↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/41

カルタゴの焼き魚

カルタゴの海は、白く光っていた。

青い、というより、光が多かった。波の上に白いものが散っていて、目が少し痛い。


港には船があった。

太い商船。細長い櫂船。積み上げられた陶器の壺(アンフォラ)、縄、帆布、魚籠。

異国の言葉が重なり、塩と樹脂と魚の匂いが風に混じる。


匙は港の端で立ち止まった。


「カルタゴ。紀元前五世紀」

顔なしが言った。

「海の町」

「そうだ」

「船が多い」

「西地中海最大級の交易都市」

「飯も多いか」

「多い」

「よし」


匙には、町の強さは飯で分かる。

大きい町には飯が集まる。港の町には遠くから来た飯と、海から来た飯がある。


カルタゴは、かなり飯が強そうな町だった。 但しその分、匂いも強かった。

魚、塩、油、樹脂、干した魚、濡れた縄、汗、獣、壺から漏れる葡萄酒や油、船を塗り直したばかりの煙。


匙は少し鼻を押さえた。

「海の飯は、鼻から入って来る」

「魚市場と船着場が近い」

「魚は、まだ生きている匂いと、もう死んでいる匂いが近い」

「鋭い観察」

「少し嫌」

「慣れる可能性」

「慣れたい」


顔なしは少し沈黙した。


「なぜ」

「おいしそうな気もする」

匙はそう言って、額の汗を拭った。


******


港の近くに、小さな屋台のような場所があった。

石の台と炭と鉄の網と、壺と、魚を並べる籠。そこで男が魚を焼き、女がパンを切り、少年が塩の入った小さい器を運んでいる。

網から煙が上がる。

焼ける魚の匂いは、市場の生臭さとは違う。

脂、焦げ、塩。熱。

匙はそちらへ吸い寄せられた。


「焼くと、魚が少し別のものになる」

「加熱により香りと食感が変化する」

「説明が固い」

「焼き魚だ」

「よし」


匙が屋台の前に立つと、魚を焼いている男が匙を見た。

肌は日に焼け、腕は太く、手が油と塩に慣れている。


匙の服装は、この時代向けに調整されていたが、完全に土地の子には見えない。言葉も足りない。

「買うのか、見るのか」

顔なしの翻訳を通して男の言葉が入ってきた。

匙は少し考えた。

「食べる」

男は片眉を上げた。

「金は」

匙は、顔なしが用意していた小さな銀貨を出した。

男はそれを受け取り、指先で一度返した。刻印を確かめると小さく頷き、籠の中から魚を一匹選んだ。

小さめの魚で、銀色の皮があり、腹に切れ目があり、塩が振られている。

男がそれを網に置くと、じゅ、と音がした。

匙は目を開いた。

「鳴いた」


男が笑った。

「魚はもう鳴かない。脂が鳴っている」


顔なしの翻訳を聞いて、匙はかなり感心した。

「脂が鳴る」

「そうだ」

「魚の中の火の返事か」

男は匙を見た。

「変な子だな」

匙はうなずいた。

「よく言われる」

男はまた笑った。


魚が焼けるまで、匙は屋台の横でじっと待った。

待つのは難しい。本当はすぐに食べたい。

でも、火が通るまで待つ。

ひっくり返すまで待つ。

皮が焦げるまで待つ。

匂いが強くなるまで待つ。

魚というのは、かなり人を待たせる飯だった。


パンを切っていた女が、縁が欠けた小さな陶器に水を入れて渡した。

「煙で喉が乾くだろ」

匙は受け取った。

「ありがとう(トゥーダ)」

港を歩きながら拾ったフェニキアの言葉は合っているのか怪しかった。それでも、星船の翻訳を通さなくても通じたようだった。


水はぬるかった。

でも、煙の横ではうまい。


男が網の上で魚を裏返すと、皮が少し破れて白い身が見えた。

「中は白い」

「外は海、内は飯」

男が言った。

匙は少し考えてから、頷いた。

「よい」

「魚を褒めてるのか、俺を褒めてるのか」

「魚」

男は大きく笑った。



焼けた魚は、女が切った粗いパンの上に載せられた。

横に刻んだ玉ねぎらしいものが少し置かれ、黄色い油が垂らされた。小さい器に、何か酸っぱい茶色い汁も添えられた。

匙はそれをまとめて受け取った。

熱い。

手が熱いし、魚も熱い。パンも少し熱い。

「熱い」

「熱いものは、すぐ食うな」

男が言った。

「なぜ熱くして、すぐ食うなと言う」

「うまいものは、人を少し困らせる」

これはかなりよい言葉だった。

匙は少しだけ待った。でも、待ちきれずに身を少し取った。


「熱(あつ)っ」


