第2話『救いの手』
あられもない幼女の裸体を見て、真っ赤に腫れた背中に男は顔を顰めた。
まだ十にも満たない子供が、なにをしたらそうなるのか。
「グロリア、この子はいったい?」
睨まれたグロリアが手を擦り合わせて、へらへらと笑う。
「こ、公爵様、そんなふうに見ないでください……。私は何も悪いことは断じてしておりません。この子は実に不出来で、掃除ひとつ満足にできないのに文句ばかり言うのです。他の子たちと違って扱いが難しく、厳しく躾けを────」
ぱっ、と手で制した男がため息を吐いて俯きがちに首を横に振った。
「何をそれらしいことを。どう見ても虐待だろう」
ぼさぼさの髪。荒れた肌。汚れ切った手は、土でも弄ったあとのようだ。背中の腫れも普通ではない。濡れたせいなのか、怯えているからなのかも分からない震えを見て、男は屈んで、汚れた服で体を隠す幼女に自分のコートを着せた。
「私はロドリック・パードリグ。君の名前を聞いても構わないかな?」
「エルリィ・ロルカン。前に、そう教わってお……ります」
赤子のときに顔も知らぬ母親の声を聞いた覚えがある。
『可愛いエルリィ。エルリィ・ロルカン。あなたの名前よ、素敵でしょう?』
素敵な名前かどうかは分からないが、前世とは違って他人から名前を与えられるのはエルリィには意外と気分が良かった。
それはさておき、運よくロドリックと会えたが、それがどうしたとばかりに後のことは考えていなかった。奪えば済んだ頃とは違い、人間として生きるには社会に従って生きなければならない。
どう言葉を紡げば気に入られるのか、短時間で必死に思考を巡らせた。
「ぱ、パードリグ公爵様、わし……こほん。私は、」
か弱い子供を演じてみるか。否。その必要すらなく、大きな手が頭を撫でた。
「君は素晴らしい幸運を持っているようだ、エルリィ」
どこがだと言いたくなったが、静かに呑み込む。
ロドリックがすぐに連れていた護衛の男に振り向き、指示を出す。
「ケイシー、馬車の用意を。済んだらすぐ連れていく」
護衛の騎士はこくりと静かに頷き、鋭い眼つきでグロリアを睨んだ。
「わかりました。グロリアさん、タオルか何か、余っているものは?」
「あっ、ありますけど……待ってください、その子を連れて行くんですか。他にも良い子はいっぱいいますよ、何もそんな子じゃなくても! 大体、白い髪に紫の瞳なんて、不幸の象徴ですよ! 公爵様に渡して何かあったら……」
他の子供たちはグロリアが大切に育ててきた。薄汚れた凶兆を持つ娘より、よほど愛してほしい。子供たちも自分たちの誰かが選ばれると思っていただけに、不満を囁き合ってエルリィを蔑んだ目で見つめる。
ロドリックは冷たい眼差しで迎えた。彼らは黙り込むしかなかった。
「迷信が当たってよかったな、グロリア。その図々しさを公爵家に持ち込めば、それこそ不幸になる。お前は目を閉じて何も見ず、聞こえないふりをして耳を塞げばいい。汚い口も閉じておけ、それが長生きのコツだ」
ゾっとする言葉にグロリアは顔を真っ青にして、もう余計な口出しはしなかった。エルリィを見て睨むも、悔しがるのが精いっぱいだ。
護衛騎士のケイシーが、もういいだろうとグロリアの肩を叩く。
「エルリィ嬢の着替えやタオルなど用意してください、今すぐに。あまり閣下の機嫌を損ねないことです。気が変わらないうちに早く」
小さな孤児院の中は慌ただしくなる。もはや形振り構わずといった様子で、大切にしてきた子供たちにまでキツく当たり始めて手伝わせる姿に、エルリィもどん引きのグロリアの本性を見た。
(ああも大切にしてきた子供に態度を変えられるものとは。人間とは計り知れぬものじゃな。……これが、あやつの想う平和な世界にもあったのか?)
