いつの日か、あなたと共に
澄み渡る青空に、お天道様が燦々と輝く。
ありふれた自然の景色を仰ぎ見ながら、雪絵は往来の中にぽつりと突っ立っていた。行き交う人々は談笑したり急いでいたりと、誰一人として同じ人はいない。道行く親子連れがアイスクリームを手に持ってはしゃいでいた。これから仕事であろう麻布を着た男が、億劫そうにあくびを嚙み殺し石畳の道を行く。ありふれたようで、今しか見ることができない景色。それを網膜に焼き付け、雪絵は世界が今日も回っているのだと実感する。
「お、お待たせしました」
顔をあげると、ぎこちない表情を貼り付けたシルヴィアがいた。藍色の帽子を目深に被り、黒のサングラスまでかけている。服装は質素なシャツとズボンで、目の前にいる彼がとても皇太子殿下には見えなかった。
「変装?」
「そうです。一応、この国の皇太子なので」
もっともな回答だ。雪絵は納得するとともに、俯いて自分の服を確認する。いつもの黒ワンピースにパンプスを履いているだけで、変装の類は一切していない。
さすがに不用心すぎたかもしれない。
「雪絵は普通で大丈夫ですよ。……よく、お似合いですし」
思わず見つめ返すと、シルヴィアは頬を赤らめながらはにかんだ。まるで恋する乙女のような所作だが、なぜかシルヴィアには良く似合う。
「ありがとう」
素直にそう返すと、シルヴィアはさらに顔を赤くした。
「じゃあ、行きましょうか」
「ええ」
油を差し忘れた機械のようにぎこちなく歩くシルヴィアの後を追う。行きたいところがあるのかと問えば、プランを考えてあると返ってきた。どこまでも用意周到な男だ、と雪絵は内心で感心する。
しかしながら、気がかりな点がひとつだけあった。
(……後ろの3人、いつまでついてくるんだろう)
待ち合わせの折、不審な気配を察知した雪絵は、密かに首輪の術式を展開していた。
指定範囲内の符力を探る探知術式。見覚えのある符力が3つ、術式に引っかかった。華、レオ、それにセレフィーナである。
※
「あんたちょっとそっち詰めなさいよ」
「いや限界ですって」
「気合いだレオ。気合いで大抵の事は何とかなるのだ」
「体積はどうにもならんでしょ」
雪絵たちから少し離れた店の影で、押し合いへしあう3人組。セレフィーナがレオの頭を押し退け身を乗り出し、下からは華が背伸びしてレオ下顎を押し上げる。2人の少女に挟まれたレオは身動きも取れず、もごもごと口を動かしていた。
「だいたいなんで俺まで……」
「仕方ないじゃない。シルヴィア様が何かしでかしたらどう責任取るつもりですの」
「いやいや、俺には関係ないって」
「お主、それでもシルヴィアの親友か?」
上下から挟み撃ちにされ、レオは泣く泣く白旗をあげた。立場的にも、この二人には逆らえないし何よりも圧が凄い。やはり男という生き物は、本能的に女には逆らえない仕組みになっているのだろうか。
「にしても、セレフィーナ様はいいんですか?」
「何がよ」
ナイフのごとく鋭い返答に、レオは生唾を飲み込む。やはりうかつに話しかけるべきではなかったと自省し、言いよどむこともできず口を開いた。
「えっと……その、男女の問題というか、恋愛的な問題というか」
いくらなんでも、「あなたも同じ婚約者候補なのにこんなことしてていいんですか?」なんて口が裂けても言えない。かなり言葉を濁し、レオは細心の注意を払って尋ねた。
しばらくの間沈黙が流れる。怒らせてしまっただろうか、とひやひやしながら返答を待った。生きた心地がしない。
「別にいいのよ。わたくし、もうシルヴィア様のこと好きじゃありませんもの」
「えっ」
思わぬ答えに、レオは動揺を隠せなかった。セレフィーナを見ようとしても、真上にいるため視線を合わせることもできない。
真意を尋ねるなど、恐ろしくてできそうもなかった。とりあえず深呼吸をして、シルヴィアと雪絵に視線を戻す。2人は何やら話した後、石畳の道を歩き始めた。それをどこか恨めしい気持ちで眺めつつ、レオは思う。
やっぱり、女心とは分からん、と。
「お主、素直じゃないの」
唯一、華だけは察するものがあったのかニヤリと口角を上げていた。
「うるさいですわ」
