第57話:完璧なエスコートは、敗北する
国王陛下への報告と、腹黒生徒会長シリルとの密約を済ませた翌日。
俺は『生活環境向上委員会』の部室で、今日も今日とて書類仕事という名の雑務をこなしていた。
ふと、向かいの席で難しい顔をして本を読んでいたセオドア殿下が、パタンと本を閉じ、ごく自然な、しかしどこか硬い声で口を開いた。
「アイリス」
「はい、何でしょう殿下」
「……今週末、王都のメインストリートに新しい菓子店が開いたらしい。視察に付き合え」
視察。
その言葉に、俺の暗殺者としてのスイッチがカチリと入った。
(なるほど。休日の王都に紛れ込み、市井の動向を探りつつ、いざという時は殿下を守る……護衛任務の一環というわけか)
「承知いたしました。視察ですね、お供します」
俺が真剣な顔で即答すると、殿下は「……よし」と小さく呟き、なぜか少しだけ耳の先を赤くして視線を逸らした。
そのやり取りを見ていたリュシアンが、呆れたような、同情するようなため息をつき、俺の耳元にスッと顔を寄せてきた。
「ねえ、アイリス」
「なんでしょう」
「それ、絶対に視察じゃないと思うよ」
「……? どういうことです?」
「…………うん、君はそれでいいよ。頑張ってください、殿下」
リュシアンは何かを諦めたように苦笑し、殿下に向かって小さくガッツポーズを作っていた。
全く意味がわからない。
◇◇◇
そして迎えた週末。
俺と殿下は、平民の服に身を包み(殿下の服はどう見ても高級なシルクだったが)、王都の新しい菓子店を訪れていた。
「こちらへ。段差がある」
殿下がスッと手を差し出し、俺をエスコートする。
通されたのは、店内の喧騒から適度に離れ、かつ外の景色が楽しめる完璧な窓際の席だった。
(すごいな。視察にしては準備が完璧すぎる。これも王族としての帝王学の賜物か)
俺が感心している間に、運ばれてきたのはこの店の看板メニューである『特製ガトーショコラ』だった。
艶やかなチョコレートのコーティング。フォークを入れると、わずかな抵抗のあとに、しっとりとした生地が顔を出す。
一口、口に運ぶ。
濃厚なカカオの苦味と、それを包み込む上品な甘さが、口の中で見事なシンフォニーを奏でた。
(……美味い!)
俺は完全に護衛任務であることを忘れ、目の前のガトーショコラに全神経を集中させた。
一口ごとに変わる食感。生地とクリームの絶妙なバランス。これを計算して作り上げた職人は、間違いなく天才だ。
俺が夢中でケーキを味わっていると、向かいの席でコーヒーを飲んでいた殿下が、意を決したように真っ直ぐな視線を向けてきた。
「アイリス」
「はい、もぐもぐ」
「今日は、その……楽しいか?」
少しだけ緊張したような、それでいて期待の入り混じった声。
その真剣な眼差しに、俺は最高の笑顔で、力強く頷いた。
「ええ、とても!」
殿下の顔が、パッと明るくなる。
「このガトーショコラ、三層の構造が完璧ですわ! 上のコーティングで外敵を防ぎ、中間のクリームで衝撃を吸収、そして最下層のスポンジでどっしりと構える。この一切の無駄を省いた造形美……標的を確実に仕留める暗殺の精密さに通じるものがありますわね!」
ピシリ。
殿下の顔に浮かんでいた明るい表情が、文字通り音を立てて凍りついた。
「…………え?」
「特にこの、隠し味に使われているベリーの酸味。これがまるで、毒の回りを遅らせる麻痺薬のように、チョコレートの重さを中和して――」
「……君は、本当になぜだ」
「何がですの、殿下?」
「……なんでもない」
殿下は、深い絶望の淵を覗き込んだような顔で、両手で顔を覆ってしまった。
完璧なエスコートも、真剣な眼差しも、全てガトーショコラの構造分析に敗北した瞬間だった。
◇◇◇
「美味しいケーキでしたわ。素晴らしい視察でした」
「……そうだな。君が満足したなら、それでいい」
帰り道。夕暮れの王都を歩きながら、殿下はどこか遠い目をして歩いていた。
視察というからには何かレポートでも提出するのだろうかと考えながら、俺が殿下の半歩後ろを歩いていた、その時だった。
――ぞくり。
背筋を、冷たい指で撫でられたような感覚。
殺気ではない。もっと静かで、無機質で、純粋な『観察』の視線。
(……プロだ!)
俺は反射的に動いていた。
タンッ、と軽く地を蹴り、無防備に歩いていた殿下の前にスッと立ち塞がる。
スカートの裏の暗器に指をかけ、気配のした路地裏の闇を鋭く睨みつけた。
「アイリス……?」
俺の突然の行動に、殿下が驚いたように目を見開く。
そして、俺が自分を『庇う』体勢をとっていることに気づき――その端整な顔に、一瞬だけ、ひどく複雑な表情を浮かべた。
だが、路地裏の気配はすぐに、ふっと煙のように消え去った。
攻撃の意思はない。ただ、こちらを値踏みするように見ていただけ。
「……今のは、何だ」
「分かりません。ですが……素人ではありません。かなりの手練れです」
俺は暗器から指を離し、警戒を解かずに殿下を振り返った。




