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灰銀の戦乙女は、制服を知らない  作者: 最後に残った形


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第7章 第7話:王の血ではない


 白鐘の話をした翌朝、アルト・レインフォードの左手首は、少しだけ温かかった。


 痛みはない。


 声もない。


 だが、布の下の銀環は、眠りきれていないような熱を残している。


 白鐘の封。


 鳴らさないための封。


 王の血は、扉の前に立つ資格の一つにすぎない。


 扉へ走ってはいけない。


 名を呼ぶ声が、名を奪うから。


 エリアナ・ルクス・ヴェルグラントが語った断片は、歌ではなかった。


 旋律もなかった。


 彼女は約束通り、子守歌を歌わなかった。


 言葉だけを、短く、止めながら伝えてくれた。


 それでも、その言葉はアルトの中に残っていた。


 怖いだけではない。


 気になる。


 知らなければならない気がする。


 でも、知ることはいつも安全ではない。


 アルトは男子寮の自室で左手首に触れ、小さく確認した。


「痛みなし。熱少し。声なし。白鐘の話の翌朝」


 声にすると、熱の輪郭が少し落ち着いた。


 今日は、昨日の確認の続きが行われる。


 場所は図書室ではなく、学園長室隣の小会議室。


 資料はさらに少なくする。


 封印図は使わない。


 歌は歌わない。


 話すのは、エリアナが母から聞いた子守歌の続きと、そこに含まれる可能性のある白鐘の条件。


 中止はいつでも可能。


 そう決まっている。


 それでも緊張はある。


 朝食の席で、カイ・ロックハートはアルトの顔を見るなり言った。


「眠れたか」


「少し」


「俺も少し」


 カイはパンを割りながら、眉間を揉む。


「白鐘とか扉とか、重い単語多すぎるだろ」


「はい」


「でも、昨日は止められたしな」


「はい。それは大きかったです」


 アルトは左手首に触れる。


「痛みなし。熱少し。声なし」


 ミリア・ファルネーゼが向かい側で頷いた。


「今のところ安定ね」


「はい」


 リゼ・グレイスは少し離れた席に座っていた。


 今日は、アルトの正面ではなく横。


 全員の顔が見える位置。


 灰銀の髪はいつも通り整っている。


 けれど、表情は少し硬い。


 昨日、エリアナが「王国の資料では、白鐘は王国のものなのですね」と言った時、リゼは静かにその言葉を受けていた。


 勝った側の記録。


 白鐘に限らず、それはリゼ自身の戦場記録にも繋がる言葉だった。


 アルトはリゼを見る。


「リゼさん」


「はい」


「状態は」


 リゼは少しだけ瞬きをする。


 それから答えた。


「身体異常なし。感情、警戒。昨日の白鐘情報と、勝った側の記録という言葉への反応が残っています」


 ミリアが静かに頷いた。


「言葉にできているわ」


「はい」


 カイがパンを飲み込みながら言う。


「今日も重そうだな」


「はい」


 リゼは頷いた。


「ですが、確認は必要です」


 カイがすぐに言った。


「必要だけじゃなくて?」


 リゼは止まった。


 最近、皆がそこを見逃さない。


 ロウ教師に鍛えられているのかもしれない。


 リゼは少し考える。


「知りたいです」


 そして、ゆっくり言った。


「アルトさんを孤独にしない理由を、より正確に知りたいです」


 アルトの左手首が淡く温かくなった。


 痛みはない。


 声もない。


 カイが少し得意げに頷く。


「いい言い直しだな」


「はい。良好です」


「自分で言った」


 ミリアが小さく笑った。


 朝食後、小会議室へ向かう途中、廊下でエリアナと合流した。


 エリアナは制服姿に少し慣れたように見えた。


 それでも、歩き方はまだ外交局の礼法が抜けていない。


 姿勢は美しく、足音は小さく、視線は必要以上に動かない。


 彼女の横にはユリウス・エインズワースがいる。


 少し後ろにエレオノーラ・ヴィンスフェルト。


 今日は王宮側の立会人はいない。


 それは学園長が強く制限したらしい。


 情報が白鐘関連に及ぶため、王宮へ即時共有されることを避けるためでもある。


 エリアナはアルトたちを見ると、静かに礼をした。


「おはようございます」


「おはようございます」


 アルトが答える。


 リゼも言う。


「おはようございます。エリアナさん」


 エリアナはリゼを見る。


 一拍。


「おはようございます。リゼさん」


 昨日より、少しだけ自然だった。


 カイが小声で「よし」と言う。


 エリアナがそちらを見る。


 カイは慌てて真面目な顔に戻した。


「顔」


 リゼが小声で言う。


「直した」


「良好です」


 エリアナの目元がほんの少しだけ緩む。


 笑いではない。


 だが、硬さが昨日より薄い。


 小会議室には、学園長、ロウ教師、クラウス・ヴァイゼルがすでにいた。


 机の上には白紙の記録用紙と、飲み水、簡単な地図だけ。


 白鐘礼拝堂の絵も、封印図も、古文書の写しもない。


 情報量を意図的に減らした部屋だった。


 学園長が言う。


「本日の確認は短時間とする。昨日の続きだが、歌唱は禁止。刺激語が出た場合は即時停止。アルト、エリアナ、どちらも中止可能。リゼ、ミリア、カイは状態補助。ユリウスとエレオノーラは記録と手続き。クラウス卿は解釈補助。よいな」


 全員が頷く。


 アルトは自分から言った。


「痛みなし。熱少し。声なし。現在地、小会議室」


 エリアナは少し彼を見る。


 それから、自分の手元を見た。


「身体異常なし。疲労は少し。感情、緊張。昨日の話を続けることへの怖さがあります」


 リゼが静かに頷く。


「良好です」


 エリアナはその言葉を受ける。


「良好、なのですね」


「はい。怖さを言えています」


「……はい」


 彼女は少しだけ息を吐いた。


 クラウスが慎重に切り出す。


「昨日の確認では、白鐘の封は鳴らすためではなく鳴らさないためのもの、王の血は扉の前に立つ資格の一つにすぎない、という断片が出た。今日は、その続きについて、エリアナ嬢の知る範囲で確認する」


