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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
間章

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乾隆帝拉致事件(2)

漆黒の宇宙空間に、巨大な白い物体が浮いていた。

その脇腹が開き、承徳から浮上した連絡艇が静かに格納される。その後、何事も無かったように脇腹は閉じた。


こうして乾隆帝は星船本船に到着した。

とはいえ乾隆帝本人に、その認識はない。

地上を離れて一刻ほど経った時点で、急に白い壁の向こうに通路が現われ、別室に移動させられただけだった。


その部屋で、乾隆帝はあらためて地球全体を見せられた。

今度は謎の板から浮き上がる球体ではなく、壁面に投影された巨大な映像だった。


壁が光り、青い球が現れる。

乾隆帝はそれを「地球」とは呼ばなかった。彼の中では、それは「地」と「天」の関係を乱す像だった。


大清の版図が示される。

満洲、モンゴル、漢地、新疆、チベット。

色がついた。それは、確かに大きかった。

だが、球全体の中では一部だった。


次にロシアが示された。

続いて、オスマン。

ペルシア。

インド。

ヨーロッパ諸国。

アフリカ。

南北アメリカ。


来訪者は言った。

「あなたの支配は広い。だが、全体ではない」


乾隆帝は答えた。

「天下とは、線を引いた球ではない。礼の及ぶところ、化の及ぶところ、天命の照らすところである」


翻訳箱はこの文を苦しそうに砕いた。

「世界秩序は物理境界ではなく、儀礼的変換範囲である」


来訪者たちは、その訳を興味深そうに受け取った。



彼らは理解しようとはしていた。だが、その理解の仕方は乾隆帝にとって、極めて屈辱的だった。

乾隆帝の世界観は、彼らにとって「文化的モデル」だった。天命も、天下も、礼も、皇帝も、すべては比較対象の一つにされていた。

彼の世界は否定されたのではない。展示されたのだ。

博物として。



そのとき、来訪者たちと同じく人間のようで人間に見えず、男とも女ともつかない者がもう一人入ってきた。

来訪者たちの誰かが、少し慌てたような声を発した。

「サル」


サルと呼ばれた何者かは、感情の読めない顔を乾隆帝に向けた。

感情は読めないが、なんとなく怒りや苛立ち、困惑に似た気配を感じる。

但し、乾隆帝に向けられたものではない。


乾隆帝はその者の名を聞いて、眉を動かした。

「猿か」

サルは訂正した。

「音声近似。意味はない」

乾隆帝は言った。

「意味なき名は名ではない」

サルは答えた。

「あなたの体系ではそうかもしれない」


この「あなたの体系」という言い方も、乾隆帝は嫌った。


サルは高くもなく低くもなく、年齢や性別の読めない声で言った。

「身体疲労、重度心理負荷を確認。栄養補給が可能」

「人間の言葉で言え」

「食事を出せる」

「天子がこのような場で、凶徒どもに出されたものを口にすると思うか」

「認識」


しかし乾隆帝は喉が渇いていた。

かなり渇いていた。


「茶を出せ」

「茶」

壁の一角が開き、そこから奇妙な透明の器が出てきた。ガラスには見えない。

乾隆帝は目を細めて、一言だけ言った。

「怪異」


透明な器には緑色の液体が入っていた。

茶に見えた。

少なくとも、見た目は茶に似ていた。

乾隆帝はそれを一口飲んだだけで脇に置いた。

「魂のない茶だ」

乾隆帝を連れてきた連中の一人が答えた。

「魂の成分解析は困難である」



次に、筆墨(ひつぼく)を求めた。

壁の一角がまた開き、灰色の板と黒い棒が出てきた。

「これは汝らの筆墨か」

「書記器具と理解」

