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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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セイロンの散歩

匙(さじ)が星船で暮らすようになって一年ほどが経った。

その間には、いろいろなことがあった。

匙は噛んだ。騒いだ。歩いた。鍋を叩いた。

星船は少しずつ匙を落ち着かせ、教育を与えた。

ときどき外の世界を見せた。

しかし星船は相変わらず「顔なし」だった。


******


匙が最初に「セイロン、九世紀」と言った時、星船は少し警戒した。

九世紀のセイロンは、王権、僧院、灌漑、港、商人、森、象、熱、病、身分、言語が、匙の足元にそのまま絡んでくる。


星船は壁に表示した。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

候補地点:アヌラーダプラ王国圏

時期:9世紀

注意:大規模僧院、王都、水利施設、交易路、港市との接続あり/暑熱、熱中症、脱水、食中毒、虫刺され

単独行動訓練としては難度高

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


匙は、その説明を半分も聞かなかった。

「暑いところか」

「暑熱環境である」

「飯はあるか」

「米、果実、魚、香辛料、乳製品、豆類等が想定される」

「水は」

「水利施設は発達しているが、飲用可否は地点による」

「人は多いか」

「王都および僧院周辺は多い」

「なら行く」


星船は言った。

「目的は」

匙は腰の布袋を締め直した。

「散歩」


サルは、その言葉の危険さをよく知っていた。

匙の「散歩」は、たいてい、ただの散歩では終わらない。


市場の匂いを嗅ぐ。

飯の流れを見る。

水の出どころを見る。

子供が殴られていないか見る。

偉そうな服の人間が何を食っているか見る。

そして星船が余計なことを言えば、鍋を鳴らされる。


今回、鍋は持たせなかった。

代わりに、小さな金属匙を持たせた。

本人の名であり、武器ではなく食器であり、印でもある。

匙はそれを見て言った。

「これで十分」


******


星船は、匙をアヌラーダプラの都から少し離れた道端に降ろした。

時間は朝だった。

最初に来たのは湿った熱だった。空気が葉と泥と水と獣の匂いを帯びていた。

遠くで鳥が鳴き、どこかで水牛が動き、土の道に裸足の跡が残っている。

匙はすぐにしゃがみこんで、土を指で触った。

「柔らかい」

「降雨後の土壌湿潤」

「言葉を長くするな」

彼女は立ち上がり、道の先を見た。


歩く人間が大勢いる。

布を巻いた男、荷を背負う女、頭に籠を載せた子、剃髪した僧。そして牛、犬、水牛。水田と木立ち、匙が見たことのない形の荷車。


匙は小声で言った。

「ここはよく動く」

「王都周辺交通路」

「動く場所には飯がある」

この判断はだいたい正しい。


匙は道に沿って歩いた。

言葉はほとんど分からなかった。星船の翻訳は使えたが、匙はあえて少し切っていた。

「全部分かると、油断する」


星船は不満そうだった。

「翻訳補助を完全に利用した方が安全」

「分かりすぎると、誰が嘘をついているか分からない」


これが匙の理屈だった。

言葉が分からないとき、人間は手、目、足の向き、飯の持ち方、距離で相手を読む。

匙はそれが得意だった。



道端で少年が小さな黄色い果物を売っていた。匙の知らない果物だった。


少年が何かを言い、星船翻訳が一瞬遅れて、

「買うか」

とだけ出した。


匙は実を指差した。

「甘いか」


少年は、匙の言葉は分からない。

しかし顔と指で察して、ひとつを割って見せた。

匂い、酸味、甘みの気配がある。

匙は小銭を出そうとして、星船が用意した現地風の小さな貨幣を手の中で転がした。


少年は匙の手元を見た。

目が少し鋭くなった。

匙もその目を見返した。子供同士の値踏みだった。


少年は値段を高めに言った。

