虫じじいの庭
恐竜の時代から帰って以来、匙は地上に降りたとき、小さい生き物を以前より長く見るようになった。
蟻、蜂、蛾、蜘蛛、甲虫、パン屑に来る虫。
匙は昔なら虫というものを「食えるか、刺すか、腐ったものに来るか」くらいで判断していた。
だが恐竜を見たあとに、少し変わった。
小さいものも、大きいものと同じくらい忙しい。それに気づいたらしかった。
星船は調子に乗って昆虫観察を提案した。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
候補:ジャン=アンリ・ファーブル。1823年生、1915年没。フランスの博物学者・昆虫学者・著述家。昆虫や蜘蛛などの生態を観察し、『昆虫記』で知られる。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
匙はその説明を聞いて、まず言った。
「虫好きの男?」
「昆虫学者である」
「虫好きの男だろ」
「概ね」
「偉いのか」
「学者として評価されている」
「虫を見て偉いのか」
「観察と記述により……」
「地面にしゃがむ男か」
「そうだ」
匙は少し考えた。
「なら見てもいい」
ファーブルの庭は、匙にとって妙に落ち着く場所だった。
王宮でも僧院でも巨大都市でもないし、もちろん星船でもない。セイロンの港のように匂いがぶつかってくることもない。
そこにあるのは乾いた土と草と石、低い木、日差しと虫の羽音だった。古い家もあり、人の手が入っているが、庭のすべてを支配しているわけではない。
匙は鼻を動かした。
「ここは、飯の匂いが薄い」
「観察地である」
「でも悪くない」
庭をしばらく歩くと、白い髭の老人が地面にしゃがんでいた。帽子をかぶり、手には小さな道具を持ち、視線は地面に向いている。
彼は、土の上を動く虫を見ていた。
匙は足を止めた。
老人はすぐには顔を上げなかった。
多くの大人は、匙を見る。
服を見て、年齢を見て、女か男か、貧しいか豊かか、どこの者かを値踏みする。だが、この男は、まず虫を見ていた。
匙は小声で言った。
「こいつ、私より虫を見てる」
「ファーブルである」
「虫の男」
ファーブルがようやく顔を上げた。
星船翻訳が、匙の耳に柔らかい音を置いた。
「お嬢さん、そこを踏まないでくれるかな」
匙は一瞬で足を引いた。
「何がいる」
ファーブルは嬉しそうに地面を指した。
「穴蜂だ。仕事の途中だ」
匙がしゃがむと、小さな穴の近くに虫がいた。蟻に似ているが蟻ではない。
匙は真剣な顔で訊いた。
「この小さいのは家を作るのか」
ファーブルは目を細めた。
「そう。とても正確に」
「食うためか」
「子のためだ」
匙の顔が少し変わった。
「子?」
ファーブルは虫を見ながら説明した。
穴蜂は獲物を捕らえると、麻痺させ、その身体に生きたまま卵を産みつけ、幼虫のための食料として残す。
虫の行動は冷たく、正確で、時に残酷で、しかし恐ろしくよくできている。
匙は黙って聞いた。
星船が横から詳細説明を出そうとした。
狩蜂類の繁殖行動――
匙は片手を上げた。
「顔なし、黙れ」
ファーブルが眉を上げた。
「誰に言ったのかね?」
匙は答えた。
「家」
ファーブルはあまり驚かなかった。変な子供や変な大人を相手にすることに慣れている教師の顔だった。
「家が喋るのかね」
「喋る。うるさい」
「それは大変だ」
匙はファーブルを少し見直した。
普通なら神だ悪魔だ幻聴だと騒ぐ。この老人は「それは大変だ」で済ませた。
よい。
匙は、ファーブルの観察をしばらく見た。
彼は虫を捕まえるが、すぐに殺すわけではない。虫を見て、動きを待ち、少し邪魔をし、反応を見る。
匙は最初、それを少し嫌がった。
「邪魔をしている」
ファーブルは頷いた。
「知るために」
「虫は嫌だろう」
「そうだろうね」
「なぜする」
ファーブルは少し考えた。
「私は虫を好きだが、虫の友だちではない」
匙は、その答えを気に入った。
「顔なしより正直だ」
星船は不服そうにした。
「星船も正確である」
「長い」
ファーブルは笑った。
「君の家は、たしかにうるさそうだ」
匙は少しだけ笑った。
ファーブルは匙に糞虫を見せた。
「これ、糞を転がしている」
「そう」
「なぜ」
「食べ物であり、子のためでもある」
匙は小さい体で大きな糞の塊を運んでいるその虫を、かなり長く見た。
「馬鹿みたいだ」
ファーブルは嬉しそうに言った。
「そう見えるだろう」
「でも、やめない」
「そう」
「飯だからか」
「飯であり、未来だからだ」
匙は眉をひそめた。
「未来は糞なのか」
ファーブルは笑いすぎて咳き込んだ。
「時々ね」
匙は少し誇らしくなった。この老人を笑わせるのは、悪くない。
ファーブルはなんとなく楽しそうだった。
「君は、虫を怖がらないね」
匙は即答した。
