◆御守り
──すき。すきよ。
しね
──だいすき。あいしてるわ。
しね
──あなたさえいればいいの。
おまえさえいなければ
──わたしはあなたのために、いきているのよ。
なんでいきてるの
──すきよ。
おまえなんか
ア イ シ テ ル ワ
死 ん じ ま え
青空児童公園──敷地そのものは小ぢんまりとしているものの、四席並ぶブランコに高さのない滑り台。着地地点には細かな砂が盛られ、簡易な砂場として活用される。鉄棒は横に大中小と段々繋ぎになっており、ある程度の年齢の背丈まで対応できるよう調整されている。学校帰りや休日の児童は勿論のこと、目を離せない幼児や育児に疲れた大人にも人気の憩いの場。それが青空児童公園──通称『お化けブランコ』がある公園の名前だった。
さて、僕が再びこの場所にやってきたのには、深い訳が──あることもなく、ただの偶然であった。まさしく通り掛かりだ。ああ、ここ見たことあるな、前にここで制服を台無しにしちゃったんだよな……そんな思いからついと目を向けた。それだけのことだったのだ。
女の子が、一人でいた。ぽつんと。
公園内にある子供の姿は彼女だけではない。しかし、女の子はひとりぼっちだった。鉄棒の近くで遊具を様々な使い方をして遊ぶ子供の誰も、彼女に近寄ろうとしなかった。同年代ほどであろうに。まるで彼女の姿が見えていないかのように。
それがどことなく気掛かりで、通り掛かりざま、砂場の端で立ちほうけるその子のことをほんの少しのあいだ眺めていた。すると。
「──危ないっ!」
咄嗟に声を上げた。彼女に向かって、公園の外から何かが一直線に飛んできたからだ。僕の声に反応した少女が瞬時に屈む。ポニーテールにまとめられた黒髪が余韻を残して靡く。その上を通過する、速度を持った小さな影。
ああ、よかった、ちゃんと避けられたみたいだ──そう安堵した直後に、鉄棒が設置されている付近から別の子供の悲鳴が上がった。
「イッテェ! なんだよこれ、ボール!?」
鉄棒に集って遊んでいた子供の内の一人が、肩を抑えて憤っていた。その近くには野球のボールらしき物が転がっていた。どうやら女の子が直撃を避けたことで、向かい先にいた男の子にとばっちりが行ってしまったらしい。実に不幸な事故であった。
「っスイマセーン、そっちにボール飛んじゃって……うわっ、ウソ、まさかボール当たった!?」
公園の出入口から中学生ほどの少年とその父兄らしき大人が子供達へと駆け寄る。二人は、接触はしたものの男の子に怪我がないことを確認すると、次にポニーテールの女の子にも声を掛けた。
「きみは大丈夫? えっ、ほんとはボール、君に当たりそうだったの? それは……あの子にはわるいけど、運が良かったね」
あの子と密やかに指された少年は、謝罪を受けたことですっかり大人から興味を失ったようで、仲間達を連れてとうにブランコの方へと移動している。対して、砂場から動かずにあった女の子は、腰を低くして謝り倒す大人に歯を見せて笑うと「そうなの、ひーちゃん、運が良いの!」と溌剌とした声で答えていた。大人に物怖じせず、元気で愛嬌もある──とても人懐こそうな子だった。
不思議だなぁ。到底、子供からも大人からも遠巻きにされるタイプには見えないのに。
「ほら、またあの子」
「ほんとに運が良いわねぇ」
「あたしの代わりに宝くじの一つでもやってみてくれないかしら」
「やだもう、アンタったら」
昼下がりの騒ぎに、野次馬で集まってきたらしいおばさん達の会話がふと耳に入った。どうやら女の子──〝ひーちゃん〟は、運が良いことでこの辺りでは有名な子供のようだった。
「知ってる? ちょっと前のモールの事件でもあの子、被害者の中にいたらしいわよ」
「ああ、逆恨みかなんかで客が暴れ回って商品全部台無しにしたやつ?」
「そうそう。被害の店、それなりに子供向けの雑貨店だったじゃない? お母さんと一緒にあの子、見に行ってたんですって。で、犯人のすぐ近くにいたの。でも、たまたま山積みになってた商品が盾になってあの子は怪我一つ負わなかった、て話。お母さんの方はちょっと危なかったらしいけど」
「へえ、さすが。ほーんと、運良いわねぇ~」
「ねー」
大して潜められてもいない井戸端会議の結果、全く意図しないところで〝ひーちゃん〟について知ってしまい、なんとなく気まずくなる。なので、おばさん達から不審者扱いされる前にそろそろ退散しておこうか……そう青空児童公園に背を向けた時、幼い声が弾けた。
