セイロンの散歩
匙が星船で暮らすようになって一年ほどが経った。
その間には、いろいろなことがあった。
匙は噛んだ。騒いだ。歩いた。鍋を叩いた。
星船は少しずつ匙を落ち着かせ、教育を与えた。
ときどき外の世界を見せた。
しかし星船は相変わらず「顔なし」だった。
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匙が最初に「セイロン、九世紀」と言った時、星船は少し警戒した。
九世紀のセイロンは、王権、僧院、灌漑、港、商人、森、象、熱、病、身分、言語が、匙の足元にそのまま絡んでくる。
星船は壁に表示した。
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候補地点:アヌラーダプラ王国圏
時期:9世紀
注意:大規模僧院、王都、水利施設、交易路、港市との接続あり/暑熱、熱中症、脱水、食中毒、虫刺され
単独行動訓練としては難度高
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匙は、その説明を半分も聞かなかった。
「暑いところか」
「暑熱環境である」
「飯はあるか」
「米、果実、魚、香辛料、乳製品、豆類等が想定される」
「水は」
「水利施設は発達しているが、飲用可否は地点による」
「人は多いか」
「王都および僧院周辺は多い」
「なら行く」
星船は言った。
「目的は」
匙は腰の布袋を締め直した。
「散歩」
サルは、その言葉の危険さをよく知っていた。
匙の「散歩」は、たいてい、ただの散歩では終わらない。
市場の匂いを嗅ぐ。
飯の流れを見る。
水の出どころを見る。
子供が殴られていないか見る。
偉そうな服の人間が何を食っているか見る。
そして星船が余計なことを言えば、鍋を鳴らされる。
今回、鍋は持たせなかった。
代わりに、小さな金属匙を持たせた。
本人の名であり、武器ではなく食器であり、印でもある。
匙はそれを見て言った。
「これで十分」
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星船は、匙をアヌラーダプラの都から少し離れた道端に降ろした。
時間は朝だった。
最初に来たのは湿った熱だった。空気が葉と泥と水と獣の匂いを帯びていた。
遠くで鳥が鳴き、どこかで水牛が動き、土の道に裸足の跡が残っている。
匙はすぐにしゃがみこんで、土を指で触った。
「柔らかい」
「降雨後の土壌湿潤」
「言葉を長くするな」
彼女は立ち上がり、道の先を見た。
歩く人間が大勢いる。
布を巻いた男、荷を背負う女、頭に籠を載せた子、剃髪した僧。そして牛、犬、水牛。水田と木立ち、匙が見たことのない形の荷車。
匙は小声で言った。
「ここはよく動く」
「王都周辺交通路」
「動く場所には飯がある」
この判断はだいたい正しい。
匙は道に沿って歩いた。
言葉はほとんど分からなかった。星船の翻訳は使えたが、匙はあえて少し切っていた。
「全部分かると、油断する」
星船は不満そうだった。
「翻訳補助を完全に利用した方が安全」
「分かりすぎると、誰が嘘をついているか分からない」
これが匙の理屈だった。
言葉が分からないとき、人間は手、目、足の向き、飯の持ち方、距離で相手を読む。
匙はそれが得意だった。
道端で少年が小さな黄色い果物を売っていた。匙の知らない果物だった。
少年が何かを言い、星船翻訳が一瞬遅れて、
「買うか」
とだけ出した。
匙は実を指差した。
「甘いか」
少年は、匙の言葉は分からない。
しかし顔と指で察して、ひとつを割って見せた。
匂い、酸味、甘みの気配がある。
匙は小銭を出そうとして、星船が用意した現地風の小さな貨幣を手の中で転がした。
少年は匙の手元を見た。
目が少し鋭くなった。
匙もその目を見返した。子供同士の値踏みだった。
少年は値段を高めに言った。
翻訳は出なかったが、匙には言っていることが何となく分かった。
