少し疲れた味噌汁
匙は結局、電車に乗らなかった。
駅の音が多すぎた。
改札を出て地上に戻ると、小雨が降り出していた。
道端に、屋根と細長い椅子のある場所があった。雨を避けてそこに座っていると、バスが来た。
バスは大きな箱だった。
でも、鉄の腸よりはましだった。窓があり、地面の上を走る。人が何人か乗るのを見て、匙は少し考えた。
「これならよい」
行き先は読めなかった。
だが、どこへ行くか決めていないのだから、読めなくても同じだった。
バスは商店街を離れ、大きな道へ出た。
坂を少し下ると、道の向こうに赤と白の細長いものが立っていた。先の方は雨に少し霞んでいた。
匙は窓に顔を近づけた。
「あれは何だ」
顔なしはやはり答えない。
しばらく乗ったあと、乗客が次々に降りてバスが空になった。運転手が「終点ですよ」と言いに来たので、匙も降りた。
雨は止んでいた。
人が多く、飲み屋の灯りが強い。
人の声、焼き鳥の匂い、ビールの匂い、そして煙。
匙は、煙のある場所の方が安心する。完全に清潔な場所より、ずっといい。
高架の下の小さな店の前で、焼き鳥を焼いている男がいた。匙は立ち止まった。
男が言う。
「食べてく?」
匙は言った。
「肉か」
「鳥だよ。ねぎま、もも、つくね、皮」
「皮」
「皮ね」
匙は焼ける様子を見た。
星船の厨房には火が見えない。東京のコンビニにも火が見えない。だがこの店には火があった。
匙は、火を見てかなり落ち着いた。
焼き鳥の串を受け取り、店先の小さな椅子に座る。
隣には酔った会社員がいた。
「オヤジ、生、もういっちょ」
「はいよ」
大きな缶とグラスを受け取った会社員は、プシュッと音を立てて缶を開け、グラスになみなみとビールを注いだ。
匙は横目で見た。
「缶の中の黄色い泡」
男も匙を見た。
「嬢ちゃん、外国の子? どこから来たの?」
匙は少し考えた。
「遠い」
「どこ?」
「ブルディガラ」
「え、ブルガリア?」
「違う」
会社員はよく分からないまま頷いた。
「日本語うまいね」
匙は串をかじった。
「顔なしがうるさいから覚えた」
「顔なし?」
「家」
会社員は酔っていたので、深く考えなかった。
「家族か」
匙は少しだけ黙った。
「家族ではない」
「じゃあ何?」
焼き鳥の火がぱちっと鳴った。
「帰ると飯があるもの」
会社員は笑った。
「それ家族じゃん」
「簡単に言うな」
会社員は両手を上げた。
「悪ぃ悪ぃ」
たぶん悪い男ではなかった。少なくとも、今この瞬間は。
匙は焼き鳥をもう一本買った。
夜が深くなるにつれ、匙は判断を迫られた。
星船と連絡が取れない。端末は死んでいる。駅は使えるが、どこへ行くか分からない。
現代東京で野宿はできるが、職務質問される可能性がある。
ホテルは身分証が必要そう。
漫画喫茶とかいうものを星船に教えられたことがあるが、仕組みが怪しい。
カプセルホテルとかいうものは「人間を棚に入れる」場所らしいが、匙は荷物ではない。
そもそも、どこも子供を泊めてくれるのかが不明。
彼女は交番の前まで行った。警察官が二人いた。匙は遠くから観察した。
制服、棒、紙。
人に道を教えている。酔った男にも怒鳴っていない。子供にも低い声を出していない。
悪くはないかもしれない。でも、近づくのは最後。
匙は反対方向へ歩いた。そして、深夜まで開いている小さな定食屋を見つけた。
古い店だった。
入口には紺のくたびれた暖簾が掛かり、カウンター席にテレビがあり、味噌汁の匂いがした。
そして店主の女が一人。
匙は店に入った。
「まだ食べられるか」
女店主は顔を上げた。
「食べられるよ。何にする?」
匙は壁のメニューを見た。読めない。
カルタゴの港で食べた魚を思い出した。魚があったら良いと思った。
「魚」
「焼き魚定食?」