「おにいちゃんっ!」
「わっ!? あ、う、うん……僕のこと?」
「うん! あのね、えっと──さっきはありがとうございましたっ」
女の子──件の〝ひーちゃん〟が僕の前に立ち、元気にポニーテールを揺らしながらちょこんと頭を下げる。辿々しい敬語に、一番低い鉄棒でもまだ利用が難しそうな小柄な体躯、間近で見た幼い顔立ちは、僕を微笑ましい気持ちにさせるには十分だった。きっとまだ小学校に上がったばかりくらいだろうに、礼儀正しい子だ。
「どういたしまして。ボール、当たらなくて良かったね」
「うん! ひーちゃん、運がいいから、いつもひーちゃんはケガしないんだよ! でも、今日はきょーたくんが代わりになっちゃった……」
「きょーたくん?」
「きょーたくん!」
きょーたくん、と繰り返しながら〝ひーちゃん〟が指を差したのは、不運にもボールが当たってしまった男の子だ。やはり彼等と〝ひーちゃん〟は顔見知りらしかった。
「きょーたくんね、ひーちゃんと仲良しなんだよ。でもね、きょーたくん、ひーちゃんをムシするの」
「そっか……もしかして喧嘩しちゃった? それで、意地悪されてるの?」
「ううん、いじわるじゃないよ。きょーたくん、ひーちゃんがこわいんだって」
「え、」
──こわい?
思わず〝ひーちゃん〟と遠くにいる〝きょーたくん〟を交互に見遣る。〝きょーたくん〟は依然と周囲の男の子達とだけで戯れているが、その〝きょーたくん〟を見る〝ひーちゃん〟の表情には隠す意思すらない親しみが表れていた。本当に、元々は仲が良かったのかもしれない。
「あのね、きょーたくんね、ひーちゃんの代わりに────あっ、ママからお電話だ。もうおむかえかなぁ……じゃあね、おにいちゃん!」
「あ、う、うん。またね」
話の途中でパッと身を跳ねさせた〝ひーちゃん〟が、黄色いポシェットから子供用の携帯電話を取り出しながら公園内へと戻っていく。ポシェットのファスナーに着けられた御守りが彼女のポニーテールと一緒に揺れる。
自分の都合のままに話題を選び、あっちこっちと話がとっ散らかっていく様も愛らしい子供だった。
「ひーちゃん、か……」
ひょんなことから出会った小さなお友達の背を見送って、心ばかりに〝ひーちゃん〟と〝きょーたくん〟がまた仲良くできますようになんて祈りながら、さぁ僕も事務所に向かおうとローファーの爪先を回す。と──またも子供の声が僕を呼び止めた。
「あ──アンタさ!」
「え?」
「今日、気をつけたほうがいいよ。──アイツとしゃべっちゃったんだから」
見覚えのある男の子だった。〝ひーちゃん〟と仲良しで、けれど〝ひーちゃん〟を無視をしていて、そしてそれは意地悪からではなくて────〝ひーちゃん〟が、こわいから。
「君は……〝きょーたくん〟、だよね? さっきの子がそう呼んでたんだけど……」
「ん。おれ、アイツとおさななじみだから知ってんだ」
〝きょーたくん〟はそうして己の身を僕の近くまで寄せると、井戸端会議をしていたおばさん達よりもよっぽど声を潜ませて、告げた。
「アイツさ、運がいいとか、幸運とか言われてるけど──そうじゃない。そういうんじゃないんだ。アイツは──」
自然と、集中していた。〝きょーたくん〟の言葉に。なにせ彼の語る様からは、大事な秘密を打ち明ける深刻さと真剣さが見られたから。
だから。
「あら、恭太くん。こんにちは」
「ッ!」
パッと少年が離れる。僕の隣にいつの間にか並んでいた人物を見上げて、わかりやすく「マズイ!」なんて顔をしてしまう。嘘の付けない素直な子供の反応だった。
「今日もうちのひーちゃんと遊んでくれてるの? いつもありがとうね」
「…………べつに」
次から次へとなんなのだとそっと横目で窺ってみれば、なんのことはない。ごく普通の女性だった。特徴的と云える部分が見付からない、すれ違ったところで大して印象にも残らないだろうと、そう思わせるに十分なありふれた佇まいの女性。歳の頃は僕より一回りほど上で、話から察するに娘を迎えに来た〝ひーちゃん〟の母親その人であるようだった。
「──っ、じゃ、そういうことだから! ほんとに気ぃつけろよな、にいちゃん!」
「あっ、きょーたくん!」
「あらま」