「これは紙でも筆でもない」


墨の匂いはなかったが、文字は書けた。

彼は詩を書いた。


天外狂徒犯紫宸

星槎不識帝王身

乾坤自有華夷序

豈許群妖議主賓


来訪者たちにもサルにも読めなかった。

翻訳箱が意味を砕いた。


「星から来た無礼で愚かな者たちが宮廷を侵した。宇宙には華夷の秩序がある。怪物どもが主客を論じることは許されない」


来訪者たちは沈黙した。

一人が、非常に丁寧に言った。

「詩的敵意を確認」

乾隆帝は初めて、笑いそうになった。



乾隆帝は問うた。

「汝らはなぜ朕を奪った」


サルは無言だった。

来訪者たちの一人が答えた。

「あなたの社会は高度に中心化している。中心個体との直接接触が、集団規模の衝突を避ける最小暴力と判断された」

「朕を奪うことが最小暴力か」

「はい」

「侍衛を倒し、天子を辱めることがか」

「我々の推定では、首都攻撃や軍事制圧より損害が少ない」


乾隆帝は黙った。

彼らは正しいのかもしれない。それが、さらに腹立たしかった。

もし彼らが北京を焼き、軍を殺し、民を殺したなら、彼らは賊である。討つべき敵である。

だが彼らは、最小限の暴力で皇帝だけを奪った。清の秩序を理解している。

少なくとも、外から見て急所を理解している。それが恐ろしかった。



******


乾隆帝が星船に到着してから三十分ほど経った。


地上では、隠蔽が行われていた。

承徳の随行大臣たちは全員、既に死を覚悟していた。

皇帝の御身を奪われた。これは臣下としての最大の罪である。しかし、呑気に自殺している場合ではない。

皇帝の急崩ならばまだ有り得る。戦場で敵に捕えられることも無いとはいえない。しかし、皇帝の拉致とは一体どういう事態なのか。


「皇上の御身は」

領侍衛内大臣(しんえいたいちょう)が蒼白な顔でそれだけを言った。


「諸軍、諸部を抑えなければならぬ」

白い眉を僅かに動かし、首席軍機大臣の阿桂(アグイ)が低い声を出した。

「だが、いま直ちに承徳の外へ漏れれば八旗が動揺する。口を開いた者から斬る。」


「皇上は御健在であらせられる」

吏部尚書の和珅(ヘシェン)が横から言った。

全員が沈黙する。


「御璽も詔勅も出ておらぬ以上、皇上は承徳におられる」


和珅が続ける。

また沈黙が落ちた。


熱河都統(ねっかととう)が瞑目して呟いた。

「──ともあれ、まず、北京へ急使を……」

「北京の誰にだ」

「まずは留守軍機(りゅうしゅぐんき)だろう」

大学士の梁国治(りょうこくち)が応じる。

ここで軍機章京(ジャンギン)の誰かが小声を出した。

「だが、十五阿哥(こうたいしでんか)には……?」


その名が出た瞬間、随行大臣たちの間に、見えない緊張が走った。


「前朝の土木の旧事(どぼくのへん)では……」

「待て!」

阿桂が鋭く切った。

「誰だ、いまその発言をしたのは」

全員が発言者を睨みつけた。

若い軍機章京は蒼い顔になって俯いた。

「その続きを口にすれば、その場で斬る」


皇上は戻るのか、とは口にする者はいなかった。

さすがに乾隆帝の廃位と帝位継承を論じるのは、まだ早い。

たぶん。


その後は誰も、十五阿哥という名を続けなかった。

部屋には、蝋燭の音だけが残った。


胃の腑が痛い。

沈黙のなかで、阿桂はそう思った。


******



その頃、巨大な星船の別の区画の寝台で鍋を抱えて寝ていた匙が目を覚ました。

鍋を叩いた。

「飯!」



途端に低い警報音が鳴り、来訪者たちが慌てて走った。壁の一部が赤く光り、サルが乾隆帝を別室へ移動させた。


乾隆帝は問うた。

「汝らにも不測があるのか」

サルは答えた。

「必ずしも不測ではない」

「不測でなしに走るのか。壁が光るのか」

サルは黙った。

「天外より来ても不測があるか」

「すべての技術は不完全である」

