第59話:暗殺者は、自分と対峙する
月が雲に隠れ、学園の敷地内は深い闇に包まれていた。
俺は『王立十聖』第一席・影としての装束――紺色のローブと漆黒の仮面を身に纏い、図書室裏の古い倉庫へと音もなく忍び寄った。
周囲には、すでにシリルが手配した私兵たちが外周を完全に封鎖しているはずだ。ネズミ一匹、逃げ出す隙間はない。
「……クロ」
『アイリス、ここだ』
倉庫の屋根の陰から、黒猫の姿をしたクロがすり寄ってきた。
普段は能天気な相棒の毛が、微かに逆立っている。余程その『冷たくて暗い匂い』が不気味だったらしい。
「よくやった。お前はここで待機してろ」
『気をつけて。あいつ、なんか……空っぽなんだ』
空っぽ。
クロの言葉を反芻しながら、俺は倉庫の立て付けの悪い窓の隙間から、内部の様子を窺った。
埃っぽい倉庫の中、カンテラの薄暗い明かりの下で、一人の男が木箱から書類の束を取り出していた。焦った様子でカバンに詰め込んでいる。おそらく、彼が『古き盟約』の連絡役である末端のスパイだろう。
だが、俺の意識はすでに、そのスパイには向いていなかった。
(……いるな)
スパイの背後。カンテラの光が届かない完全な暗がり。
そこに、『それ』は立っていた。
呼吸音も、衣擦れの音も、心臓の鼓動すらも感じさせない。ただそこにある空間の温度だけが、数度下がっているような錯覚を覚えるほどの、圧倒的な『無』の気配。
(……この気配の消し方。俺と同じ、純粋な『暗殺』に特化した技術だ)
スパイがようやく背後の気配に気づき、ビクッと肩を震わせた。
「ひっ……! あ、あんたか……。驚かさないでくれよ、回収役」
「…………」
「ほら、言われた通り、裏帳簿の原本と名簿だ。これで俺の役目は終わりだな? 早くこんな学園、抜け出させて――」
男が書類の束を差し出そうとした、その瞬間。
俺は窓枠を蹴り破り、倉庫の内部へと突入した。
ガシャンッ!!
「なっ!?」
驚愕するスパイを無視し、俺は一直線に暗がりに立つ『回収役』へと肉薄した。
挨拶代わりの、三本のニードル投擲。
喉、心臓、眉間。俺の放つ必殺の軌道。
だが。
キンッ、キキンッ!!
暗がりの男――いや、体格からして女か?――は、微かな腕の振りだけで、隠し持っていたナイフで俺のニードルを全て弾き落とした。
しかも、その弾き方は、俺が前世で多用していた『最小限の動きで軌道を逸らす』防御術と全く同じだった。
(……なんだと?)
俺は着地と同時に地を蹴り、近接格闘へと持ち込む。
右のフェイントから、左のショートフック。相手の重心を崩し、関節を極める暗殺者の体術。
しかし、相手は俺の動きを鏡写しにしたかのように、全く同じタイミングで右をフェイントし、左のショートフックで迎撃してきた。
バシィッ!!
互いの腕が交差し、鈍い打撃音が倉庫に響く。
俺は距離を取り、警戒レベルを最大まで引き上げた。
(偶然じゃない。こいつ、俺の技術を『視て』、瞬時にコピーしやがった……!)
相手は深く被ったフードの奥から、無機質な瞳で俺をじっと観察していた。
一切の感情が欠落した、ひどく冷たい瞳。
――ぞくり。
その目を見た瞬間、俺の背筋を悪寒が駆け抜けた。
リュシアンの『真実の瞳』を見た時とは違う。
俺はその目を、よく知っていた。
感情を殺し、命令に従い、ただ標的の命を刈り取るだけの機械。
それは、前世で『ゼロ』と呼ばれていた頃の――鏡に映った、かつての俺自身の目だった。
「……お前、何者だ」
俺の低い問いかけに、相手は答えない。
代わりに、相手の足元から、俺のものと酷似した高密度の魔力が立ち昇り始めた。
(……なら、これはどうだ!)
俺は己の魔力を極限まで抑え込み、『隠密魔法』を発動した。
音、光、気配、魔力。その全てを世界から切断し、完全な透明人間となる、俺の代名詞とも言える魔法。
俺は闇に溶け、相手の背後へと回り込もうとした。
しかし、次の瞬間。
目の前にいたはずの相手の姿が、フッと掻き消えた。
(……ッ!! 今、俺の魔法をコピーしたのか!?)
信じられない光景だった。
ただの体術ではない。俺がこの世界で独自に編み出し、最適化した固有魔法。それを、たった一度見ただけで、完全に模倣したというのか。
互いに姿も気配も消した、二人の暗殺者。
視覚も聴覚も頼りにならない。ただ、長年の勘と、わずかな空気の揺らぎだけが頼りの、極限の死闘。
ヒュッ。
右斜め後ろからの微かな殺気。
俺は身を屈めながら、後ろ回し蹴りを放つ。
空気を裂く音がしたが、手応えはない。相手もまた、俺の反撃を読んで回避している。
(……まずい相手だ。同じ技術を使われたら、千日手になる)
俺が新たな手を打とうと魔力を練り直した、その時だった。
外から、多数の足音と明かりが近づいてくるのが見えた。シリルが手配した私兵たちが、倉庫を包囲し始めたのだ。
気配が、不意に遠のいた。
相手は状況を冷静に分析し、これ以上の戦闘とスパイの回収は不可能だと判断したらしい。
スパイの男が「あ、おい! 俺を置いていく気か!?」と叫ぶが、姿の見えない相手は冷酷に彼を見捨てた。
倉庫の天井の天窓が、音もなく開く。
月明かりが差し込んだその場所に、一瞬だけ、フードの相手の姿が浮かび上がった。
相手は振り返り、仮面を被った俺の方を、感情のない瞳で真っ直ぐに見下ろした。
そして、初めてその口を開いた。
「……また会いましょう、影」
鈴の音のように冷たく、ひどく平坦な声。
相手はそれだけを言い残し、文字通り夜の闇へと溶けて消えた。
「……逃げられたか」
俺は深くため息をつき、隠密魔法を解除した。




