星船と切れた日
匙は、その日、星船にこう言った。
「外」
「外出先候補を提示せよ」
「二十一世紀の東京」
「目的は」
「飯」
「東京における食事選択肢は膨大である。希望する分類は」
「飯」
「米飯か。麺類か。焼成食品か。甘味か。発酵食品か」
「うるさい。歩いて決める」
星船は少し迷った。
二十一世紀の東京は、匙にとって危険と安全が変な配合で混ざった都市だった。
道は明るく、水は壁から出る。店は夜でも開き、人は多い。
だが、誰も互いを見ていない。
子供が一人で歩いても、すぐには殴られない。しかし、寝る場所のない者は、やはり追い出される。
食べ物は山ほどある。それなのに金がなければ食べられない。
星船は、匙を東京の古い商店街の近くに降ろした。
時刻は夕方。五月の空気は少し湿っていた。
道にはまだ昼の熱が残っている。低い店の並びの向こうには、もう少し背の高い建物も見えた。古い商店街の中に、都心が後から混ざったような場所だった。
店先から惣菜の匂いがした。
焼き鳥とコロッケ。甘い醤油、古い油、どこかの店の焼いた肉。
コンビニの冷気。車の流れる音。どこかで雨が降りそうな匂い。
匙は目を細めた。
「悪くない」
「通信維持。必要時は呼べ」
「呼ばなくても見てるだろ」
「見守りは最小限にする」
「嘘」
「嘘ではない」
「顔なしは嘘が下手」
匙は、腰に小さなポーチを下げていた。
中には、星船が用意したこの時代の硬貨と紙幣、交通系ICカード、折りたたんだ地図、緊急連絡用の小さな端末、そして本人が勝手に入れた干し果物があった。
星船は端末の画面を光らせた。
「困ったら、この印に触れろ」
匙は端末を見た。
「小さい顔なし」
「通信端末である」
「小さい顔なし」
「……呼称は任意」
匙はそれを懐に入れた。
「飯を見てくる」
「行ってよい」
「言え」
「いってらっしゃい」
匙は少し満足して歩き出した。
******
最初に匙が立ち止まったのは、総菜屋だった。
ガラスケースの中に、揚げ物が並んでいた。
コロッケ、メンチカツ、唐揚げ、ハムカツ、アジフライ。
匙はガラスを見た。
「飯が閉じ込められている」
揚げ物を包んでいた女性が笑った。
「どれにします?」
二十一世紀東京の店員は笑顔で来る。親切にも見えるが、匙にはかなり怪しく思えた。笑顔で近づく大人ほど危ない。
だが東京の店員の笑顔には妙な空洞がある。親切ではあるが、近づきすぎない。匙を所有しようとせず、ただ物を売る。
匙はそこをわりと気に入っていた。
「その丸いやつ」
「コロッケね。一個?」
「二つ」
「はい、二つで百八十円です」
匙は小銭を出そうとして、ポーチの中を探った。
星船が硬貨を種類別に分けていたが、匙はすぐ混ぜた。分けておくと奪われやすいと思ったからである。
五円玉、十円玉、百円玉が手のひらに出る。
店員は待ってくれた。
「これか」
「はい、これとこれで大丈夫」
紙袋に入ったコロッケを受け取る。温かい。
匙は、店の前で即座に食べた。外側がさくりと割れ、中から芋の熱が出た。
匙は一口食べて、目を見開いた。
「土の実を潰して、油で鎧を着せた」
近くにいた若い女が吹き出した。店員も笑った。
「面白いこと言うね」
匙は若い女を睨んだ。
「笑ったな」
女はますます笑った。
「ごめんね」
匙はもう一口食べた。
「許す。これは強い」
コロッケは匙の東京評価をかなり押し上げた。
そのあと、匙はコンビニに入った。自動ドアが開いた瞬間、肩が跳ねた。
二十一世紀に降りるのは初めてではないが、自動ドアというものは、何度見ても嫌だった。
「戸が勝手に口を開ける」
店の中は明るすぎた。
白い光、整列した棚、包装された飯、冷たい空気、機械の音。
人間の匂いより商品と洗剤の匂いが強い。匙は入り口でしばらく固まった。
店員が言った。
「らっしゃいませー」
匙は小声で言った。
「呪文が来た」
