第9話『決心』
温かい手だと分かっていても、クラリスは伸ばそうとした手を引っ込めてしまった。自分にはもう救われる資格がないと塞ぎ込む。
「……もう退学なんだよ、アタシ。一緒にはいられない。それにほら、聞いたんだ。マリアって歴史の長い子爵家の令嬢なんでしょ。退学したあとまで面倒を見てもらうつもりもないし、多分、話せるのも今日が最後」
エーデ子爵家は平民にとっては悪名高い貴族だ。娘がああも嫉妬心に駆られるほどのわがままなのも理解できるくらいの溺愛ぶりだが、その熱がために周囲を振り回し、気に入らなければ平民の生活など当たり前のように踏み潰す。
きっとマリアが口添えしてもエーデ子爵は止まらない。以前のように決闘という形で収めるには、クラリスの罪はあまりにも大きい問題だった。
「ふうむ……。儂もエーデ子爵とは顔を合わせたことがない。お父様もあまり好きな相手ではなさそうじゃったしのう。馬が合わんと言っておった」
今回はいささか面倒だ、と頭を悩ませた。
「既にマリアの傷も儂が治したが、おそらく報せはすぐに子爵家に届いたはずじゃ。マリアの口添えがあっても頭を下げても許してもらえるとは到底思えんしのう。儂としてはクラリスの退学は回避したいが」
ちょうどそこへ扉を開けて入ってくる男がいる。いかにもニコニコと繕った笑みを張り付けた苦労人の顔がそこにはあった。
「なんじゃ、マイルズか」
「失敬な。クラリスさんの荷物を纏めてきたんですよ」
「もう家に帰すのかや?」
「いえいえ。寮にすぐ戻るのは難しいかと思いましてね」
大きなトランクをどさっと部屋の隅に置いて、ふう、と腕で額の汗を拭う。
「しばらくは隔離室の方で過ごさせるようにと学院長からのお達しです。隔離室なんて名前ばかりで、問題を起こした生徒の気分を落ち着かせるための環境として用意されていますからね。もう寮の方では騒ぎになってますし」
マリアの取り巻きだった女子生徒二名による大騒ぎで、寮はどちらを擁護するかの声でぶつかり合っている。体育祭を前に不穏な空気になってしまった。
「ううむ……。あっという間に燃え広がったのう……」
「いいんだよ、二人とも。アタシが自分勝手にやったことだから」
最初からある程度は覚悟していたことだ。クラリスは寂しそうな顔をする。
「エルリィには迷惑かけてばっかりだね、ごめん。でもちゃんとやり直すから。アタシ、子供すぎたんだと思う。全部いちから────」
「それは無理じゃないですかね、お嬢さん」
クラリスの決意を叩き落すようにマイルズが口を挟む。
「相手はエーデ子爵ですからね。あなたの気持ちがどうであれ、敵は貴族社会で生きています。その地位を欲しいままにしてきた人間がどんな手を使うかは、エルリィさんやナタさんの方がご存知でしょう。よく考えた方がいいですよ」
二大公爵家とは違い、エーデ子爵家は富を築く形で名声を手に入れてきた。長い歴史の中でも息の長い血統だ。他人の命を軽んじる性格は周囲から疎まれると同時に、上流階級の中では敵に回すべきではないとして強い立場を持っている。
マイルズは遠回しに、クラリスどころか家族も無事では済まないだろうとアドバイスを贈ると、自分の仕事は終えて帰っていく。
「あ、そうだ。もうひとつだけ」
ひょっこりと外から顔を覗かせて、マイルズはニコッと笑った。
「もし敷地の外へ出たいのでしたら入口で許可状を貰ってください。原則的には二時間くらいの制限がありますから、過ぎないようにお願いしますね。正当な理由がない場合には成績にペナルティがつきますので」
廊下から聞こえてくる鼻歌が、ゆっくりと遠のいていく。エルリィはうーん、と腕を組んだ。手助けをしてくれているのはありがたいが、だからといってそれで済む相手なのかどうか。
「エルリィ氏、さすがに外までは拙者は行けぬでござるよ。あまり席を外しすぎると、アニエス氏に厳しく追及されてしまいますからな。はっはっは」
「うむ。そなたはその方が良い。基本的には関係ないからのう」
席を立ち、ぐぐっと体を伸ばす。
「とにもかくにも、まずはクラリスの家族に手を出せないようにせねばなるまい。エーデ子爵家が事実確認をしているであろう、今が好機じゃろう」
わざわざマイルズがやってきた理由がなんとなく想像はついている。荷物を運ぶのはあくまで名目。実際のところ、状況がいかに逼迫しているかを伝えにやってきたのだ。先んじて動けるように。
「学院長殿もぶっきらぼうではあるが優しい人間じゃ。クラリス、さっそくそなたの家族のもとへ向かうが────どうする?」
マリアの顔を傷つけたことをエルリィは話す気だ。目の前で失望されるのが怖いのではないかとクラリスを案じたが、彼女の瞳には強い決意の色があった。
「大丈夫、一緒に行く。このまま逃げてたらパパとママに合わせる顔がないもん。エルリィにばっかり頼っていられない」
「ん。分かった。それでこそ儂の友達じゃ、偉いぞ」
やっと褒めてやれた、とエルリィも嬉しそうな顔をする。それから、ナタとは別れて学院の出入り口まで急ぐ。やると決めたら早めに行動しなければ、エーデ子爵家はフェルム公爵家とは違って信用できなかった。
「学院の外に制服で出て行くなんて新鮮じゃのう」
「衣装担当は布地選びとかに出たりするらしいよ。購買で頼んでも良いけど」
「まあ、儂のような身分であればそうするじゃろうな」
アニエスには到底無理だろうが、とくすっと意地悪に笑った。
「さ、案内してくれ。儂はそなたの家まで知らんからの」
「うん。こっち、ついてきて。実はすごく近いんだよ」
学院からそう遠くない大通りから僅かに外れた場所にクラリスの家はある。細い道を通り、ゆったりとしたカーブのある坂の中腹で営まれた、小さい飲食店。客入りは寂しいものだが、昼夜を問わずに常連が顔を出すので貧しくもない。
少し離れた場所で観察して、エルリィは背に隠れるように立つクラリスに「もう行っても良いか?」と尋ねた。ちらっと見た足が震えていて、なかなか踏み出せないでいるのは分かっていた。
「う、うん……。もう行こう、ずっとこうしてても時間が勿体ないから」