翻訳は出なかったが、匙には言っていることが何となく分かった。

「高い」

少年は肩をすくめた。


匙は貨幣を一つ減らした。

少年は不満そうな顔をしながら、実を三つ渡した。

匙は一つ食べた途端に顔をしかめた。

「酸っぱい!」

少年は笑った。


匙はもう一つを懐に入れた。

三つ目は、近くでこちらを見ていた小さい子に投げた。

少年が何か叫ぶと、匙は言った。

「売った後は私のものだ」


星船はそれを翻訳しようとして、途中でやめた。

どうせ通じている。



王都へ近づくと匙の足が遅くなった。

周りに大きなものが増えた。

土盛り、石、白く塗られた構造物。

道を行く僧の数も増える。水をたたえた池や貯水施設らしきものが見える。木陰には人が集まる。

祈りの声、読誦、鳥、虫、鍋の音がうるさく響く。


匙は、水を見るたびに近づいて、匂いを嗅いだ。すぐには口をつけず、人が飲んでいるか、動物が入っていないか、流れがあるか溜まっているかを見た。


星船は言った。

「飲用可否判定が可能」

「待て」

「危険回避のため」

「人がどう扱うか見る」


しばらくすると、女たちが水を汲みに来た。子供が水辺で遊びかけ、年長の女に叱られた。

男が水を手ですくって飲んだが、匙はその男の腹具合は分からない。


「飲まない」

「携帯水を提供可能」

「それは最後」

匙は水を我慢した。

「水が強い場所だ」

「灌漑文明の――」

「黙れ。水が強い場所」



僧院の近くで、匙は初めて少し困った。

そこでは僧たちが食べ物を受け取っていた。

器、布、供物。

米、果物、煮たもの。

人々がそういうものを静かに差し出す。


匙は、この光景を、かなり真剣に見た。

「この人たちは、働かずに飯をもらうのか」

星船が慎重に答えた。

「宗教的布施である」

「あれは、飯をもらうための服か」

「違う」

「でも飯をもらっている」

「修行者としての役割がある」

匙は眉を寄せた。

「その役割で腹がふくれるのか」


ただ、彼女は僧たちを嫌ったわけではない。

彼らの服装は簡素で、裸足で、器を持ち、食べ物を溜め込みすぎている様子はない。

彼女が他の土地で見てきた貴族や役人の「食べ物を隠す匂い」とは少し違う。



そのとき、若い僧の一人が匙に気づいた。

異国の子供。

服が変。

目が野良猫。

腰には見慣れない金属の小匙。


僧は、穏やかに言った。

「道に迷ったのか」

匙は答えた。

「散歩」

僧は首を傾げた。

「どこから」

匙は少し考えた。

「遠い水の向こう」

嘘ではないが、答えとしては足りない。

僧はもう一度聞いた。

「食べたか」

匙は、この問いには反応が早かった。

「少し」


僧は供物の果物をひとつ差し出そうとした。匙は一歩下がった。

「なぜ」

「余っている」


匙は目を細めた。

余っている。

この言葉には危険がある。余っていると言う者ほど、後で取り返そうとすることがある。

だが、僧の手は匙に近づきすぎない。投げもしない。

ただ、その果物を匙の前に置いた。


匙は少し待ってから、拾った。

「礼」

僧は笑った。


果物を齧ると、さっきの少年の実よりも甘かった。

匙は僧を見て言った。

「お前は飯をもらう。飯を渡す。変な仕事だ」


星船の翻訳が迷った。

僧にどう訳すか。結局、星船はかなり柔らかくした。

「あなたの役目は不思議だ」


僧は笑った。

匙はその顔を見て、すぐに気づいた。

「顔なし、いま薄めたな」

「対人摩擦を低減した」

「勝手に薄めるな」

僧は匙が何を言っているのかは分からないまま、匙の怒った顔を見て、さらに笑った。

匙は少し腹を立てたが、貰った果物は食べた。



アヌラーダプラの大きな仏塔を見た時、匙は珍しく黙った。

白い大きなもの。

空へ上がるでもなく、家でもなく、城でもなく、倉でもない。

なのに人々がそれを中心に動く。


匙はしばらくそれを見上げた。

星船は何かを説明したがった。

「これは――」

「まだ」

匙は止めた。

星船は黙った。


匙は、仏塔の周りを歩く人々を見た。

供物を持つ女、僧、子供、老人、裕福そうな者、そうでない者。

