第21話『痛みは消えた』
額にはうっすらと汗を滲ませて、緊張からなのか、ずっと手の甲を擦っている。エルリィにとって良い思い出のない相手だが無下に追い払うのも気分が悪い。ろくでもない一日だとガッカリしながら、手すりを掴んで小さく手招きした。
「許す、隣へ立て。離れていては話もしにくいゆえ」
「ありがとう。……公爵家ではどうだったの?」
「そなたが想像するよりも厳しい場所であったな」
孤児院ではグロリアの躾と、その影響を受けてねじ曲がった子供たちの悪意に晒されてきた。しかし公爵家では敵が全て大人という環境に放り込まれたのだ。どちらが自分にとって難しい環境だったかは考えるべくもない。
「そっか。アタシは、あのあと別の孤児院に移されて……」
「うむ。お父様から聞いておるとも」
「じゃあ、グロリアおばさんが亡くなったことも知ってるのね」
「それは知らんが、まあそうじゃろうなとは思う」
いつぞやのロドリックと護衛騎士の会話を思い出して苦笑いする。
子供に聞かせる話でもなかったし、エルリィには興味も必要もなかった。
「あ、アタシね。あの後、皆と離れ離れになって、新しく入った孤児院で虐められたの。そ、それで、その。ようやくあなたの気持ちが分かって……」
「だから?」
ぴしゃりと言葉を遮られてクラリスがびくっと怯えた。
「儂はそなたらの境遇など興味もない。儂がされたことも、もはや過去のことに過ぎぬ。それを掘り返してそなたが話をしにきたのであれば、何かしらの要求があるのじゃろう。回りくどい要求は嫌いじゃ、本題に入れ」
長ったらしく昔話を聞かされて、何が変わるわけでもない。手すりを掴む手が震えているのを横目に見ながらエルリィは詰め寄った。
クラリスが勇気を振り絞っているのも分かっている。自分がしてきたことがわが身に降りかかったとき、その痛みをようやく思い知って後悔した。だから許そうと思って許せるものではないことも知っていてエルリィに声を掛けた。
「ご、ごめん、なさい……。アタシ、別に何か要求しようと思ってきたわけじゃないんだ。でも、あなたにはそう映るよね……。ごめんなさい……」
今にも泣きだしそうなクラリスが哀れに見えた。さぞや酷い経験をしたのだろう。前世がある自分には耐えられたとしても、ただの年端もいかない現実を知らぬ幼子が耐えられるはずもないと。
「仕方ない奴じゃのう。そなたが求めているものを儂が当ててやろうか」
「……え?」
エルリィの淡々とした言葉が紡がれると、クラリスは黙って耳を傾けた。
「無意識に保身を求めているのであろう。学院生活を送るうえで安寧は必要であるゆえ、儂を見つけたときに後ろめたさを感じただけじゃ。それを罪悪感という言葉で欺き、本心を隠して儂に近付いた。違うか?」
クラリスの顔が青ざめていく。そんなつもりはないと言いかけて、呑み込んでしまった。自分自身のどこかに眠っている本心が否定しきれなかった。
入学を機に自分は変われると信じたところで、過去は彼女を縛り付けた。お前にはまだやるべき清算があるだろうと告げるように。
エルリィを見かけた瞬間から、クラリスはずっと隠れて過ごしてきた。エルリィの意識が僅かでも自分に向かないように時間までずらして登校し、常に枠外で安堵の息を吐く日々。だが、パーティで見かけたときに感情が溢れた。
悪い関係とはいえ幼馴染とも言えるエルリィが、自分よりもずっと先を行き、誰よりも強く輝いて見えた。そうすると、自然に彼女を追いかけていたのだ。
「ああぁ、アタシ……自分が怖くて、どうしようもなくて……あなたが経験してきたことを全部背負ってみたら、もう生きていける自信がなくて、だから……! だから少しでも、あなたに謝って変わりたいと思ったの!」
