第65話:スローライフは、手に入らない
地下迷宮での決戦から、数ヶ月が経過した。
季節は冬を越え、王立魔法アカデミーにも柔らかな春の風が吹き始めている。
しかし、俺の学園生活には、春のそよ風どころか暴風雨のような変化が訪れていた。
「おはようございます、影様! 本日も神々しいお姿で!」
「道を空けろ! アイリス様がお通りだぞ!!」
廊下を歩けば、まるで海が割れるように生徒たちが左右に退き、深々と最敬礼をしてくる。
かつて俺を遠巻きにヒソヒソと噂し、嫉妬の視線を向けていた他寮の令嬢たちも、今では俺の姿を見るなり青ざめて道を譲り、畏怖と憧れの入り混じった眼差しを向けてくるようになった。
(……終わった。俺の『モブ令嬢A』計画は、一片の希望も残さず完全に粉砕された)
地下迷宮で仮面が割れたあの日から、俺は『王立十聖』第一席・影としての正体を公にこそされていないものの、学園の暗黙の了解として「不可侵の絶対強者」として扱われるようになってしまった。
スローライフとは、誰の記憶にも残らず、ひっそりと生きること。その定義からすれば、今の俺の状況は完全に真逆のゲームオーバーだ。
「……はぁ」
俺は深くため息をつき、逃げるようにステラ寮の裏手にある家庭菜園へと向かった。
唯一、土をいじっている時だけが俺の心が休まる時間だ。丹精込めて育てた春野菜の苗に水をやっていると、背後からサクサクと土を踏む足音が近づいてきた。
「またここにいたのか」
振り返らなくても分かる。セオドア殿下だ。
彼は当たり前のように俺の隣にしゃがみ込み、慣れた手つきで雑草を抜き始めた。
「殿下。次期国王が土にまみれてどうするのですか」
「構わん。視察の一環だ」
あの日、中庭で「君の隣で、ただ待つ」と宣言してから、彼は本当に俺との距離感を変えなかった。過剰に甘やかすこともなく、無理に踏み込んでくることもない。ただ、気がつけば隣にいて、俺が何かをしようとすると自然に手を貸してくれる。
「あ、アイリス様! 殿下! お茶をお持ちしましたわ!」
そこへ、ピクニックバスケットを抱えたリヴィアが小走りでやってきた。
「見てくださいませ、アイリス様が以前作ってくださったクッキーを、わたくしも焼いてみましたの! 殿下とアイリス様の、愛の共同作業の疲れを癒やすために!」
「……愛の共同作業ではなく、ただの農作業です」
相変わらずのロマンチックな脳内変換に訂正を入れつつ、俺は彼女が焼いた少し不格好なクッキーを口に運ぶ。
(……少し焦げているが、甘くて美味しい)
「どうですか?」と期待に満ちた目で見てくるリヴィアに「美味しいですわ」と微笑むと、彼女はパァッと顔を輝かせた。その横で、殿下もクッキーをかじりながら「悪くない」と頷いている。
「アイリス嬢。またこんなところでサボっているのですか」
そこへさらに、銀縁メガネを光らせながら生徒会長のシリルがやってきた。
「『生活環境向上委員会』の特別最高顧問として、承認していただきたい案件が山ほどあるのですよ。……おや、お茶会ですか。では私も一杯いただきましょう」
シリルは文句を言いながらも、ちゃっかりと俺たちの輪に加わり、リヴィアから紅茶を受け取った。
そして俺の膝の上では、いつの間にかやってきたクロが黒猫の姿で丸くなり、おやつを要求するように前足で俺の腕をツンツンと小突いている。
柔らかな春の陽射しの中、他愛のない会話が弾む。
俺は、お茶を飲みながら、この不思議な光景を眺めていた。
前世では、孤独だった。
今世では、一人で菜園をいじり、一人で本を読み、一人で完結するスローライフを夢見ていた。
でも、今は違う。
俺が畑を耕せば殿下が雑草を抜き、俺が料理を作ればリヴィアが手伝いに来る。読書をしていればシリルが嫌味と共に本を届けに来て、クロが俺の膝を温める。ルミナリアに帰ったリュシアンからは、定期的に「国が落ち着いたら遊びに行く」という手紙と、特産のフルーツが届く。
誰もが厄介で、面倒で、俺の平穏を容赦無くぶち壊してくる。
理想としていた「一人きりの静かなスローライフ」は、絶対に手に入らない幻となってしまった。
(……だが)
俺は、騒がしく笑い合う彼らを見て、ふっと自然に口元を綻ばせた。
(こういう騒がしい日常も……まあ、悪くない)
◇◇◇
その日の夜。
自室の窓辺で夜空を見上げていると、脳内に直接、威厳のある声が響いた。
『――影よ、聞こえるか』
「……はい、陛下」
国王からの通信魔法だ。
『国境付近で、怪しい動きをしている輩がいるらしい。急ぎ、調査に向かってくれ』
「御意」
俺は通信を切ると、机の引き出しを開けた。
そこには、新しく作り直した『漆黒の仮面』と、紺色のローブが綺麗に畳まれている。
正体がバレても、俺の『影』としての任務が終わったわけではない。
誰にも注目されずに生きることは諦めた。けれど、俺が手に入れたこの「騒がしくも愛おしい日常」を脅かす存在がいるなら、俺は何度でも暗殺者の技術を振るうだろう。
奪うためではなく、守るために。
「行くぞ、クロ」
「にゃーん(お夜食はある?)」
「帰ってきたら、とびきり美味いものを焼いてやる」
俺はローブを羽織り、仮面を顔に当てた。
◇◇◇
数日後。
任務を終えた俺は、再びアカデミーの裏庭で土をいじっていた。
春の陽光をいっぱいに浴びて、俺が丹精込めて植えた野菜の苗たちが、力強く小さな緑の芽を吹いている。
「……立派に育ったな」
俺が満足げに呟くと、隣で日向ぼっこをしていたクロが、人間の少年の姿になって伸びをした。
「アイリスの作った野菜、美味いからな! おれ、いっぱい食べるぞ!」
「ああ、たくさん食べろ」
俺はクロの頭をくしゃくしゃと撫でてやり、それから、澄み渡る青空を見上げた。
遠くから、リヴィアが俺を呼ぶ声と、それに呆れるセオドア殿下の声が聞こえてくる。
血と硝煙の匂いしかしなかった前世の俺には、想像もできなかった眩しい景色。
「……来年も、ここにいるな。俺は」
無意識のうちに零れた独り言に、クロがにぱっと笑って答えた。
「おれも!」
そうだ。これでいい。
俺の異世界ゆるふわスローライフ計画は、完全な失敗に終わった。
けれど、代わりに手に入れたこの騒がしい日常を、俺はこれからも生きていく。
最高の仲間たちと、極上のスイーツと共に。
(完)




