第62話:仮面が、砕ける時
地下迷宮の最深部。青白い燐光が不気味に揺らめく中、俺は『鏡』と再び対峙した。
奥の段上では、セオドア殿下とリュシアンが『古き盟約』の盟主へと肉薄している。背後では、巨大なドラゴンの姿に戻ったクロが、強靭な翼と咆哮で盟主の退路を完全に塞いでいた。
だが、俺の意識は目の前の敵ただ一人に集中していた。
「……行かせません」
無機質な声と共に、鏡が踏み込んでくる。
前回の戦闘で俺の技術は全て学習されている。縮地による接近、急所を狙う刃の軌道、防御の角度。俺が動くよりも早く、鏡は俺の『次の動き』を予測して完璧なカウンターを合わせてきた。
ガキィッ!!
暗器同士が激突し、火花が散る。
息詰まるような超高速の近接格闘。互いの刃が数ミリの距離で交差し、殺意が空気を切り裂く。
戦いながら、俺は鏡の瞳をじっと見つめた。
何の感情もない、空っぽの瞳。かつて前世で、組織の命令のままに標的を殺し続けていた、自分自身の目。
「……お前は、なぜ奴に従っている」
刃を交えながら、俺は低く問いかけた。
鏡の動きが、ほんのわずかに――コンマ一秒だけ鈍った。
「……従う理由など、最初からない」
刃を押し返しながら、鏡が平坦な声で答える。
「ただ、他に行く場所がなかっただけだ。私には、これしか与えられていない」
(……やっぱり、かつての俺だ)
命令されることでしか存在意義を見出せず、戦うこと以外に生きる術を知らない。
あの頃の俺には、娘という唯一の『光』があったから人間でいられた。だが、目の前のこいつには、何もないのだ。
互いに弾き飛び、距離を取る。
鏡が、俺の『隠密魔法』をコピーするために魔力を沈降させようとした、その瞬間。
「お前に、行く場所を作ってやることはできない」
俺は暗器を下げ、あえて無防備な立ち姿のまま、静かに、しかしはっきりと告げた。
「だが、今日ここで全てを終わりにする必要もない。お前は……機械じゃないだろう」
ピタリ、と。
鏡の魔力が霧散し、その足が完全に止まった。
フードの奥の瞳が、初めて微かに揺らぐのを見た。
その一瞬の精神的な隙を、俺は逃さなかった。
殺意のない『縮地』。気配も魔力も伴わない、ただ純粋な歩法で懐に潜り込む。
「……っ!」
鏡がハッとして暗器を振り上げようとするが、遅い。
俺は刃を立てず、掌底で鏡の鳩尾に的確な衝撃を打ち込んだ。
ドスッ。
魔力回路の要所を突かれた鏡は、声にならない息を吐き出し、糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
殺さず、傷つけず。完全な無力化。
「……少し、休んでいろ」
気を失った鏡を一瞥し、俺はすぐに盟主の方へと向き直った。
戦局は、最終局面を迎えていた。
「これで終わりだ!!」
セオドア殿下の放った極太の光の刃が、盟主の防御結界を粉々に打ち砕く。同時にリュシアンが回り込み、盟主の魔力供給源である杖を弾き飛ばした。
「おのれ……! 小僧どもがァッ!!」
追い詰められた盟主が、血走った目で絶叫する。
その枯れ木のような身体から、赤黒い、毒の沼のような魔力が爆発的に膨れ上がった。
「なっ……魔力が暴走している!?」
「いや、違う! 周囲の生命力を無理やり吸い上げて、自分自身の寿命を強制的に引き延ばそうとしているんだ!」
リュシアンが『真実の瞳』を見開きながら叫ぶ。
黒幕の最後の切り札。他者の命を喰らい、無理やり肉体を若返らせて圧倒的な力を得る、禁断の延命魔法。
「させない!」
殿下が剣を構え直すが、暴走する魔力の渦が強すぎて近づけない。
背後で倒れているリヴィアたちの生命力までが、薄青い光となって盟主へと吸い寄せられようとしている。
(……力で叩き潰せば、吸い上げた命ごと吹き飛ぶ。なら――!)
