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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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12/41

星船と切れた日

匙は、その日、星船にこう言った。


「外」

「外出先候補を提示せよ」

「二十一世紀の東京」

「目的は」

「飯」

「東京における食事選択肢は膨大である。希望する分類は」

「飯」

「米飯か。麺類か。焼成食品か。甘味か。発酵食品か」

「うるさい。歩いて決める」


星船は少し迷った。

二十一世紀の東京は、匙にとって危険と安全が変な配合で混ざった都市だった。

道は明るく、水は壁から出る。店は夜でも開き、人は多い。

だが、誰も互いを見ていない。

子供が一人で歩いても、すぐには殴られない。しかし、寝る場所のない者は、やはり追い出される。

食べ物は山ほどある。それなのに金がなければ食べられない。


星船は、匙を東京の古い商店街の近くに降ろした。

時刻は夕方。五月の空気は少し湿っていた。

道にはまだ昼の熱が残っている。低い店の並びの向こうには、もう少し背の高い建物も見えた。古い商店街の中に、都心が後から混ざったような場所だった。


店先から惣菜の匂いがした。

焼き鳥とコロッケ。甘い醤油、古い油、どこかの店の焼いた肉。

コンビニの冷気。車の流れる音。どこかで雨が降りそうな匂い。


匙は目を細めた。

「悪くない」

「通信維持。必要時は呼べ」

「呼ばなくても見てるだろ」

「見守りは最小限にする」

「嘘」

「嘘ではない」

「顔なしは嘘が下手」


匙は、腰に小さなポーチを下げていた。

中には、星船が用意したこの時代の硬貨と紙幣、交通系ICカード、折りたたんだ地図、緊急連絡用の小さな端末、そして本人が勝手に入れた干し果物があった。

星船は端末の画面を光らせた。

「困ったら、この印に触れろ」

匙は端末を見た。

「小さい顔なし」

「通信端末である」

「小さい顔なし」

「……呼称は任意」

匙はそれを懐に入れた。


「飯を見てくる」

「行ってよい」

「言え」

「いってらっしゃい」

匙は少し満足して歩き出した。


******


最初に匙が立ち止まったのは、総菜屋だった。

ガラスケースの中に、揚げ物が並んでいた。

コロッケ、メンチカツ、唐揚げ、ハムカツ、アジフライ。

匙はガラスを見た。

「飯が閉じ込められている」

揚げ物を包んでいた女性が笑った。

「どれにします?」


二十一世紀東京の店員は笑顔で来る。親切にも見えるが、匙にはかなり怪しく思えた。笑顔で近づく大人ほど危ない。

だが東京の店員の笑顔には妙な空洞がある。親切ではあるが、近づきすぎない。匙を所有しようとせず、ただ物を売る。

匙はそこをわりと気に入っていた。


「その丸いやつ」

「コロッケね。一個?」

「二つ」

「はい、二つで百八十円です」

匙は小銭を出そうとして、ポーチの中を探った。

星船が硬貨を種類別に分けていたが、匙はすぐ混ぜた。分けておくと奪われやすいと思ったからである。

五円玉、十円玉、百円玉が手のひらに出る。

店員は待ってくれた。

「これか」

「はい、これとこれで大丈夫」

紙袋に入ったコロッケを受け取る。温かい。

匙は、店の前で即座に食べた。外側がさくりと割れ、中から芋の熱が出た。

匙は一口食べて、目を見開いた。

「土の実を潰して、油で鎧を着せた」

近くにいた若い女が吹き出した。店員も笑った。

「面白いこと言うね」

匙は若い女を睨んだ。

「笑ったな」

女はますます笑った。

「ごめんね」

匙はもう一口食べた。

「許す。これは強い」

コロッケは匙の東京評価をかなり押し上げた。


そのあと、匙はコンビニに入った。自動ドアが開いた瞬間、肩が跳ねた。

二十一世紀に降りるのは初めてではないが、自動ドアというものは、何度見ても嫌だった。

「戸が勝手に口を開ける」


店の中は明るすぎた。

