第63話:優等生の帰国と、甘くないプロポーズ
地下迷宮での決戦から、数日が過ぎた。
『古き盟約』の盟主は力を失い、王国の騎士団によって秘密裏に捕縛された。
かくして大陸を脅かしていた巨大な陰謀は完全に潰え、学園には再び平和な日常が戻ってきた。
……と言いたいところだが、俺の平穏な日常は、あの地下迷宮の底に砕け散った仮面と共に完全に終わっていた。
「アイリス様……いえ、影様! 本日も麗しゅうございますわ!」
「リヴィア様、お願いですからその呼び方はやめてください」
部室のソファで頭を抱える俺の横で、リヴィアが目をキラキラさせて両手を組んでいる。
「わたくしの親友が、まさか国最強の守護者だったなんて! なんというドラマチックな展開! わたくし、アイリス様の伝記を執筆いたしますわ!」
さらに厄介なのは彼女だけではない。
廊下ですれ違うたびに、かつて俺を馬鹿にしていたヴィクトルが、顔を真っ赤にして無言のまま『最敬礼』をしてくるようになったのだ。やめてほしい、周りの生徒が引いている。
そして極めつけは、生徒会長のシリルだ。
「アイリス嬢。いえ、我が敬愛する影様。生徒会に『特別最高顧問』の席をご用意いたしました。いつでもお越しください」と、毎日満面の笑みで勧誘に来る。
(……胃が痛い。俺のスローライフは、もはや灰すら残っていない)
そんな俺の絶望をよそに、向かいの席ではセオドア殿下とリュシアンが、報告書を片手に真剣な顔で話し合っていた。
「……ルミナリア王国からの報告によれば、盟主の魔力が途絶えたことで、父王や兄たちの洗脳が完全に解けたそうだ」
「ああ。国を牛耳っていた『古き盟約』の構成員たちも、次々と拘束されていると聞く」
リュシアンが、深く安堵の息を吐いた。
「兄さんも順調に回復しているようです。……これでようやく、僕の国も元の姿に戻る」
「良かったですね、リュシアン様」
俺が声をかけると、リュシアンはいつもの完璧な優等生の笑顔……ではなく、憑き物が落ちたような、本当に穏やかな笑顔を向けた。
「ええ。……だから、僕は国に帰ります」
「えっ」
リヴィアが小さく声を上げた。
それは、当然の帰結だった。洗脳が解けたとはいえ、国は混乱の極みにある。正気を取り戻した王族たちと共に、彼には国を立て直す義務があるのだ。
「明日の朝、馬車で発ちます。……アイリス。今夜、少しだけ時間をくれないか」
リュシアンの真っ直ぐな瞳が、俺を捉えた。
セオドア殿下が、ほんの少しだけ眉をピクリと動かしたが、何も言わずに視線を書類へと戻した。
◇◇◇
帰国前夜。
星が瞬く学園の中庭。待ち合わせのベンチに座っていたリュシアンは、俺の姿を認めると静かに立ち上がった。
「忙しいところ、すまないね」
「いえ。……いよいよ、明日ですね」
「うん。長いようであっという間だった」
リュシアンは夜空を見上げ、それから改まって俺に向き直った。
いつもの軽口を叩くような余裕はない。その顔は、少し不器用で、真剣そのものだった。
「アイリス。君に、伝えておかなければならないことがある」
「……はい」
「君のことを、ずっと尊敬していた。国を救ってくれた最強の『影』として。そして……一人の、美しく気高い女性として」
夜の静寂に、彼の言葉がはっきりと響く。
俺は、息を呑んだ。
「僕と一緒に、ルミナリアに来てくれないか」
それは、ただの誘いではない。
一国の王子から公爵令嬢への、明確なプロポーズだった。
風が吹き抜け、木々がザワザワと音を立てる。
リュシアンの翠の『真実の瞳』は、俺の心の奥底まで見透かそうとするかのように、揺るぎない光を宿している。
前世で、血の池の底を這いずるような暗殺者だった俺に、こんな言葉をかけてくれる人間がいるなんて、想像もしていなかった。
だが、だからこそ。俺は彼に、誠実でなければならない。
「……リュシアン様」
俺は少しだけ間を置き、静かに首を横に振った。
「申し訳ありません。わたくしには、まだそのような気持ちは……分かりません。リュシアン様には、わたくしよりもっと相応しい、心優しい方がいらっしゃいますわ」
俺の答えを聞いて、リュシアンは悲しむでも、怒るでもなく、ただ静かに、優しく笑った。
「……そうか。残念だよ」
察しのいい彼のことだ。『真実の瞳』を持つ彼には、俺が単なる謙遜で断ったのではなく、俺自身の心の中に、恋愛感情というものがすっぽりと欠落していることが見えていたのだろう。
それでも、彼はそれ以上、俺の心に無理やり踏み込もうとはしなかった。
「ですが」
俺は、俯きかけた彼の顔を真っ直ぐに見返して、言葉を続けた。
「リュシアン様のことは、信頼できる、大切な友人だと思っています。……もし、ルミナリアが平和を取り戻して、落ち着いたら。その時は、遊びに行きますわ」
「……本当かい?」
「ええ。わたくしの手作りの、とびきり甘いスイーツを持って」
俺が令嬢スマイルではなく、素の笑顔でそう言うと、リュシアンは目を丸くし、やがて――今まで見た中で一番の、年齢相応の爽やかな声で笑い出した。
「はははっ! 君らしいな。……ああ、それは本当に楽しみだ。首を長くして待っているよ、アイリス」
こうして、一人の王子の甘くないプロポーズは、甘い約束へと形を変えて夜空に溶けていった。
◇◇◇
翌朝。
学園の正門前には、立派な馬車が停まっていた。
「リュシアン様、お元気で……っ!」
涙ぐむリヴィアを筆頭に、シリル、ヴィクトル、セオドア殿下、そして同じステラ寮の生徒たちが並んで見送る。
「達者でな、リュシアン。……貴国との同盟は、僕が必ず父上に確約させる」
「頼みますよ、セオドア殿下。……君も、色々と頑張れよ」
リュシアンが意味深に殿下の肩を叩く。殿下は少しだけ顔をしかめたが、すぐにふっと笑って彼と硬い握手を交わした。
「アイリス」
最後に、リュシアンが俺の前に立った。
俺の足元では、クロが黒猫の姿で「にゃーん」と鳴いて別れを惜しんでいる。
「約束、忘れないでくれよ」
「ええ。最高に太るケーキを持っていきますから、覚悟しておいてください」
「それはお手柔らかに」
馬車に乗り込んだリュシアンが、窓から身を乗り出して大きく手を振る。
遠ざかっていく馬車。
窓から覗くその顔は、アカデミーに転校してきた時の「完璧な優等生の仮面」ではなく、少し不器用で、けれど清々しい本物の笑顔だった。
彼が見えなくなるまで見送った後。
ふいに、隣に立っていたセオドア殿下が、静かに口を開いた。
「……アイリス」
「はい?」
「今夜、少し時間をくれないか。……中庭で」
殿下の横顔は、いつになく真剣だった。
俺の『影』としての直感が、再び何かの警鐘を鳴らしている。
だが、この波乱に満ちた物語は、まだ終わってはいなかったのだ。




