第5話『夢じゃありませんように』
甘やかされるのも悪い気はしない。だが、こうもべた褒めされてしまうと、どうしてもその気になってしまう。子供っぽいな、と自分が馬鹿に見えた。
たらふく食べたあとは、ロドリックの言うがままにメイドに連れられて部屋に案内された。今まで押し込まれていた倉庫のような部屋ではなく、質素でありながらも豪華さを醸す部屋で、口をあんぐり開けて驚いてしまった。
「これ、本当に儂の部屋なのか?」
思わずウルスラの手をぎゅっと握りしめて、踏み入るのを躊躇する。
「間違いなくお嬢様の部屋です。今後はこちらで過ごして、そのうちメイドたちの案内を受けながら地図を覚えていただく予定です。何か質問はございますか」
「うむゥ……。メイドはウルスラがついてくれるのではないのか」
残念ながら、とウルスラは首を横に振った。
「皆、忙しいのです。その時々で都合の良いメイドが付きます。専属が欲しいのでしたら、旦那様か奥様にご相談ください」
「わかった、明日にでも話してみる。ありがとう、ウルスラ!」
無邪気な笑顔で感謝を口にする。虐待を受けても大人を信じられる純粋さに、ウルスラも、枠の中にいる人間として申し訳ない気持ちになった。
「いいですか、お嬢様。さきほども言いましたが、何かあれば必ず我慢せずに仰ってください。執事もメイドも、その多くがあなたを敵視するはずです。精神的に追い詰めることを彼らは厭いません。分かりましたか?」
少しでも力になりたい気持ちが伝わってくると、エルリィも頬を綻ばせ、繋いだ手をぎゅっと握り返す。
「大丈夫。我慢するのはもうやめることにした」
誰にも心配などさせまいと決意する。これから、エルリィは俯いてどう生き延びるかを考えるのではなく、どう生きていくかを考える場所に立ったのだ。
「おやすみ、ウルスラ。また明日、よろしく頼むぞ」
「はい。おやすみなさいませ、お嬢様」
扉がぱたんとゆっくり閉まったら、緊張感が空気の抜けた風船のように萎む。上手く行くかどうかも分からず、どこかでひとつでも失敗すれば水の泡になる、とゆっくり進んできた。やっと最初の段階を乗り越えられたと胸を撫でおろす。
(想定以上に上手く進んだが……なにやら一筋縄ではいかなさそうじゃのう。ま、グロリアとて大差ない。ようは手段が違うだけの話じゃ、問題ない)
ふふん、と得意げに可愛く鼻を鳴らしてベッドに寝転がった。
嬉しさにごろごろ転げまわり、シーツの端を掴んでくるくると巻く。
「んん~! 温かい。ふわふわじゃあ!」
柔らかくて心地が良い。七年を我慢している間、四歳まではきちんとしたものを与えられていたのに、そこからはごわごわした藁のような毛布一枚だけ。寒い日は自分で魔法を使って、バレないように何度温まったかもわからない。
静かに。静かに時間が過ぎていく。今はひとりでも、独りではない。
(そなたは、どう生きたのだろう。儂にはまだよく分からん。だが、正しい生き方をしてみたいとは思う。グロリアのように誰かを虐げるのではなく、ロドリックのように誰かを守る生き方を。ま、ガキの時分では出来ようもないが)
何はともあれ居場所を得たというのは大きい。狭く暗い部屋でいつ来るとも分からないグロリアを気にしながら、ろくに眠れなかった日々ともおさらばだ。
今、エルリィが迫られているのは、誇り高いパードリグ公爵家の人々に、いかにして自分を認めさせるかである。暴力で解決できるのなら彼女にはそれが最も手っ取り早いのだが、そうもいかない。
「なんとかせねばならんのう。……あ、そうじゃ」
ごそごそとベッドを出て、傍にあった机に向かう。いくつかある引き出しの中を探して、紙とペンを見つけると椅子に座り、床に届かない足をぷらぷらさせた。
つたない文字で書いたのは、今後の目標だ。押し込められた部屋の古い棚にあった、今にもばらけてしまいそうなくたびれた本。使われていない古い子供向けの教材だったおかげで、文字を覚えるのは難しくなかった。
『立派な公爵家の人間になる』
書きなぐった言葉を、素晴らしい出来だと満足げにする。
「文字という文化はなんとも代えがたい良さがあるのう」
前世で殺した人間の服に刻まれた名前の刺繍を思い出して、浮かれていた気分がゆっくり沈んでいく。
「……あれにも意味は籠められておったのだろうな」
両手に力がこもって、持った紙がくしゃっと潰れた。
「うむ。考えるのはやめだ、ひとまず疲れを癒させねばなにも纏まらん」
いまさら償えるわけでもない。償えたら良いという話でもない。
命の価値について考え始めても終わらないので、頭の片隅に置いて再びにベッドに潜り込む。溜まった疲れが今になって溢れ、一分も経たないうちに柔らかい感触に呑まれて、うとうとし始めた。
(この七年間も。今、この瞬間も。全て夢でなければいいのう……)
転生は本来、前世の全てを失う。獣であろうと人間であろうと変わらない命の循環として知られていた。エルリィの薄っぺらな知識でさえ、当たり前のように刻まれている。それが何もかも覚えているのは、どうにも落ち着かない。
もしかするとこれは死の間際に見ている短くて長い夢なのではないか。死の間際に見る記憶の奔流ではなく、望んだ結末の物語を断片的に再現して、僅か数秒の中に無限が存在するような泡沫の夢ではないか。
背中の痛みが本物であってくれと柄にもなく祈った。
(七年の地獄も、過ぎてみればあっという間じゃったな。ここでは努力次第で振り向いてもらえるのなら、皆に気に入られるよう頑張らねばのう)
んふふ、と笑って、ゆっくり意識を手放していく。
もうグロリアが来るかもしれないと気にする必要はない。ひと晩を十分の睡眠で過ごしてきたことなど忘れて、安堵の中で静かに眠りに落ちた。