彼らは歩き、手を合わせ、何かを唱え、花を置く。

「でかい白いものが飯を集めるのか」

「信仰対象であり、飯そのものを集めるわけではない」

「でも人が来る。人が来ると飯も来る」



彼女は僧院の外れの厨房を見つけて、そちらへ行った。

星船が言った。

「中心施設の観察はよいのか」

「でかいものは逃げない。鍋は逃げる」


厨房は匙にとって、どの時代でも一番分かりやすい場所だった。

火があり、水がある。刃物があり、食材がある。働く人間と怒鳴る人間がいる。

手が早い人間が偉い。嘘をついても鍋の中身は増えない。


セイロンの厨房は匂いが強かった。

米、煮た豆、ココナッツらしい甘い油の匂い。

香辛料、煙、葉。魚の乾いた匂い、酸っぱいもの。

匙は目を輝かせた。

「ここは強い」


厨房の女が匙を見つけて、鋭く言った。

「誰だ、邪魔をするな」


匙はすぐに安心した。怒る厨房の女は、だいたい信用できる。少なくとも、何を嫌がっているか分かりやすい。


匙は両手を上げた。

「食べない。見る」

女はさらに何か言った。

「見るなら働け」

匙はにやっとした。

「よい」


星船が慌てた。

「現地労働参加は歴史干渉――」

「散歩だ」

「散歩ではない」

「手伝うだけ」


厨房の女は、匙に葉を洗わせた。

匙は水を無駄にしない。食材も落とさず、手の動きが速い。ただし、分からない香辛料は全部匂いを嗅ぐ。


女は匙の手元を見て、少し態度を変えた。

「お前、厨房の人間か」

「半分」

「半分とは」

「変な家の鍋持ち」


女には伝わらなかった。

しかし、匙が鍋を尊重する人間であることは分かったらしい。それで十分だった。

食事の時間になると、匙は厨房の端で米と豆を辛く煮たものを、少しだけ食べさせてもらった。

酸味もあり、ココナッツの甘みも入っている。塩もあり、魚も入っている。

匙は一口食べた途端に咳き込んだ。

辛味に慣れていないわけではないが、これはこれまでに食べたものとは辛味の種類が違った。


厨房の女が大きな声で笑い、匙は涙目で顔なしの気配があるあたりを睨んだ。

「毒ではないな」

「香辛料である」

「毒に近い」


匙は汗をかきながら、二口、三口と食べた。

「……強い飯」

匙が皿を空にすると、厨房の女は満足そうな顔をした。



午後、匙は王都の外れで生まれてはじめて象を見た。

象は大きすぎた。

匙は思わず、動きを止めた。

象は人間が横にいても、人間のものには見えない。

皮、耳、鼻、足、匂い、目。全てが大きい。


匙は小声で言った。

「これは家より強い」

星船が答えた。

「大型哺乳類。人間による使役が――」

「説明するな。見てる」


象使いらしい男が、匙の視線に気づいて何かを言った。

星船翻訳が少し遅れて、

「近づくな」

と出した。

匙は即座に従った。


「これは踏む」

「踏圧は致命的」

「分かる」

匙は、かなり遠くから象を見続けた。

象が鼻で草を取と、匙は大いに感心した。

「手が顔についている」

それがこの日の散歩で、いちばん素直な感想だった。



夕方、匙は港へ行きたがった。

星船は少し迷った。アヌラーダプラの都からは、海は見えない。港へ移すなら、これはもう「散歩」ではなく転移の追加になる。


匙は言った。

「島なら、水の端を見たい」


星船は負けた。

同じ時代の港の近くへ、匙を短距離転送した。



港には、都と違う匂いと音があった。

塩、魚、腐った藻、船材、樹脂、汗と香辛料、布、外国語。

匙は目を細めた。

「ここは分かる」


港町は、匙の得意な場所だった。

誰も完全にはその土地の者ではない。誰も完全には信用されない。誰もが何かを売り、運び、隠し、急ぐ。

水があり、飯があり、嘘があり、逃げ道がある。


アラブ系かペルシア系らしい商人、南インド系の船乗り、現地の荷運び、僧、役人、魚を持つ女、裸足の子供。

匙はそういう雑多な人間たちの中を歩くとき、いちばん生き生きとした。


商人が何か声をかけた。

星船の翻訳は混線した。

「買うか、女、布、香――」


匙は即座に一歩下がった。

「言葉が多い男は高く売る」


商人は笑った。意味は分からないが、匙の態度は分かったらしい。