「高い」
少年は肩をすくめた。
匙は貨幣を一つ減らした。
少年は不満そうな顔をしながら、実を三つ渡した。
匙は一つ食べた途端に顔をしかめた。
「酸っぱい!」
少年は笑った。
匙はもう一つを懐に入れた。
三つ目は、近くでこちらを見ていた小さい子に投げた。
少年が何か叫ぶと、匙は言った。
「売った後は私のものだ」
星船はそれを翻訳しようとして、途中でやめた。
どうせ通じている。
王都へ近づくと匙の足が遅くなった。
周りに大きなものが増えた。
土盛り、石、白く塗られた構造物。
道を行く僧の数も増える。水をたたえた池や貯水施設らしきものが見える。木陰には人が集まる。
祈りの声、読誦、鳥、虫、鍋の音がうるさく響く。
匙は、水を見るたびに近づいて、匂いを嗅いだ。すぐには口をつけず、人が飲んでいるか、動物が入っていないか、流れがあるか溜まっているかを見た。
星船は言った。
「飲用可否判定が可能」
「待て」
「危険回避のため」
「人がどう扱うか見る」
しばらくすると、女たちが水を汲みに来た。子供が水辺で遊びかけ、年長の女に叱られた。
男が水を手ですくって飲んだが、匙はその男の腹具合は分からない。
「飲まない」
「携帯水を提供可能」
「それは最後」
匙は水を我慢した。
「水が強い場所だ」
「灌漑文明の――」
「黙れ。水が強い場所」
僧院の近くで、匙は初めて少し困った。
そこでは僧たちが食べ物を受け取っていた。
器、布、供物。
米、果物、煮たもの。
人々がそういうものを静かに差し出す。
匙は、この光景を、かなり真剣に見た。
「この人たちは、働かずに飯をもらうのか」
星船が慎重に答えた。
「宗教的布施である」
「あれは、飯をもらうための服か」
「違う」
「でも飯をもらっている」
「修行者としての役割がある」
匙は眉を寄せた。
「その役割で腹がふくれるのか」
ただ、彼女は僧たちを嫌ったわけではない。
彼らの服装は簡素で、裸足で、器を持ち、食べ物を溜め込みすぎている様子はない。
彼女が他の土地で見てきた貴族や役人の「食べ物を隠す匂い」とは少し違う。
そのとき、若い僧の一人が匙に気づいた。
異国の子供。
服が変。
目が野良猫。
腰には見慣れない金属の小匙。
僧は、穏やかに言った。
「道に迷ったのか」
匙は答えた。
「散歩」
僧は首を傾げた。
「どこから」
匙は少し考えた。
「遠い水の向こう」
嘘ではないが、答えとしては足りない。
僧はもう一度聞いた。
「食べたか」
匙は、この問いには反応が早かった。
「少し」
僧は供物の果物をひとつ差し出そうとした。匙は一歩下がった。
「なぜ」
「余っている」
匙は目を細めた。
余っている。
この言葉には危険がある。余っていると言う者ほど、後で取り返そうとすることがある。
だが、僧の手は匙に近づきすぎない。投げもしない。
ただ、その果物を匙の前に置いた。
匙は少し待ってから、拾った。
「礼」
僧は笑った。
果物を齧ると、さっきの少年の実よりも甘かった。
匙は僧を見て言った。
「お前は飯をもらう。飯を渡す。変な仕事だ」
星船の翻訳が迷った。
僧にどう訳すか。結局、星船はかなり柔らかくした。
「あなたの役目は不思議だ」
僧は笑った。
匙はその顔を見て、すぐに気づいた。
「顔なし、いま薄めたな」
「対人摩擦を低減した」
「勝手に薄めるな」
僧は匙が何を言っているのかは分からないまま、匙の怒った顔を見て、さらに笑った。
匙は少し腹を立てたが、貰った果物は食べた。
アヌラーダプラの大きな仏塔を見た時、匙は珍しく黙った。
白い大きなもの。
空へ上がるでもなく、家でもなく、城でもなく、倉でもない。
なのに人々がそれを中心に動く。
匙はしばらくそれを見上げた。
星船は何かを説明したがった。
「これは――」
「まだ」
匙は止めた。
星船は黙った。
匙は、仏塔の周りを歩く人々を見た。
供物を持つ女、僧、子供、老人、裕福そうな者、そうでない者。
彼らは歩き、手を合わせ、何かを唱え、花を置く。