セレフィーナはそれっきり口を閉ざしてしまった。やれやれと言わんばかりに、華が肩を竦める。これ以上の詮索は無用と判断したレオは、デートに興じる親友の姿を追いかけた。
※
迷いなく進むシルヴィアの後に続いて数十分。
「着きました」
目線をあげると、ローゼンベルク家程ではないものの、一般の建物と比べるとかなり大きな建物があった。全体的に淡い水色を帯びる建物にはガラスがふんだんに使われており、中の様子が外からも透けて見える。
シルヴィアが扉を開けると、水の匂いと共に水槽が目に飛び込んできた。
通り一面に置かれた巨大な水槽の数々。仄暗い館内の中に水を照らす光が乱反射して、人工的ながらも日常では感じえない美しさを醸し出していた。レンガやガス灯、西洋チックな内装と水槽という組み合わせは意外ながらも不思議な調律を生み出している。
「水族館?」
「ご存知でしたか」
半信半疑で問うと、シルヴィアはにこやかに微笑み返してくる。
「昔、本で読んだことがあるの。実際に見るのは初めてよ」
「それは何よりです。ここ、カルディスの中で一番大きな水族館なんです。展示してる魚も国内外から取り寄せた希少なものがたくさんあるんですよ。例えばこの青い魚なんかは――」
目の前を泳ぐ青い小魚を指差しながら、シルヴィアはつらつらと話し始めた。魚の生態から生息地域まで、専門家顔負けの説明を耳にはさみつつ、自由に泳ぎ回る魚たちを眺める。ひらひらとスカートのようにゆれる尾ひれを視線だけで追いかける。
(シルヴィア、色々調べてくれたんだろうな)
用意周到、というよりも努力家な彼のことだ。きっと入念に下調べをして、雪絵を退屈させまいとしてくれているのだろう。
そのひたむきな親切心がうれしくも、少しだけ心が痛む。
通りを歩きながら、シルヴィアの解説に耳を傾ける。穏やかで、優しい時間だけがゆっくりと流れていく。時折雪絵が相槌を打ち、気になった部分を尋ねれば嬉しそうに答えてくれた。この時間だけは一国の皇太子というよりも、魚博士の方がお似合いなくらいだった。
ふと気になって、雪絵はとある水槽の前で立ち止まった。
「雪絵?」
ふわふわと綿のように揺れる身体が水中を漂う。半透明の色合いが儚くも幻想的で、思わず見とれてしまった。
「これは?」
尋ねると、間髪入れずにシルヴィアは答えてくれた。
「くらげですね。体のほとんどが水分でできていて、こうやって海の中を漂っているんです。中には毒を持つものもいるようですよ」
「そう」
水槽にそっと手を触れるも、くらげは気にする様子もなく悠々と水の中を泳いでいた。ふわふわと動く傘の部分が不思議な模様を描いていて、こんなに美しい生物がいたのかと見入ってしまう。
「綺麗ですね」
ガラスに艶やかな白髪が映る。見上げると、シルヴィアとばっちり目が合った。彼は少しだけ恥ずかしそうにはにかみ、穏やかに目を細める。その表情だけは決して噓ではないと、雪絵は直感的に理解した。それと同時に、心の奥から温かい何かが溢れ出てくる。
再びくらげを見ると、特段変わった様子もなく水中を漂っている。しかしどういう理屈か、さっきよりもより鮮明に、美しく感じるのだ。漂う傘の不規則な動きだとか、水槽の色を映しているだけの色合いが、宝石のように眩しく、木漏れ日のように尊い。
「……そうね」
そんなことを直接言えるわけもなく、雪絵は愛想のない相槌を打った。
簡単な昼食を済まし、太陽が西へ傾き始めた頃。
シルヴィアが次に足を運んだのは、街角に作られた闘技場だった。
「やっちまえー!!!」
などと品のない罵声が飛び交う中、壇上では2人の男が熱い拳を繰り出していた。
即席の闘技場なのか、街中に作られている故に見物客も多い。簡素に作られた客席の中、パイプの椅子に腰掛けながら雪絵は選手に目を向ける。
格闘技のプロというだけあって、洗練された動きには雪絵も目を見張るものがあった。普段は鬼との戦闘が大半のため忘れていたが、対人戦というのもなかなか趣が深いもので。いつぞやのセレフィーナとの戦闘を思い出しつつ、懐かしさに浸っていた。
ふと気になって隣を見てみると、シルヴィアは試合の行先には全く興味がないようだった。雪絵の視線に気づくと、すぐさまにこりと微笑みかけてくる。
