第48話:障害物競走は、物理で突破する
炎天下のグラウンド。
容赦なく照りつける太陽の下、俺は『障害物競走』のスタートラインに立っていた。
(……暑い。帰りたい)
心の中で何度目かわからない愚痴をこぼす。
周りの令嬢たちは「殿下が見ていらっしゃるわ!」「ステラ寮の誇りにかけて!」と闘志を燃やしているが、俺のモチベーションはただ一つ。
(幻のオペラケーキ。……そのためだけに、俺は走る)
『――位置について。……バンッ!』
乾いたピストルの音が響き、選手たちが一斉に駆け出した。
障害物競走のコースは、平均台、ハードル、そして最後に待ち受ける『網くぐり』の三つのセクションに分かれている。
リュシアンの『目』によれば、最初の爆破用魔道具が仕掛けられているのは、最終関門であるネットの結び目だ。
(まずは、あそこまでトップ集団をキープしなければ)
俺は、少し足の速い令嬢を装いながら平均台を駆け抜け、ハードルを優雅に跳び越えていく。
暗殺者の身体能力からすれば、こんなものは散歩以下の運動量だ。息一つ乱すことなく、俺はトップで最終関門の『網くぐり』エリアへと到達した。
地面に低く張られているのは、ただの麻縄ではない。魔力を吸収して硬質化する特注の『魔蜘蛛の糸』で編み込まれた頑丈なネットだ。
俺は魔力を集中させ、走りながら標的を探る。
(……あった)
コースの中央付近。ネットの結び目の一つに、泥に偽装された豆粒ほどの黒い『楔』が編み込まれているのを発見した。
あれが今この瞬間も、グラウンドの地脈に爆発魔法陣の根を張ろうとしているのだ。
俺はためらうことなく、その魔道具が仕掛けられたポイントの真下へダイブした。
「きゃあっ!」
わざとらしく悲鳴を上げながら、俺はネットの途中で派手に転倒してみせた。
『ああっと、トップを走っていたアイリス嬢、ここで痛恨の転倒だーっ!』
実況の声がグラウンドに響く。
観客席から「ああっ」という落胆の声が漏れる中、俺はネットに絡まって身動きが取れないフリをしながら、そっと右手を伸ばした。
(よし、触れた)
結び目に隠された魔道具に指先を這わせる。
暗殺術『絶脈』――外傷を一切残さず、標的の心臓のみを正確に破壊する暗殺の業。その要領で、俺は魔道具の魔力回路の『急所』へと、極細の魔力の針を撃ち込んだ。
音もなく内部の術式だけが砂のように崩れ落ち、起爆装置はただの石ころへと還る。これで地脈への定着は完全に阻止した。
(ミッション・コンプリート。さて、さっさとゴールして日陰に戻ろう)
立ち上がろうとした、その時だった。
「……ん?」
リアルな『不運な事故』を演出するために派手に転がったせいで、体操着のあちこちに頑丈な魔蜘蛛の糸が複雑に絡みついてしまっていた。
解くには数分の時間がかかる。しかし、後ろからは他の選手たちが迫ってきている。ここで立ち止まれば、ケーキのためのポイントを逃してしまう。
(ええい、面倒くさい……!)
どんな強固な網にも、必ず張力の『死角』が存在する。人体で言えば、容易く外れる関節だ。
俺は暗殺者の眼でネットの構造を瞬時に見切ると、要となる結び目を三箇所、同時に指で弾き飛ばした。
ブチブチブチィッ!!
鈍い破断音と共に、連鎖的に張力を失った極太の麻縄が、俺の周囲だけ飴細工のように無惨に崩壊する。
俺は「邪魔ですわ」とばかりに、まとわりつくネットの残骸を引きずりながら、再び猛然とダッシュを開始した。傍目には、俺が力任せに強引に引きちぎったようにしか見えないはずだ。
その直後だった。
『あああああっ! 皆様、ご覧くださいませ!!』
突如、放送委員のマイクを奪い取った聞き覚えのある声が、グラウンド中に響き渡った。
見上げれば、実況席でリヴィアがマイクを握りしめ、目を輝かせて立ち上がっている。
『アイリス様は! あえて自ら障害に絡まり、それを己の力で引きちぎってみせました! あれはまさに、貴族社会のしがらみや古い常識という名の網を、己の力で打ち破るという情熱的なメタファー! なんという気高く、力強いお姿でしょう! 尊いですわーーっ!!』
グラウンドが、一瞬の静寂に包まれる。
そして次の瞬間、ステラ寮の応援席から「おおおおっ!!」「アイリス様、素敵ですわーっ!!」という、地鳴りのような大歓声が沸き起こった。
「……ッ!」
(違う! 構造的弱点を突いて解いただけだ!!)