思いのこもった叫び。涙をぼろぼろ零しながら必死に訴える。
別に、その姿に心打たれたわけではない。だがエルリィには納得できた。
「よう耐えた。心も折れずに、よう生きたな」
クラリスは気付くとエルリィに抱きしめられていた。
何が起きたのか分からず、ただ唖然とする中で、エルリィがとんとん優しく背中を叩きながら、穏やかな声で言った。
「そなたも辛い目に遭うたのう。儂よりもずっとか弱き者であろうに、あまつさえ儂に声を掛けるなどさぞや勇気が要ったはずじゃ。よう頑張った」
クラリスは孤児院の中でも臆病な性格をしていた。いつも年上のエドワルドという少年の背に隠れて過ごし、エルリィと目が合うと怖がって逃げた。グロリアがどう教育したのかは分からない。あるいは他の子供たちに良からぬことを吹き込まれたかもしれない。純粋な少女の心を操るには、それで十分だから。
「クラリス、他の者は学院に通っておるか分かるか?」
「あ……えと、エドワルドが……三年に。昨日初めて会ったわ」
「奴とは関わらぬ方がいい。もう見知らぬふりをせよ」
孤児院の中でも性格が最悪なのが、ふたつ年上のエドワルド。九歳の頃から既にしっかりした体格に恵まれ、孤児院の中では最も荒々しい性格と喧嘩の強さで、周りの面倒を見るという名目で支配していた。
子供ながらに厄介な存在。臆病なクラリスを気に入って傍に置いていたが、うるさいという下らない理由だけでときどき殴りつけたのをエルリィは見たことがある。会えば必ず、暴力による支配が生まれてしまうと感じた。
「もし儂に会いに来た理由が奴にもあるならば、何かあったときはすぐに言え。分かったな? そなたが学院で自由に過ごすためには大切じゃからのう」
「う、うん……。わかった。呼び出されたときは知らないふりするね」
もうクラリスは泣いていなかった。
目に浮かんでいたのをエルリィが指で拭って微笑みかけ、手を繋ぐ。
「では戻ろう。せっかくじゃ、儂の新しい友達と家族を紹介したい!」
「いいの? アタシ、あなたの友達になって……」
「儂が構わぬのであれば問題はない。さあさあ、行こう!」
パーティはこれからだとクラリスを連れてアウレリアたちのもとへ急ぎ足で戻った。休憩しに出て行ったエルリィが誰かを連れてきたのを見て、待っていた二人は目を丸くした。
「休憩しに行ったんじゃなかったのか?」
「うむ。そのついでに会った。孤児院の頃の知り合いじゃ」
アウレリアもウルスラも事情を知っているだけに顔が険しくなった。明らかにクラリスを良く思っていない。
「お嬢様。僭越ながら、なぜそのような方をお連れしたのかを尋ねても?」
「う~ん、まあ仲直りかな。儂が許した。それでは不満かや」
良い関係ではなかったはずの本人がそう言ってしまうと、それを否定する材料は何もない。敵対的なメイドに対しても徹底した態度を崩さないエルリィが認めたのであれば構わないとウルスラはクラリスに小さく頭を下げた。
「お嬢様のご友人ということでしたら言うことはございません。私は専属侍女のウルスラと申します。以後お見知りおきを」
「あっ、はい……。クラリスです、よろしくお願いします」
残るアウレリアも、こうなるとわざわざ突き放す理由もない。孤児院時代の話は聞くに堪えない劣悪ぶりだったが、それでもなお許すのであれば、自分はエルリィの言葉を信じておけば良いだろうと手を差し出す。
「エルリィと同室のアウレリアだ。確か、クラスは同じだったな」
「うん。二人とは席が離れてるのに覚えてたの?」
「まあ、私は念のため全員の顔は覚えている。名前までは知らんが」
固い握手を交わし終えると、エルリィが満面の笑みでぱっと腕を広げた。
「ではせっかく友達が増えたことじゃから、パーティを楽しむとしよう!」




