよう」


 リゼが少しだけ資料を見る。


 まだ読みたいという顔ではない。


 見なければならないという顔でもない。


 止める必要があることを理解している顔だった。


「了解しました」


 ロウ教師が言う。


「止めるのも確認だ。続きを急ぐな」


 カイが少しだけ胸を張る。


「香草を急いで潰さない」


「その比喩、便利になってきたな」


 ロウ教師が言うと、エリアナがほんの少し笑った。


「母の言葉です」


「なら、借りていることを忘れるな」


 カイが真面目に頷く。


「はい」


 資料は丁寧に封じられた。


 戦時輸送記録。


 灰銀一七。


 荷車六台。


 未成年十六名。


 白布を抱えた子ども。


 それらの言葉が、紙の中に戻る。


 だが、もう「民間移送済み」の一行だけには戻れない。


 生徒会室を出ると、廊下には夕方前の光が伸びていた。


 窓の外で、青い布が揺れている。


 鐘は鳴らない。


 その静けさが、今日は少し深く感じられた。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みなし。熱少し。声なし。確認終了後」


 リゼも言った。


「身体異常なし。感情、重い。灰銀一七が移送護衛任務に参加していたことを確認しました。白布を抱えた子どもの顔は覚えていません」


 エリアナが少し遅れて言う。


「身体異常なし。疲労あり。感情、怒り、怖さ、混乱。白布の子どもについて、確認したいです」


 ミリアが頷く。


「今日は休憩しましょう」


 カイはすでに布包みを持っていた。


 ミリアが尋ねる。


「名前は?」


 カイは真剣に考えた。


「荷車を数で終わらせない用」


 エリアナが瞬きをした。


 リゼもカイを見る。


 アルトは胸が少し温かくなった。


 ミリアが柔らかく笑う。


「良い名前ね」


 カイは少し照れた。


「長いけど」


「長くていいです」


 エリアナが言った。


「今日は、その名前がよいです」


 布包みの中には、小さな焼き菓子と香草パンの欠けがあった。


 アルトは成分を読み上げる。


「焼き菓子は小麦、卵、乳、林檎、杏。香草パンは小麦、卵、乳、蜂蜜、香草候補二、香草候補三。蜂蜜減量版」


 エリアナが頷く。


「確認しました」


 廊下の窓辺で、五人は少しずつ食べた。


 香草パンは硬くなり始めていたが、まだ甘く、少し苦く、温かい記憶を残している。


 エリアナは一口食べて、静かに言った。


「次は、私が香草を砕きます」


 カイが頷く。


「急がずに」


「はい。急がずに」


 リゼは窓の外を見ていた。


 その横顔に、荷車の影が残っているように見えた。


 アルトは声をかける。


「リゼさん」


「はい」


「白布の子どもの顔を覚えていないことも、記録です」


 リゼは少しだけ目を伏せた。


「はい」


 エリアナが続けた。


「覚えていないことを、覚えているふりはしないでください」


「はい」


「でも、探してください」


「はい。探します」


 エリアナは窓の外を見た。


「私ではない誰かかもしれない。私の親族かもしれない。全く別の子かもしれない」


 声が少し震える。


「でも、未成年十六名では終わらせたくありません」


 リゼが静かに言う。


「終わらせません」


 アルトも頷いた。


「僕も、数で終わらせたくありません」


 カイが焼き菓子を持ったまま言った。


「俺も」


 ミリアが微笑む。


「私も」


 廊下の外で、誰かが友人の名前を呼んだ。


 呼ばれた生徒が振り返り、笑って手を振る。


 名前で呼ばれる。


 それだけのことが、今日はとても遠く、同時にとても大事に見えた。


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 白布を抱えた子どもには、まだ名前がない。


 けれど、その子はもう、ただの数ではなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