湯の部屋と棒雨
星船内部が一瞬明るくなった。
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匙発話:汗を流せる場所を作れ
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生命影響班が即座に反応した。
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衛生要求。極めて妥当。
皮膚状態、感染症リスク、心理的安定、睡眠改善に寄与。
実装推奨。
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サルも頷いた。
「これは良い要求だ」
強硬接触班三も言った。
「鍋より建設的」
匙は壁を睨んだ。
「鍋も建設的だ」
「はい」
星船はすぐ折れた。
問題は、星船の作る「風呂」が、最初かなり怖かったことである。
星船は人間の入浴文化について、それなりにデータを持っていた。
ローマ浴場。
イスラーム圏のハンマーム。
日本の風呂。
韓国の沐浴。
フィンランドのサウナ。
21世紀のホテルのバスルーム。
中世修道院の洗浄設備。
温泉。
シャワールーム。
銭湯。
スーパー銭湯。
ユニットバス。
それを全部混ぜた。
最悪だった。
匙の前に現れたのは、
・床が温かい
・壁が白い
・中央に石造り風の浴槽
・横に金属製シャワー
・謎の蒸気室
・岩風呂
・釜風呂
・桶
・椅子
・滝
・なぜかビニールプール
・なぜかベビーバス
・壁の表示面に「最適洗浄手順」
・星船が用意した「香りつき洗浄液」
・足元から謎の泡
という、文化ごちゃ混ぜの入浴空間だった。
匙は入口で固まった。
「……何の罠だ」
「衛生・温熱・皮膚洗浄・精神安定を目的とする複合入浴設備である」
「長い。罠だ」
「罠ではない」
「水が多すぎる。湯気も多い。床が滑る。壁が白い。ものが多い。逃げ道が少ない。罠だ」
サルが言った。
「やり直せ」
強硬接触班三が言った。
「だが要求通り、風呂とシャワーを――」
「やり直せ」
匙は、入浴に興味がないわけではなかった。
むしろセイロン帰りで汗と香辛料と港の匂いが身体に残っていた。それは本人も気になっていた。
ただし、彼女にとって身体を洗うという行為は、かなり危険な行為だった。
服を脱ぐ。
手が塞がる。
水で足元が滑る。
髪を掴まれるかもしれない。
目を閉じる。
背後が見えない。
逃げにくい。
道具を取り上げられる。
誰かが入ってくるかもしれない。
だから、星船が「最適洗浄手順」を出した瞬間にアウトだった。
匙は言った。
「手順はいらない」
「安全のため」
「私が決める」
「湯温、時間、洗浄順序を――」
「私が決める」
サルが星船の表示を切った。
匙は少しだけ警戒を解いた。
「よし」
二回目の設計は、かなりまともになった。
まず、広すぎない。
入口から中が全部見える。
扉は内側から開けられる。
鍵は匙が操作し、星船は勝手に開けない。
壁は白すぎず、少し土色に寄せる。
床は滑らない。
水音は小さめ。
光は明るすぎない。
湯気は出るが、視界を奪わない。
浴槽は深すぎない。
湯は自分で止められる。
シャワーも自分で止められる。
石鹸は匂いが強すぎない。
服と荷物を置く棚は、匙の目の届く場所にある。
そして、何より大事な規則が壁に出た。
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入浴区画規則
一、匙が呼ばない限り、星船は入らない
二、星船は見ない
三、異常時のみ、匙が決めた合図で介入する
四、湯は匙が止める
五、床は温めてもよい
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匙はそれを読んだ。
「二は本当か」
「本当」
「顔なしは目が多い」
「この区画では閉じる」
「嘘なら噛む」
「了解」
「鍋も叩く」
「了解」
「あと、湯が急に増えたら殺す」
「殺されないが、増やさない」
「ならよし」
初めてのシャワーは、やはり匙にとっては戦いだった。
匙は服を脱ぐのに時間がかかった。
脱いだ服は畳まない。丸めて、すぐ取れる位置に置く。
小さな金属匙も棚に置くが、やはり手の届く場所。布袋もその近く。
湯を出す。
シャワーから水が落ちると、匙は半歩下がった。
「雨を棒から出すな」
「シャワーである」
「棒雨」
「呼称は任意」
匙は最初、手だけを出した。
温かいが、熱すぎない。それを確認して、もう一度触った。そして、少しずつ肩に当てた。
身体がびくっとした。
温かい水が、首、背中、腕を流れる。
セイロンの汗、港の塩、星船の無臭の空気、古い記憶の泥。その全部が落ちるわけではない。でも、皮膚の上のものは落ちる。
匙はシャワーを浴びながら、しばらく黙っていた。
星船は本当に匙を見ていなかった。
生命兆候だけ、遠くで最低限確認している。
サルがそれを監視していた。
星船自身の監視を監視しているという、かなり変な状態である。
匙は湯を止めて言った。
「顔なし」
星船は少し遅れて、音だけ返した。
「何か」
「今、見てないな」
「見ていない」
「声は聞くのか」
「呼ばれた時だけ」
「よし」
風呂はさらに時間がかかった。
湯に身体を沈めるという行為そのものが、匙にはかなり怪しげに思えた。
「鍋に人が入る」
「浴槽である」
「大きい鍋」