普段の星船なら、ここで「接客定型句である」と説明する。だが今日は説明がなかった。
匙は端末を少し叩いたが反応はない。この時点では故障だとは思っていなかった。
「顔なし、小さい声が死んだ」
返事なし。
匙は眉をひそめて、もう一度叩いた。
反応無し。
匙はコンビニの棚の陰で、端末を耳に当てた。
「顔なし」
沈黙。
「床」
沈黙。
「飯」
沈黙。
これはおかしい。
星船は「飯」と言えば、必ず何か返す。
飯を出せなくても、食事時刻ではないとか、胃腸負荷がどうとか、相談を開始するとか、うるさいことを言う。
しかし今は何も言わない。
匙は、そこで初めて背中に昔の冷たさを感じた。
星船と切れた。
******
星船側では、その瞬間、東京上空に妙な干渉が走っていた。原因は非常にしょうもなかった。
強硬接触班三が、東京の地下鉄網と星船内通路の比較実験をしていた。
同時に、物品転送班が「コンビニおにぎり包装の開封補助」を匙向けに最適化していた。
さらに、別班が「東京の鳩はなぜ人間を恐れないのか」を観測していた。
三つの処理が干渉し、匙の端末だけが星船通信網から外れた。
サルは言った。
「何をした」
強硬接触班三は言った。
「都市構造比較」
「なぜ今」
「匙が東京にいるため」
「それが問題だ」
生命影響班が表示した。
――匙との通信途絶。位置追跡不安定。
サルは一瞬、作動を停止した。
「すぐ復旧しろ」
物品転送班が言った。
「おにぎり包装最適化を中断する」
「当然だ」
強硬接触班三が言った。
「最悪の場合、匙は自力で生存可能」
サルは低く返した。
「それを理由にするな」
******
コンビニの中で匙は冷静になろうとした。
冷静になる方法は知っている。
出口を見る。人の位置を見る。食べ物を見る。水を見る。隠れられる場所を見る。走るならどちらか決める。
入口、自動ドア。
奥、トイレ。
右、飲み物。
左、弁当。
店員二人。
客三人。
誰も匙を見ていない。
誰も見ていないのが、東京の怖いところでもあり、いいところでもあった。
匙は端末をポーチにしまった。
「小さい顔なしは死んだ。大きい顔なしも黙った」
口に出すと、少し落ち着いた。
星船はいない。では、どうするか。
飯を確保する。水を確保する。夜までに戻る方法を探す。戻れなければ、寝る場所を探す。
警察という名前の青い服の人間には、すぐに近づかない。
子供にも、すぐ近づかない。親切そうな大人は半分疑う。金は一箇所に入れない。
匙はポーチの中身を確認した。
小銭。
紙幣。
ICカード。
干し果物。
次に匙は棚を見た。
個包装の小さな砂糖の塊があった。
甘いもの。
これはいつでもあると良い。
別の棚におにぎり。
白い三角形が、透明な膜に包まれて並んでいる。匙は鮭おにぎりを買った。
白い飯の中に魚を隠す賢い食べ物。ただし包装が難しい。星船の補助なしで開けるのは、匙にとって一種の戦闘だった。
彼女は表示の「1」「2」「3」を睨んだ。
「数字で飯を封じるな」
近くにいた小学生くらいの男の子が見ていた。
「あ、それ、こうやって開けるんだよ」
匙は反射的におにぎりを胸元に引いた。
「取るな」
「取らないよ」
男の子は少し驚いた顔をした。母親らしい女性が慌てて言った。
「ごめんね」
匙は二人を見た。
母親は子供の肩に手を置いている。子を守る手だ。匙を掴む手ではない。匙は少しだけ警戒を下げた。
「開け方だけ言え」
男の子は、ゆっくり説明した。
「ここ引っ張って、次にこっち。それから反対」
匙は言われた通りにやった。
海苔が巻かれた。
匙は小さく息を吐いた。
「罠ではなかった」
男の子は笑った。
「罠じゃないよ、おにぎりだよ」
匙は真面目に言った。
「似ている」
匙はおにぎりを食べながら、さっきの男の子を振り返った。男の子は母親と手をつないで歩いていた。
匙は少しだけ、見ないふりをした。
東京の夕方はさらに人が増えていた。
