激震
その報せがレミリアの耳に届いたのは、事務仕事に忙殺されている合間だった。
「……それ、本当?」
ろくに回らない頭で思考する。ちらりと視線を窓の外にやれば、太陽はかなり高くまで昇っていた。
眉間を軽く揉む。気遣わし気なステラの視線が唯一の救いといったところか。
「間違いないわ。部屋はもぬけの殻、雪絵さんからの連絡はなし。おまけに監視も撒いてるもんだから、さすがに言い逃れるのは難しいわね」
反論のしようがない証拠の数々に、レミリアはため息をつく気力さえ無くしてしまった。
「うえー……まじか」
ようやく絞り出した言葉は酷く枯れている。
霜月雪絵が逃走を企てる可能性は、もちろんレミリアたちも考えていた。
しかし考えたところで、止める術がないのだから時間を割くだけ無駄である。いくら罠を張ろうが策を立てようが、結局は雪絵の術式に吹っ飛ばされて終わり。どうしようかと悩んだ末に、雪絵に関する事態はシルヴィアに任せることに決まった。彼が最も雪絵の人となりを知っているし、逃走の予防線を張るくらいはできると判断してのことだった。
だが、レミリアたちの見込みは甘かったのだ。
「シルは何やってんの?」
瞬きをしながら問いかけると、ステラは首を傾げた。
「お父様に呼び出されたそうよ」
「呼び出しか。……お咎めなしってわけには」
「いかないでしょうね」
ステラは腕を組みながら言った。
事の次第によっては謹慎、あるいはそれ以上の罰が下るかもしれない。全ては皇帝陛下の裁量に委ねられているわけだ。
「しっかし、あのシルがみすみす逃がすような真似するかねぇ?」
首を回しながら問えば、ステラはため息で返した。
「相手はあの雪絵ちゃんよ?その気になれば、痕跡ひとつ残さずに消えることだってできるはず。相手が悪すぎるわ」
レミリアも概ね同意だった。
ブラックコーヒーを入れ、熱いままに一気に喉へ流し込む。熱の塊が喉から腹へ落ちていく感覚とともに、ようやく頭がはっきりとしてきた。
「この時期に逃げたってことは、花霞との会談絡みで確定だな」
「そうだろうけど……雪絵さんの目的は何?」
今度は二人そろって口を閉じた。何とも言えない沈黙が流れる。
「……実家に帰りたくなったとか」
「疲れてるわねレミー。この後少し休んだら?」
鋭い指摘にぐうの音も出せず、レミリアは黒い液体を喉の奥へ流し込む。苦い後味が口いっぱいにこびりつき、レミリアは顔をしかめた。
「どの道、私たちの敵になるなら目的なんて些細なもんでしょ。今は対策を考えるべきよ」
負け惜しみ混じりのレミリアの意見に、ステラは苦笑いを浮かべる。
「そうかもしれないけどね。私、雪絵ちゃんがシルキーを裏切ったなんて思えないのよ」
どこか寂し気な表情のステラが、鬱屈した気分を押し出すようにため息をついた。レミリアの執務机に寄りかかり、指先で机を小突く。
「思いたい、の間違いじゃないの?」
レミリアは薄目でステラを睨む。寝不足のおかげで目付きが数十倍悪くなっている自覚があったが、ステラが臆する様子はなかった。
「否定はしないけどね。雪絵ちゃん、ここ最近ずっと暗い顔してたじゃない?本人の中でも、相当な葛藤があったんじゃないかなーって」
霞がかった記憶の奥から、記憶を引っ張り出す。
レミリアから見た雪絵の印象は、一言で言えば危険、だった。それは初対面の頃から今も一貫して変わらない。だが、変わったものもある。
霜月雪絵は、思ったよりもちゃんと人間らしかった。
表情に出さずとも、嬉しい時は嬉しいという感情を言葉の端に滲ませていたし、謝罪も感謝も普通にする。それら全てに機械的な無機質さは感じられず、どれも人らしい曲がりくねった感情のうねりがあった。悩み、葛藤し、それでも誰かに許しを願うような言動の数々。共に過ごす中で感じたこの感覚を、くだらないと一蹴することはレミリアにはできなかった。
「じゃあ尚更、無断で姿をくらました動機が重要じゃない」
それ相応の、少なくとも皇帝陛下が致し方なしと断ずるだけの理由があれば、お咎めなしとはいかずとも罪は軽くなるはず。
「……うーん。シルキーなら、何か心当たりがあるんじゃないかしら」
のほほんとステラは言ってのけた。
これまたステラの何の根拠もない言い分に、レミリアは黙ってコーヒーを啜ることしかできなかった。
※
真昼の強い日差しが射し込む廊下を、シルヴィアは足早に歩いて行く。
その表情には悲嘆も焦燥も感じられなかった。つい昨日まで隣にいた婚約者候補が姿を消しても、動揺を易々と表に出すわけにはいかない。シルヴィアがこの国の皇太子である以上、気安く弱みを見せてしまえば、良からぬ者につけ込まれる可能性も大いにある。
シルヴィアは努めて平静のまま、皇帝陛下の執務室の前に立った。その右手には一冊の本が握られている。