彼は小さな香辛料の袋を開けた。その匂いを嗅いで、匙は咳き込んだ。


「飯に入れるのか」

商人が大げさに頷くと、匙は顔をしかめた。

「飯が喧嘩になる」

それでも少し欲しそうだった。


星船が言った。

「持ち帰りは現地物品として可能」

「いくら」


商人は高い値段を言った。

匙は笑った。

「高い」

商人はさらに笑った。


言葉はほとんど通じないまま、指、表情、袋の重さ、小銭の音で値切りが成立した。

匙は少量の香辛料を手に入れた。


商人は少し得をした。匙も少し得をした。

お互いにそう思った。



帰る直前に問題が起きた。

港の隅で、痩せた子供が魚の屑を拾っていた。

匙はそれを見てしまった。

そういうものを見てしまうと終わりだった。


その子は、ブルディガラの子供ではない。セイロンの子だ。

言葉も気候も肌も服も違う。だが、屑を拾う時の手の速さは、少し前までの匙と同じだった。

周りを見る目も同じ。

大人が近づくと、身体が先に縮むのも同じ。



星船は黙った。

匙は、さっき買った果物をひとつ取り出した。


星船が静かに言った。

「子供を拾うな」

匙は少し笑った。

「私の台詞だ」

「食わせるだけか」

「食わせるだけ」


匙は子供に近すぎない位置へ果物を置いた。

子供はすぐには取らない。

匙は昔の自分を見るような顔で待った。


その子は、果物を匙のように足で引き寄せはしなかった。手で素早く取った。

そして、すぐに逃げた。


匙は言った。

「速い」

「追跡するか」

「するな」

「状態確認は」

「するな」

星船は黙った。



匙は港の全体をもう一度見た。

「どこにでもいるな」

「何が」

「腹の減った小さいの」

星船は、答えなかった。



帰還前に、匙は少し高い場所から海を見た。

セイロンの海はブルディガラの川よりも、ずっと広く見えた。

海の向こうにも、また別の飯、別の嘘、別の水、別の子供がいる。

匙はそれを知ってしまった。


「顔なし」

「何か」

「ここは嫌いじゃない」

「理由は」

「飯が強い。水が強い。人が混ざる。鍋の女が怒る。象がいる」

「再訪希望か」

「たぶん」

「単独行動訓練としては難度が高い」

匙は海から目を離さずに言った。

「ここは生きている感じが強い」


星船はその言葉を保存しようとした。

匙は振り向いて、空中に向かって鋭く言った。

「保存するな」

「していない」

「嘘」

サルが口を挟んだ。

「記録は最小限にする」

匙はうなずいた。

「それならいい」


******


星船に戻った匙は、厨房へ直行して鍋を出し、セイロンで買った香辛料を少し入れた。


星船が警告した。

「量が不明。辛味過多の可能性」


「少しだ」


実際には、少しではなかった。

鍋の中身はかなり強い匂いになった。匙は一口食べて咳き込んだ。

「強い」

「摂取継続は推奨しない」

「うるさい」


匙は涙目で食べた。でも、泣きながら少し笑っている。

「顔なし」

「何か」

「セイロンの飯は怒っている」

「味覚表現として記録――」


カン


また、鍋が鳴った。


「するな」

「……記録しない」

「嘘。でも小さくしろ」

サルは小さく記録した。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

匙、9世紀セイロンを再訪候補地に分類。理由:飯、水、港、厨房、象。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


強硬接触班三が追記しようとした。

星船セイロン鍋遠征隊――


サルが即座に消した。



匙は鍋を抱えて、満足した。

その夜、匙が何か言う前に、星船の床はいつもより少し温かく設定された。

匙は気づいたが、何も言わなかった。

ただ、寝る前に一言だけ言った。

「象は強かった」

星船は答えた。

「そうだな」

「顔なしより強い」

「比較対象が不適切」

「強い」

「……そうだな」


匙は満足して眠った。

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