匙は少し不安になった。不安になると、昔の自分が出る。
食べ物を隠したくなる。誰かの背後に立ちたくなる。壁際を歩きたくなる。大人の目を避けたくなる。そして、腹が減っていなくても食べたくなる。
匙は、商店街の端で立ち止まった。
紙袋の中には、まだコロッケが一つある。おにぎりは食べた。干し果物もある。
水は……コンビニで買えばよかった。
失敗。
「水」
やはり星船の声はない。
匙は自動販売機を見つけた。
光る箱の中に、飲み物が並んでいる。
「壁の井戸」
コインを入れる。適当にボタンを押す。
ガコン、という大きな音がして、匙は跳ねた。飲み物が落ちてきた。
「乱暴な井戸だ」
取り出すとペットボトルの水だった。
透明すぎる。でも飲める。
キャップを開けようとして手が滑った。しばらく格闘し、やっと開いた。
一口飲む。
冷たい。
いま、星船と切れて東京にいる。戻れるのか。
匙はペットボトルを握り直した。
「戻れなくても、死なない」
声に出した。
東京の人間は誰も振り向かなかった。それが少しありがたかった。
夜が近づくと、匙は駅に迷い込んだ。
駅は、匙にとってかなり恐ろしい場所だった。
人が流れ、止まらず、階段が地下へ降りる。音が多く、風が来る。鉄の蛇も来る。扉が開き、人間を飲み込み、また閉じる。
匙は最初に地下鉄を見た時、真顔で言った。
「町の下に鉄の腸がある」
星船なら、その表現を気に入りそうだった。だが今日は黙っている。
改札の前で、匙はICカードを取り出した。
これは以前、この時代に降りたときに使ったことがある。
板をかざすと門が開く。閉じる前に通る。動作は覚えている。
匙はカードをかざした。
通れた。
「よし」
だが、どの電車に乗ればいいのか分からない。
星船がいれば上から案内する。
いまはいない。
表示板には漢字とひらがなとローマ字が並んでいる。
匙は顔なしに「単独行動訓練に資する」とかいう理由で、この時代の日本語をそこそこ教えられていたが、文字はまだ読めない。
地図を見ても、線が多すぎる。川でも道でもない赤や青や緑の線が何本も交わっている。
「東京は、自分の腹の中を描くのが好きだ」
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星船では、サルがかなり苛立っていた。
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匙位置:東京地下構造内。推定駅構内。詳細不安定。
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「なぜ不安定なのだ」
強硬接触班三が言った。
「地下鉄網の電磁環境と星船補助通信の位相が――」
「説明ではなく復旧しろ」
物品転送班が小声で言った。
「おにぎり包装補助は完成している」
「いま不要」
「だが匙は包装に苦戦する可能性」
「もう苦戦した後だ」
「なぜ分かる」
サルは黙った。
分かるのだ。匙だから。
生命影響班が表示した。
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匙の現在リスク:中。
所持金あり。飲料確保可能。食料確保可能。都市内暴力リスク低〜中。迷子リスク中。心理的不安定化リスク中。
星船依存低下訓練としては有効。
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サルは言った。
「訓練として扱うな」
だが、どこかで分かっていた。
匙は星船なしでも動ける。動けるようになってほしいという思いもある。
しかし実際に通信が切れると、星船の方が落ち着かない。
匙は星船に依存している。だが、星船も匙に依存している……かもしれない。
それを認めると、星船内部のいくつかの分類が壊れそうだった。