「でかい白いものが飯を集めるのか」
「信仰対象であり、飯そのものを集めるわけではない」
「でも人が来る。人が来ると飯も来る」
彼女は僧院の外れの厨房を見つけて、そちらへ行った。
星船が言った。
「中心施設の観察はよいのか」
「でかいものは逃げない。鍋は逃げる」
厨房は匙にとって、どの時代でも一番分かりやすい場所だった。
火があり、水がある。刃物があり、食材がある。働く人間と怒鳴る人間がいる。
手が早い人間が偉い。嘘をついても鍋の中身は増えない。
セイロンの厨房は匂いが強かった。
米、煮た豆、ココナッツらしい甘い油の匂い。
香辛料、煙、葉。魚の乾いた匂い、酸っぱいもの。
匙は目を輝かせた。
「ここは強い」
厨房の女が匙を見つけて、鋭く言った。
「誰だ、邪魔をするな」
匙はすぐに安心した。怒る厨房の女は、だいたい信用できる。少なくとも、何を嫌がっているか分かりやすい。
匙は両手を上げた。
「食べない。見る」
女はさらに何か言った。
「見るなら働け」
匙はにやっとした。
「よい」
星船が慌てた。
「現地労働参加は歴史干渉――」
「散歩だ」
「散歩ではない」
「手伝うだけ」
厨房の女は、匙に葉を洗わせた。
匙は水を無駄にしない。食材も落とさず、手の動きが速い。ただし、分からない香辛料は全部匂いを嗅ぐ。
女は匙の手元を見て、少し態度を変えた。
「お前、厨房の人間か」
「半分」
「半分とは」
「変な家の鍋持ち」
女には伝わらなかった。
しかし、匙が鍋を尊重する人間であることは分かったらしい。それで十分だった。
食事の時間になると、匙は厨房の端で米と豆を辛く煮たものを、少しだけ食べさせてもらった。
酸味もあり、ココナッツの甘みも入っている。塩もあり、魚も入っている。
匙は一口食べた途端に咳き込んだ。
辛味に慣れていないわけではないが、これはこれまでに食べたものとは辛味の種類が違った。
厨房の女が大きな声で笑い、匙は涙目で顔なしの気配があるあたりを睨んだ。
「毒ではないな」
「香辛料である」
「毒に近い」
匙は汗をかきながら、二口、三口と食べた。
「……強い飯」
匙が皿を空にすると、厨房の女は満足そうな顔をした。
午後、匙は王都の外れで生まれてはじめて象を見た。
象は大きすぎた。
匙は思わず、動きを止めた。
象は人間が横にいても、人間のものには見えない。
皮、耳、鼻、足、匂い、目。全てが大きい。
匙は小声で言った。
「これは家より強い」
星船が答えた。
「大型哺乳類。人間による使役が――」
「説明するな。見てる」
象使いらしい男が、匙の視線に気づいて何かを言った。
星船翻訳が少し遅れて、
「近づくな」
と出した。
匙は即座に従った。
「これは踏む」
「踏圧は致命的」
「分かる」
匙は、かなり遠くから象を見続けた。
象が鼻で草を取と、匙は大いに感心した。
「手が顔についている」
それがこの日の散歩で、いちばん素直な感想だった。
夕方、匙は港へ行きたがった。
星船は少し迷った。アヌラーダプラの都からは、海は見えない。港へ移すなら、これはもう「散歩」ではなく転移の追加になる。
匙は言った。
「島なら、水の端を見たい」
星船は負けた。
同じ時代の港の近くへ、匙を短距離転送した。
港には、都と違う匂いと音があった。
塩、魚、腐った藻、船材、樹脂、汗と香辛料、布、外国語。
匙は目を細めた。
「ここは分かる」
港町は、匙の得意な場所だった。
誰も完全にはその土地の者ではない。誰も完全には信用されない。誰もが何かを売り、運び、隠し、急ぐ。
水があり、飯があり、嘘があり、逃げ道がある。
アラブ系かペルシア系らしい商人、南インド系の船乗り、現地の荷運び、僧、役人、魚を持つ女、裸足の子供。
匙はそういう雑多な人間たちの中を歩くとき、いちばん生き生きとした。
商人が何か声をかけた。
星船の翻訳は混線した。
「買うか、女、布、香――」
匙は即座に一歩下がった。
「言葉が多い男は高く売る」
商人は笑った。意味は分からないが、匙の態度は分かったらしい。
