第50話:王子は、笑ったまま目を逸らす
競技の合間の短い休憩時間。
実行委員のテントに戻った俺は、パイプ椅子に深く腰掛け、用意されていた冷えた紅茶を喉に流し込んだ。
テントの中には、山積みの書類を無表情で片付けているセオドア殿下と、備品の確認をしているリュシアンの姿があった。
俺は紅茶のカップを両手で包み込みながら、少しだけ迷い――そして、背を向けているリュシアンに向かって、極めて自然なトーンで声をかけた。
「リュシアン様。先ほどグラウンドの隅で、少し変わった魔力を感じましたわ。……何か、心当たりはありますか?」
ピタリ、と。
備品を検分していたリュシアンの手が、わずかに止まった。
やがて彼はゆっくりと振り返り、いつも通りの、完璧に整えられた人懐っこい笑みを浮かべた。
「さあ。何のことだろうね。アイリスの気のせいじゃないかな?」
彼は笑っていた。
だが、あらゆる偽りを見抜く『真実の瞳』を持つ彼が、俺の目を見ずに答えたのは、出会ってからこれが初めてのことだった。
「……そうですか。なら、わたくしの気のせいかもしれませんわね」
俺は、それ以上追及するのをやめた。
昨日から感じている彼の違和感。そして先ほどの、あの泥のように暗い魔力の残滓。
ふと気配を感じて顔を上げると、少し離れた机で書類を見ていたセオドア殿下が、こちらをじっと見つめていた。
殿下は、俺とリュシアンの間に落ちた奇妙な空気に気づいたようだった。普段の彼なら「何をこそこそ話している」と眉をひそめて割り込んでくるところだ。
だが、今の殿下は珍しく何も言わず、探るような目で俺たちを交互に見つめ、ただ深く黙り込んでいた。
(……なんだ、この居心地の悪さは)
肌にまとわりつくような沈黙に耐えかね、俺は意図的に空気を変えるように、わざとらしく特大のため息をついた。
「……はあ。日陰の石ころになるはずが、どうしてこんなに身体を張らなくてはいけないのでしょう」
俺の愚痴に、テントの中の重い空気がわずかに揺れる。
セオドア殿下が、ふっと息を吐いて羽ペンを置いた。
「……君がいると勝手に騒ぎが寄ってくるのだろう。平穏とは一番縁遠い女だ」
「わたくしは常に巻き込まれているだけの被害者です」
俺が口を尖らせると、横からリュシアンがいつもの調子で軽やかな笑い声を上げた。
「アイリスがいなければ、確かに静かでしょうね、殿下。……でも、それじゃあ少し、つまらないですよ」
「褒めていらっしゃいませんわよね?」
「いいや、最大級の賛辞のつもりだよ」
他愛のない軽口。テントの中には穏やかな時間が流れているように見えた。
だが、さっきのリュシアンの目の逸らし方と、セオドア殿下の沈黙の理由は、確実に俺たちの間に、名前のつけられない『何か』を落としていた。




