第3話『公爵家』
公爵邸につくまで、疲れもあってか、エルリィは久しぶりにすやすやと眠りに就いた。馬車の揺れが収まったのに気付いてゆっくり目を覚ますと、ロドリックが先に馬車を降りて彼女を抱えられるよう待っていた。
「すまぬ、眠ってしもうた……」
「疲れていたんだろう。さあ、おいで。降ろしてあげよう」
腕を広げて待っていたので、エルリィは大きな体に飛び込んでしがみつく。
人間とはかくも非力なものだと思うと同時に、温かさを感じられてホッとする。子供の体で長くいるからか、その感性も幼さに引っ張られているのかもと考えながら、ロドリックに抱えられるがまま屋敷の巨大な門を潜った。
「でっ……かいのう……」
見上げて分かる屋敷の大きさ。どれほどの人間が収容されるのかと考える一方で、これから此処で暮らすのかと怖気づいた。
今までの生活に比べれば良い人生になるとは思うが、かといって格式高い家門に名を連ねることの意味は想像せずとも分かる。よそ者である自分が、迎えられたからといって恥を掻くことがあれば、絶対に捨てられるか、あるいは獣の餌にでもなっているかもしれないと思ってゾッとする。
「ハハハ、緊張しなくていい。今日から君は公爵家の仲間だ、分からないことも多いだろうが、少しずつ覚えていけばいい。まずは挨拶から始めようか」
人間社会の常識など、右も左も分からない。悪いことをしていなくてもベルトで叩かれるのが日常で、やってきたのはいつ終わるとも分からない掃除と、皆が楽しく食事をした後の残飯で命を繋ぐことだけ。
口にすべき言葉は『ごめんなさい』『すぐやります』『叩かないでください』。従順で愚かな小娘を演じていれば、それ以上は要らなかったから、人間らしい挨拶の仕方など教わっておらず、少しの緊張に息を呑む。
「おかえりなさい、あなた。早かったのね」
「ああ。君もきっと気に入る」
腕から降ろされたエルリィは、駆け寄ってきて女性を見てロドリックの後ろに隠れて、ぎゆっと強くしがみついた。
グロリアに拾われてから、嫌味と暴力に晒されてきた。耐えられたといえども、革のベルトが鋭く背中を打ったときの痛みは脳裏にこびりついている。
「ふふ、随分と警戒されているのね。私はクリスティよ。心配しないで、私は絶対にあなたを傷つけたりしないわ」
おいで、と手を広げられて、エルリィはロドリックをみあげた。
「大丈夫だ、エルリィ。彼女は、これから君の母親になる人だ」
人間は不思議だ。欲望を満たすためだけに弱者を惨たらしく虐める人間もいれば、地位も名誉もありながら、みすぼらしい娘を家族に迎え入れる。なぜそうまで両極端に分かれるのだろうか。エルリィは『そんなに良くもないが、悪いとも思わない』という勇者の言葉が、頭をよぎった。
以前は恐怖による支配を敷き、人間など存在するだけで汚らわしい生き物だと思っていた。そして今日に至るまで考えは変わってこなかった。
(こんなにも心が軽くなるのなら、もっとはように会いたかったな)
七年の痛みから、ようやく解放された。今は魔王などという肩書きはなく、人間の孤児でしかない。下手を打てば簡単に社会に淘汰される存在が生き残るために強いられてきた防衛本能は、緩やかに閉ざされた扉を開いていった。
「どうしたの、エルリィ?」
飛び込もうと思った。飛び込みたかった。
だが、二の足を踏んでしまう。
「……その、儂は汚れておるから……汚いものが触れるのはよくないと」
子供たちがいつも言っていた。汚い奴が触れれば病気になる。
だから、他の人に近寄ってはならないと。
「まあ……。何か辛いことがあったのね。でも大丈夫よ、それくらい」
傍に寄ったクリスティがエルリィを強く抱きしめる。どろどろで、ひどい臭いがするだろうに、パードリグ夫妻は一度だって嫌そうな顔を浮かべなかった。
ロドリックは近くにいたメイドを呼び、すぐに風呂に入れるよう指示する。
「エルリィ、君こそ汚れたままは辛かろう。風呂に入って汚れを落としたら食事にしよう。見るからに痩せすぎているし、腹も減っているはずだ」
こくんと頷いて、手を繋いだメイドに連れられて浴室に向かう。
「優しい夫婦だの……。儂は嫌われておらぬのか?」
メイドに尋ねると、淡々とした表情で答えが返ってきた。
「旦那様も奥様もお待ちです、はやく汚れを落としましょう」
「うん」
ちょっと冷たいメイドだなと思った。だが、他のメイドとは違って瞳の光はエルリィをなんとも感じていない。公爵家に迎えられた以上は徹底して仕えるのが役目だと言わんばかりの丁寧な仕事ぶりだった。
彼女が顔を顰めたのは、背中のベルトで叩かれた跡を見たときだ。
「あの、これは孤児院で?」
「うむ。よく叩かれておった。謝っても許してもらえなかった」
「……そうですか。少し沁みますよ」
湯を掛けられると背中がビリビリする。
全身に奔る痛みにぎゅっと身を丸めた。
「我慢できてえらいですね。子供相手に、よくもここまで……」
「グロリアは悪い人間だった。ロドリックは違う。クリスティも、そなたも優しいな。みすぼらしい子供のために、泣きそうな顔をしてくれる」
悲しむでもなく、むしろ七年も待った甲斐があったと誇らしく笑みを浮かべた。人間は悪しき者。その固定観念に罅が入り、とうとう崩れ始めた。
「私が優しいかは分かりませんが、少なくともあなたを傷つけることはありません。ですが、他のメイドには気を付けてください」
「ム。ロドリックの家では、儂は自由だと聞いた」
残念ながら、とメイドが申し訳なさそうに首を横に振った。
「人を傷つける方法は、何も暴力だけとは限りませんので。もし何かあれば、旦那様の前に、まずは私に話してみてください。いいですね?」
「うむ! 理解したぞ、えっと……名前を聞いても良いのかのう」
「ああ、自己紹介を忘れておりましたね」
お湯に浸したタオルをぎゅっと絞りながら、ようやくメイドは微笑む。
「ウルスラ・テウトです。ウルスラとお呼びください、お嬢様」
「……ウルスラ。これからも儂と一緒にいてくれるか?」
「もちろんでございます。さあ、急いで綺麗にしましょうね」
手足はもちろん、爪の隙間まで丁寧に、黒ずんだ汚れは綺麗さっぱり流れていった。庭仕事の跡のように黒かった手が綺麗になると、エルリィには光り輝いて見え、こんなにも幼い手だったのかと思い出す。
「ふう、長い時間よく頑張りましたね。お疲れさまでした」
風呂を出ると、用意された服に着替えた。少しぶかぶかな愛らしい水色のパジャマだ。最初からどれくらいの年齢の子供を迎えるかは決めていたようで、それもまた、ぴったりと当てはまったエルリィの運の良いところである。
「似合うか、似合うか!?」
「ええ、とても。旦那様と奥様が首を長くしてお待ちです、行きましょう」
「うん! ふふふ、喜んでくれるといいのう!」