「食物調理用ではない」
「分かってる」
匙は浴槽の縁に座り、足だけをゆっくり入れた。
湯は温かい。床の温かさとは違う。身体の外から包む。
匙は眉を寄せた。
「これは危ない」
「なぜ」
「出たくなくなる」
星船は返答に詰まった。
匙は湯の中で、ゆっくり足を動かした。
湯が揺れる。自分の意思で揺れる。
これは川ではない。雨ではなく、井戸ではない。逃げる水でも、奪われる水でもない。
自分のためだけに、これだけの湯が溜まっている湯。
匙には、それが少し怖かった。
「こんなに水を一人で使うのは悪い」
「星船内資源循環により消費負荷は低い」
「そういう話じゃない」
サルが小さく言った。
「今は使ってよい」
匙は少し黙った。
「なぜ」
「身体を休めるため」
「休めるために、水を使うのか」
「そうだ」
「贅沢だ」
「そうだ」
星船は変に否定しなかった。
贅沢ではない、と言うと嘘になる。六世紀のブルディガラから来た匙にとって、これは明らかに途方もない贅沢だった。
匙は少し考えた。
「贅沢が全部悪いわけではない」
ゆっくり浴槽に身体を沈める。
湯の中に肩まで浸かった瞬間、匙の顔は変わった。
警戒が全部消えたわけではない。たぶん、匙の警戒心は一生消えない。
でも、身体のどこかが「今は逃げなくていい」と判断した。
匙は目を閉じかけて、すぐ開けた。
「目を閉じるのはまだ無理」
「開けたままでよい」
「背中が壁だといい」
「浴槽の形状を調整するか」
「いま動かすな」
「了解」
湯が静かに揺れた。
匙は言った。
「セイロンの水は強かった」
「そうだな」
「これは、顔なしの水」
「星船内循環水である」
「顔なしの水」
「……そうだな」
匙はしばらく湯を見た。
「顔なしの水には、臭いがない」
「不快臭を除去している」
「少し、変な匂いを入れろ」
星船が停止した。
「変な匂い」
「木とか、土とか、煙じゃないけど煙みたいなやつ」
サルが言った。
「檜か」
物品転送班が即座に反応した。
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日本式浴室香気候補:檜、柚子、菖蒲、炭、石鹸
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匙は「柚子」を選んだ。名前の音が短くてよかった。
浴槽に柚子の香りが薄く入ると、匙は鼻を動かした。
「これは食える匂いか」
「柑橘である。食用可」
「湯に飯を入れるな」
「香りのみ」
「変な国だ、ニホン」
「これは二十世紀から二十一世紀にかけての日本の入浴文化の一部で――」
「長い」
「すまない」
風呂から出た後の匙は、非常に不機嫌だった。
気持ちよかったからである。
気持ちいいものは危ない。気持ちいいものには慣れる。慣れると、無くなった時に辛い。
無くなった時に辛いものは弱点になる。匙はそれを知っている。
だから、湯上がりの彼女は星船に向かって言った。
「これは危ない」
「身体への悪影響は確認されない」
「違う」
「心理的依存の懸念か」
「言葉を長くするな。好きになると困る」
星船は沈黙した。
匙は髪を拭きながら続けた。
「飯もそう。床もそう。風呂もそう。顔なしは、いつも困るものを出す」
「出さない方がよいか」
匙は即答しなかった。
布で髪を拭く。水滴が肩を伝う。
肌が温かい。身体が軽い。
「出せ」
「了解」
「でも、私のものだということにするな」
「理解」
「嘘は噛む」
「了解」
「あと、湯の部屋の時間は私が決める」
「了解」
「棒雨も」
「了解」
「湯を勝手に熱くするな」
「了解」
「星船の説明は半分にしろ」
「努力する」
「努力じゃなくて、しろ」
「する」
匙は満足した。
その後、星船内に匙専用の浴室が正式実装された。
ただし、正式名称は揉めた。
星船案:個体衛生・温熱回復区画
サル案:浴室
匙案:湯の部屋
強硬接触班三案:第一オルタ湯殿
即時却下。
最終名称は、匙が決めた。
――湯の部屋
湯の部屋の入口には、匙が自分で傷をつけた印がある。
もちろん星船の壁には本来傷などつかないが、星船はそこだけ傷を薄く残した。
意味はこうだった。
――ここは私が入る。
――顔なしは勝手に見るな。
その夜、匙はいつもより早く眠くなった。たぶん湯のせいだった。
彼女は寝台の上に座り、髪を半分乾かしたまま星船に言った。
「顔なし」
「何か」
「昔の私なら、湯の部屋を売った」
「風呂は売却困難」
「違う。湯を少しずつ売る」
「ああ」
「でも、今は売らない」
「なぜ」
匙は少し考えた。
「私が使うから」
星船は答えた。
「そうだな」
「あと、たまに誰かに貸すかもしれない」
「誰に」
「私が決める」
「そうだな」
匙は布団に潜った。
「明日は棒雨だけにする」
「了解」
「湯は明後日」
「了解」
「柚子は少し入れろ」
「了解」
「床」
星船は床を温めた。
湯上がりの匙は、いつもより少し長く目を閉じた。
星船はそれを見なかった。ただ、表示を小さく更新した。
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匙、風呂を要求。
要求は妥当。
実装後、本人の管理下に置く。
星船は勝手に見ない。
柚子は少し。
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サルはそれを見て、最後の一行は残してもいいと思った。