ノックをし、入室の許可を得る。
「失礼します」
「急に呼び出してすまんの、シルヴィア」
陛下は執務机から顔を上げ、シルヴィアを見上げた。その目には申し訳なさなど欠片も感じない。形式的な文句を述べただけだった。
「いいえ。お気になさらず」
シルヴィアもそう言葉だけ返し、陛下の前に立つ。
「用件は分かっているな」
「ええ。全ては俺の甘さが招いたことです。処分は何なりと受け入れます」
「……ふむ」
しばらく考え込む仕草をし、陛下は額に手を添える。人差し指で眉間を小突きながら、重苦しい息を吐いた。
「シルヴィアよ、腹を割って話さんか」
瞬間、陛下の目付きが変わった。
鋭い眼光は変わらず。しかし内在する色は理性的な為政者のものから、個を憂うただの人のものになっていた。つまるところ、陛下は父親として、シルヴィアと話をしたがっている。
微かな変化を読み取ったシルヴィアは、やや瞠目し、それを悟られぬよう僅の間目を伏せた。再び眼を開くと、氷のような視線だけがシルヴィアに向けられていた。
「ずっと俺にこそこそと隠し事をしていたのは、父さんの方でしょう」
「隠し事?」
父が訝しげに表情を変える。
「昨日雪絵と図書館を訪れた際、見慣れない本が置いてありました。調べたところ、既に絶版となっており、アルカイダでの流通量は片手で数えられる程。そしてその本を目にした瞬間、雪絵の表情が変わった。——彼女は、酷く怯えていた。そして、俺の前から忽然と消えてしまったんだ」
父は何も言わずにシルヴィアを見ている。
「その本の著者は、霞慎也」
シルヴィアのたった一言で、場が一挙に凍りついたようだった。
普段見せることのない父親のあからさまな変化に、シルヴィアは確信した。
「父さん、ご存知ですよね」
この男、ずっと前から雪絵を知っていたのだ。
彼女と霞慎也。それに、霜月家との関係すらも。
「なぜ黙っていたんですか」
シルヴィアが鋭く問い詰めるも、目の前の男は目を閉ざして答える素振りも見せなかった。
重い沈黙だけが肩にのしかかる。息をするのも億劫になるような重圧の中でも、シルヴィアの気持ちが揺らぐことはなかった。
「最初から、雪絵を兵器として使うためだけに……俺を利用したんですか」
自分でも悔しいくらい、声が震えていた。
国のトップに立つ人間が、打算抜きの理由で雪絵を受け入れるわけがない。それでもシルヴィアは親子という関係故にであろうか。皇帝という立場にある父親に、ささやかながらの優しさというものがあると信じてみたかった。
雪絵を損得勘定なしに見てくれる人間が自分以外にもいると、そう思いたかったのだ。
「違う」
重々しい空気を破り、父は言った。
「雪絵さんを我が国におければ、相当な戦力になることは確かだ。だが、それが彼女を受け入れたすべてではない」
悠々とした動きで立ち上がり、背後に設えられた窓から町の景色を見下ろす。
「話をする前にひとつ聞きたい」
「何でしょう」
窓の向こう、どこか遠い場所を見つめながら、父は何かに思いを馳せるように言った。
「お前、慎也についてどの程度知っている」
振り返った父の目には、鋭いが筋の通った何かを感じさせた。こちら側に探り入れている可能性もあるものの、シルヴィアは正直に答えることにした。
「花霞の前政権のトップであった将軍の、実の弟。この本を読む限り、構築術式についてさぞ理解のある方だったのでしょう」
正直なところ、シルヴィアが一夜にして調べることのできた情報は限りなく少ない。
花霞の前政権を担っていた霞将軍家。その将軍の弟である霞慎也も、ことごとく情報が抹消されており、名前を探し当てるだけで精一杯だった。
しかし、彼の著書には興味深い内容がいくつもあった。
霞慎也は、構築術式に深い理解と知見を有していた。
つまるところ、構築術式のスペシャリストと言っていい。彼が花霞国内でどのような評価を受けていたかは知らないが、アルカイダでなら名誉ある賞をいくつも取れたことだろう。
そして何よりも、彼の研究分野には既視感があった。
『構築術式による符力の制御とその利用法について』
符力を術式により制御し、余剰分の符力を再利用する。考え方としては単純だが、常人に符力に余剰ができるなどという馬鹿げた考えを持つ者は少ないだろう。
だとすれば、彼の身近には符力を持て余した人間がいたはず。そしてそれは、シルヴィアの身近にもいた人だった。
彼の著書に記されたものは、雪絵の首輪の術式と酷似している。
「そして彼は、雪絵に術式を刻んだ張本人。彼女が師と呼んでいた人物も、霞慎也で間違いない」
シルヴィアがそこまで言い切ると、父は諦観を滲ませ肩を落とした。灰色の瞳が曇った空を見上げ、網膜に映像を焼き付けるかのごとくじっと見つめる。