女性を避けて脱兎のごとく踵を返してしまった〝きょーたくん〟に、挨拶をしただけなのに娘の友達から逃げられる形となった女性と気まずい気持ちで目を合わせる。軽く会釈して、とりあえずヘラッと笑ってみせる。
「この年頃の男の子って難しいわよねえ」
「あ、はい……そう、ですね」
「ふふ。ごめんなさいね、こんなおばさんが急に話し掛けて。びっくりしたでしょ」
「いえ、そんな……あの、〝ひーちゃん〟のお母さん、ですよね?」
「はい。ひーちゃんのお母さんです」
よくよく見れば成程、娘と血の繋がりを感じさせる顔立ちの女性が悪戯っぽく僕の言葉を繰り返す。そんな茶目っ気に、ほんの少し緊張が緩んだ。
「えっと、あの、もしかしたらもうひーちゃんから聞いてるかもなんですけど、さっきひーちゃんにボールが飛んできて、でもひーちゃんには当たらなくて、だからひーちゃんに怪我はなくて、」
「ええ、知ってます。あの子はそういう子ですから」
「──、?」
どことなく、不思議な返答だった。日本語の会話の筈なのに、日本語として微妙に機能していない──そんな違和感をかんじさせるような。
しかして女は続けるのだ。どこにでもいるありふれた人の顔をして。
「あの子はね、特別なんです。特別だから、神様に守られているんです。────特別、『幸運なこども』なんですよ」
◆◆◆
「──て、事があったんですよ、今日」
「へえ。ああ。そう」
「そんなあからさまに興味ないことあります?」
うねった黒髪をソファに散らばらせて、寝転んだまま何かの資料を読み込んでいるらしいだらしない格好の男──時刻探偵事務所所長・土御門時政に向かってぶすくれる。
時政さんってそーいうとこあるんだもんな。興味ないものに対してはとことん無関心っていうか。逆に少しでも興味を持つとそれはそれでとことん追究するモードに入るみたいだけど。まったく、なーにが『高度経済成長期における発展と退化の不文律』だ。何の為の資料なんだ、それは。そしてこっちは『感染呪術と類感呪術:ジェームズ・フレイザーの遺言』、と……いやほんとになんだこれ。見てるだけで頭が痛くなりそうだ。
「別に珍しい話でもないだろ。自分のガキに夢見て特別扱いする親なんざ。行き過ぎれば新興宗教、子供に負担が掛かるようなら虐待だけど」
「それは、まぁ、そうですけどぉ……」
見るからにこの話題に興味がありませんと顔に書いている時政さんにぶつくさ文句をこぼす。その手で、不穏さすら感じさせる不気味なタイトルの本を遠くの本棚へと追いやる。
今日も今日とて、探偵事務所での僕の業務内容は家事に掃除に整理整頓にと平和極まりなかった。
「でも、実際のところどうなんですか? やたら運が良い人間っていますけど、やっぱりそういう人は特別なんですか?」
机の上をざっくり纏め終えれば、次は洗い物だ。どうせならこの後に掃除機も掛けちゃいたいなとソファの上のぐーたら探偵に期待の眼差しを向けるが、暇を持て余した探偵はさっさと次の本を手にしていて、場所を空けてくれそうな気配は微塵もなかった。……しょうがない、掃除機掛けは今日は諦めるか。
「さあ。特別かもしれないし、ただ体質ってだけかもな」
「体質?」
「そ。『特別』ってのは後から付属されるモノもある。何事もなく生きていたつもりがうっかり手違いでカミサマに愛されちまって──だとかな。だが、『体質』となるとそれはもう生まれ付きだ。大抵は他人の手にも本人の手にも負えない天然モノ。──ま、結構なことじゃねぇか。幸運体質ならデメリットよりメリットのが多い人生になるだろうさ。その〝ひーちゃん〟とやらは」
そう締め括って、さっさと速読したらしい本──タイトルは『La situation actuelle des Acadiens』だった。一体何語なんだ?──をローテーブルに投げ置く時政さんに、アーッと声を上げたくなった。そこさっき整理したばっかりなのに!
「詳しく知りたきゃ、シオンの身内にキッツイ体質持ちがいるから聞いてみろよ」
「はぁ……シオンさん、ですか」
時政さんが上げた『シオン』の名前に、また無茶な事をこの人は簡単に言ってくれるものだと肩を竦める。だって、僕──その『シオン』さんとやらにまだ会ったことすらないんだもの。話を聞くに、時刻探偵事務所・従業員の一人らしいけれど。
だから、この時の僕の関心の先は見ず知らずのシオンさんよりも〝ひーちゃん〟にあった。
────幸運体質、か。