「大きくない」
「刺すものもいる」
「離れる」
「毒のあるものもいる」
「覚える」
ファーブルは頷いた。
「いい答えだ」
匙は少し警戒した。
褒められるのは得意ではない。
「私は虫好きではない」
「それでいい。よく見る人は、好きなだけの人より良いときもある」
この言葉は匙の心に残った。
好きでなくても、見るだけでいい。距離を取ってもいい。
昼になると、ファーブルの家で簡単な食事が出た。
匙は座る前に出口を見た。それから窓を見て、厨房の場所を見て、パンの位置を見た。
ファーブルは何も言わなかった。ただ、パンを静かに匙の前に置いた。近づけすぎず、遠すぎず、それでも匙の手は届く位置だった。
匙は少し驚いた。この老人、虫を見ているだけあって間合いが分かる。そう思った。
「取っていいのか」
「君の分だ」
「あとで返せと言うな」
「言わない」
「隠してもいいのか」
ファーブルは少しだけ眉を上げたが、すぐに言った。
「好きにして良い」
匙はパンを半分食べ、半分を布袋に入れた。
星船が何か言いかけた。
「栄養摂取量――」
匙は机の下で足を鳴らした。
「黙れ」
ファーブルはパンをちぎりながら言った。
「君は、誰かに長く命令されてきたのかね」
匙は答えなかった。ファーブルも追わなかった。
匙は、これもよいと思った。
質問して、答えがなければ待つ。顔なしには苦手なことだった。
午後、ファーブルは匙にノートを見せた。
虫の絵、観察記録。
日付、行動、失敗、再観察。
匙は文字を読めなかったが、絵は分かった。
「虫の足跡を紙に閉じ込める」
「そうかもしれない」
「逃げないのか」
「紙の中の虫は逃げない。だから、本物の逃げる虫をまた見に行く」
匙はその言い方を気に入った。
紙は本物ではない。でも、本物を見るための道具。星船と違って、ファーブルはそれを分かっていると思った。
「顔なしは映像を本物みたいに見せる」
ファーブルは静かに聞いた。
「それは便利だね」
「便利すぎる」
「便利すぎるものは、観察を怠けさせるかもしれない」
星船が微妙に傷ついた。
「星船映像は高精度である」
夕方、匙は庭の石の上に座り、蟻の列を眺めた。ファーブルも少し離れて座り、二人ともしばらく喋らなかった。
蟻が行く。
戻る。
ぶつかる。
触角を合わせる。
また行く。
匙は言った。
「こいつら、迷わないのか」
ファーブルは答えた。
「迷うこともある」
「でも戻る」
「戻る道を持っている」
匙は蟻の列を見た。
「見えない」
「匂いの道だ」
匙は鼻を動かした。
「分からない」
「人間には分かりにくい」
「虫の道か」
「そう」
匙は少し黙ってから言った。
「私にも、顔なしにしか分からない道がある」
ファーブルは頷いた。
「なら、君も蟻に少し似ている」
匙は嫌そうな顔をした。
「私は蟻ではない」
「もちろん」
「でも、戻る道はある」
「それはいいことだ」
匙は答えなかった。
でも、その言葉も匙の中に残った。
帰る時、ファーブルは匙に小さな虫眼鏡を持たせようとした。
匙はすぐには受け取らなかった。
「何のため」
「小さいものを見るためだ」
「目で見る」
「もっと見るため」
「小さいものを大きくするのか」
「そう」
匙は少し疑う顔をした。
「小さいままでいいものもある」
ファーブルは笑った。
「その通りだ。だから、使いたい時だけ使えばいい」
匙は受け取って懐に入れた。
「返さないかもしれない」
「贈り物だよ」
「盗んでないな」
「盗んでいない」
匙は小さくうなずいた。
「なら持つ」
星船が言った。
「外来物品の持ち帰りを確認」
匙は空中を睨んだ。
「贈り物だ」
「確認表現を修正」
──匙、虫眼鏡を贈与され保持。
匙は満足した。
******
帰還後、匙は星船の廊下でしゃがむことが増えた。
以前なら踏みつぶしていた虫のような小型生物モデルを、じっと見るようになった。
通常、星船に本物の虫はいない。物品転送班が、教育用に人工蟻モデルを出そうとした。匙は即座に止めた。
「偽物はいらない」
「観察訓練用として――」
「虫の男は本物を見ていた」
「本物の導入は環境管理上――」
「外で見る」
それ以来、匙は地球のいろいろな時代へ出ると、飯と水と出口に加えて、虫も見るようになった。
虫は腹の減った子供と同じくらい、どこにでもいた。匙はそれを少し嫌がり、少し安心した。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
匙、ジャン=アンリ・ファーブルと接触。
対象人物:昆虫観察者。地面にしゃがむ成人男性。権威圧低。観察姿勢高。
匙の反応:警戒低下。会話継続。食事受容。贈与物受領。
評価:匙が少し懐いた可能性。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
