第6話『やり直す機会を』
ほんの僅かな間宵はあったものの、エルリィはすぐに自分の名前を書いて血判を押した。時間を巻き戻す魔法を単独で行使できる人間がいない以上、不必要な注目を集めてしまうのは避けたい。簡単に口を割るとも思わないが、念のためだ。
「これで良いのじゃな?」
「ああ、契約は成立だ。どれ、面白いものが見れるぞ」
羊皮紙がひとりでにふわりと舞いあがって、宙で燃え尽きた。
細かくなった灰が降り、焦げた臭いが周囲に漂う。
「くさいのう」
鼻をつまんでひらひらと手を振る。ローゼがそれを見てくすっと笑う。
「煙草の匂いは平気なのに」
「どっちも大概じゃ。我慢しておるに過ぎん」
ふん、と不愉快そうに口先を尖らせて踵を返す。
「もう用は済んだじゃろ、マリアのところへ行く」
「いいのか。クラリスの退学については聞かなくても?」
惹かれそうな話題を振られても、エルリィは下らないと肩を竦めた。
「そなたが決定を覆すとは思えん。儂なりの方法で退学処分は撤回させる」
「暴力や脅迫は感心しないが」
「誰がするか! そも、脅迫まがいのことはそなたもするであろう!?」
「はっはっは。そう怒るなよ、若いのにしわが増えるぞ」
腹が立つ、と話を聞くのはやめてずんずん歩きながら学院長室を後にする。外で待っていたナタとエリオットが、その様子を見て心配そうな顔を浮かべた。
「おいおい、大丈夫だったのか? 何か問題が?」
「エルリィ氏。我々にできることがあれば手伝いますぞ」
並んで歩きながら、エルリィが中で何があったのかを二人に伝える。
「特に何もないが、マリアの傷を治すよう言われた。かなりひどい怪我のはずじゃ、儂だけで対応したい。二人にはすまんが、また待ってもらえるかのう」
「エルリィ氏、我々ではお役に立てないのでしょうか……」
申し訳なさそうなナタに、エリオットが割って入った。
「違うぞ、子猫ちゃん。彼女が言いたいのはつまり、マリアを刺激したくないって話さ。見られたくないものがあるのに、いきなり数人で押しかけて見つかってしまったとしたら、君も嫌な気持ちにならないかい?」
「あ。なるほどぅ、それは納得ですな! さすがはエリオット氏!」
「なんかむず痒い呼び方だな……。先輩って呼んでくれないか」
二人を半ば置き去りにエルリィは医務室へ急いだ。プライドの高い人間が、顔に傷を付けられる。まともな状態でいられるはずがない。
そして、案の定、医務室の前では騒ぎが起きていた。部屋の中で叫び声が聞こえ、マリアが暴れているのだと分かる。保健医まで放り出されて、完全にお手上げという状態。たまさかその場にいた生徒たちが野次馬になっていた。
「はいは~い、どいてどいて。申し訳ないが解散してくれ、邪魔だ」
「部外者は下がってもらいますぞ。我々は学院長殿の許可もありますゆえ」
二人が此処は任せてくれと眩い笑顔で親指を立てる。エルリィはわざと無視して医務室に入って扉を閉め、誰も入れないように鍵を掛けた。
「それだけ暴れておるのを見れば元気そうじゃのう」
ぜえぜえと肩で息をして、部屋のあらゆるものを散らかしていたマリアが、入って来たエルリィを仇の如く睨みつけた。
「あんた……なんであんたが此処にいるのよ、笑いに来たの?」
「儂がそなたのように理由もなく他者を見下すとでも」
足下に落ちていた花瓶の破片を蹴って端に追いやった。
「学院長殿から頼まれて、そなたの傷を治すために来たんじゃが」
「ふざけないでよ!」
机にあった本をエルリィに投げつける。だが、当たることもなく目の前でびたっと動きを止めて、ごろんと床に転がった。
「何をしても儂には当たらぬぞ。まずは落ち着け」
「落ち着けるわけないでしょ……! みなさいよ、この傷を!」
