第47話:実行委員は、木陰の石ころになりたい
王立魔法アカデミーの体育祭。
それは、若き貴族たちが己の体力と魔力を競い合い、各家の威信をかけてぶつかり合う、血湧き肉躍る一大イベントである。
地下迷宮での激闘から、およそ一ヶ月。
ようやく取り戻した平穏な日常はわずか一週間で終わりを告げ、三週間前、シリル生徒会長から『体育祭実行委員』というブラックな役職を強引に押し付けられたことで無残にも崩れ去っていた。
俺は今、雲一つない青空の下……実行委員用テントの一番奥深く、日陰のパイプ椅子に深々と腰掛けていた。
「……暑い。帰りたい」
冷たい紅茶を啜りながら、俺はグラウンドの熱狂を遠い目で見つめる。
本来なら、こんな面倒な役回りは全力でバックレるか、仮病を使って保健室のベッドの住人になっているところだ。あの腹黒メガネに「教授の一件の借り」を盾に脅されたとはいえ、この三週間、タダ働きで散々こき使われたのだ。当日くらいサボってもバチは当たらないだろう。
……そう固く決意していた俺が今日、こうして(テントの奥とはいえ)逃亡せずに留まっているのには、海よりも深く甘い理由があった。
『アイリス様! 今年の体育祭、総合優勝した寮の生徒全員には、王宮専属パティシエ特製の「極上スイーツセット」が振る舞われますの! 中でも目玉は、最高級の深煎りコーヒー豆を贅沢に使った特製オペラケーキですわ!』
数日前、部室でリヴィアが興奮気味に持ち込んできたその情報が、限界を迎えていた俺をこの場所に繋ぎ止める最大の鎖となっていた。
深煎り豆の芳醇な香りと、幾重にも重なる濃厚なチョコレートのハーモニー。前世で数えるほどしか口にできなかった、あの至福の味わい。
(……ふふ。ステラ寮の戦力なら優勝は堅い。あの幻のオペラケーキを平穏に味わうためなら、今日一日くらい木陰の『石ころ』として大人しくしてやろう)
俺に割り当てられた仕事は「観客席を守る大結界の維持と監視」だ。
もちろん、真面目に魔力を注ぎ続ける気など毛頭ない。結界発生用の魔道具に自分の魔力の糸を極細で繋ぎ、周囲の魔力ノイズを吸って勝手に自律稼働するように細工してある。
傍目には「ただ座ってサボっている役に立たない令嬢」にしか見えない。最高の迷彩だ。
「……アイリス。君は本当に、見事なまでに何もしないな」
テントの入り口から、呆れたような声が降ってきた。
振り返ると、体操着姿のセオドア殿下と、リュシアンが立っていた。
「殿下、手抜きではありません。わたくしは今、不測の事態に備えて体力を温存しているのです」
「紅茶を飲みながらか?」
「ええ。糖分補給は必須ですので」
俺が堂々と胸を張ると、殿下は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
リュシアンが、少しだけ声を潜めて切り出す。
「それにしても、連中の動きが妙に静かですね。アイリスが以前特定してくれた商業区の『古き盟約』の拠点も……騎士団が踏み込んだ時には、すでにもぬけの殻でした」
俺は紅茶のカップを置いた。
「ガランド教授が捕まり、地下迷宮の計画も頓挫したことで、尻尾を巻いて逃げたのでしょう」
「ああ。だが、それは奴らが『後がなくなって焦っている』ということでもある」
殿下が鋭い眼光でグラウンドを見渡す。
「拠点を失った連中が、起死回生の捨て身の策に出るなら……数千の人間が入り乱れるこの体育祭は、最も危険な警備の死角だ」
その言葉が、不吉な予言となった。
グラウンドの隅で、業者が運び込んでいる次の競技の備品を眺めていたリュシアンが、ふと笑みを消した。彼の翠の瞳の奥で、無機質で冷たい光がよぎる。『真実の瞳』が発動した証拠だ。
「……アイリス、殿下。どうやら、その温存した体力を使う時が来たようです」
リュシアンの声が、極限まで低くなった。
「あれを見てください。業者が並べている玉入れの籠。それから、あちらの障害物競走用のネットの結び目」
「何かあるのか?」
「ええ。巧妙に隠蔽されていますが……極小の魔道具が仕掛けられています」
俺も魔力を集中させた。
(……本当だ。豆粒のような魔道具が、競技用の備品に紛れ込んでいる)
リュシアンは、テントの机に指で線を描きながら説明した。
「あれは単なる起爆装置ではありません。地脈に不可視の『楔』を打ち込むための魔道具です。備品が定位置に置かれている間に、地下へジワジワと魔力の根を張らせる気でしょう」
「……なるほど。競技が終わって用具が片付けられる頃には、すでにグラウンドの地下深くに魔法陣の『基点』が定着しているというわけか」
「ええ。そして定着した楔同士を共鳴させて……学園全体を覆う、超巨大な爆発魔法陣を完成させる気でしょう」
「なんだと……!?」
殿下が息を呑む。
俺は即座に状況を理解した。
拠点を失い追い詰められた敵は、この体育祭のドサクサに乗じて備品係に扮し、一気に学園ごとターゲットを消し飛ばす強行策に出たのだ。
そして何より厄介なのは、魔力の根が張り切る前――すなわち「競技中」に、物理的に魔道具を破壊しなければならないという短いタイムリミットがあることだ。
「……今すぐ騎士団を動かし、大会を中止させるべきだ」
殿下が鋭く言ったが、俺は即座に首を横に振った。
「駄目です、殿下。敵の工作員は観客や業者に紛れ込んでいます。下手に騒ぎ立てれば、パニックに乗じて未完成のまま魔法陣を強行起爆される恐れがあります」
(それに、ここで大会が中止になったら、俺の幻のオペラケーキが灰になってしまう)
「では、どうしろと言うんだ」
「決まっています」
俺は立ち上がり、ジャージの埃を払った。
「誰にも悟られぬよう、極めて自然に、あの魔道具を全て破壊して回るのです」
「自然に? どうやって……」
「競技中の『不運な事故』に見せかけましょう。籠が壊れたり、ネットが破れたり、なんて……体育祭ではよくあることでしょう?」
俺の言葉に、殿下とリュシアンが顔を見合わせた。
そして、二人の視線が、同時に俺へと集中する。
「……なるほど。誰にも気づかれず、備品だけをピンポイントで破壊する『不運な事故』か」
「君の得意分野だね、アイリス。適任だ」
(……ん?)
俺は、嫌な予感がして一歩後ずさった。
「いや、お待ちください。わたくしはテントでのんびり……」
「頼んだぞ、アイリス。この学園の、いや、国中の命運が君の『事故』にかかっている」
「君ならやれると信じているよ」
二人のイケメン王子は、満面の笑みで俺の肩をポンポンと叩いた。
「……最悪だ」
木陰の石ころになるはずだった俺の体育祭は、かくして、オペラケーキのために敵の仕掛けた爆弾を己の肉体一つで破壊して回る、命がけの「お掃除ミッション」へと早変わりしたのだった。
『――次は、第一学年の障害物競走です! 出場選手は入場してください!』
放送委員の声が響き渡る。
俺は深くため息をつき、最初のターゲットである障害物ネットへと向かって重い足取りで歩き出した。




