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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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9/41

匙、恐竜を見る

星船内部に嫌な沈黙が落ちた。


匙発話:恐竜の時代に行きたい


サルはすぐに答えた。

「不可」


匙は眉をひそめた。

「見るだけ」


「不可」


「遠くから見る」


「距離だけでは安全を保証できない」


匙は少し考えた。

「顔なしが守れ」


「守れる範囲には限界がある」



匙は九歳になっていた。

最初の頃のように、ただ「飯」「床」「外」と言っているだけではない。

セイロンも見た。港も見た。風呂も覚えた。 他にも何度か外の世界を歩いた。

そして今度は、星船の映像棚を勝手に見て、巨大な骨格標本と復元映像を見つけてしまった。


――恐竜。


匙はセイロンで象を見た時の衝撃を忘れていなかった。

象は強かった。家より強かった。顔なしより強い、と匙は言った。

その匙が、ティラノサウルスの復元映像を見た。

見て、しばらく黙ってから聞いた。

「象より強いか」

「一部の大型獣脚類は、体格と捕食能力において……」

「強いか」

「強い」

「見たい」

ここから話がこじれた。



星船は壁に表示した。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

対象時代:中生代

注意:人類生存環境外

危険要因:大気環境、病原体、気候、植物、節足動物、大型動物、地形

直接降下:非推奨

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


匙は、その説明を半分も読まなかった。

「噛まれないところから見る」

「十分に離れれば視認性が低下する」

「顔なしが見せろ」

「映像でよい」

匙は表示面を指差した。

「映像は匂いがない」

サルが少し止まった。


「象には匂いがあった。足の音があった。目があった」

画面の中で、復元された恐竜が大きく口を開けている。

匙はそれを見て言った。

「これは骨の嘘」

「復元映像であり、虚偽ではない」

「生きてない」


強硬接触班三が余計なことを言った。

「安全な観察窓付きの外部遮蔽区画を展開すれば……」


サルが即座に遮った。

「言うな」


匙が被せるように聞いた。

「あるのか」


サルが渋々答えた。

「案としてはある」

「作れ」

「不可」

匙はすぐ言った。

「風呂は作った」

「風呂と白亜紀を同列にするな」

「どっちも水がある」

「そういう問題ではない」



匙は本気だった。

本気になった匙は鍋を叩かない。怒鳴らない。ただ表示面の前にひたすら座る。

小型の獣脚類、巨大な竜脚類、角のある恐竜、羽毛のある恐竜。

群れ、卵、巣、雨、泥、植物。

そういう画像を黙々と見続ける。


ある映像で指が止まった。

巣のそばに大きな恐竜がいた。

「何をしてる」

「巣を防衛していると推定される」

「卵を守ってるのか」

「そうだ」

匙は少し眉を寄せた。

「小さいのを食わない」

「自分の子孫である」

「変だ」

「人間にもある」

匙は黙り、しばらくしてから言った。

「ない人間もいる」

星船は何も言わなかった。


匙は別の映像に切り替えた。

肉食恐竜が小さな動物を追っている。

「こっちは分かる」

「捕食行動」

「腹が減る。追う。食う」

匙は少し考えた。

「巣を守るのも、分かる」

「なら問題はない」

「でもまだ、信用しない」


******


結局、直接降下は許可されなかった。

「顔なしは臆病」

「そうだ」

「認めるな」

「お前に関しては臆病でよい」


匙は少し黙った。

こういう返しをされると、少し困る。


「では、どうする」

星船は代替案を出した。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

案一:完全遮蔽観察室 現地環境とは隔離。音、匂い、振動のみ制御導入。

案二:上空から非接触観測 安全性高。

案三:星船内部で環境再現 現地性低。

案四:現代鳥類観察 安全性極めて高。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

匙は四を見て顔をしかめた。

「一」

「条件がある」

「言え」

「外に出ない。窓を開けない。動物に触らない。餌を与えない」

「分かった」

「現地物品も持ち帰らない」

匙は少し不満そうだった。

「羽もか」

「不可」

「骨は」

「不可」

「卵」

「不可」

匙は舌打ちした。

「それは散歩じゃない」

「観察だ」

「つまらない言葉」

「安全な言葉だ」


******


星船は、匙を白亜紀後期の湿地へ連れていった。

ただし直接ではない。

現地に透明な観察室を置き、その中だけを星船側の環境に保った。

外気も虫も病原体も入らないが、音と匂いは薄く通す。地面の振動も少しだけ伝えた。

そして、扉は開かない。

匙が怒っても、鍋を叩いても、絶対に開かない。


匙は窓の前まで歩き、すぐに黙った。

外は、セイロンでもブルディガラでもなかった。

湿った熱、見たことのない葉、太いシダ、虫の音。 空の色まで少し違う。


その向こうで、何か小さなものが動いた。

鳥でも犬でも蜥蜴(トカゲ)でもない。それが長い尾を伸ばし、細い脚で地面を走っている。

匙は息を止めた。

「小型獣脚類――」

「黙れ」

星船は黙った。


恐竜は地面をつつき、何か小さなものを捕った。

首が動く。目が動く。尾で身体の釣り合いを取る。

匙は小声で言った。

「鳥の前の鳥」

星船は訂正しなかった。


少しすると遠くから低い音がして、床がわずかに揺れた。

匙の指が窓に触れた。

林の向こうから大きな影が出てきた。

角のある草食恐竜だった。一頭だけではない。

