私を助けて
伸ばした手が、パァンという軽い音と共に弾かれた。
「嫌ですわ!」
全身鬼の唾液にまみれながら、セレフィーナが雪絵を睨む。その目尻に涙が光るのを視認し、雪絵はひたすらに動揺していた。
防護障壁がミシミシと軋んだ音を立てる。いくら拘束してあるとはいえ、鬼の行動を制限するのもきつくなってきた。上下からかかる圧力に歯を食いしばって耐える。
(どうして?助けを拒む理由が、セレフィーナにあるっていうの?)
最適解を探すべく、雪絵は考えを巡らせた。だが、考えたところで答えはでなかった。合理性とはかけ離れた行動は、雪絵の理解の範疇を超えるものだ。
この状況下で助けを拒むということは、自ら死を選ぶと同義。しかし、セレフィーナとてここで死ぬのは本望ではないだろう。鬼に食われて死にたいと願う奇特な人間が、この世に存在するとはあまり思えない。
「どうして拒むの?ここで駄々をこねたって、どうにもならないことはあなただって分かっているでしょ!?」
切羽詰まって問い詰めるも、セレフィーナの表情は変わらない。
「それでも嫌ですの!!あなたにだけは、借りは作らない!!」
そう言い放ち、今度は左手の剣を振りかぶった。鬼に刺したままの右手を支点に勢いをつけ、そのまま肉の壁に突き刺す。
『ギャおおオお!?!』
鬼の悲鳴が口内に反響する。鼓膜を打ち破るような大音響に顔をしかめる。内臓を揺さぶるような振動とともに、防護障壁の欠片が崩れ落ちていく。
肩に押し寄せる痛みをこらえて、雪絵は叫んだ。
「やめてッ!下手に刺激すれば、あなたも危ない!」
「どうでもいいですわそんなこと!あなたに助けられるくらいなら、死んだ方がマシですの!!」
完全に意地になっている。セレフィーナが雪絵の言葉に耳を貸す様子はなかった。
「あなたにだけは……絶対に!」
嗚咽を漏らすように、セレフィーナは言葉をきつく噛み締めていた。
(どうする……セレフィーナは私の手を取らない。なら、別の人に頼む?)
いや無理だ、と心の中でかぶりを振る。雪絵がこの場から動けば、鬼の口は完全に閉じられ、セレフィーナが脱出する機会を失う。雪絵は助かっても、セレフィーナが助かる可能性は絶望的だ。
(ならいっそ、ここで見捨てる?)
一瞬だけ、腕の力が緩む。ギチギチと雪絵を押し潰さんとする獰猛な歯を、防護障壁で何とか抑える。しかし、いずれ限界がくるのは明白。
本人に助かる意思がない以上、雪絵がそれを強制することはできない。ここで雪絵が引いても、それがセレフィーナの選択ということになる。
自分を正当化する言葉だけが脳裏をよぎる。離れているシルヴィアのことも心配だ。彼に追っ手が迫っている以上、長居することはできない。
ピシッ。
防護障壁に深いひびが入った。関節が痛みに悲鳴をあげ、肩が焼けるように痛む。
もう、時間がない。
見捨てても問題はない。むしろ、そっちの方が理にかなってる。セレフィーナの意も汲み、シルヴィアの安全も組み入れる。
最も理性的な判断。
けれど何か、何かが胸の奥に引っかかる。
『あなたに、死んで欲しくない』
そう言った、あいつの顔が鮮明に蘇った。
合理性をかなぐり捨てて、感情ひとつで雪絵を助け出した、シルヴィアの泣きそうな笑顔が。
まぶたを閉じ、開く。
「――セレフィーナ、選んで」
頬を伝い、汗が流れ落ちた。鬼が呻きをあげ、雪絵を噛み潰さんと力を込める。
「は?」
