匙、恐竜を見る
星船内部に嫌な沈黙が落ちた。
匙発話:恐竜の時代に行きたい
サルはすぐに答えた。
「不可」
匙は眉をひそめた。
「見るだけ」
「不可」
「遠くから見る」
「距離だけでは安全を保証できない」
匙は少し考えた。
「顔なしが守れ」
「守れる範囲には限界がある」
匙は九歳になっていた。
最初の頃のように、ただ「飯」「床」「外」と言っているだけではない。
セイロンも見た。港も見た。風呂も覚えた。 他にも何度か外の世界を歩いた。
そして今度は、星船の映像棚を勝手に見て、巨大な骨格標本と復元映像を見つけてしまった。
――恐竜。
匙はセイロンで象を見た時の衝撃を忘れていなかった。
象は強かった。家より強かった。顔なしより強い、と匙は言った。
その匙が、ティラノサウルスの復元映像を見た。
見て、しばらく黙ってから聞いた。
「象より強いか」
「一部の大型獣脚類は、体格と捕食能力において……」
「強いか」
「強い」
「見たい」
ここから話がこじれた。
星船は壁に表示した。
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対象時代:中生代
注意:人類生存環境外
危険要因:大気環境、病原体、気候、植物、節足動物、大型動物、地形
直接降下:非推奨
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匙は、その説明を半分も読まなかった。
「噛まれないところから見る」
「十分に離れれば視認性が低下する」
「顔なしが見せろ」
「映像でよい」
匙は表示面を指差した。
「映像は匂いがない」
サルが少し止まった。
「象には匂いがあった。足の音があった。目があった」
画面の中で、復元された恐竜が大きく口を開けている。
匙はそれを見て言った。
「これは骨の嘘」
「復元映像であり、虚偽ではない」
「生きてない」
強硬接触班三が余計なことを言った。
「安全な観察窓付きの外部遮蔽区画を展開すれば……」
サルが即座に遮った。
「言うな」
匙が被せるように聞いた。
「あるのか」
サルが渋々答えた。
「案としてはある」
「作れ」
「不可」
匙はすぐ言った。
「風呂は作った」
「風呂と白亜紀を同列にするな」
「どっちも水がある」
「そういう問題ではない」
匙は本気だった。
本気になった匙は鍋を叩かない。怒鳴らない。ただ表示面の前にひたすら座る。
小型の獣脚類、巨大な竜脚類、角のある恐竜、羽毛のある恐竜。
群れ、卵、巣、雨、泥、植物。
そういう画像を黙々と見続ける。
ある映像で指が止まった。
巣のそばに大きな恐竜がいた。
「何をしてる」
「巣を防衛していると推定される」
「卵を守ってるのか」
「そうだ」
匙は少し眉を寄せた。
「小さいのを食わない」
「自分の子孫である」
「変だ」
「人間にもある」
匙は黙り、しばらくしてから言った。
「ない人間もいる」
星船は何も言わなかった。
匙は別の映像に切り替えた。
肉食恐竜が小さな動物を追っている。
「こっちは分かる」
「捕食行動」
「腹が減る。追う。食う」
匙は少し考えた。
「巣を守るのも、分かる」
「なら問題はない」
「でもまだ、信用しない」
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結局、直接降下は許可されなかった。
「顔なしは臆病」
「そうだ」
「認めるな」
「お前に関しては臆病でよい」
匙は少し黙った。
こういう返しをされると、少し困る。
「では、どうする」
星船は代替案を出した。
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案一:完全遮蔽観察室 現地環境とは隔離。音、匂い、振動のみ制御導入。
案二:上空から非接触観測 安全性高。
案三:星船内部で環境再現 現地性低。
案四:現代鳥類観察 安全性極めて高。
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匙は四を見て顔をしかめた。
「一」
「条件がある」
「言え」
「外に出ない。窓を開けない。動物に触らない。餌を与えない」
「分かった」
「現地物品も持ち帰らない」
匙は少し不満そうだった。
「羽もか」
「不可」
「骨は」
「不可」
「卵」
「不可」
匙は舌打ちした。
「それは散歩じゃない」
「観察だ」
「つまらない言葉」
「安全な言葉だ」
******
星船は、匙を白亜紀後期の湿地へ連れていった。
ただし直接ではない。
現地に透明な観察室を置き、その中だけを星船側の環境に保った。
外気も虫も病原体も入らないが、音と匂いは薄く通す。地面の振動も少しだけ伝えた。
そして、扉は開かない。
匙が怒っても、鍋を叩いても、絶対に開かない。
匙は窓の前まで歩き、すぐに黙った。
外は、セイロンでもブルディガラでもなかった。
湿った熱、見たことのない葉、太いシダ、虫の音。 空の色まで少し違う。
その向こうで、何か小さなものが動いた。
鳥でも犬でも蜥蜴でもない。それが長い尾を伸ばし、細い脚で地面を走っている。
匙は息を止めた。
「小型獣脚類――」
「黙れ」
星船は黙った。
恐竜は地面をつつき、何か小さなものを捕った。
首が動く。目が動く。尾で身体の釣り合いを取る。
匙は小声で言った。
「鳥の前の鳥」
星船は訂正しなかった。
少しすると遠くから低い音がして、床がわずかに揺れた。
匙の指が窓に触れた。
林の向こうから大きな影が出てきた。
角のある草食恐竜だった。一頭だけではない。
厚い身体。重い足。大きな頭。
その間には、小さな個体もいる。
匙は目を見開いた。