顔に巻かれていた包帯を取って、傷跡だらけの顔を見せつけて怒鳴った。
「あの女が、私に何をしたか聞いたんでしょ!? あいつ、自分の顔をいきなり傷つけ始めて、そしたら私までこんなふうに……ううっ……!」
「そなたが悪さをするからじゃろ。何をしたらそこまでされる?」
マリアは都合が悪くなったのか、顔を逸らして視線を落とす。
「あんたの悪口を言ったのよ……。魔女の血が入ったろくでもない女だって。だからつるむのはやめとけばって、馬鹿にしたの」
ああそう、とエルリィは乾いた笑いが出てしまう。
「まあ、血が入っとるかは知らんが特徴はあるゆえ否定はせん。儂と仲良くなっても得することなど少ないじゃろうよ。最近は皆の見る目も変わってきたが」
あのフェルム公爵を相手に決闘しただけに留まらず、引き分けという結果にまで持っていったという話が広がって以来、エルリィは一目置かれる存在になった。それでも、見目から嫌う者はまだ一定数いる。マリアもそのひとりだった。
会話をしたからか、マリアは次第に冷静さを取り戻していく。荒かった呼吸はゆっくりになり、気が抜けたようにベッドに座り込んだ。
「その痛みで少しは悪さをするのに懲りたかや」
「……当たり前でしょ。あんたはいいわよね、綺麗な顔があって」
自虐的に鼻を鳴らして、マリアが冷たい声で言った。
「何もしなくても、あんたは最初から全部持ってた。あんたたちは。私はお化粧だってして、少しでも自分を綺麗に見せる努力もして、それでやっとエリオット様に声を掛けられたのに。ただ顔が綺麗ってだけで持て囃されて気分いいでしょ。こっちがどれだけ必死になってるかも分からないくせに」
ぼろぼろと泣き始めて、両手で顔を覆って喚いた。
「私だって悪いところはあったって認めるわよ。でも、何もここまでされることがあったの……!? ただ悪口を言っただけで手も出してないのに!」
「そういう考えじゃからエリオットも振り向いてくれんのじゃ、小娘」
冷たく突き放して、エルリィは腕を組んで呆れた顔でため息を吐く。
「自分だけを見てもらうために周りを蹴落とす、その考えは良くないと思うが否定はせん。そうしてのしあがる人間もおるじゃろう。しかし、こと人間関係においてはそうもいかん。そなたはエリオットの何を見てきた?」
「……何をって、何よ。平民ってことは知ってるわ。でもそれの何が」
ぱん、と頬を叩かれた。マリアは唖然として頬を押さえながらエルリィを見る。悲しそうな瞳に見つめられて、ばつが悪そうに目を逸らしてしまう。
「エリオットは軽いように振る舞っているだけで真面目な男じゃ。それでも二度もそなたに応えたのは期待もあったからではないか。なのに変わりもしなかったのは、そなたではないか。なぜ見目には気を配れるのに他人には出来んのじゃ」
マリアは反論ができず、ただぐすぐす泣いて、自分の悪い部分から目を逸らし続けている。二度と治らない傷のために、なにをいまさらと。
そんな彼女の目の前でエルリィは膝を突き、やんわりと手を握った。
「まだやり直せるとしたら、そなたは考えを改められるか?」
「できっこないわ。学院のお医者様は魔塔から派遣されたエキスパートなのよ。それでも傷跡が残った。時間が経ち過ぎたから、って……」
もう諦めた顔だった。どうしようもない現実。起きてしまったことの殆どは、覆しがたい未来への歩みを定められている。だからこそ、エルリィの力が必要だった。彼女こそが、その不可能を可能にしてしまう力を持っていたから。
「必ず綺麗な顔に戻してやる。もう泣かなくていい、笑えるようにしてやる。じゃから、せめて他人に向ける優しさとか気配りくらいは覚えよ。そうすればきっとエリオットも振り向いてくれるであろうさ。じゃから一度でいい、儂を信じろ」