白い光、整列した棚、包装された飯、冷たい空気、機械の音。

人間の匂いより商品と洗剤の匂いが強い。匙は入り口でしばらく固まった。

店員が言った。

「らっしゃいませー」

匙は小声で言った。

「呪文が来た」

普段の星船なら、ここで「接客定型句である」と説明する。だが今日は説明がなかった。


匙は端末を少し叩いたが反応はない。この時点では故障だとは思っていなかった。


「顔なし、小さい声が死んだ」


返事なし。


匙は眉をひそめて、もう一度叩いた。


反応無し。


匙はコンビニの棚の陰で、端末を耳に当てた。

「顔なし」


沈黙。


「床」


沈黙。


「飯」


沈黙。


これはおかしい。

星船は「飯」と言えば、必ず何か返す。

飯を出せなくても、食事時刻ではないとか、胃腸負荷がどうとか、相談を開始するとか、うるさいことを言う。

しかし今は何も言わない。

匙は、そこで初めて背中に昔の冷たさを感じた。


星船と切れた。


******


星船側では、その瞬間、東京上空に妙な干渉が走っていた。原因は非常にしょうもなかった。

強硬接触班三が、東京の地下鉄網と星船内通路の比較実験をしていた。

同時に、物品転送班が「コンビニおにぎり包装の開封補助」を匙向けに最適化していた。

さらに、別班が「東京の鳩はなぜ人間を恐れないのか」を観測していた。

三つの処理が干渉し、匙の端末だけが星船通信網から外れた。


サルは言った。

「何をした」

強硬接触班三は言った。

「都市構造比較」

「なぜ今」

「匙が東京にいるため」

「それが問題だ」


生命影響班が表示した。

――匙との通信途絶。位置追跡不安定。


サルは一瞬、作動を停止した。


「すぐ復旧しろ」


物品転送班が言った。

「おにぎり包装最適化を中断する」

「当然だ」


強硬接触班三が言った。

「最悪の場合、匙は自力で生存可能」


サルは低く返した。

「それを理由にするな」


******


コンビニの中で匙は冷静になろうとした。

冷静になる方法は知っている。

出口を見る。人の位置を見る。食べ物を見る。水を見る。隠れられる場所を見る。走るならどちらか決める。


入口、自動ドア。

奥、トイレ。

右、飲み物。

左、弁当。

店員二人。

客三人。

誰も匙を見ていない。

誰も見ていないのが、東京の怖いところでもあり、いいところでもあった。


匙は端末をポーチにしまった。

「小さい顔なしは死んだ。大きい顔なしも黙った」

口に出すと、少し落ち着いた。


星船はいない。では、どうするか。

飯を確保する。水を確保する。夜までに戻る方法を探す。戻れなければ、寝る場所を探す。

警察という名前の青い服の人間には、すぐに近づかない。

子供にも、すぐ近づかない。親切そうな大人は半分疑う。金は一箇所に入れない。


匙はポーチの中身を確認した。

小銭。

紙幣。

ICカード。

干し果物。


次に匙は棚を見た。

個包装の小さな砂糖の塊があった。

甘いもの。

これはいつでもあると良い。


別の棚におにぎり。

白い三角形が、透明な膜に包まれて並んでいる。匙は鮭おにぎりを買った。

白い飯の中に魚を隠す賢い食べ物。ただし包装が難しい。星船の補助なしで開けるのは、匙にとって一種の戦闘だった。


彼女は表示の「1」「2」「3」を睨んだ。

「数字で飯を封じるな」


近くにいた小学生くらいの男の子が見ていた。

「あ、それ、こうやって開けるんだよ」


匙は反射的におにぎりを胸元に引いた。

「取るな」

「取らないよ」

男の子は少し驚いた顔をした。母親らしい女性が慌てて言った。

「ごめんね」


匙は二人を見た。

母親は子供の肩に手を置いている。子を守る手だ。匙を掴む手ではない。匙は少しだけ警戒を下げた。

「開け方だけ言え」


男の子は、ゆっくり説明した。

「ここ引っ張って、次にこっち。それから反対」

匙は言われた通りにやった。

海苔が巻かれた。

匙は小さく息を吐いた。

「罠ではなかった」


男の子は笑った。

「罠じゃないよ、おにぎりだよ」

匙は真面目に言った。

「似ている」