セレフィーナが素っ頓狂な顔で雪絵を見た。突き刺した剣を握ったまま、雪絵を凝視する。
「私に助けられるか、ここで死ぬか。選んで」
セレフィーナの表情が、瞬く間に歪んだ。
「ふざけてるの!?そんなの、自分で助かるに決まって、」
「できない!」
セレフィーナのセリフを遮り、雪絵は叫んだ。
静かなる宣告に、セレフィーナは言葉を失った。整った顔立ちがくしゃりと潰れる。わなわなと唇を震わせ、何かを口にしようとした。しかしそれは、無意味に息を吐き出すだけに終わる。
追い打ちをかけるように、雪絵は言う。
「あなたにはできない!だって――あなたには、術者としての才覚がないから」
雪絵を責め立てるように睨んでいた赤い瞳が、一瞬にして絶望に染まる。
それを見て、雪絵は確信した。
彼女が、最も嫌悪するもの。それはきっと、力のないセレフィーナ自身である、と。
理解した上で、雪絵は問いかける。
「実際に戦ってみて分かったわ。あなたの剣術や発想は確かに素晴らしい。けど、わざわざ起動式の罠を使ったのは……符力の少なさを補うためでしょう?」
「……!」
セレフィーナが息をのんだ。赤色の瞳が右へ左へ泳ぐ。
「あなたが一番よくわかっているはず。……このままじゃ、どうにもならないことくらい」
剣を振るう手を止め、セレフィーナは俯いた。
通常の格闘技や剣術でもそう、才能というのは確かに存在する。だが、それら一般的な才と術式における才はまるで話が違うのだ。
普通の戦闘では、一般人であれど戦場に立つことはできる。だが術者は違う。符力という才能がなければ、スタートラインにすら立たせてもらえない。そのくらい術者における才能とは残酷で、無慈悲なものなのだ。
雪絵とて自覚はしている。自分は、"与えられすぎた"人間だ。だからこそ、持たざる者が多くいることも知っている。花霞で巫を務めていた頃、そういう人間を何人も見てきた。そして、彼らが迎えた悲惨な結末も。
「分かってる……分かってますわ、そんなこと」
ポツリ、セレフィーナが言葉を零す。
感情がごっそりと抜け落ちてしまったように、表情に生気が消えた。
「それでも……諦められないんですの」
はらり。涙が落ちる。
「……!」
その瞬間だけ、セレフィーナがただの傷つきやすい少女に見えた。
白い頬に涙が伝い、落ちていく。水滴が鬼の粘膜を濡らす。
危機的状況にもかかわらず、雪絵はその目に見入ってしまった。
少し遅れて、セレフィーナは我に返った。袖で涙を拭い、縋るように剣を握る。
「もういいわ!わたくし、あなただけには絶対、」
「なら、よかった」
ニヒルに、雪絵は笑ってみせる。
空いてる左手で結晶体を砕く。余り物の氷結術式の形状だけを調節し、陣を展開させる。
紋様の刻まれた淡い青の陣が、セレフィーナの背後に出現した。
「ちょっと、何を!?」
慌てるセレフィーナを他所に、雪絵は躊躇いなく術式を発動させる。
「諦められないなら……生きる気力はあるんでしょ!」
青色の陣から、円柱型の氷の塊が射出された。
氷柱は雪絵が仕込んだ通り、直線上に滑るよう進む。真正面にいるセレフィーナの背中を押し込みながら、真っ直ぐに雪絵へ降りかかってきた。
「い゙っ!?」
セレフィーナが苦悶の表情を浮かべるも、今は構ってる暇はない。
氷柱に押し込まれるようにして、セレフィーナが胸に飛び込んできた。右手を回し、細い体躯を固く抱きしめる。あとは勢いに身を任せ、防護障壁を解除すると――
バリィンッ!!!
