「違います、録音です」
「いたぞ!!」
森の奥から響いた声が、湖畔の静寂を一瞬で引き裂いた。
それまで水面を撫でていた風が、ぴたりと止まったような錯覚すらある。
続けて、複数の足音。
草を踏み潰す音。鎧がこすれ合う金属音。規律のある動きでありながら、焦りだけが滲んでいる。
それが、どんどん近づいてくる。
「……面倒なのが来たな」
クロウは短く言った。
声に抑揚はない。だが、その視線だけが森の奥を鋭く刺している。
腕は組んだまま動かない。ただ、空気だけがわずかに張り詰めていた。
リュナが顔をしかめる。
「ちょっと待って、なんで今なの」
よりによって、今。
演奏の最中でもなく、終わった後でもなく――この瞬間。
トワは軽く肩をすくめた。
「あちゃー」
「“あちゃー”じゃない!!」
リュナの声が一段上がる。
森の影が揺れた。
葉の隙間から差す光の中に、影が“形”を持って現れる。
騎士団。
十数名。
無駄のない動きで湖畔へ踏み込み、そのまま一斉に停止する。
沈黙。
整列したままの彼らの視線が、同じ一点へと集まっていく。
そこにあったのは――
木製の機材群。
見慣れない魔力装置。
淡く光る導線。
そして、その奥。
湖。
さらにその奥に“いるもの”。
湖竜。
水面の下に沈むように存在しながら、確かにそこに“形”だけが揺れている。
巨大な影が、ゆっくりとこちらを見ていた。
その圧だけで、空気の密度が変わる。
隊長格の騎士が一歩前に出る。
剣にはまだ手をかけていない。しかし声は低く、硬い。
「……何をしている?」
その問いに、場の全員が一瞬だけ動きを止める。
トワは、まったく間を空けなかった。
「録音だよ」
一拍。
そして、さらりと続ける。
「ライブ」
沈黙。
「……は?」
今度は隊長の声に、明確な困惑が混じった。
「演奏!!」
リュナが慌てて口を開く。
「違う!!」
即答だった。
もはや説明というより訂正だった。
クロウは淡々と告げる。
「演奏はしている。だが状況は最悪だな」
その言葉が落ちた瞬間――
湖が、揺れた。
低い振動。
地面ではなく、水そのものが“鳴る”ような音。
グルルゥ……
圧。
空気が一段、重くなる。
目に見えない何かが、周囲を押し返すように広がった。
湖竜の威嚇。
その瞬間、騎士団の空気が一気に緊張へ傾く。
「動いたぞ!」
「戦闘準備!」
数人が一斉に剣へ手をかける。
隊長が鋭く命じる。
「魔物の制圧を――」
だが、その言葉が最後まで届く前に。
トワが言った。
「リュナ、演奏して!」
「今!?!?」
叫びながらも、リュナの指は止まらなかった。
ほとんど反射。
ぽろん。
一音。
それは湖に落ちるように広がった。
その瞬間。
変化が起きる。
湖竜の動きが止まった。
圧が抜けるように、空気が一瞬だけ軽くなる。
グル……
威嚇ではない。
確かに“聴いている”反応だった。
騎士団が固まる。
「……止まった?」
「音で……制御しているのか?」
信じられないものを見る目。
隊長の顔がわずかに歪む。
「……魔物を、操っているのか?」
その言葉が落ちた瞬間。
空気が再び揺れる。
湖竜が、もう一度低く鳴いた。
グルルゥ……
今度は明確だった。
“それ以上近づくな”
圧。
騎士団の何人かが、一歩後退する。
だが同時に――
動きを止めたままの者もいた。
音に引き込まれている。
意識が、演奏に引っ張られている。
「おい! 構えろ!!」
隊長の声が飛ぶ。
ハッと我に返る者と、まだ抜け出せない者。
その“ズレ”が、隊列を崩し始めていた。
そしてもう一度。
湖竜が低く鳴く。
グルルゥゥ……
空間が震えた。
圧力が形を持って押し寄せる。
「ぐっ……!」
騎士たちが明確に押される。
恐怖ではない。
“質量のある意思”に押し返されている感覚。
完全な分断。
トワはその様子を見て、ぽつりと言った。
「落ち着いたな」
リュナが即座に振り返る。
「どこが!?」
だが、その声もどこか現実感が薄い。
やがて――
音が止まる。
演奏が終わる。
静寂。
湖は何事もなかったかのように、ただ揺れていた。
だが先ほどまでの“敵意”は消えている。
完全に、消えている。
トワは湖へ向かって軽く手を振った。
「また来るからな」
一瞬の沈黙。
湖竜の影が、ゆっくりと沈むように揺れた。
肯定とも否定ともつかない。
ただ、“認識した”という反応だけが残る。
リュナが即座に振り返る。
「勝手に約束するな!!」
トワは悪びれずに答える。
「だめ?」
「だめ!!」
クロウはそのやり取りを見て、静かに息を吐いた。
「……これは、王都に行くしかないな」
リュナが目を見開く。
「やっぱりそうなるの!?」
クロウは視線を湖から外さないまま続ける。
「魔物が安定している」
「騎士団の判断が揺らいでいる」
「影響範囲が読めない」
淡々と、しかし確実に“結論”を出す。
「危険だ」
隊長が短く頷いた。
「同意する」
クロウが一言だけ落とす。
「え?」
「おまえのせいだ」
「なんで!?」
湖は静かだった。
あまりにも静かすぎるほどに。
だがその静けさは、決して“平和”ではない。
騎士の一人が、無意識に呟く。
「……あれを、“音楽”で済ませていいのか?」
誰も答えない。
ただ、湖から目を離せない。
音がまだ耳の奥に残っている。
消えない圧。
消えない存在感。
クロウはもう一度だけ息を吐いた。
(王都が壊れるのは、時間の問題だな)
その思考だけが、妙に現実的だった。