俺は地を蹴り、盟主の真正面へと躍り出た。
暗殺者として培った、人体と魔力経路の完璧な把握。それを、『奪う』のではなく『還す』ために使う。
「貴様ァ! 私の糧となれェッ!!」
「……お断りだ。その不自然な命、本来の長さに戻してやる」
俺は盟主が放つ魔力の奔流に両手を突っ込んだ。
吸い上げられようとしている生命力の流れを『視る』。そして、俺自身の極限まで圧縮された魔力を楔として打ち込み、その流れを精密に、完璧な計算のもとに逆流させた。
「なっ……!? 魔力が、逆流して……!!」
新技――『魔力逆流』。
他者の命を奪う術式を反転させ、盟主自身が長年溜め込んできた「他者の寿命」を全て強制的に排出させる。
「あ、あああ……私の、私の力がァァァッ!!」
盟主の身体から、赤黒い魔力が凄まじい勢いで抜け落ちていく。
同時に、彼の肉体が急速に変化を始めた。張り詰めていた皮膚がたるみ、白髪が抜け落ち、みるみるうちに本来の『死の間際の老人』の姿へと老いさらばえていく。
「や、やめろ……私は、大陸を統べる……盟主ぞ……」
シワだらけの手を虚空に伸ばし、盟主はついに膝から崩れ落ちた。
延命魔法が解け、完全に力を失ったのだ。
長きにわたり各国の裏で暗躍してきた『古き盟約』が、完全に壊滅した瞬間だった。
だが。
「危ない、アイリス!!」
殿下の叫び声が響いた。
盟主の術式が崩壊したことで、行き場を失った最後の膨大な魔力の余波が、圧縮された衝撃波となって俺の正面で炸裂したのだ。
避ける時間はなかった。
咄嗟に腕を交差して顔を庇うが、強烈な爆風が俺の身体を吹き飛ばす。
パリンッ。
……地下迷宮に、ひどく乾いた音が響いた。
俺は数メートル吹き飛ばされ、床を転がってなんとか体勢を立て直した。
命に別状はない。怪我も大したことはない。
だが――顔に触れた俺の手は、あるはずのものを掴めなかった。
足元に、真っ二つに砕け散った『漆黒の仮面』が転がっている。
「…………あっ」
俺の口から、間の抜けた声が漏れた。
静寂が落ちた地下迷宮。
戦闘の砂埃が晴れていく中、そこに立つ俺の素顔が、青白い燐光に照らされて完全に露わになっていた。
夜の闇に溶けるような紺色のローブ。
しかし、その下に隠されていたのは――月光を思わせる銀色の髪と、宝石のように澄んだ空色の瞳。
誰もが見間違えようのない、アルトス公爵家の令嬢、アイリスの顔だった。
「…………あ」
後方で、魔力吸引から解放されて目を覚ましたリヴィアが、へたり込んだまま俺の顔を指差した。
「ア、アイリス、様……? 影、様……?」
隣のヴィクトルは、目を見開いたまま言葉を失っている。
入学式の水晶破壊。対人戦闘での不自然な敗北。そして体育祭の異常な身体能力。彼の頭の中で、全てのピースが一瞬にして繋がり――やがて彼は、深く、静かに一礼した。
シリルは、ズレた銀縁メガネを中指でゆっくりと押し上げ、一つだけ深いため息を吐いた。
「……やはり、貴女でしたか」
セオドア殿下は気まずそうに視線を逸らし、リュシアンは苦笑いを浮かべている。クロはドラゴンの姿のまま「あーあ」と首を振っていた。
俺は、砕け散った仮面の残骸を見下ろし、そして、俺を凝視する友人たちの顔を見渡した。
もはや、どんな言い訳も通用しない。完璧な証拠(顔)がここにある。
(…………終わった。俺の、スローライフ計画、完全終了)
冷たい地下迷宮の底で。
俺は、全てを諦めて、本日最も深いため息を吐き出すのだった。