 エリアナは頷く。


「はい」


「無理に思い出さなくていい。不確かなものは、不確かなものとして扱う」


「承知しました」


 クラウスはそこで口を閉じた。


 問いすぎないためだろう。


 エリアナは自分の手を見つめた。


 指を重ね、少しだけ力を抜く。


「母の子守歌には、いくつかの言葉がありました」


 アルトの左手首が少し熱を持つ。


 痛みなし。


 声なし。


 リゼが即座に見る。


 アルトは頷く。


「継続できます」


 エリアナは、歌わなかった。


 昨日と同じように、平坦な言葉として口にする。


「鐘を鳴らしてはいけない。白い朝が割れるから」


 アルトの熱が少し上がる。


 痛みなし。


「扉へ走ってはいけない。名を呼ぶ声が、名を奪うから」


 左手首に小さな痛み。


 昨日よりは弱い。


 アルトはすぐに言う。


「痛み少し。熱中。声なし。昨日より反応は弱いです」


 リゼが頷く。


「良好です。継続可能ですか」


「はい。短くなら」


 エリアナは待ってから、次の断片を言った。


「王の血で扉を叩いてはいけない」


 その言葉で、アルトの左手首が熱を持った。


 痛みは少し。


 声はない。


 クラウスの目が鋭くなる。


 エリアナは続ける前に、アルトを見た。


「続けても?」


 アルトは深く息を吸った。


「はい。お願いします」


 エリアナは頷き、ゆっくり続けた。


「扉を開けるのは、王の血ではない」


 小会議室の空気が止まった。


 王の血ではない。


 その言葉は、アルトの中で静かに反響した。


 熱が中から強へ近づく。


 痛みは少し。


 声はない。


 怖い。


 でも、どこかで、胸の奥が揺れる。


 王家血統だから鍵。


 王の血だから扉を開ける。


 ずっとそう扱われてきた。


 エルディア・レインフォード。


 白鐘。


 銀環。


 王家。


 血筋。


 だが、エリアナの母の歌は違うと言っている。


 扉を開けるのは、王の血ではない。


「痛み少し。熱強に近い。声なし。怖いですが、聞けています」


 リゼがすぐに問う。


「現在地」


「小会議室」


「名前」


「アルト・レインフォード」


「あなたは」


 アルトは息を吸う。


「鍵だけではありません」


「良好です」


 エリアナはそのやり取りを見ていた。


 薄紫の瞳が、わずかに揺れている。


 クラウスが低く言った。


「続きはあるか」


 エリアナは少しだけ頷いた。


「あります。ただ、ここからは負荷が高いかもしれません」


 学園長が確認する。


「アルト」


「聞きます。でも、一節ずつでお願いします」


「エリアナ」


「一節ずつ話します」


 エリアナは視線を落とした。


「扉を開けるのは、孤独な音」


 アルトの左手首が、熱くなった。


 痛みが中へ上がる。


 声はない。


 だが、第6章の記憶が一気に近づく。


 孤独な鍵ほど、よく響く。


 変えられた歌詞。


 小さな灯ほど、帰る道を照らす。


 紙細工の男。


 孤独にしなければ扉は開かない。


 アルトは椅子の縁を握った。


「痛み中。熱強。声なし。孤独な音、で反応しました」


 リゼが前へ出る。


「中止しますか」


 アルトは目を閉じかけ、開く。


 エリアナがすぐに口を閉じている。


 続けない。


 待っている。


 それがわかる。


 ミリアが静かに言う。


「現在地」


「小会議室」


「名前」


「アルト・レインフォード」


「周囲」


「リゼさん、ミリアさん、カイ、エリアナさん、ユリウス先輩、エレオノーラ先輩、クラウスさん、ロウ先生、学園長」


「声」


「なし」


「感情」


「怖いです。でも、男の言葉と違うかどうか、分けたいです」


 ロウ教師が初めて口を開いた。


「よし。分けろ」


 アルトは左手首を押さえながら言う。


「エリアナさんの言葉は、子守歌の断片です。男の言葉は、僕を孤独にしようとする誘導でした」


 リゼが記録する。


「分離確認。子守歌断片と実行犯誘導を区別」


 アルトは続ける。


「でも、同じ“孤独”という言葉を使っています。だから、怖いです」


 カイが低く言う。