氷柱の砕ける音を耳にした時には、雪絵たちの体は宙に投げ出されていた。浮遊感が身を襲う。
薄く片目を開く。鬼によって氷柱は粉々に砕け、氷の欠片が宙に舞っていた。タイミングが遅ければ、雪絵達も噛み砕かれていたことだろう。
戦慄しつつ、雪絵は両腕でセレフィーナを抱きしめた。体が重力に従って落ちていく感覚に、唇を噛みながら耐える。落ちる、と認識する頃には、背中に激しい痛みが走り、雪絵は地面に叩きつけられ転がった。
視界がグルグルと回る中、咄嗟に背後に防護障壁を展開。回転の勢いを殺し、ようやく体が止まる。
「ゴホッ、ゲホッ」
雪絵は咳き込み、起き上がろうと腕を立てる。
あちこち痛むが、それ以上に体が空気を求めていた。荒い呼吸で新鮮な空気を取り込み、長い息を吐く。
「セレフィーナ……無事?」
上体を起こし、声をかける。同じように咳き込む音に、雪絵は肩を下ろした。
「あなたっ……死ぬ気ですの!?」
しばらくして、セレフィーナから抗議の声が飛んできた。
「生きるための最善を取ったまでよ」
「ふざっ、ふざけッ」
ゴホゴホと再び咳き込み、セレフィーナの非難は途絶える。噎せてはいるが、大きな外傷は見られない。少々強引なやり方だったが、致し方ないというものだ。背中をさすりつつ、視線をあげる。
「悪いけどここからが本番」
ズシン。地響きがして、
『グおおおォお!!!!』
鬼の雄叫びが会場いっぱいに響いた。押し寄せる腐臭と風圧を片手で防ぎつつ、身を構える。
セレフィーナの瞳が大きく見開かれた。赤色の瞳に、黒く禍々しい巨体が映る。
窮地は脱したが、戦いはまだ終わっていない。
呆然と鬼を眺める彼女の肩に、手を置く。セレフィーナは振り返り、怒りを顕にして雪絵睨みつけた。
「ここでわたくしを助けて……恩でも売るつもり!?」
「……いや。むしろ逆」
セレフィーナは訳が分からないという風に首を傾げる。その表情が少し面白くて、雪絵はくすりと笑ってしまった。
文句を言われる前に、雪絵は簡潔に伝える。
「私を助けて」
セレフィーナは目を大きく見張り、硬直した。
「……どういう、こと?」
「そのままの意味。私を助けて欲しいの」
雪絵はセレフィーナの正面にしゃがみ、彼女の手元に手を添える。
その手の中には、銀色に輝く双剣が握られていた。無意識だったのか、セレフィーナも驚いたように目を丸くする。
「あれだけ派手にやったのに、まだ離さないなんてね……大したものじゃない」
雪絵は2本の刀身に手を翳し、緩やかに目を閉じる。
体内の符力を練り上げ、両手に集中させる。キィィンと鈴の鳴る音とともに、眩い光が辺りを包んだ。
「これは……」
セレフィーナが息を漏らす。
実際に触れてみて、よく分かった。この剣は、物心着いた頃からセレフィーナのそばにあったのだ。彼女はいついかなる時もこの剣を離さず、自分の身と共に鍛えてきた。
これは彼女の劣等感の証明であり、努力の証。
才能のない人間が、易々とできるものじゃない。
雪絵ができる最大限の強化。素材の強度を高め、切れ味はより鋭く。重さはあえて調節しない。
たとえ生身であろうと、術式がなかろうと関係ない。鬼の肉体を裂けるくらい、鋭く、より強く。
雪絵は目を開く。
双剣は銀色の光はそのままに、確かな光沢と符力の煌めきを纏っていた。
「私の符力で強化したの。これなら、あの鬼とも戦える」
セレフィーナが信じられないように雪絵を見る。
「どうして、そこまでわたくしに……」
問われ、雪絵しばし考えてみた。