男と女と少年が笑った。

匙は少し顔を赤くしたが、魚がうまかったので許した。


白い身が指でほぐれる。

塩気が強い。

皮は少し焦げて、苦い。魚の脂をパンが受ける。酸っぱい汁を少しつけると、魚がまた違う顔になる。


「……うまい」

男は満足そうに頷いた。

「魚はそうだ」

「そうだ、とは」

「海から来て、火に当たり、塩をもらう。うまくならない方がおかしい」

「強い理屈」

「飯の理屈だ」


匙は夢中で食べた。

そこで小骨に当たって止まった。

「骨」


男がすぐ言った。

「急ぐな。魚は骨で嘘をつく」

「嘘?」

「白い身の中に隠れる」


匙は慎重に骨を取った。魚はうまいが、油断をすると刺す。

かなりよい。


匙がまた食べはじめると、少年が横から言った。

「骨の取り方、下手」

匙は少しむっとした。

「魚を食うのは初めてだ」

「下手」

「少し下手」

「かなり」

「少しだ」

少年は笑って魚の背のあたりを指した。

「ここは食べやすい。腹は脂。頭は人による」

「人によるのか」

「目を食うやつもいる」

匙は魚の目を見た。焼かれて白く濁っていた。

「目は、今日はいらない」

少年は肩をすくめた。

「弱い」

「目は見返してくる」

「もう見てないぞ」

「でも、見ていただろ」

女が笑った。

「無理に食わせるんじゃないよ」

「うん」

匙はほっとした。魚の目は、いつかでいい。今日は身と皮で十分だった。


食べ終わる頃には、手が油と塩でべたべたになっていた。口の端にも油がついている気がする。パンの端で汁を吸い、最後にそれも食べた。


「パンが魚を覚えている」

匙がそう言うと、女が少し目を細めた。

「あんたも、いいこと言うね」

「本当?」

「うん。パンは、何をのせたか覚える」


匙はパンの最後のひとかけらを見た。

魚の脂と塩と酸っぱいもの。

焦げと手の跡。

たしかにパンは魚を覚えていた。匙はそれを口に入れた。

だから、匙も魚を覚えた。


「もう一つ食うか」

男が聞いた。


匙は少し考えた。

食べられなくはない。でも、もう一つ食べると、最初の魚が薄くなる気がした。

「今日は一つでいい」

「賢い」

「また食べる」

「また来るか」


匙は少し黙った。また来るかは分からない。このカルタゴに、この港に、この屋台に、同じ男と女と少年がいる日に戻るかは分からない。

でも、魚はまた食べる。


「魚は、また食べる」

男は頷いた。

「それでいい」

少年が言った。

「次は骨をもっと上手く取れ」

「取る」

「魚の目も食え」

「それはまだだ」

少年は笑った。


匙は手を洗わせてもらった。

水は少ししかなかったので、油は完全には落ちなかった。


******


港を離れたあとも、まだ口の中に塩が残っていた。

海の匂いも残っている。手にも少し油が残っている。


匙はビュルサの丘へ向かう坂を上りながら、ひとりで言った。

「魚は、海を食べる感じではない」


顔なしが聞いた。

「では何だ」

「海から来たものを、火と塩で人間の飯にした感じ」

「良い要約だ」

「少しなら、褒めていい」

「魚は好きになったか」


匙は考えた。

好きかもしれない。

匙には、好きという言葉はまだ少し大きかった。

人にも、場所にも、飯にも、簡単には使えない。でも、魚に対してなら、少し置けそうだった。


「魚を食べるのは好きかもしれない」

「記録する」

「して」

「魚一般か、焼き魚か」

「まず焼き魚」

「了解」


丘の中腹で振り返って見下ろすと、港には帆柱が林のように立っていた。

匙は道を曲がって、港の中でもさっきとは少し離れた場所へ下りてみた。

ここには商船より細長い船が多かった。

船腹には青銅の衝角が突き出し、岸では櫂が何本も並べられている。

樹脂の匂い。縄をなう音。槌で板を打つ音。

水兵が樽を転がし、兵が槍を束ね、職人が船底に黒い塗料を塗っていた。

遠くには、港を囲む高い城壁と見張り台も見えた。


カルタゴは、魚だけの町ではない。船と海軍と、商人と神殿と、銀と戦の町だった。

でも九歳の匙にとって、その日のカルタゴは、まず焼き魚の町になった。

カルタゴの海が大きいからでも、港が強いからでも、王や将軍がいるからでもない。

魚が焼ける時、網の上で脂が鳴ったからだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。