「そりゃ怖いだろ」


 ミリアが頷く。


「怖いと言えているわ」


 エリアナは静かに言った。


「私も、その部分は怖いです」


 アルトは彼女を見る。


「エリアナさんも?」


「はい」


 エリアナの指が重なる。


「母は、そこを歌う時だけ、少し声を低くしました。幼い私は意味を知りませんでした。でも、孤独な音という言葉だけ、妙に覚えています」


 クラウスが苦い顔をする。


「孤独な音。孤独な鍵。敵が使った言葉と近すぎる」


 リゼが頷く。


「敵は、この断片を知っていた可能性があります」


 エレオノーラが記録する。


「敵勢力、白鐘子守歌または同系統伝承を一部把握していた可能性」


 アルトは息を整える。


 痛み中から少し下がる。


 熱は強。


 声なし。


「継続できます。一節だけ」


 エリアナは確認する。


「本当に?」


「はい。今、みんながいます」


 その言葉に、エリアナの瞳がわずかに動いた。


 今、みんながいます。


 孤独な音の話を、孤独ではない場所で聞いている。


 それ自体が、何かの対抗なのかもしれない。


 エリアナはゆっくり頷いた。


「続きます」


 彼女はまた歌わず、言葉だけを置いた。


「孤独な音はよく響く。けれど、孤独なままでは砕ける」


 アルトの胸が、ぎゅっと痛んだ。


 銀環ではなく、胸。


 左手首の熱は強い。


 痛みは中。


 声はない。


 孤独なままでは砕ける。


 鍵になるために孤独にされるのではない。


 孤独にされれば、自分が壊れる。


 敵は、扉を開くためにアルトを孤独にしようとした。


 だが、その条件は、アルト自身を砕くものでもある。


 アルトの呼吸が浅くなった。


 リゼがすぐに言う。


「中止」


 エリアナは口を閉じる。


 ミリアが水を差し出す。


 カイが一歩近づき、止まる。


 それでも声はかけた。


「こっち見ろ。今、一人じゃない」


 アルトはカイを見る。


 カイの顔は怒っている。


 でも、アルトへ向けた怒りではない。


 孤独という言葉そのものに怒っているようだった。


「現在地」


 リゼの声。


「小会議室」


「名前」


「アルト・レインフォード」


「声」


「なし」


「痛み」


「中」


「熱」


「強」


「感情」


「怖いです。孤独になったら、僕が壊れるかもしれないと思いました」


 リゼの灰銀の瞳が、冷たく揺れた。


 怒り。


 静かな怒り。


「あなたを孤独にしません」


 リゼは言った。


 それは手順ではなかった。


 任務でもなかった。


「孤独化は、成立させません」


 クラウスが低く言う。


「これは重要だ。王宮の隔離方針と完全に衝突する」


 ユリウスが即座に頷く。


「記録する。王宮への意見書に加える」


 クラウスは続けた。


「隔離は安全策ではなく、起動条件になり得る。いや、起動条件であるだけでなく、対象者自身の崩壊条件でもある可能性がある」


 対象者。


 その言葉にアルトの左手首が少し熱を増した。


 クラウスはすぐに言い直した。


「失礼。アルト君自身の崩壊条件になり得る」


 アルトは頷く。


「ありがとうございます」


 クラウスは苦い顔をした。


「こちらが礼を言われることではない」


 ミリアが静かに言う。


「でも、言い直しは大事です」


「そうだな」


 エリアナはそのやり取りを黙って聞いていた。


 そして、小さく言った。


「私は、鍵になれませんでした」


 部屋の空気が変わる。


 アルトは息を整えながら、彼女を見る。


 エリアナの表情は硬い。


 だが、今の言葉は予定していなかったもののようだった。


 彼女自身も、少し驚いた顔をしている。


 ミリアがすぐに言う。


「その話は、今でなくてもいいわ」


「いえ」


 エリアナは首を横に振った。


「今の話と繋がっています。ただ、詳しくはまだ無理です」


 リゼが頷く。


「範囲を限定してください」


 エリアナは少し息を吸う。


「私は、旧王家の血を持っていました。母方に白鐘の記録がありました。だから、幼い頃、白鐘に関わる反応を持つかもしれないと言われたことがあります」


 アルトの左手首が熱を持つ。


