第9話『恩も仇も忘れない』
釘を刺された気分だ。あまり好き勝手にして公爵家の名に泥を塗るな、と。両親をがっかりさせたくないゆえに、またしても息の詰まりそうな振る舞いをせねばならないのかと思うと、食事もゆっくりになった。
果物の味も鮮度が落ちてしまったように感じてしまう。楽しかったはずの空気が、急にずしりと背中に圧し掛かった気がして、うまく笑顔を作れているかどうかも分からなくなってしまった。
「エルリィ。聞いているかね?」
「あ……はい、お父様。もちろん聞いています」
上の空だった。やってしまったと焦って取り繕ったが、きっと失望されたに違いない。不安に青ざめていき、目立たないが手も震えた。
ロドリックは気付いている。今まで、どれほどエルリィを見てきたか。虐待を受けていた少女が立ち直るどころか、公爵家の跡継ぎとして完璧な振る舞いをしようとすれば、必ずどこかに無理は出てくる。
ようやくそのときになったのだと、喜ばしそうに笑みを浮かべた。
「少し勘違いをしているようだが、私は君に公爵らしい振る舞いを求めるつもりはない。ただ、羽目を外しすぎて規則を破るような真似があってはならないと言ったつもりだったのだ。すまないな、怖がらせてしまったか」
我が子は成長するにつれてままならないものだ、とロドリックは楽し気にまたワインをひと口だけ飲んで、饒舌に続けた。
「君が私の期待を裏切らないのは知っているとも。丁寧に話すのも疲れるだろう。学院に行けば君はどうあれ目立ってしまうから、自由に過ごしなさい」
「言葉遣いのこと、ご存知だったんですか?」
三年で言葉遣いを完璧にこなして、ロドリックに普通の喋り方を覚えたと自信満々に振る舞ったのを覚えている。それきり彼がエルリィは普通の少女になったのだと思わせたと信じ切っていたので、顔から火が噴きそうだった。
「自分の娘がどういう子かを分からない親がいるかね? 少なくとも、私は九年間も君を見てきたのだ。息苦しい思いをさせてすまないとは思っているよ。いずれはその煩わしさもなくなるだろうが、後十年は待たせそうだ」
ナプキンで口を拭き、綺麗に折ってテーブルに置く。
「いずれにせよ、君が学院でどう振る舞うかまでは制限しない。むしろやりたいようにやってみたまえ。公爵家の従者たちをたった三年で黙らせたのだから文句はない。クリスティでも同じことを言うだろう」
「……そういえば、お母さまはどこにいらっしゃるのです?」
せっかくの晩餐の席にいないと、空席に寂しさが座ってしまう。
「ああ、実はそのことなのだが、領地を弟に任せきりにしていてね。旅行も兼ねて足を運んでおこうかと先に戻らせたんだ。本当は君も誘いたかったのだが、デビュタントになったらすぐに学院に入ることになるだろうから黙っていた」
エルリィが大きな頼みごとをするなど初めてだ。期待に応えてやれず、がっかりさせてしまうのも申し訳ない。そう思って、なかなか言い出せずにいた。
「クリスティは残念がるだろうな。君が来たら盛大に祝いたいと言っていたから。だがまあ、滅多と言わないわがままだ。喜んでくれるだろう」
ロドリックは席を立つと、エルリィの背後に行って肩に手を置いた。
「君には厳しく見えていたのかもしれないが、私も娘を持って幸せだと思ってる。できることはしてやりたい。話したいことがあるときは、いつでも臆さずに言ってくれた方が嬉しいというのも覚えておきたまえ」
軽く肩を揺らして、食事を終えたロドリックが先に食堂を後にする。
エルリィも続くようにナプキンで口を綺麗に拭いてから席を立ち、食堂の外で待っていたウルスラに声を掛けて部屋に帰っていく。
そのあいだ、ずっと胸の高鳴りを感じていた。ただの次期公爵ではなく、大切な娘として扱ってもらえていたことへの喜びと、自由にしても構わないというお墨付きが気分を高揚させ、足取りを軽くする。
「ご機嫌のようですね。話が上手くいったのですか?」
「ええ、ウルスラ。あなたは嬉しそうに見えないけれど」
「いつものことです。何か良いことでもありましたか?」
「そう見えるなら、きっといつも以上に顔に出てるみたいね」
部屋へ戻るまでの少しの時間が勿体ないと感じるくらいの急ぎ足。スカートの裾を僅かばかりに持ちあげて、靴音を軽快に鳴らしながら歩く。
品がないとは昔に言われた。それでも今日くらいは許してほしい、と喜びを我慢しきれない。間違いなく高揚していた。今までで、一番。
「あら、まだ片付いてなかったの?」
部屋に戻るなりメイドがまだ山積みの本を半分ほどしか片付けていないのを見て、高揚した気分は一旦、胸の奥底に沈めた。
メイドはひどく臆病になっていて、何度もちらちらと顔色を窺う。
「す、すみません……! 重たくてひとりだと時間が……」
「他の手の空いている子がいるでしょう。呼びなさい、今すぐに全員で片付けてちょうだい。それができなければ、あなたが今後もひとりで片付けることね」
メイドは慌てて頭を下げてから、他のメイドを呼びに行った。
山積みになった本を一冊、手に取って眉間にしわを寄せた。
「あれくらいの時間があれば、あなたなら片付けたでしょうね。普段からやらないから、当たり前のことにも気づけないんだわ」
「彼女たちはいつも中庭のあたりでサボってますから」
書庫は二階にある。ウルスラがどう片付けているかなど見たこともない。ワゴンで運べば楽だなどと考えすらしないのだ。
「馬鹿な子たちね。ま、いいわ。意地でも片付けさせるつもりだもの。それより荷造り手伝ってくれない? 今のうちに済ませて後はゆっくり過ごしたいの」
「はい。本当に行かれるのだと思うと、なんだか寂しくなりますね」
まだ出発まで二週間以上あるというのに、既に目を潤ませているのを見てエルリィは笑いを堪えた。その代わり、そっと背中に手を触れて優しく撫でた。
「死ぬわけじゃないのよ、泣かないで。たった四年なんだから……」
「ええ、すみません……。支えてきたつもりが、いつも支えられていたのだと実感しますね。お嬢様がいない部屋を想像すると、つい泣きそうに」
あまり表情に出さないウルスラが感情をよく見せるようになった。
それほどの信頼を勝ち得た嬉しさと、しばらく会えない寂しさが伝播してエルリィは背後からぎゅっと抱き着いて背中に顔を押し付ける。
「九年前、あなたが痛む私の身体を丁寧に洗ってくれたことは忘れてないわ。立派になって帰ってきたら、必ず恩返しをさせてほしいの」
「はい。……楽しみにお待ちしております」




