第58話:天然令嬢の怪談は、極秘任務の扉を開く
王都での「視察」から数日。
俺とリュシアンは、『生活環境向上委員会(お助け部)』の部室で、机いっぱいに広げられた学園関係者の名簿や不審な金銭の動きを示す裏帳簿のコピーと睨み合っていた。
セオドア殿下は王族としての公務に呼び出されており、今は不在だ。
「……やはり、決定打に欠けるね」
リュシアンが、ため息混じりに名簿の束を置いた。
国王陛下とシリルから依頼された『学園内に潜むスパイの炙り出し』。体育祭以降、敵も警戒しているのか、全く尻尾を出さない。
「ええ。怪しい金の動きがある教師や生徒は複数いますが、末端の協力者に過ぎない可能性が高い。中枢に繋がる『本星』を確実に押さえないと、またトカゲの尻尾切りで逃げられますわ」
俺が腕を組んでそう言うと、リュシアンはふっと表情を緩め、椅子の背もたれに体を預けた。
そして、いつも彼が顔に貼り付けている「完璧な優等生」の仮面を外し、少し疲れたような、けれど穏やかな素の笑顔を見せた。
「……君と組んで良かったよ、アイリス。本当に」
唐突な言葉に、俺は少し驚いて彼を見た。
「体育祭の時……兄さんを救ってくれたこと、まだちゃんとお礼を言えていなかった。君がいなければ、僕は大切な家族を、この手で殺さなければならなかったかもしれない」
翠の瞳が、真っ直ぐに俺を捉える。
その視線には、王子としての計算も、異能者としての冷徹さもない。ただ、一人の青年としての純粋な感謝だけが込められていた。
「……光栄ですわ。わたくしは、ただ自分がやれることをやっただけですから」
こういう真っ直ぐな言葉には、どうにも慣れていない。
前世で感謝されることなど皆無だった暗殺者の俺は、照れ隠しのように視線を名簿に戻すのが精一杯だった。
リュシアンはそんな俺の態度を見て、小さく、楽しそうに笑い声を漏らした。
その時だった。
「アイリス様ーッ! リュシアン様ーッ!」
バンッ! と勢いよく部室の扉が開き、リヴィアが顔を真っ青にして飛び込んできた。
その手には、なぜかクッキーの詰め合わせの箱がしっかりと握られている。
「どうしました、リヴィア様。そんなに慌てて」
「で、出たんですの! 幽霊が!」
リヴィアは涙目で俺にすがりついてきた。
「幽霊、ですか?」
「はい! 昨日の深夜、ふと目が覚めて窓の外を見ましたら……旧校舎の図書室の裏手で、青白い人魂のような明かりがフワフワと浮いているのを見たんです! きっと、叶わぬ恋に破れて図書室で命を絶った、悲恋の令嬢の霊に違いありませんわ……!」
相変わらずのロマンチックな脳内変換だが、俺の思考は「幽霊」という単語を即座に「不審者」へと翻訳していた。
図書室の裏手。
その場所には、聞き覚えがあった。
(……図書室の裏? 確か以前、クロが『古くて、意地悪な匂いがする』と言っていた場所だ)
学園の図書室の裏は、高い生垣と立ち入り禁止の古い倉庫があり、夜間は完全な死角になる。密会や通信にはもってこいの場所だ。
「リヴィア様、その明かりはどのくらいの時間、灯っていましたか?」
「ええと……数分ほどで、フッと消えましたわ」
間違いない。
俺とリュシアンは視線を交わした。リュシアンの翠の瞳が、鋭い知性の光を取り戻している。
「素晴らしい情報提供です、リヴィア様。その悲恋の霊、わたくしたち『お助け部』が責任を持って成仏させてみせましょう」
俺が令嬢スマイルで請け負うと、リヴィアは「さすがアイリス様!」とパッと顔を輝かせ、安心したようにクッキーを広げ始めた。
◇◇◇
その日の深夜。
俺は自室の窓辺に立ち、月明かりの下、闇に溶け込むように漆黒の毛並みを持つ相棒を撫でた。
「頼んだぞ、クロ。決して見つかるなよ」
「にゃーん」
黒猫の姿のクロは、自信ありげに短く鳴くと、音もなく窓から夜の学園へと飛び出していった。
クロの『隠匿』能力は、俺の隠密魔法をも凌駕する。どれほど警戒の厳しい場所だろうと、ただの野良猫にしか見えない彼を怪しむ者はいない。
数十分後。
俺の脳内に、直接クロの念話が響いた。
『アイリス、見つけたぞ。あの図書室の裏の古い倉庫だ』
「よくやった。中はどうなっている?」
『……やっぱり、前と同じだ。あの『古くて、意地悪な匂い』の人間がいる。何か紙の束みたいなのを、箱の中に隠してるぞ』
裏帳簿か、機密書類か。
どちらにせよ、決定的な証拠だ。
「よし、戻って……」
俺が帰還を命じようとした、その時だった。
『……あれ? アイリス、もう一人いる』
クロの声が、微かに緊張を帯びた。
能天気なクロが、警戒を露わにしている。
「もう一人? そいつも『古き盟約』の人間か?」
『ううん。体育祭の時の赤い匂いのやつとは違う。……すごく冷たくて、暗い匂い。何にも感じない、空っぽみたいな匂いだよ』
その報告に、俺は背筋がゾクリと凍るのを感じた。
「クロ、絶対に近づくな。そのまま息を潜めて、相手が去るのを待て。刺激するな」
『わかった。……あいつ、怖い』
クロとの通信を切り、俺は深く息を吐いた。
スパイの正体と、その隠し場所は特定できた。だが、それ以上に厄介な存在が浮上してしまった。
俺は暗視用のゴーグルといくつかの暗器をローブの裏に仕込み、通信用の魔道具を手にした。
『……はい、シリル・アッシュフォードです。こんな深夜にどうしました、アイリス嬢』
眠気を微塵も感じさせない、腹黒生徒会長の冷静な声が返ってくる。
「夜分遅くに申し訳ありません。……スパイの尻尾を掴みました。図書室裏の旧倉庫です」
『ほう。さすがは手際がいい。すぐに私兵を……』
「お待ちを。相手はただのネズミではありません。極めて危険な『護衛』がついています」
俺は、あの無機質な気配を思い出しながら、低く告げた。
「わたくしが直接出向きます。シリル様は、外周の封鎖と逃走経路の遮断をお願いします」
『……なるほど。貴女がそこまで警戒する相手ですか。承知しました。網は完璧に張っておきましょう』
通信を切り、俺は漆黒の仮面を顔に当てた。
スローライフを脅かす、俺と同類の敵。
その正体を暴き、平穏な日常を取り戻すための、夜の狩りが始まろうとしていた。