 痛みは少し下がっている。


 声なし。


 エリアナは続けた。


「でも、私は反応しませんでした」


 彼女の声は静かだった。


 静かすぎるほどに。


「王の血だけではない、と母は知っていました。だから、私は鍵ではないのだと、後でわかりました」


 カイが思わず言う。


「鍵じゃなくてよかったんじゃないのか」


 ミリアが少し目を向ける。


 だが、エリアナは怒らなかった。


 ただ、静かに答えた。


「そう思える時もあります」


 そして、少しだけ目を伏せる。


「でも、鍵になれない血筋にも価値はあるのか、と問われる時もあります」


 カイの顔が強張った。


「……悪い」


「謝罪は不要です。今の問いは、自然です」


 エリアナは小さく言った。


「鍵でなければ自由になれる、というほど簡単ではありませんでした」


 アルトの胸が痛くなる。


 反応するから利用される。


 反応しなければ価値が低いと扱われる。


 どちらにしても、自分のままでは見られない。


「僕は」


 アルトはゆっくり言った。


「反応することが怖いです。でも、反応しなかったら安全なのかと思っていました」


 エリアナが顔を上げる。


「安全ではありません」


 その声には、はっきりした実感があった。


「反応しなくても、血は残ります。名は残ります。利用できる可能性がある限り、人は手を伸ばします」


 リゼの指が硬くなる。


 勝った側の記録。


 敗れた側の血筋。


 反応の有無に関係なく、誰かを使おうとする構造。


 ロウ教師が低く言った。


「今日はそこまでにしろ」


 エリアナは頷いた。


「はい」


 アルトも息を吐く。


 左手首の痛みは少し。


 熱は中から強の間。


 声はない。


 だが、疲労が強い。


 学園長が言う。


「確認を終了する。記録整理だけ行い、続きは別日にする」


 エリアナはすぐに頷いた。


「承知しました」


 カイが小声で言う。


「終わったら何か食った方がいい」


 エリアナがカイを見る。


 以前ならその唐突さに戸惑っただろう。


 今は、少しだけ目元を緩めた。


「また焼き菓子ですか」


「今日は別のやつもある」


「用意していたのですか」


「まあ」


 カイは少し照れた。


「白鐘の話の後用」


 ミリアが小さく笑う。


「用途名がそのままね」


「わかりやすいだろ」


 リゼが真面目に頷く。


「非常にわかりやすいです」


 そのやり取りで、アルトの呼吸が少し戻った。


 クラウスが記録の整理を始める。


「本日確認された断片。扉を開けるのは王の血ではない。孤独な音はよく響く。孤独なままでは砕ける。これらは、敵勢力による孤独化誘導と一致または類似する」


 エレオノーラが書き取る。


 ユリウスが続ける。


「王宮への意見書には、隔離が安全策ではなく危険条件になり得ることを明記する。アルト君の移送、単独保護、外部接触遮断は慎重に扱うべきだと」


 ミリアが補足する。


「“孤独にしない”を感情論ではなく、安全管理上の条件として記載できるわね」


「そうだ」


 ユリウスが頷く。


 リゼが静かに言った。


「ただし、感情論ではないから重要なのではありません」


 全員がリゼを見る。


 リゼは少しだけ言葉を探した。


「関係としても重要です。安全管理上も重要です。どちらか片方にしません」


 アルトの左手首が温かくなった。


 痛みは少しずつ下がっている。


 声はない。


 ミリアが柔らかく微笑む。


「ええ。とても大事ね」


 カイも頷く。


「安全だから一緒にいるんじゃなくて、一緒にいたいから一緒にいるし、それが安全にもなるってことだろ」


 リゼは少し考えた。


「はい。非常に近いです」


「お、合ってた」


 エリアナはその会話を聞いていた。


 理解しきれないような、しかし目を逸らせないような表情で。


「一緒にいたいから」


 彼女は小さく呟いた。


 その言葉は、彼女にとってまだ遠いものなのかもしれない。


 アルトはエリアナを見る。


「エリアナさん」


「はい」


「さっき、鍵になれなかった子、と言いました」


 エリアナの瞳が少し揺れる。


「はい」


「でも、エリアナさんは鍵になれなかっただけの人ではありません」


