09:What is certain is that I live .
春の並木道のようなそこはかとない心地よさ。そして、五月晴れの青空に干した後の布団に似た、暖かな香り。慈悲に包まれる感覚。
広大な空虚さの中で、僕は意識を取り戻した。おもむろに手を額と左胸に当てる。痛みは勿論のこと、傷跡さえなくなっていた。だが、死闘が夢ではなかったことは茶色く干からびて穴の開いたブラウスが照明していた。唯言えることは、僕はしぶとくも生きているらしい。そして、生きたいのかもしれない。
横たわる僕の目に最初、映ったのは白。真っ白。日だまりの塊といった方が正しい気がする。暗所に暫く居たせいか、眩しさに目が焼ける。
「奴」のいた空間とは対照的にこちらは白という訳らしい。天井なのか、空なのだか。上は勿論のこと、床も地平線まで雪白が覆っている。殺風景なのに心地よい、どこか不気味な空間である。
僕は暫し呆然と視線を漂わせていたが、直ぐに飽きた。というのも、何もないのだ。「骸骨」もなければ「直方体」もない。この均質的な白に見応えがあるとは甚だ言い難い。僕は仕方なく行き場のない眼を心に向けることにした。
あの弾で僕は死んだのだろうか。それとも……否、そんなことはどうでもいい。今、僕は生きているのだ! 考えたって無駄だ。さっと立ち上がり、ポキポキと響く関節と寝ぼけ頭とを携えて歩き始めた。
依然、景色は代わり映えなく自分が本当に歩いているのかも分からない。変わらぬ床。変わらぬ天井。動いているのは僕と僕の影のみ。耳に入るのは僕の呼吸音と足音だけ。でも、僕は歩くのを止めない。止められない。止まったら消えてしまう気がして。全てが終わってしまう気がして。
妙な居心地のよさが気持ち悪くなってきたとき、芽生えたのは一つの感情だった。
「人が恋しい」
僕は人が嫌いだ。小さい頃から僕は周りに上手く馴染めなかった。いつだって友達は二人もいるといい方で、僕だけが仲間はずれにされることもしばしば。人といたっていいことなんて一つもなかった。何か不都合なことが起これば責任を押し付けてくるくせに、僕の必死の反論には聞く耳を持たない。そして、ついにこの数ヶ月間、虐めに遭った。もう人なんて信じない。信じてたまるか! 皆んな……皆んないなくなってしまえばいい! そう思っていたのだ。
されど、いまはどうだろう。確かにここに人はいない。願い通りの空間である筈なのだ。だが、苦しい。暖かく、心地のよい空間である筈なのに寒い。心が寒い。僕は吹雪の中、深雪を掻き分け歩く旅人のように真っ白な道をへとへとになりながらも進み続けた。
*
「だっ、誰か」
小さなその叫びに勿論返事はない。誰でもいいから、人がいてくれたなら。しかし、よく考えてみると、そもそもこんな場所に人がいる方が不思議である。ここが何処で、自分が何に向かって歩いているのかさえ把握できていないのだから。優に数キロメートルは歩いただろう。疲労と絶望とで、休憩しようかとしゃがんだその時、遥か向こうに微かな影見えた。あれは人だろうか。いや、間違いなく人だ! 椅子に座って何かをしているように見える。僕は疲れ切っていたのも忘れ、夢中になって駆け出した。
艶やかな白髪。きりりとした、海淵を思わせる深い蒼の瞳。羽織っている赤色のトレンチコートが、彼の透き通るような肌の白さよりいっそう引き立てている。見慣れぬ異国か、それとも空想の世界から飛び出してきたのであろうかと勘繰ってしまう程、異様な美しさを放つ青年がイーゼルの前の椅子に座って、幾何学的な図形を描いていた。
彼は息を切らしている僕を、振り返り見て微笑みながらこう言った。
「Nice to meet you .」
身構えぬ状態からの異国語に暫時戸惑ったが、どうやら英語らしい。人と喋るのには勇気がいる。しかし今は、人に出会えたという喜びと、非日常な空間における不安と高揚の混ざった感情が背中を押している。彼の容姿を見て何度も怯みながらも、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「あ、え、えっと、ア、アイ……」
頭の中で組み立てる不安定な文法は上手く纏まらない。結果的に露呈された僕の頭の悪さと心の闇に、酷くショックを受けた。目前の青年は相も変わらず微笑んでいる。僕の気も知らないで。ふと、「貴方は能天気でいいですね」と嫌味を言いたくなったが、英語でどう言うのか分からなかった。もっと勉強しておくべきだったのだ。「奴ら」に、僕自身に、屈せずに。
時間が進んでいるのか否かも分からぬ世界で、僕は暫く何を言うべきか、どう英訳すべきかを考えていた。そしてここにきてようやく、僕が目の前の彼を嫌っていないことに気がついた。それは単に彼の容姿が美しいからではないだろう。僕の中で、固持し続けてきた「何か」が変わろうとしている。そんな気がした。
「ア……アイキャンスピーク、ア、リトルイングリッシュ」
高鳴る心臓を必死に押さえて返事を待つ。
「OK . Is your native language not English ?」
沈黙。風の音すら聞こえない完全な静寂。一人でいるより尚物寂しさを感じる。
「日本語……。話してくれればな」
僕は空を見つめながらぼそっと呟いた。そんな独り言、そっと空気に溶けてゆく筈だった。しかし、彼は確かにこう言った。
「そっか。君は『日本人』なんだね」