以前の雪絵であれば、間違いなくあの場でセレフィーナを見限っていた。彼女の選択は合理性皆無であり、衝動に任せた突発的な行動は愚かとしか言えない。
しかし、現に雪絵セレフィーナを無理矢理連れ出し、ここにいる。
「……似てるから」
「似てる?」
「ええ。……花霞にいた頃の、私に」
なぜと問われても、明確に言語化することはできない。ふわふわと雲のように気持ちが漂う、その片端を引っ張って、しどろもどろに言葉を紡ぐ。
「私もそう。譲れないもののために、一度は死を決意した。……けど、それをよく思わない人もいた。思いの外、私の近くに」
刀身撫でる。固い金属の感触が肌を伝い、あの日の雪の冷たさを思い起こさせた。
寒さでかじかむんだ手足の、突き刺すような痛み。手のひらをそっと撫でると、今でもあの感触をありありと思い出せた。
その手を握ってくれた、彼の手の温かさも。
「……きっと世界は、あなたが思っている以上に広い。……とても広い、はず。だから、自分に失望するのは……それを知ってからでもいいと思うの」
「……」
セレフィーナは俯き、双剣をじっと見つめる。指先で刀身に触れ、慈しむように撫でた。セレフィーナの指先が触れる度、刀身が答えるように、とくん、とくんと瞬く。
セレフィーナにとっては、それだけで十分だったのだろう。
セレフィーナは剣を取る。愛剣の感触を確かめるように強く握りしめた。直後、一筋の風となり疾走する。
『グギャオおオオ!!!』
鬼も自身に向かってくるセレフィーナを知覚したのか、野太い雄叫びをあげた。口をあんぐりと開き、唾液をまき散らしながらセレフィーナに突進する。
黒の巨体と赤い疾風が正面から交錯するその瞬間。セレフィーナは身をかがめて鬼の足元に滑り込んだ。上体を傾け速度を調節し、右手の剣で鬼の足を薙ぎ払った。
『いダああああい!!』
両足の付け根から黒い液体が飛び散り、支えを失った上体が地面に放り出された。鬼が悲鳴をあげながらのたうち回り、残された両腕で必死に立ち上がろうと藻掻く。その隙を見逃さずセレフィーナは次へと標的を定める。
膝を深く曲げ、上空へ飛び上がる。空中で体をひねり、落下の勢いとともに回転をかけながら、鬼の右腕を斬り飛ばした。再度巨体のバランスが崩れると、今度は背面からありったけの斬撃をお見舞いする。残された右手が空高くに吹き飛ぶ。瞬く間に鬼の体は千々に千切れ、もはや決着は目に見えていた。
「はあああああッ!!!」
銀の双剣が、鬼の体を貫く。
断末魔をあげる暇すら与えられなかった。どくどくと溢れる液体が周辺を汚していく。
ぐしゃっと音を立てて、肉の塊が液体の中に沈んだ。
柔らかな日差しが、セレフィーナを照らしていた。
(あ……雨、止んだのか)
窓の外には、灰色の雲の隙間から太陽の光が覗いていた。光の筋が雲に穴を穿ち、地上に降り注いでいる。温かな光に照らされた雨粒が、勝利を喜ぶようにきらりと光っていた。
雪絵は立ち上がり、セレフィーナの元へ向かう。
「お疲れ様」
声をかけるも、セレフィーナは放心したままぼんやりと雪絵を見た。まだ、自分が倒したという実感が湧いていないらしい。
「あなたのお陰で助かった。ありがとう、セレフィーナ」
セレフィーナは自身の手を見つめる。鬼の体液がべっとりとついた両手は、見まがうことなく彼女の功績を示していた。
桜色の唇が薄く開かれる。何かをこらえるように両肩を震わせた。天井を仰ぎ見て、口元に笑みを浮かべる。
セレフィーナは雪絵を見つめ、満面の笑みで言った。
「どういたしまして、ですわ!」