「……強い」
「大型草食恐竜である」
「説明するな。いま見てる」
群れはゆっくり動いた。
食べる。歩く。止まる。
一頭が頭を上げると、別の一頭も止まった。小さい個体が、群れの内側へ入った。
「守ってる」
「捕食者への警戒を伴う群れ行動」
「言葉を長くするな」
匙は窓に少し近づいた。
「守ってる」
「そうだな」
突然、群れの動きが変わった。
何頭も同時に頭を上げた。
泥の向こうで木が揺れ、そこに大きな頭が出た。
歯。尾。太い脚。
匙の身体が固くなった。
怖かった。
これは映像でもなく、骨でもない。
腹が減れば追い、追いつけば食う。そういうものが、そこにいる。
匙は窓から一歩下がった。
星船が言った。
「さらに離れてよい」
「黙れ」
匙はそう言いながら、もう一歩下がった。
肉食恐竜は、すぐには群れを襲わなかった。
群れの外側を歩く。
止まる。
また歩く。
匙は窓の端からそれを見た。
「こいつ、馬鹿じゃない」
「負傷を避ける必要がある」
「腹が減っても何でも噛まない」
「そうだ」
匙は少し安心した顔になった。
「昔の男たちより賢い」
サルは答えなかった。
結局、肉食恐竜は深追いしなかった。
群れはまた動き始めた。小さい個体もその中に残っていた。
匙は長い間、それを見ていた。
******
観察室を移動している途中で、匙が急に立ち上がった。
「止めろ」
「停止する」
開けた地面に、巣があった。
巣の中にはいくつもの卵があり、そのそばに一頭の恐竜がいた。
小さな動物が巣に近づくと、親らしい恐竜が追い払い、また卵の近くへ戻った。
匙は窓の前にしゃがんだ。
「これは、食わないのか」
「自分の卵である」
「腹が減っても」
「通常は食べない」
「なぜ」
星船は少し考えた。
「小さいものが大きくなるまで守る」
匙は膝を抱えた。
「大きいものは、みんなそうすればいいのに」
星船は答えなかった。
親恐竜は、ずっと卵のそばにいた。
空を見る。地面を見る。少し動く。また卵のところへ戻る。
匙もそれをずっと見ていた。
「こいつは、私を見たら食うか」
「種と状況による。危険性はある」
「でも卵は食わない」
「そうだ」
匙は少し笑った。
「変だ」
「何が」
「逃げない」
親恐竜が首を上げた。
「卵のために、ここにいる」
「そうだな」
匙はまた少し黙った。
「馬鹿だ」
「そうか」
「でも、悪くない馬鹿」
星船は今度も何も言わなかった。
******
帰る前、匙はもう一つ要求した。
「足跡」
「持ち帰り不可」
「見るだけ」
観察室が泥地の近くへ移動した。
そこには大きな恐竜の足跡が残っていた。泥が深く沈み、中に水が溜まっている。
匙は窓に顔を近づけた。
「歩いただけで、地面が覚える」
「条件が整えば足跡化石として――」
「今は泥」
「そうだ」
匙はしばらく見た。
「いつか石になるか」
「可能性はある」
「私の足跡も、石になるか」
「条件が整えば」
匙は自分の足を見た。
「ならないだろ」
「多くは残らない」
「それでいい」
星船が聞いた。
「残したくないのか」
匙は巨大な足跡を見たまま言った。
「残るものは勝手に残る」
少し間があった。
「残そうとするとうるさい」
サルがその発言を記録した。
匙が振り向いた。
「いま記録したか」
「した」
「そういうのが、うるさい」
******
星船に戻った匙はいつもより静かだった。
鍋は叩かなかった。風呂にもすぐ行かず、床だけ温めさせた。
匙はそこに座って、小さな金属匙を手の中で転がした。
星船が聞いた。
「恐竜の時代はどうだった」
「怖かった」
「そうだな」
「強かった」
「そうだな」
匙は金属匙を見た。
「でも、全部が食うためだけじゃなかった」
星船は黙っていた。
「卵を守ってた」
「見た」
匙は少しして言った。
「顔なし」
「何か」
「お前も、たぶん、少しあれをした」
星船内部が止まった。
「何を」
「小さいもののそばにいた」
長い沈黙があった。
匙はすぐ顔をしかめた。
「調子に乗るな」
「乗らない」
「私は卵じゃない」
「そうだ」
「お前は恐竜でもない」
「そうだ」
匙は金属匙を握った。
「でも、少し似てた」
星船はしばらくして答えた。
「記録する」
匙は睨んだ。
「記録じゃなくて、覚えろ」
「覚える」
匙は頷いた。
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その夜、強硬接触班三が提案した。
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次回候補: 匙、三畳紀へ
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サルが即座に消した。
生命影響班も却下した。
少しして、物品転送班が控えめに出した。
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代替案: 恐竜型玩具の提供
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匙がその表示を見つけた。
「いらない」
「不要として処理する」
「でも待て」
星船が止まる。
匙は表示をもう一度見た。
「少しだけ見る」
翌朝、寝台の端に小さな羽毛恐竜のぬいぐるみが置かれていた。
匙はそれを手に取ってみた。
柔らかい。
噛まない。
踏まない。
「弱い」
「安全である」
匙は恐竜の腹を押した。
それでも何も起きなかった。
「弱い」
いったん寝台の外に置いた。
少しして拾い、今度は枕の横に置いた。
「ここなら邪魔じゃない」
星船は何も言わなかった。