「お前の言う通りだ」
やがて小さく息を吸い、吐いた。ほんの少しの諦めを滲ませる声色で、父は語った。
「慎也とは古い友人でね。私が即位する前から何かと付き合いがあった。もちろん、彼の愛弟子であった雪絵さんのことも知っておった。……だが、わしとてあいつの全てを知っているわけではない」
どんよりと曇った空から、雨粒が一滴零れ、窓ガラスを濡らした。途端に降り始めた雨は、今の二人の内心を写し取っているようだ。
「花霞の政権交代は、言うなれば内部クーデター。慎也とその兄である将軍は権力争いに敗れ、ギロチン台にかけられた。……その数日後に起きた霜月家での事件は、花霞の連中から聞いておるな?」
やはりと言うべきか、伝導者から渡された本の内容についてはあらかた知られているようだった。どこから情報を得たのか聞きたいのは山々だったが、ここで話を脱線させるのも面倒だ。
「はい」
「そうか。なら話は早い」
父は頷き、軽く咳払いをしてから言った。
「雪絵さんのことは、お前に任せる。花霞との会談も、お前に一任しよう。連れていくメンバーも好きに決めてよい」
シルヴィアは、驚きに目を見開いた。冷徹な父のことだ、雪絵の件からは手を引けと命じられると思っていたのだ。
しかし、これではあまりにも条件が良すぎる。シルヴィアは目を細め、問い返した。
「よろしいのですか?」
疑り深いシルヴィアとは裏腹に、父はあっけらかんと言い放つ。
「構わん。お前はわしの跡を継ぐ皇帝の器じゃ。みすみす国を危険に晒す馬鹿な真似はしないだろう」
暗に国を危険に晒すなと釘を刺されたようなものだ。
シルヴィアにとって、この話は非常に都合がいい。
元々花霞への会談はシルヴィアも帯同しようと考えていたのだ。皇帝陛下に邪魔されることなく、それに好きなメンバーを選べるとなれば、会談の主導権はシルヴィア個人が握れる。
つまり、花霞で自由に動ける時間が増える。となれば、雪絵との接触を伺うことも可能かもしれない。
「分かりました。お受けします」
もう話すことは無いと一礼で示し、踵を返す。
窓に打ち付ける雨粒と灰色の瞳を背に、シルヴィアは扉へ近づき、ドアノブを捻った。
「シルヴィア」
名を呼ばれ振り返る。そこには父親ではなく、皇帝としての男の姿があった。
「迷うな。お前にとって、常に最善の道を選べ」
その言葉の真意を、今のシルヴィアは測ることができなかった。
(……この人は、一体どこまで)
湧き上がった言葉を奥歯で噛み潰し、シルヴィアは扉の向こうへ消える。
審問官のように見据える灰色の視線だけが、嫌なくらい背中にまとわりついていた。
※
「待たせてすまん。レミリア、ステラ」
「……手早く済ませて」
目の下に隈を蓄えたレミリアと、ステラは陛下の執務机の前に立っていた。
さっきまでシルヴィアがいたようで、仄かに彼の残り香が空気中に漂っていた。嫌な予感に胸騒ぎを覚えながらも、レミリアは背筋を伸ばす。隣にいるステラも何かを感じ取ったようで、柔和な笑みの向こうに緊張を滲ませていた。
「花霞との会談の件だが、シルヴィアに一任した。同行するメンバーもシルヴィアに選抜させる」
「あら?よろしいのですか?」
シルヴィアを好きにさせていいのか、とステラが尋ねると、陛下は頷いて答えた。
「問題ない。それよりもレミリア。お前に頼みたいことがある」
「何?」
息を吸い込み、陛下は言った。
「カルディスに常駐している鬼狩りを率い、ローゼンベルク領へ向かえ。到着次第、わしに一報を入れろ。当主に話は通してある」
隣にいるステラが驚きを隠せずに狼狽していた。泳いだ視線がレミリアと混じり、揃って息を呑む。
頼み、と言いつつも、それは命令だった。初めからレミリアに拒否する権利はない。この国にいる以上、皇帝陛下の命令には逆らえない。
「……花霞と、戦争をする気?」
頬に冷や汗が流れる。辛うじて口から出た疑問に、陛下は鉄のように鈍く光る目で答えた。
「まさか。万が一の事態に備えての、保険じゃよ。もっとも、シルヴィアが上手くやれば、その必要もなくなる」
目の前にいる男が自分の父親であることが信じられなくなるほど、その男の目は冷えきっていた。未来を見据える預言者のように、先をよみ、淡々と必要な準備を整える。そこに情や命への憐れみなどというものは一切ない。
あるのは合理性。アルカイダという国家そのものに意思があるのであれば、きっとこの男のような形をしているのだろう。
レミリアは唾を飲み、喉の乾きを誤魔化す。
「わかったわ」
それだけを口にし、レミリアは足早にその場を去った。
言葉にできない感情だけが胸中にうずまき、体内を駆け巡る。それらを抑え込むように唇を噛み、レミリアは前を向いた。