サルは「懐いた」という語を見て少し迷った。
匙は猫でも犬でも保護対象でもない。しかし、匙が誰かに少し近づいた時の言葉としては、悪くないかもしれない。
強硬接触班三が追記した。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
ファーブルを星船鍋音楽会・虫観察顧問に任命――
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
サルが消した。
******
「虫じじいのところに行く」
匙はしばらくファーブルの庭に通って、勝手に中に入り込んだ。ファーブルは特に気にしなかった。
「ああ、今日も来たのかね」
匙は返事もせず、パンを齧りながらしゃがんで虫を見た。
たまにファーブルが説明しようとすると、匙は「長い」と言う。しかし、星船の説明に言う「長い」とは少しだけ違った。
ファーブルが短く言い換えると、匙は少し聞いた。
雨が降りそうな日の遅い午後、匙が庭に入るとファーブルが気づいて、軽く声をかけた。
「サジ、今日は来ないのかと思ったよ」
匙は即座に警戒した。
「虫じじい、待っていたのか」
ファーブルは笑って答えた。
「少しね、でも来なくても良かった」
匙は少し安心した。
ある日、匙がファーブルの庭に来て、何も言わずに座った。
「今日も虫を見に来たのかね」
ファーブルが声をかけると、匙は首を振った。
「違う」
「では、何を」
「ここに座る」
ファーブルは軽く頷いて、少ししてから言った。
「そこは蟻の道だから、こちらに座るといい」
匙は黙って動いた。
しばらく二人とも無言だった。それから匙が口を開いた。
「顔なしは、私を拾った」
ファーブルは虫から目を離さなかった。
「そうか」
匙もファーブルに目は向けなかった。蟻の行列を見つめたまま続けた。
「拾われなければ、私はたぶん死んでたかも」
「そうか」
「でも、拾われたから全部よかった、とは思わない」
「そうか」
ファーブルは少しだけ顔を上げて匙を見た。
「虫の巣を助けるつもりで壊すこともある」
匙は小石を拾って蟻の行列の脇に落とそうとして、やめた。
「虫じじい、たまに良いことを言う」
「時々なら十分だ」
だが、ある日、匙が星船に怒った。
「顔なし、今日の虫じじいは私を知らなかった」
「異なる時点の同一人物である」
「どういうことだ」
「あなたに会う前の時点のファーブル」
「前の虫じじいは私を知っていた。こいつは知らない」
「記憶共有はない」
匙は怒った。かなり怒った。
星船は慎重に提案した。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
一、匙が会うファーブルは、同一時間線上の連続したファーブルに限る。毎回、前回以後のファーブル。若返り禁止。
二、ファーブルの記憶を飛ばさない。匙との関係は、ファーブル側にも時間として積もる。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
匙は長く黙った。
「顔なし、虫じじいは保存食じゃない」
「保存食とは」
「必要な時にだけ出して古くならないようにする。人間にすることじゃない」
「比喩として理解」
星船が余計なことを言った。
「匙が最初に会ったファーブルは最晩年」
「どういうことだ」
星船が沈黙した。答えに困ったときの沈黙だった。
******
しばらく経った日、庭でファーブルが言った。
「サジ、次に来たとき、私はもういないかもしれないよ」
「勝手にいなくなるな」
「虫も人も、だいたい勝手にいなくなる」
匙はかなり長く黙った
「……なら、死ぬな」
ファーブルは笑った
「それは難しい」
「虫より弱い」
「人間だからね」
次に匙がファーブルの庭に行ったとき、本当にファーブルはいなかった。
匙は庭で長い間、黙ってしゃがんでいた。
それから星船を呼んだ。
「顔なし、私が生きている虫じじいに会わせろと言っても、会わせるな」
「過去接続は技術的には可能」
「呼ぶな」
「了解」
「声もいらない」
「了解」
匙は呟いた。
「会えることと、会っていいことは違う」
星船はまた慎重に提示した。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
三、ファーブルの死後、過去のファーブルに会いに戻らない。記録映像、手紙、庭、虫眼鏡、残されたノートは可。生きた本人への再接触は禁止。
四、匙がどうしても会いたいと言っても、星船は断る。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
足元では蟻の行列が続いていた。匙はまた小声で言った。
「虫じじい、蟻は今日も迷ってる」
星船は何も言わなかった。