 部屋が静かになる。


 アルトは自分の左手首に触れたまま続ける。


「僕が鍵だけではないのと、たぶん同じです。同じではありません。でも、少し似ています」


 エリアナはすぐには答えなかった。


 薄紫の瞳が、アルトを見ている。


 それから、リゼを見る。


 ミリアを見る。


 カイを見る。


 この部屋にいる人たちを見る。


「……その言い方なら」


 彼女は静かに言った。


「少し、受け取れます」


 アルトは頷いた。


「はい」


 確認が終わり、小会議室を出る頃には、昼近くになっていた。


 廊下には授業間のざわめきが戻っている。


 誰かが笑っている。


 誰かが走りかけ、教師に注意されている。


 学園の日常。


 その中に、白鐘の重い言葉を抱えたまま戻る。


 アルトは左手首に触れた。


「痛みほぼなし。熱中。声なし。疲れています」


 リゼが頷く。


「休憩が必要です」


 カイが布包みを持ち上げる。


「だから、白鐘の話の後用」


 ミリアが確認する。


「照合済み?」


「照合済み。変な紙なし。変な線なし。普通の焼き菓子」


「良好です」


 リゼが言った。


 カイは得意げに布包みを開く。


 中には小さな焼き菓子がいくつか入っていた。


 エリアナは少し迷った。


 それから、自分から言った。


「一つ、いただいても?」


 カイの顔が明るくなる。


「もちろん」


 彼は一つ取り、半分に割ろうとして止まる。


「一つ全部でいいですか」


 エリアナは少し考えた。


「はい。一つ全部で」


 ミリアが微笑む。


 アルトの左手首がまた少し温かくなった。


 エリアナは焼き菓子を受け取り、成分を確認する。


「小麦、卵、乳、林檎、杏」


 カイが驚く。


「覚えたんですか」


「昨日聞きました」


「すげえ」


「記録するほどではありません」


 エレオノーラが少しだけ手を止めた。


 カイが慌てて言う。


「いや、今のは記録しなくていいです」


 エレオノーラは少し考える。


「では、休憩中のため記録しません」


 そのやり取りに、エリアナの口元がほんのわずかに緩んだ。


 今度は、笑ったと言ってもいいかもしれない。


 小さく。


 まだ遠慮がちに。


 でも、確かに。


 エリアナは焼き菓子を一口食べた。


「甘いです」


 カイが満足そうに頷く。


「甘いです」


 また二回。


 ミリアが笑い、アルトも笑った。


 リゼも少しだけ口元を緩めた。


 エリアナはそれを見て、少し不思議そうにした。


 白鐘の封。


 王の血ではない。


 孤独なままでは砕ける。


 その言葉は重い。


 消えない。


 でも、その重い言葉を聞いた後に、焼き菓子を食べて笑うこともできる。


 アルトは左手首に触れた。


 痛みなし。


 熱少し。


 声なし。


 孤独な音はよく響く。


 けれど、今ここには、いくつもの声がある。


 カイの声。


 ミリアの声。


 リゼの声。


 エリアナの声。


 ユリウスやエレオノーラの記録する音。


 誰かを一人にしないための、たくさんの小さな声。


 アルトは静かに息を吐いた。


「僕を一人にすることは、守ることじゃないんですね」


 リゼがすぐに答える。


「はい」


 ミリアも頷く。


「ええ」


 カイは焼き菓子を口に入れながら言った。


「当たり前だろ」


 エリアナは、その三人の返事を聞いていた。


 そして、小さく呟いた。


「当たり前に、なるのですね」


 誰もすぐには答えなかった。


 その言葉の重さが、わかったからだ。


 リゼが静かに言う。


「確認中です」


 エリアナが彼女を見る。


 リゼは言い直した。


「いいえ。私たちは、そうしたいです」


 エリアナは目を伏せた。


 焼き菓子をもう一口食べる。


「では、私も」


 彼女は小さく言った。


「少し、確認してみます」


 それは約束ではなかった。


 信頼でも、まだない。


 でも、孤独な音が響く前に、誰かの声を聞いてみるという、小さな選択だった。


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