第1話『みなしごのエルリィ』
「お前は本当に気味の悪い子だね!」
エルリィはベルトで叩かれて、全身に奔った激痛に思わず身を丸めた。
「やめて、グロリアおばさん。何も悪いことしてないよ」
「ふん、何を言ってるんだい?」
また強く叩きつけられる。エルリィは部屋の隅にうずくまった。
「その白い髪も、紫の瞳も、悪魔の特徴そのものじゃないか! あんたみたいな人間は存在するだけで色んな人間を不幸にするんだよ、わかるかい?」
殺意すら滲んだ顔がエルリィを慄かせた。殺されたくないという一心でエルリィは身体を丸めながら、何度もごめんなさいと泣いて謝った。
なのにグロリアには彼女が不気味に見えた。口端が笑っていたから。
「……ッ! 部屋の掃除をしておくんだよ、埃ひとつないようにね! 今日は午後から公爵様がいらっしゃるのだから、できていなかったら承知しないよ!」
ばたんっ、と部屋の扉が勢いよく閉まるとエルリィは涙を拭って立ちあがり、ふう、と手についた埃をばしばしと叩いて払いながら息を吐く。
「下らぬ。殺さぬだけでもありがたいと思え、卑しい豚めが」
七歳の子供とは到底信じられない言葉遣いで、ぎらりと鋭く扉を睨む。
グロリアは孤児院を経営する中年の女で他にも子供たちをたくさん預かっている。そして、必要もないのにエルリィのことだけをベルトで執拗に叩いて躾けようとした。悪魔の外見を持つ凶兆の子だと言って。
「これが人間の所業とはな」
窓辺の埃を指先で拭い、灰色のくずをフッと息を吹いて飛ばす。
「せっかく期待していたというのに、馬鹿馬鹿しい」
エルリィは前世で悪行の限りを尽くした魔物の王であった。
勇者との戦いで破れ、転生した先は似て非なる世界。魔物にでも生まれていれば再び人間世界に戦いでも挑んだものを、人間となればそうはいかない。
かの勇者がいかにして敵をも慈しむ心を抱いたのか。人間社会で学べると思っていたが、期待とは裏腹に、人間の醜悪な部分を目の当たりにした挙句、凶兆だとまで言われて散々な目に遭っている。
それでも生きている理由は恩情ではなく金だ。孤児が多ければ多いほど国からの支援金や貴族からの寄付金があり、グロリアはその金で裕福に過ごす。もちろん、エルリィを除いて、子供達には愛情も見せている。
ただ凶兆を持つ子供だからと彼女を厄介者と扱うのだ。
あながち間違いではない。エルリィは子供と言うには知性が高く、他の子供とは明らかに違う不気味さを漂わせた。だが、彼女がいるだけで金が入ってくるとグロリアにとっては金の卵を産む鶏も同然で、なかなか捨てられなかった。
(馬鹿げた思想の女よ。他のガキ共もそうじゃ。儂を病気だと言って指をさして笑いおる。あまりに不敬……以前であれば縊り殺していたぞ)
人間の薄汚い部分ばかりを見てきて、たかが七年が嫌になる。
生かさず殺さずの不遇な時代は、エルリィの抱いた希望を罅割れさせた。
それでもまだ正しく人間でいたのは、今日が転機になる可能性があったからだ。パードリグ公爵が訪れる。ひとりだけ孤児を引き取るために。
エルリィが密かに聞いた話によれば、パードリグ公爵という男は冷徹な実力主義者。妻との間に後継者が出来ず、已む無く孤児院から優秀な人間を取り立てて、次期パードリグ公爵として育てたいとグロリアに従者が送られてきた。
孤児の中にも優秀な人間はいる。今は花を開いておらずとも、いずれは名のある騎士か、よもや大魔導師という可能性も考えられた。ややもすると自分が公爵家に引き取られるかもとエルリィは淡い期待を抱いて、にやにやする。
ひとまずは言いつけられた部屋の掃除だ。汚れたバケツの冷たい水と黒ずんだ雑巾で、拭き掃除を始める。どうせ、何度でもやり直しをさせられて、うまくできないことを口実に与えられる食事を減らされる。いつものやり口だ。
過度な期待はせずに昼を待ち、その間に何度かやってきたグロリアに怒鳴られてはベルトで叩かれた。絶妙な加減で跡が残らないよう、赤く腫れる程度に。
「ふん。少しは反省したかい、エルリィ?」
「はい、グロリアおばさん。もっと丁寧に掃除します」
エルリィは我ながら演技が上手いと内心で褒めながら、反省して涙を流す子供の姿を披露する。グロリアはそれで納得すると、ベルトを丸めた。
「いいかい、もう公爵様がいらっしゃる。あんたが此処から出て来たら容赦しないよ。きっちり掃除が終わるまで、部屋からは出さないからね」
思わず舌打ちをしそうになってグッと堪えた。
「わかりました」
小さな声で返事をして自分が部屋に一人残ったら、腕組をして壁に寄りかかり、どうしたものかと由々しき事態に頭を悩ませる。
「パードリグ公爵とやらに会えねば困るのじゃが、部屋はどうせ外側から施錠されとるじゃろうな……。無理に壊して大事にするのも逆効果やもしれん」
部屋の外からグロリアからあまり聞かないような高い声が聞こえた。
『いらっしゃいませ、パードリグ公爵様! どうぞ、子供たちをみていってください。良い子たちばかりですよ、きっとお眼鏡に適う子がいるはずです!』
孤児を引き取るときにはグロリアに大金が支払われる。孤児院への寄付金だが、どうせ半分は懐に入る。エルリィも聞き耳を立てているだけで贅沢のために媚びを売っているのだと分かるくらい、声はいつもよりかん高かった。
「ううむ、よく聞こえん……。人間の耳はなぜ扉一枚隔てたくらいで、会話もまともに捉えられんのじゃ。これは聞こえてるうちに入るのかのう?」
少し部屋から離れられては聞こえそうにないな、と希望はあっさり打ち砕かれた。よもや、こんな形で機会を失うとは。いっそ窓でも派手に割ってやろうかとした矢先、足下にあったバケツに足をひっかけてエルリィは盛大に転んだ。
「ぬぉわっ!?」
汚い水でずぶ濡れになってしまった。一枚しかない服にひどい臭いがべったりついた瞬間、全身がぞわっとする。あと何年、この一枚で過ごさねばならないのかと考えるだけで気絶しそうだった。
しかし、それが好機を手繰り寄せた。どたばたと部屋の外が騒がしくなり、グロリアの『お待ちください、公爵様!』と焦った声が扉を突き抜ける。
ずぶ濡れになった服を脱いでバケツの中に絞ったエルリィは、いきなり扉が開いたことに驚いて振り向きながらも、ぎゅっとシャツから汚い水を追い出す。
厳しい顔つきをした中年の男が、氷の冷たさを思わせる薄い水色の瞳に、背中を赤く腫れあがらせた細身の少女を映す。
「あ、すまぬ。じゃなかった、すみません。服が濡れてしまって」