顔から火が出るほどの羞恥心に襲われながら、俺はネットを引きずったままトップでゴールテープを切った。
◇◇◇
同じ頃、グラウンドの片隅の用具テント裏。
備品業者に扮して待機していた『古き盟約』の工作員は、手元の探知機を見て顔を真っ青にさせていた。
「……馬鹿な。第一ポイントの楔からの魔力信号が消えたぞ!?」
彼は慌ててグラウンドを見下ろす。
そこには、千切れたネットを引きずりながら、なぜか大歓声を浴びている一人の公爵令嬢の姿があった。
「まさか、あの令嬢が……? いや、あり得ない。ただの転倒事故のはずだ。第一、素手で魔道具を破壊するなど……」
工作員は冷や汗を拭いながら、自分にそう言い聞かせるしかなかった。
――敵の計画に、最初の狂いが生じた瞬間だった。
◇◇◇
数十分後。
実行委員のテントの奥でパイプ椅子に沈み込み、ようやくひと息つこうとした俺の前に、忌まわしい銀縁メガネが立ち塞がった。
生徒会長、シリル・アッシュフォードだ。
「お疲れ様でした、アイリス嬢。見事な『障害物突破』でしたね」
「……ただの不運な事故ですわ。お恥ずかしいところをお見せしました」
俺がすかさず令嬢スマイルで誤魔化そうとするが、シリルはメガネをくいっと押し上げ、鋭い光を放つ瞳で俺を見下ろした。
「ほう? 魔力を吸収して硬質化するあの特注ネットを、不運や偶然の力任せだけで飴細工のように引きちぎれると? ……あなた、一体どんな技術を隠し持っているんです?」
「…………火事場の馬鹿力、というやつですわ」
(こいつ、伊達に生徒会長をやっていない。あの破壊がただの力任せではなく、構造の弱点を突いたものだと勘付いている……!)
俺が内心で冷や汗を流していると、シリルはふっと息を吐いた。
「まあ、いいでしょう。あなたのその隠された優秀さには、私も少し興味が湧きました。……とはいえ」
シリルはふいに言葉を切り、どこか遠く――というより天上でも仰ぎ見るような、熱を帯びた表情を浮かべた。
「私が心から敬愛してやまない、あの美しくも孤高なる『影』様の足元にも及びませんがね」
「……はい? 影、ですか?」
「ええ。まだ私が入学する前のことです。ある日、不運にもテロリストの残党に囲まれ、絶体絶命の危機に陥ったことがありました。その時、颯爽と現れ、瞬きする間に敵を制圧し、私を救い出してくれたあの御方の洗練され尽くした身のこなし……! それに比べれば、あなたの隠し持った技術など、まだ児戯に等しい。……あなたも少しは、『影』様を見習うといい」
(……あー。俺が屋敷で優雅にお茶を飲みながら読書している間に、『分身』に処理させた案件か……)
熱く語る腹黒メガネを前に、俺は死んだ魚のような目を向けることしかできなかった。
「では、次の競技も頼みますよ。期待しています」
シリルが満足げに去っていくのを見送りながら、俺は深いため息をつく。
「……お疲れ様、アイリス。怪我はないかい?」
ふいに横から声がした。見ると、リュシアンが水の入ったグラスを持って立っていた。
「……ええ。身も心もボロボロですが」
「ふふ。見事な『不運な事故』だったね」
俺が無言でグラスを受け取ると、リュシアンはふとテントの外――歓声に沸くグラウンドの方へと視線を向けた。
そして、ぴたりと動きを止めた。
「……リュシアン様?」
俺の呼びかけに、彼は答えなかった。
彼はいつも絶やさない人懐っこい笑顔のまま……ひどく冷たい無機質な瞳で、人波の奥、雑踏に紛れる『フードを深く被った人影』をじっと見つめていた。
やがて人影が群衆に吸い込まれるように消えると、リュシアンはゆっくりと瞬きをし、すぐにいつもの柔らかい表情を取り戻した。
「どうかしましたか?」
「いや。……少し、見間違いをしたみたいだ。さあ、休憩したら次の『玉入れ』だよ」
そう言って笑う彼を見送りながら、俺はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
(……気のせいか)
あの横顔も、先ほどの人影が纏っていた奇妙な気配も。
暗殺者の勘は「気のせいではない」と静かに告げていたが――俺は喉の奥に冷たい水を流し込み、今はあえて、気づかなかったことにしておいた。