如何ともし難い人間の中に潜む邪悪。かつて敵にさえ涙を浮かべた勇者は、なぜそれほどに苦痛を感じながら、人々を救ったのか。
『そんなに良いものでもない。悪いとも言わないけど、俺には』
どれほどの経験をして。慈しみを抱きながら、呪いのように。
「エルリィ、馬車の用意ができたそうだ。そろそろ行こうか」
「あっ……はい」
手を引かれて孤児院を離れるとき、グロリアと子供たちのどろどろした不満の表情が脳裏に焼き付く。虐げられてきたのは事実だが、こうなると些か哀れではある。結局、些細なことで自分たちの首を絞めてしまったのだから。
「君には少し高いだろう。こっちへ来なさい、乗せてやろう」
「ありがとうございます」
小さな体が、大きな手に抱えられてひょいっと浮いた。栄養不足で骨と皮ばかりの体は、なんとも醜く惨たらしい。ロドリックが顔を顰めたのを見て、気分を害させてしまっただろうかと瞬間、不安が過った。
「よくもこれほどまでのことを……」
感じていたのは憤りだ。年端もいかない子供に対する仕打ちではない、と。他の子供たちが愛されてわがままに育つ中、この娘だけが惨い姿になるまで追い詰められてきたのかと思えば思うほど、胸が痛む姿だった。
「ケイシー」
「は、どのようなご命令でも」
ぼんやりと耳を傾けていたエルリィは、目を見開いて驚く。
先ほどまでの脅しはなんだったのか。ロドリックの言葉に唖然とした。
「清算させろ。あの女に価値はない」
「子供たちはいかがなさいますか、七人くらい居ますが」
「他の孤児院にでも散らせ。寄付金を積めば文句はあるまい」
どうにもエルリィには人間の評価が定まらない。だが、少なくともロドリックたちが自分を守ろうとしてくれる善意は理解できた。
何年も虐げられてきたが、ようやく終わるのかと安心する。
「では出発だ、帰ろう」
何人かの騎士を残して、馬車は帝都への帰路に就く。
ロドリックと同じ馬車に乗り、向き合って座るのは少し居心地が悪い。
(乗り心地は良いのに空気が最悪じゃあ……)
乗る前はよく話掛けてくれたのに今は黙ったままなのか、とエルリィは身を縮こまらせて、圧し潰してくるような気まずさに耐えた。
「君はいつから孤児院に?」
ようやく話しかけられて、エルリィは安心した顔で答えた。
「赤子の時から。二年くらい前からベルトで叩かれるように」
ジッと見つめて、ロドリックは奇妙なものを見る目で言った。
「七年も……よく生きていてくれた。背中は痛むか?」
「痛ま……痛みません」
ときどき、エルリィが言いなおすのをロドリックは気遣う。
「話しにくいのなら、今は敬語など必要ない」
抑圧されてきたのが理由なのだろうかと推測する。実のところ、エルリィはただ自分が気味悪がられないように振る舞ってきたに過ぎなかった。
そもそも、ベルトで叩かれるようになったのも、その外見の特徴だけでなく、五歳になる頃には言葉を発するのが楽になり、意思伝達が出来ればグロリアも少しは自分を受け入れてくれるやもと勘違いしたのが切っ掛けだった。
この男は果たして同じだろうか。
捨て置かれれば、どう生きれば良いのか。
「儂が話すと、皆が気味悪がった。ロドリックも儂が怖かろう?」
伏し目がちに嫌われるのを覚悟で尋ねると、意外にもロドリックの反応は興味深そうな眼差しを向けるに留まり、彼は前のめりな姿勢で座り直す。
「まるで老人のようだ。その話し方はどこで?」
「えっ、と……」
「難しい質問だったかね。なら深くは問うまいが」
ジッと真剣な眼差しで見つめるロドリックは、話し方はどうあれ、言葉の意味を正確に理解する七歳の子供に才能を見出す。
「もう誰かが君をベルトで叩くような真似はしない。安心したまえ」
耐えてきた。ずっと。エルリィは自分がもっと気位の高い存在だと思っていたが、それはかつての自分の偉大さで、今の辛さを覆い隠して見ないふりをしてきたに過ぎない。ロドリックの言葉に自然と涙がぽろっと落ち、今になって背中がびりびりと痛む。人間のことはよく分からないが、今はその温かさに身を委ねた。




