第64話:不器用な王子の告白と、暗殺者の答え
リュシアンを乗せた馬車が遠ざかった後、セオドア殿下に呼び出された俺は、夜の帳が下りた学園の中庭へと向かった。
月明かりに照らされた、いつものベンチ。
そこには、すでにセオドア殿下が腰を下ろし、静かに夜空を見上げていた。
「お待たせいたしました、殿下」
俺が声をかけると、殿下はゆっくりと振り返り、俺の隣を空けるように少しだけ身を引いた。
「……座ってくれ」
促されるまま、少し距離を置いてベンチに座る。
普段なら「アイリス、またおかしなトラブルを起こしたんじゃないだろうな」と憎まれ口を叩いてくる彼が、今日はひどく静かだった。
風が木々を揺らす音だけが、二人の間に流れる。
やがて、殿下がゆっくりと口を開いた。
「アイリス。一つだけ、聞いてくれ」
その空色の瞳が、真っ直ぐに俺を捉える。
いつになく真剣な、退路を断ったような眼差し。暗殺者の勘が、これから語られる言葉の重さを告げていた。
「君は、僕の護衛として学園に来た。……いや、最初はただの『幸運なドジっ子令嬢』だと思っていたがな」
殿下は自嘲気味に小さく笑った。
「だが、今の僕にとって、君はもうそれだけじゃない」
殿下は、俺の目をじっと見つめ返した。
「君のことが、好きだ。護衛としてでも、パートナーとしてでもなく。……一人の人間として、アイリス・フォン・アルトス、君を愛している」
心臓が、トクンと一つ、大きく鳴った。
それは、リュシアンが帰国前夜に伝えてくれたプロポーズとは違う。目の前のセオドア殿下の言葉は、ずっと長く隣にいて、俺の嘘も隠し事も全てひっくるめて、泥臭く積み上げてきた感情の塊だった。
だからこそ、俺は彼に、誰よりも誠実でなければならない。
完璧な令嬢の微笑みでも、暗殺者の冷徹な仮面でもなく、アイリスという一人の人間としての、本当の言葉を。
「……殿下」
俺は、静かに息を吸い込み、彼の目を見返して答えた。
「わたくしは……男性に、恋愛感情を抱くことができません。生まれつき、そういう人間なのです」
月明かりの下、殿下の顔が微かに強張った。
貴族社会において、しかも公爵家の一人娘である俺が、その事実を口にすることの重さ。次期国王候補である彼なら、誰よりも理解しているはずだ。それは、政略結婚も、子を成すことも、貴族としての義務の多くを放棄するという宣言に等しい。
重い沈黙が降りた。
俺は、彼が失望して立ち去るのを覚悟していた。
「……それは、僕だからか。それとも、誰に対しても」
「誰に対しても、です」
俺はきっぱりと答えた。
殿下はしばらく俯き、ギュッと拳を握りしめていた。
やがて、彼は顔を上げ、静かに言った。
「……そうか」
そして、一拍置いて、俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「だが、諦めるつもりはない」
「……はい?」
予想外の言葉に、俺は思わず素の声を上げて目を丸くした。
「君が恋愛感情を持てないというなら、僕が待つだけだ。……君の隣で、友人として、共犯者として、いつか君の心が少しでも傾くのを待つ。それだけだ」
「殿下、わたくしは……」
「僕の勝手だ。君に迷惑はかけない。ただ、君の隣にいる権利だけは、誰にも譲らない」
そう言い切る彼の顔は、かつての氷のように冷たい王子のものではなく、ただの一人の、とてつもなく頑固で不器用な青年の顔だった。
(……前世では、誰かにこんな顔をされたことなんて、一度もなかったな)
裏社会で生き、任務と娘のためだけに生きてきた「ゼロ」という暗殺者。
今世でも、目立たずにひっそりと生きるつもりだった。
それなのに、こんなにも真正面から、損得勘定なしに俺にぶつかってくる人間がいるなんて。
「……殿下は、本当に面倒な人ですわね」
俺は呆れたようにため息をつきながら、自然と口元が緩むのを止められなかった。
「君ほどじゃない」
殿下もまた、ふっと意地悪く、けれどひどく優しい顔で笑った。
夜の静寂の中、二人の間には、これまでで一番穏やかで、温かい沈黙が流れていた。
◇◇◇
翌日の昼休み。
ステラ寮の談話室で、リヴィアが両手で顔を覆いながら震えていた。
「ア、アイリス様……それは、本当のことですの……?」
昨夜の殿下とのやり取りを、かいつまんで彼女に話した結果がこれだ。
隠し立てするつもりはなかったが、やはり貴族社会の価値観で生きる彼女にとっては、あまりにも衝撃的すぎる内容だったらしい。
俺が静かに頷くと、リヴィアはしばらく黙り込み、肩を震わせていた。
(……やはり、引かれてしまったか。無理もない)
そう思って、少しだけ距離を取ろうとした瞬間。
ガシッ!
リヴィアが、俺の両手を力強く握りしめてきた。
彼女の顔を見ると、大粒の涙がボロボロと溢れ出していた。
「……わたくし、アイリス様の味方ですわ。何があっても」
「え……リヴィア様?」
「だって、アイリス様はアイリス様ですもの! 恋愛感情があろうがなかろうが、わたくしを助けてくださった優しくて、強くて、最高に素敵な親友であることに変わりはありませんわ!」
彼女は泣きじゃくりながら、俺の手をぎゅっと握りしめた。
「殿下もリュシアン様も、きっとアイリス様の魂そのものを愛していらっしゃるのですね……! ああ、なんて尊い愛の形……! わたくし、お二人の愛の試練を見守る女神になりますわ!」
(……やっぱり、そっちの方向に行くのか)
相変わらずの劇的な脳内変換に、俺は思わず吹き出してしまった。
だが、彼女の手の温もりと、真っ直ぐな言葉は、俺の心の奥底にあった一抹の不安を完全に溶かしてくれた。
厄介な王子に、勘違いが過ぎる純粋な親友。
平穏なスローライフからは完全にかけ離れてしまったけれど。
(こういう騒がしい日々も……まあ、悪くないな)
俺は、泣きじゃくるリヴィアの背中を優しく撫でながら、窓から差し込む春の陽光に目を細めたのだった。




