第61話:日常の終わりは、地下からの激震と共に
「……つまり、このずっとポテトチップスを貪っている毛玉が、伝説の古竜クラスの漆黒のドラゴンだと?」
翌日の放課後。
『生活環境向上委員会』の部室で、セオドア殿下は信じられないものを見る目で、俺の膝の上に丸まっているクロを指差した。
「ええ、まあ。そういうことです」
「にゃーん(コンソメパンチうまい)」
俺が素っ気なく答えると、クロは呑気に欠伸をした。
昨夜の裏森での戦闘と、クロの真の姿について報告を受けた殿下は、しばらく頭を抱えて唸っていた。
「……王国の最高戦力である『影』に、伝説のドラゴン。うちの部員は、一体どうなっているんだ。これなら大陸を三つくらい滅ぼせるぞ」
「殿下、わたくしたちは平和主義者ですわ。滅ぼすのは害虫と、わたくしのスローライフを脅かす不届き者だけです」
俺が紅茶を啜りながら訂正すると、向かいの席でリュシアンが苦笑した。
「でも、笑い事じゃありませんよ。あの『鏡』の暗殺者は、アイリスの魔法を完璧に模倣していました。もしクロの介入がなければ……」
「……ええ。分かっています」
部室に、重い沈黙が降りた。
俺の技術を全てコピーし、俺と同じ『虚無』の瞳を持つ暗殺者。
そして、そいつを従える『古き盟約』の盟主。相手はついに本性を現し、俺という存在に明確な興味を示している。
(……だが、ここで引くわけにはいかない。俺の平穏な日常を取り戻すために)
俺が密かに決意を固めた、まさにその時だった。
ズズズズズ……ッ!!
突如として、学園全体を揺るがすような巨大な震動が発生した。
いや、ただの地震ではない。大気が軋み、空間そのものが歪むような、圧倒的な魔力の奔流だ。
「な、なんだ!?」
「殿下、窓の外を!」
リュシアンの叫びに外を見ると、中庭にいた生徒たちが次々と糸の切れた操り人形のように倒れ伏していくのが見えた。
「生徒たちの魔力が、強制的に吸い上げられています! この異常な引力……発生源は地下です!」
リュシアンが『真実の瞳』を極限まで見開き、床の底を睨みつける。
そこへ、バンッ! と勢いよく部室の扉が開き、銀縁メガネをズラしたシリル生徒会長が飛び込んできた。いつもの冷静な態度は鳴りを潜め、焦燥に顔を歪めている。
「アイリス嬢、殿下! 地下迷宮です! 何者かが、迷宮そのものの封印を内側から破壊しようとしている! この魔力吸引は、その封印をこじ開けるための儀式です!」
「……黒幕か。最後の手段に出たな」
殿下が即座に立ち上がり、宝剣に手をかけた。
「僕とリュシアンで向かう。アイリス、君は――」
「殿下たちは先行してください。わたくしは『少し準備』がありますので、後から追います」
俺の意図を察した殿下は、深く頷いた。公爵令嬢の姿で最深部に向かうわけにはいかない。俺は『影』として戦場に立つ必要がある。
「死ぬなよ、アイリス」
「殿下こそ。……行くぞ、クロ!」
俺はクロを抱え上げ、部室の窓から飛び出した。
◇◇◇
地下迷宮へと続く、重厚な鉄扉の前。
そこには、異様な光景が広がっていた。
「離してください、ヴィクトル様! アイリス様たちが、下でわたくしを呼んでいる気がしますの!」
「正気に戻れ、ローゼンタール嬢! この魔力の渦に巻き込まれたら死ぬぞ!」
魔力吸引に当てられ、フラフラと地下へ引き寄せられようとするリヴィアを、ヴィクトルが必死に羽交い締めにして止めていた。彼もまた、額に脂汗を浮かべ、立っているのがやっとの状態だ。
その傍らでは、シリルが結界魔法を展開し、二人が地下へ吸い込まれるのを防いでいる。
「シリル! 状況は!」
駆けつけたセオドア殿下とリュシアンが、剣を抜いて扉の前に立つ。
「殿下! ダメです、扉の奥の魔力圧が限界を超えています! これ以上は――」
シリルが叫んだ、その直後。
廊下の暗がりから、音もなく『漆黒の仮面と紺色のローブ』を纏った人物が姿を現した。
「……ああっ! 影、様……!」
リヴィアが、恍惚とした表情で声を上げる。ヴィクトルは息を呑み、シリルは「……やはり来ましたね」と静かにメガネを押し上げた。
「ここは危険です。一般生徒は速やかに下がっていてください」
俺は『影』としての低く変造した声で告げ、殿下たちの前に立った。
だが、事態はすでに、撤退を許すような状況ではなかった。
メキメキメキッ……!!
巨大な鉄扉が、内側からの圧倒的な魔力によって飴細工のように拉げ、ひしゃげていく。
「マズい! 吹き飛ぶぞ!!」
俺が叫んだ瞬間、鉄扉が爆発音と共に木端微塵に吹き飛び、底なしの暗闇から、巨大な竜巻のような魔力の濁流が廊下へと溢れ出した。
「きゃあああっ!!」
「うおおおっ!?」
シリルたちの結界が和紙のように破れ、リヴィア、ヴィクトル、そしてシリルまでもが、その強烈な引力によって地下の闇へと引きずり込まれていく。
「リヴィア!!」
俺は反射的に手を伸ばし、彼女の腕を掴んだ。
だが、引力は俺の踏ん張りを容易く凌駕し、俺、殿下、リュシアン、そしてクロもろとも、真っ逆さまに地下迷宮の最深部へと呑み込まれていった。
◇◇◇
「……っ、痛ぁ……」
どれくらい落下しただろうか。
俺は受け身を取って着地し、すぐに周囲の状況を確認した。
広大な石造りの地下空間。壁には青白い燐光を放つ魔法陣がびっしりと刻まれ、不気味な脈動を打っている。
「アイリス! 無事か!」
少し離れた場所で、殿下とリュシアンが立ち上がった。
その後方には、気を失っているリヴィアとヴィクトル、そしてシリルが倒れている。命に別状はないようだが、魔力を吸われて衰弱している。
(……最悪の展開だ。一般人を巻き込んでしまった)
俺が舌打ちをした、その時だった。
広間の最奥。青白い光に照らされた玉座のような石の段上に、一人の人物が座っていた。
そして、その傍らには――深くフードを被った、あの『鏡』が立っている。
「……お待ちしておりました。『影』」
無機質な、ひどく冷たい声。
鏡はゆっくりと短剣を抜き、俺たちとの間に立ち塞がった。
「ここから先、盟主の元へは行かせません」
俺は、無意識のうちに暗器を構え、深く、鋭く息を吐いた。
背後には、守るべき仲間と、巻き込んでしまった友人たち。
「殿下、リュシアン。あなた方は奥の『盟主』を。……ここは、俺が引き受けます」
逃げ場はない。
俺は、かつての自分自身を模した最強の暗殺者と、再び一対一で対峙した。