「楽しんで頂けていますか?」
「ええ」
「それは何よりです」
再び喧騒が2人の間に流れる。
特に話す内容もなかったので、雪絵は黙ったまま試合の行く末を見ていた。最終的には片方の選手が盛大に右拳を打ち上げ、あっけなく決着がついた。あまり見ごたえのない普通の試合だった。
「次、いきましょうか」
シルヴィアが席を立つよう促してきたので、雪絵は静かに彼の言葉に従った。
闘技場を去るころにはすっかり日も暮れ、空には星が点々と輝いていた。
(シルヴィア、何がしたいんだろう)
水族館、闘技場とあまり縁のない場所を巡ってきたが、いまいちシルヴィアの考えは読めないままだ。雪絵を楽しませようとしてくれているのは伝わる。
しかし雪絵自身、デートなどしたことがない。どういう反応をすればいいか分からず、黙ってついていくことしかできなかった。傍から見れば、仏頂面もいいところだっただろう。
だがシルヴィアは、そんな雪絵を至極愛おしそうに見つめてくるのだ。水族館にいる時も、闘技場で観戦している時も、シルヴィアは雪絵ばかり見ていた。一体それの何が楽しいのか、雪絵には全く理解ができない。
朝からついてきている3人もまだいるようだし、雪絵はどうするべきかと頭を悩ませていた。
そんなこんなでシルヴィアの後についていくと、とある建物の前で足を止めた。
「さ、中へどうぞ」
シルヴィアが木製の大扉を開ける。その中に広がる光景に、雪絵は息をのんだ。
「……すごい」
橙の明かりに照らされる、部屋を埋め尽くさんばかりの本棚。そのひとつひとつに本がぎっしりと詰め込まれている。ドーム型のロビー部分には長机や椅子が置かれており、階段で繋がれた二階部分には奥までぎっしりと本棚が並んでいた。
一言でいうと、壮観だった。カルディスの城にある図書館もなかなかのものだが、これほどの英知が集合した場所など、雪絵は見たことがなかった。
「気に入っていただけました?」
シルヴィアはいたずらが成功した子供のように笑っていた。どうやらこれが本命だったらしい。
雪絵は本棚の合間を縫うようにして歩き、背表紙をざっと眺める。
「ここはアルカイダ唯一の帝立図書館なんです。古今東西、あるとあらゆる分野の書物が収められているんですよ」
場所ごとに本の系統は異なるらしく、今雪絵がいるのは術式構築学の部門だった。
しばらく館内を見回っていれば、「どうぞ」と声がかけられる。ロビーにある机に、シルヴィアが湯気の立つカップを置いた。傍らには何冊か本が置かれている。
シルヴィアに促され腰を下ろすと、彼は雪絵の正面に座り頬杖をついた。さっそく積まれた本を手に取る雪絵を優しい眼差しで見つめる。
2階の窓から差し込む月明かりが、シルヴィアの艶やかな銀髪を照らしていた。紺青の瞳が星のようにきらきら瞬く。
その優しい眼差しの理由が、無性に知りたくなってしまった。
「どうして、ここまで私に構うの」
直球に尋ねると、シルヴィアは驚いたように瞬きを繰り返した。しばらくして、静かに口元を緩める。
「あなたが好きだからです」
好き。
今まで幾度となく言われてきた言葉。
胸が膿むように痛む。きっとシルヴィアに悪気はないし、好きという言葉は彼の本心に違いない。けれどそれは雪絵の思う、物語の中での恋愛とはかけ離れた感情だ。
アルカイダにおける好意の定義。つまるところ、それは雪絵の強さを実感しての話であろう。
「……それは、私があなたよりも強いから」
言い訳がましい言葉がこぼれ落ちる。シルヴィアは困ったように眉を下げた。
「違います。例え雪絵が普通の女の子でも、俺は雪絵を好きになった」
シルヴィアは確固たる意志を宿した瞳で、雪絵を見つめる。
「どうして?」
シルヴィアは恥ずかしそうに口元を動かす。月明かりに照らされた頬が、鮮やかな朱色に染まる。
「あなたが、誰よりも綺麗な目をしていたから」
ほんの一瞬、時間が止まったような錯覚を覚えた。息が止まり、言葉にならない感情の濁流が胸に押し寄せる。目頭につんと刺されるような感覚が走り、慌てて俯いて目をそらした。そうでなければ、この思いを吐き出してしまいそうだった。
綺麗。