厚い身体。重い足。大きな頭。

その間には、小さな個体もいる。


匙は目を見開いた。

「……強い」

「大型草食恐竜である」

「説明するな。いま見てる」


群れはゆっくり動いた。

食べる。歩く。止まる。

一頭が頭を上げると、別の一頭も止まった。小さい個体が、群れの内側へ入った。


「守ってる」

「捕食者への警戒を伴う群れ行動」

「言葉を長くするな」

匙は窓に少し近づいた。

「守ってる」

「そうだな」


突然、群れの動きが変わった。

何頭も同時に頭を上げた。

泥の向こうで木が揺れ、そこに大きな頭が出た。

歯。尾。太い脚。


匙の身体が固くなった。

怖かった。

これは映像でもなく、骨でもない。

腹が減れば追い、追いつけば食う。そういうものが、そこにいる。


匙は窓から一歩下がった。

星船が言った。

「さらに離れてよい」

「黙れ」

匙はそう言いながら、もう一歩下がった。


肉食恐竜は、すぐには群れを襲わなかった。

群れの外側を歩く。

止まる。

また歩く。

匙は窓の端からそれを見た。

「こいつ、馬鹿じゃない」

「負傷を避ける必要がある」

「腹が減っても何でも噛まない」

「そうだ」

匙は少し安心した顔になった。

「昔の男たちより賢い」

サルは答えなかった。


結局、肉食恐竜は深追いしなかった。

群れはまた動き始めた。小さい個体もその中に残っていた。

匙は長い間、それを見ていた。


******


観察室を移動している途中で、匙が急に立ち上がった。

「止めろ」

「停止する」

開けた地面に、巣があった。

巣の中にはいくつもの卵があり、そのそばに一頭の恐竜がいた。

小さな動物が巣に近づくと、親らしい恐竜が追い払い、また卵の近くへ戻った。


匙は窓の前にしゃがんだ。

「これは、食わないのか」

「自分の卵である」

「腹が減っても」

「通常は食べない」

「なぜ」

星船は少し考えた。

「小さいものが大きくなるまで守る」

匙は膝を抱えた。

「大きいものは、みんなそうすればいいのに」

星船は答えなかった。


親恐竜は、ずっと卵のそばにいた。

空を見る。地面を見る。少し動く。また卵のところへ戻る。

匙もそれをずっと見ていた。


「こいつは、私を見たら食うか」

「種と状況による。危険性はある」

「でも卵は食わない」

「そうだ」

匙は少し笑った。

「変だ」

「何が」

「逃げない」

親恐竜が首を上げた。

「卵のために、ここにいる」

「そうだな」

匙はまた少し黙った。

「馬鹿だ」

「そうか」

「でも、悪くない馬鹿」

星船は今度も何も言わなかった。


******


帰る前、匙はもう一つ要求した。

「足跡」

「持ち帰り不可」

「見るだけ」


観察室が泥地の近くへ移動した。

そこには大きな恐竜の足跡が残っていた。泥が深く沈み、中に水が溜まっている。

匙は窓に顔を近づけた。

「歩いただけで、地面が覚える」

「条件が整えば足跡化石として――」

「今は泥」

「そうだ」

匙はしばらく見た。

「いつか石になるか」

「可能性はある」

「私の足跡も、石になるか」

「条件が整えば」

匙は自分の足を見た。

「ならないだろ」

「多くは残らない」

「それでいい」

星船が聞いた。

「残したくないのか」

匙は巨大な足跡を見たまま言った。

「残るものは勝手に残る」


少し間があった。

「残そうとするとうるさい」


サルがその発言を記録した。

匙が振り向いた。

「いま記録したか」

「した」

「そういうのが、うるさい」


******


星船に戻った匙はいつもより静かだった。

鍋は叩かなかった。風呂にもすぐ行かず、床だけ温めさせた。

匙はそこに座って、小さな金属匙を手の中で転がした。


星船が聞いた。

「恐竜の時代はどうだった」

「怖かった」

「そうだな」

「強かった」

「そうだな」

匙は金属匙を見た。

「でも、全部が食うためだけじゃなかった」

星船は黙っていた。

「卵を守ってた」

「見た」


匙は少しして言った。

「顔なし」

「何か」

「お前も、たぶん、少しあれをした」

星船内部が止まった。

「何を」

「小さいもののそばにいた」


長い沈黙があった。


匙はすぐ顔をしかめた。

「調子に乗るな」

「乗らない」

「私は卵じゃない」

「そうだ」

「お前は恐竜でもない」

「そうだ」

匙は金属匙を握った。

「でも、少し似てた」


星船はしばらくして答えた。

「記録する」


匙は睨んだ。

「記録じゃなくて、覚えろ」

「覚える」

匙は頷いた。


******


その夜、強硬接触班三が提案した。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

次回候補: 匙、三畳紀へ

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


サルが即座に消した。

生命影響班も却下した。

少しして、物品転送班が控えめに出した。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

代替案: 恐竜型玩具の提供

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


匙がその表示を見つけた。

「いらない」

「不要として処理する」

「でも待て」

星船が止まる。

匙は表示をもう一度見た。

「少しだけ見る」


翌朝、寝台の端に小さな羽毛恐竜のぬいぐるみが置かれていた。

匙はそれを手に取ってみた。


柔らかい。

噛まない。

踏まない。


「弱い」

「安全である」

匙は恐竜の腹を押した。

それでも何も起きなかった。

「弱い」


いったん寝台の外に置いた。

少しして拾い、今度は枕の横に置いた。

「ここなら邪魔じゃない」


星船は何も言わなかった。


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