乾隆帝は、その答えを長く味わった。


彼らは天ではない。天を測る者であって、天そのものではない。

それならば、彼らにも礼は必要であろう。


彼はサルに言った。

「不完全な者が、なぜ礼を捨てる」

サルは答えに詰まった。

このとき初めて、乾隆帝は小さな勝利を感じた。


彼らは強い。

だが、彼らの世界にも穴がある。


「暫時待機を要請」

サルはそれだけ言い残し、逃げるように部屋から消えた。


******


星船内部会議室。


星船の意思決定主体群は肉体を持たない。乾隆帝の前で使用していた対人接触用アバターは解除され、無人の部屋でログだけが走った。


サルが低い声で言った。かなり低い声だった。

「接触強硬班、何をした」


接触強硬班は言った。明るかった。

「本接触は対象および、大規模政治的統合体の有事反応測定に有効と推測」


「明らかに接触の域を超えている」


生命影響班が言った。

「これ以上の拘束は対象の心身に重大な損傷を発生させる可能性」


地上観測班が言った。

「承徳では混乱が始まっている」


「当たり前だ」


サルは吐き捨てた。

「すぐ戻せ」


強硬接触班は言った。

「なぜ」


サルは言った。

「独断専行、規則違反、影響甚大」


強硬接触班の光が陰った。


生命影響班が慎重に尋ねた。

「記憶処理を実施するか」


内部会議室に嫌な沈黙が下りた。

それは軽々しく使うべき手段ではない。


地上観測班が控えめに述べた。

「中心個体をこのまま返還すれば、天外の知識を語り、清帝国の世界観を破壊する可能性」


サルは頭を抱えた。

実際には、頭はないが。



サルが別室に戻ると、窓から地上を見下ろしていた乾隆帝が振り返った。

「汝らは朕を持て余しているのか」

鋭い。

サルは否定しなかった。

「はい」

「ならば、朕はまだ皇帝である」

「なぜ」

「持て余される者は、まだ物ではない」



星船は結論に達した。

乾隆帝を地上へ戻す。承徳に夜間降下させる。

本人の記憶は消さない。ただし、彼に一つだけ条件を求める。


「我々の存在を大規模軍事動員の理由にしないこと」

乾隆帝はその条件を聞き、笑った。

「汝らは、朕に誓約を求めるのか」

サルは言った。

「はい」

「誰に誓えと」

「あなたの秩序において最も拘束力ある対象に」

乾隆帝はしばらく黙ってから、言った。

「朕は天に告げる。汝らを討たぬとは言わぬ。ただし、今ただちに天下を乱してまで追わぬ」


サルは、その微妙な言い回しに困った。

「それは不戦合意ではない」

「天子は夷に不戦を誓わぬ」

「では不十分」

「ならば朕を殺せ」

サルは沈黙した。


乾隆帝は続けた。

「殺せば、汝らは清を知らぬまま清を敵にする。帰せば、朕は汝らを知った上で考える。どちらが小さな損か、汝らの算術で決めよ」



結局、彼らは乾隆帝を帰すことにした。


但し、安全策は打った。

この事件に関わった者、目撃した者たちに対して大規模な認識補正を行った。


乾隆帝は軽い風邪で休養していたことになった。侍衛は貧血で倒れたことになった。


乾隆帝は不満だった。

大いに不満だった。


「汝らは凶徒なうえに詐欺師か」


サルは何も言えなかった。

事実に近い。


最後に乾隆帝はサルに問うた。

「お前はどういう立場の者か。接待役か」

サルは答えた。

「内部監査役である」

「監査役」

乾隆帝は鼻で笑った。


******


内部会議室でサルは言った。

「二度とやるな。絶対にやるな」


強硬接触班は抗弁した。

「なぜ」


サルは言った。

「恥だ」




そして、どこかで匙がまた鍋を叩いた。

「飯!」

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