自分には到底似合うことのない言葉だと自覚している。それでも、他ならぬシルヴィアがそう言ってくれたことが、何よりも嬉しくてたまらない。
「ありがとう」
ようやく絞り出した言葉を、シルヴィアは穏やかな微笑みで受け止めてくれた。
胸の痛みが増していく。この微笑みを、雪絵はずっと見ていたい。そう思えば思うほど、叶わない現実の非情さが際立つ。
(先生、私は……)
何を選び、どう生きるか。その指針を、雪絵は過去に委ねてきた。しかしシルヴィアと出会って、世界の広さと、自分の矮小さを痛いほど知った。自分を真っ直ぐに想ってくれる人の存在が、こんなにも嬉しいことも。
「雪絵」
雪絵は顔を上げる。シルヴィアがいつになく真剣な表情で、1冊の本を机に置いた。
赤茶けた表紙の、どこにでもある本だった。
「ローゼンベルク家で、『先導者』と呼ばれていた男に渡されたものです」
雪絵の背筋が凍りつく。
食い入るように本を見つめる。何が書いてあるのか、恐ろしくて聞くこともできなかった。
動揺する雪絵を他所に、シルヴィアは至って平静な声色で続けた。
「俺は……ずっと怖かった。あなたの過去に触れてしまえば、もう後戻りができない気がしたから。でも今は違う。……ちゃんと知って、受け止めたいんです」
机上に置かれたシルヴィアの手が震えている。その指先が雪絵の手に触れ、強く握りしめた。確かな体温と、シルヴィアの覚悟が伝わる。
「あなたの言葉で話してください。……どんなことでも、俺が何とかしてみせます。俺が絶対、雪絵を守ってみせます。だから、お願いします」
彼の真摯な眼差しが、噓偽りのない想いを表していた。澄み渡る群青の色が、自分には釣り合わないくらいきれいだと思った。
いつの日か、この色の隣に堂々と立つことができたら。
瞼の裏に、くだらない幻想が見えた。
カラッと澄んだ空気に、暖かい風。芝生の上に腰掛けて、太陽の光を目いっぱいに浴びながら、シルヴィアが笑ってる。その隣に、雪絵がいる。膝には華が座っていて、レミリアがステラと楽しそうに話している。セレフィーナが執事を連れ紅茶をたしなんでいる。
子供の夢のような、くだらない幻だった。
幻が泡のごとく消え去る。再び目を開けた時には、静かな月明かりがシルヴィアを照らしていた。
「ありがとう、シルヴィア」
その手を握り返し、雪絵は言った。自分なりの誠実な言葉で。
「でも、今は話せない。話すには、私の勇気が足りない。……でもいつか、きっと話せる日が来るから。だから、その日まで、」
待っていてくれる?とは言えなかった。今まで散々甘えておいて、こちらから頼むなんて、あまりに虫が良すぎる気がしたのだ。
シルヴィアは黙ったまま、数秒間目を伏せていた。一度頷き、穏やかな表情で言った。
「分かりました。待っています」
その一言で、雪絵は心の底から救われたのだ。
月が雲に隠れ、夜が深まる。
「そろそろ時間ですし、今日は帰りましょうか」
そう言ってシルヴィアは席を立った。
「そうね」
雪絵が立ち上がろうとしたとき、一冊の本が机から落ちてしまった。
腰を落とし、落とした本を手に取る。その拍子に、本の表題が目に映った。
『構築術式による符力の制御とその利用法について』
どこかで見覚えのある内容だと思った。不思議に思って背表紙を見る。そこに示された著者名に、雪絵は絶句した。
——霞慎也。
心臓がドクンと跳ねる。
冷たい雪が指先に触れ、消えていく。
凍えるような寒さの中、手足には感覚がなかった。頬が赤くなっているのが自分でも分かった。それでも、痛いくらい突き刺さる寒さが心地よいと思った。
白い息を吐く。着物の裾を持て余し、玩具代わりにゆらゆらと揺らしていた。
『雪絵』
名前を呼ばれ、振り返る。
そこには、無惨に辱められた生首が置かれている。
「雪絵?」
遠くの方で、シルヴィアの声が聞こえた気がした。
途端に混濁してきた意識の中、雪絵は暗闇に放りこまれた絶望を感じていた。
自分はまだ、許されていないのだ、と。
首が締め付けられ、息ができなかった。無意識に起動した首輪の術式から、ひび割れるような音がした。
その日以降、霜月雪絵はアルカイダ帝国から姿を消した。