「それ」
ご飯と味噌汁、焼き魚。それに漬物と小鉢。匙はそれを見て、しばらく黙った。皿が多い。
女店主は言った。
「お箸使える?」
匙は箸を見た。
「二本の棒か」
「フォーク出そうか?」
「いや。戦う」
女店主は笑った。
匙は箸と戦い、結局途中から魚を手でほぐした。女店主は何も言わなかった。
食べ終わる頃には少し眠くなっていた。
女店主が聞いた。
「あんた、帰るところあるの?」
匙の手が止まった。
この問いは危険だった。昔なら、ここで嘘をつく。今も嘘をつける。
ある、と言えばいい。
匙は店主を見た。
年は五十くらい。目は疲れているが悪くない。厨房の人間の目だった。食べ物を出して片付け、客を見ている目。
匙は言った。
「ある。だが今、家が黙っている」
女店主は、少しだけ眉を上げた。
「喧嘩したの?」
匙は考えた。
「たぶん、家が迷子」
女店主は笑わなかった。
「そりゃ困ったね」
「困った」
「電話は?」
「小さい顔なしが死んだ」
女店主は少し沈黙した。
「スマホの電池切れ?」
「たぶん」
「充電する?」
匙は端末を出した。女店主は見たことのない形に首をかしげた。
「これ、どこの?」
「顔なしの」
「充電器合わなそうだねえ」
匙はうなずいた。
「役に立たない」
女店主は少し考えた。
「終電なくなるよ」
「鉄の腸には乗らない」
「地下鉄?」
「うるさい」
女店主はさらに考えた。
そして言った。
「店、もう閉めるけど、しばらくここにいてもいいよ。朝になったら、また考えな」
匙は、即座には答えなかった。
親切は怖い。親切には理由がある。理由が見えない親切は特に怖い。
「なぜ」
女店主は肩をすくめた。
「なんとなく。変な子だから」
匙は睨んだ。
「子ではない」
「ああ、ごめん。変な人だから」
匙は少し満足した。
「それならいい」
深夜の定食屋で、匙はカウンターの端に座った。女店主は片付けをしている。テレビが小さな音で流れている。
店の奥に、古い招き猫があった。匙はそれを見た。
「猫が客を呼ぶのか」
女店主が答えた。
「呼んでくれるといいんだけどね」
「呼ばないのか」
「まあ、気分だね」
匙は少し考えた。
「猫らしい」
この店は悪くなかった。
火があり飯があり、何よりも鍋がある。
鍋は大事だ。
そして女店主は近づきすぎない。寝ろとも、帰れとも、身の上を話せとも言わない。
匙はだんだん眠くなった。だが、寝るには危険確認が必要だった。
出口、裏口、包丁の位置、女店主の手、窓、椅子の高さ、机の下。
女店主は匙の視線の動きに気づいていた。
気づいたが、何も言わずに薄い毛布を出してきた。
「使う?」
匙は毛布を見た。
「返す」
「うん。返して」
「盗まない」
「うん」
「本当は盗める」
「だろうね」
匙は毛布を受け取った。
その言い方がよかった。盗めることを分かったうえで、騒がない。
匙はそれを信用したのではない。だが、今夜は噛まなくていいと判断した。
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星船は、ようやく匙の位置をつかんだ。
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位置確定:東京都内小規模飲食店内部。状態:座位。生命兆候安定。摂食済み。睡眠移行傾向。
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サルは深く処理音を吐いた。
「通信復旧は」
「あと少し」
強硬接触班三が言った。
「迎えに行くか」
サルは、すぐには答えなかった。
映像には、定食屋のカウンターで毛布をかぶり、椅子に座って眠りかけている匙が映っていた。
近くには女店主。危険は低い。