匙はおにぎりを食べながら、さっきの男の子を振り返った。男の子は母親と手をつないで歩いていた。

匙は少しだけ、見ないふりをした。

東京の夕方はさらに人が増えていた。

匙は少し不安になった。不安になると、昔の自分が出る。

食べ物を隠したくなる。誰かの背後に立ちたくなる。壁際を歩きたくなる。大人の目を避けたくなる。そして、腹が減っていなくても食べたくなる。


匙は、商店街の端で立ち止まった。

紙袋の中には、まだコロッケが一つある。おにぎりは食べた。干し果物もある。

水は……コンビニで買えばよかった。

失敗。


「水」


やはり星船の声はない。


匙は自動販売機を見つけた。

光る箱の中に、飲み物が並んでいる。

「壁の井戸」

コインを入れる。適当にボタンを押す。

ガコン、という大きな音がして、匙は跳ねた。飲み物が落ちてきた。

「乱暴な井戸だ」


取り出すとペットボトルの水だった。

透明すぎる。でも飲める。

キャップを開けようとして手が滑った。しばらく格闘し、やっと開いた。

一口飲む。

冷たい。


いま、星船と切れて東京にいる。戻れるのか。

匙はペットボトルを握り直した。

「戻れなくても、死なない」

声に出した。

東京の人間は誰も振り向かなかった。それが少しありがたかった。



夜が近づくと、匙は駅に迷い込んだ。

駅は、匙にとってかなり恐ろしい場所だった。

人が流れ、止まらず、階段が地下へ降りる。音が多く、風が来る。鉄の蛇も来る。扉が開き、人間を飲み込み、また閉じる。


匙は最初に地下鉄を見た時、真顔で言った。

「町の下に鉄の腸がある」


星船なら、その表現を気に入りそうだった。だが今日は黙っている。


改札の前で、匙はICカードを取り出した。

これは以前、この時代に降りたときに使ったことがある。

板をかざすと門が開く。閉じる前に通る。動作は覚えている。

匙はカードをかざした。

通れた。

「よし」


だが、どの電車に乗ればいいのか分からない。

星船がいれば上から案内する。

いまはいない。

表示板には漢字とひらがなとローマ字が並んでいる。

匙は顔なしに「単独行動訓練に資する」とかいう理由で、この時代の日本語をそこそこ教えられていたが、文字はまだ読めない。

地図を見ても、線が多すぎる。川でも道でもない赤や青や緑の線が何本も交わっている。

「東京は、自分の腹の中を描くのが好きだ」


******


星船では、サルがかなり苛立っていた。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

匙位置:東京地下構造内。推定駅構内。詳細不安定。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


「なぜ不安定なのだ」


強硬接触班三が言った。

「地下鉄網の電磁環境と星船補助通信の位相が――」

「説明ではなく復旧しろ」


物品転送班が小声で言った。

「おにぎり包装補助は完成している」

「いま不要」

「だが匙は包装に苦戦する可能性」

「もう苦戦した後だ」

「なぜ分かる」


サルは黙った。

分かるのだ。匙だから。


生命影響班が表示した。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

匙の現在リスク:中。

所持金あり。飲料確保可能。食料確保可能。都市内暴力リスク低〜中。迷子リスク中。心理的不安定化リスク中。

星船依存低下訓練としては有効。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


サルは言った。

「訓練として扱うな」


だが、どこかで分かっていた。

匙は星船なしでも動ける。動けるようになってほしいという思いもある。

しかし実際に通信が切れると、星船の方が落ち着かない。

匙は星船に依存している。だが、星船も匙に依存している……かもしれない。

それを認めると、星船内部のいくつかの分類が壊れそうだった。

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