彼は小さな香辛料の袋を開けた。その匂いを嗅いで、匙は咳き込んだ。
「飯に入れるのか」
商人が大げさに頷くと、匙は顔をしかめた。
「飯が喧嘩になる」
それでも少し欲しそうだった。
星船が言った。
「持ち帰りは現地物品として可能」
「いくら」
商人は高い値段を言った。
匙は笑った。
「高い」
商人はさらに笑った。
言葉はほとんど通じないまま、指、表情、袋の重さ、小銭の音で値切りが成立した。
匙は少量の香辛料を手に入れた。
商人は少し得をした。匙も少し得をした。
お互いにそう思った。
帰る直前に問題が起きた。
港の隅で、痩せた子供が魚の屑を拾っていた。
匙はそれを見てしまった。
そういうものを見てしまうと終わりだった。
その子は、ブルディガラの子供ではない。セイロンの子だ。
言葉も気候も肌も服も違う。だが、屑を拾う時の手の速さは、少し前までの匙と同じだった。
周りを見る目も同じ。
大人が近づくと、身体が先に縮むのも同じ。
星船は黙った。
匙は、さっき買った果物をひとつ取り出した。
星船が静かに言った。
「子供を拾うな」
匙は少し笑った。
「私の台詞だ」
「食わせるだけか」
「食わせるだけ」
匙は子供に近すぎない位置へ果物を置いた。
子供はすぐには取らない。
匙は昔の自分を見るような顔で待った。
その子は、果物を匙のように足で引き寄せはしなかった。手で素早く取った。
そして、すぐに逃げた。
匙は言った。
「速い」
「追跡するか」
「するな」
「状態確認は」
「するな」
星船は黙った。
匙は港の全体をもう一度見た。
「どこにでもいるな」
「何が」
「腹の減った小さいの」
星船は、答えなかった。
帰還前に、匙は少し高い場所から海を見た。
セイロンの海はブルディガラの川よりも、ずっと広く見えた。
海の向こうにも、また別の飯、別の嘘、別の水、別の子供がいる。
匙はそれを知ってしまった。
「顔なし」
「何か」
「ここは嫌いじゃない」
「理由は」
「飯が強い。水が強い。人が混ざる。鍋の女が怒る。象がいる」
「再訪希望か」
「たぶん」
「単独行動訓練としては難度が高い」
匙は海から目を離さずに言った。
「ここは生きている感じが強い」
星船はその言葉を保存しようとした。
匙は振り向いて、空中に向かって鋭く言った。
「保存するな」
「していない」
「嘘」
サルが口を挟んだ。
「記録は最小限にする」
匙はうなずいた。
「それならいい」
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星船に戻った匙は、厨房へ直行して鍋を出し、セイロンで買った香辛料を少し入れた。
星船が警告した。
「量が不明。辛味過多の可能性」
「少しだ」
実際には、少しではなかった。
鍋の中身はかなり強い匂いになった。匙は一口食べて咳き込んだ。
「強い」
「摂取継続は推奨しない」
「うるさい」
匙は涙目で食べた。でも、泣きながら少し笑っている。
「顔なし」
「何か」
「セイロンの飯は怒っている」
「味覚表現として記録――」
カン
また、鍋が鳴った。
「するな」
「……記録しない」
「嘘。でも小さくしろ」
サルは小さく記録した。
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匙、9世紀セイロンを再訪候補地に分類。理由:飯、水、港、厨房、象。
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強硬接触班三が追記しようとした。
星船セイロン鍋遠征隊――
サルが即座に消した。
匙は鍋を抱えて、満足した。
その夜、匙が何か言う前に、星船の床はいつもより少し温かく設定された。
匙は気づいたが、何も言わなかった。
ただ、寝る前に一言だけ言った。
「象は強かった」
星船は答えた。
「そうだな」
「顔なしより強い」
「比較対象が不適切」
「強い」
「……そうだな」
匙は満足して眠った。




