第51話:暗殺者は、標的を生かす術を知らない
体育祭の全競技が終盤に差し掛かり、グラウンドの歓声が最高潮に達した、その時だった。
唐突に、足元の地脈が不自然に大きく揺れた。
(……残った楔を強行起爆する気か!)
テントの椅子から弾かれたように立ち上がった俺の視線の先。グラウンドの端、防護結界の基点近くに、一人の男が躍り出た。
男の足元から、禍々しい赤黒い魔力が間欠泉のように噴き上がる。その凄まじい風圧で、男が深く被っていたフードがふわりと外れた。
露わになったその顔を見て、俺の隣で、ひゅっと息を呑む音がした。
「……兄、さん?」
リュシアンの口から、掠れた声が漏れる。
男――リュシアンの兄は、テントの前に立つ弟の姿を視界に捉え、魔法陣を組む手を一瞬だけピタリと止めた。
深い疲労と、何かを決定的に諦め、組織に長く囚われてきた人間特有の『死んだ目』。彼は弟を見たが、決してその名前を呼ぼうとはしなかった。
「……邪魔をするな」
ひどく平坦な声。
次の瞬間、男の全身から致死量の魔力が爆発的に膨れ上がった。
「きゃあああっ!?」
「ひ、ひぃっ! 逃げろ、逃げろぉっ!!」
大気が軋み、男を中心に赤黒い魔力の暴風が吹き荒れる。
グラウンドは一瞬にして阿鼻叫喚のパニックに陥った。
温室育ちの貴族令嬢たちが恐怖で腰を抜かし、逃げ惑う生徒たちが将棋倒しになる。飾り付けられた万国旗や用具テントが紙屑のように引き裂かれ、空へと巻き上げられていく。
圧倒的な『死』の暴力。誰もが我を忘れ、ただ無様にグラウンドの出口へと殺到した。強行起爆のエネルギーが臨界点に達しようとしている。
「――狼狽えるな!!」
絶叫と悲鳴を切り裂くように、腹の底に響く怒声が轟いた。
パニックに陥っていた生徒たちの動きが、びくりと止まる。
声の主――セオドア殿下は、すでに王家の宝剣を抜き放ち、猛り狂う暴風の最前線に毅然と立っていた。
「ステラ寮、総員構えろ! 王国の礎たる貴族の矜持を忘れたか!!」
次期王としての覇気を纏った一喝。
その声にハッとしたように、我を忘れて逃げようとしていたステラ寮の生徒たちが足を止めた。
「下級生と観客を背に庇え! 結界魔法を重ねろ!」
「……っ、殿下のご命令ですわ! 皆様、わたくしたちの意地を見せますわよ!!」
恐怖を振り払うようにリヴィアが叫び、ステラ寮の生徒たちが一斉に踵を返して魔力を解放する。即座に何十重もの輝く防護結界が展開され、暴風の余波から観客席を死守し始めた。
彼らが決死の覚悟で時間を稼いでいる間に、俺は暴風の中心へ向かって地を蹴った。
(……心臓を一つ止めれば、一秒で終わる話だ)
吹き荒れる魔力の中に飛び込みながら、暗殺者としての本能が最も効率的な『排除』のルートを弾き出す。
急所はがら空きだ。首元、心臓、眉間。俺の技術なら、彼の命を刈り取ることは容易い。
だが。俺は奥歯を噛み締め、その「最適解」を脳内から叩き出した。
(……生け捕りなんて、完全に専門外なんだがな!!)
暗殺者は、標的の命を奪うことしか教わっていない。
暴れ狂う爆弾を、一切傷つけずに無力化し、救い出す。そんな騎士や聖女がやるような真似、俺の引き出しのどこにも存在しないのだ。
殺してはいけない。傷つけてもいけない。起爆の術式だけを正確に破壊しなければならない。
「……ッ、硬い……!」
男の魔力圏内に踏み込んだ瞬間、凄まじい重圧に息が詰まった。
ただの魔力ではない。彼の魂にこびりついた長年の『洗脳』と『絶望』が、分厚い呪いの鎧となって術式の核を覆い隠している。
俺が放った起爆阻害の針は、その泥のような呪いに阻まれ、弾き返された。
少しでも力加減を間違えれば、呪いごと彼自身の命を砕いてしまう。
(マズい、このままでは押し切られる……!)
かつてない焦りが背筋を這う。強風に煽られ、俺の足が後ずさりそうになった、その時だった。
「――アイリス!!」
横から飛び出してきた人影が、俺の隣に並び立った。
リュシアンだ。
彼はいつもの完璧な笑顔を完全に捨て去り、必死の形相で暴風の中に立っていた。
「リュシアン! 早く下がれ!」
セオドア殿下が後方から叫ぶが、リュシアンは引かなかった。
彼は兄に向かって両手をかざし、その翠の瞳――『真実の瞳』を限界まで見開いた。
「……兄さんを、助ける!!」
リュシアンの決死の声と共に、彼の瞳から放たれた魔力が、兄の放つ赤い暴風と正面から激突した。