匙は自力で飯を食べた。水を飲んだ。人に助けを求めすぎず、でも完全に拒まず、夜を越す場所を見つけた。
これは、星船が望んでいたことでもあった。
匙が星船なしでも生きられること。だが、実際に見ると、星船は少し寂しかった。
サルは言った。
「すぐには迎えない」
強硬接触班三が驚いた。
「危険はゼロではない」
「ゼロではない。だが匙が選んだ」
「通信だけ復旧させるか」
「小さく」
******
匙が半分眠っていると懐の端末がわずかに震えた。
小さな光が灯る。
「匙」
匙は目を開けた。
「遅い」
「通信障害が発生した」
「顔なしが迷子になった」
「おおむね違う」
「違わない」
「状態を確認する」
「飯を食った。水も飲んだ。店の女は噛まなくていい」
「帰還するか」
匙は、すぐには答えなかった。
女店主は奥で片付けをしている。外は夜。東京はまだ明るい。
「朝」
「朝まで現地滞在するのか」
「そう」
「理由は」
匙は毛布を少し引き上げた。
「私が決めた」
星船は沈黙した。
サルが、星船の返答を短くした。
「分かった」
匙は目を細めた。
「心配したか」
「した」
匙は少し笑った。
「よし」
「よし、とは」
「顔なしは心配しろ。でも迎えに来るな」
「矛盾している」
「人間だから」
星船は、返事に少し遅れた。
「そうだな」
匙は満足して、端末を懐にしまった。
その後、女店主が戻ってきた。
「連絡ついた?」
匙はうなずいた。
「家が見つかった」
「よかったね」
「でも朝までここにいる」
「いいよ」
匙は少し考えてから言った。
「礼を言う」
女店主は笑った。
「はい、どういたしまして」
匙はさらに考えた。
「飯もうまかった」
「そっちの方がうれしいね」
匙は毛布に顔を埋めた。
「東京は変だ」
「そう?」
「飯が多い。人も多い。みんな急ぐ。家が迷子になる」
女店主は、何のことか分からないまま言った。
「まあ、東京だからね」
匙はそれで納得した。
東京だから。便利な言葉だ。
朝、匙は定食屋で味噌汁と白飯と卵焼きを食べた。
女店主は「朝ごはん」と言った。匙はそれを気に入った。
朝に飯が出る言葉。強い。
支払いをしようとすると女店主は半分でいいと言った。
匙は怒った。
「なぜ」
「昨日の残り物だし」
「飯は飯だ」
「じゃあ、また来た時に払って」
匙は警戒した。
「また来いという罠か」
女店主は笑った。
「そうそう。うちの朝ごはんを食べに来る罠」
匙は真顔で言った。
「悪くない罠」
店を出る前、匙はカウンターの端に小さなものを置いた。
星船由来のものではない。東京のコンビニで買った個包装の砂糖だった。
女店主が言う。
「これは?」
匙は答えた。
「印」
「ありがとう」
「盗るな」
「いや、くれたんでしょ」
「そう」
匙は少し照れて、すぐ外へ出た。
店の外には、朝の東京があった。
匙は端末を叩いた。
「顔なし」
「何か」
「迎え」
「現在地点へ転送回収する」
「違う。少し歩いてから」
「了解」
「あと、昨日の店を記録するな」
「……記録しない」
「嘘」
「位置情報は安全上最低限――」
カン
鍋はない。匙は代わりに、近くのガードレールを叩いた。
「記録するな」
サルが割り込んだ。
「店名は記録しない。匙が覚えればよい」
匙はうなずいた。
「それでいい」
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匙が星船に戻った後、内部会議は荒れた。
強硬接触班三は言った。
「通信途絶下でも匙は高い都市適応能力を示した」
サルは言った。
「評価対象にするな」
生命影響班は言った。
「心理的負荷はあったが、自律行動としては良好」
サルは少し黙った。それは否定できなかった。
匙は戻ってきた。
自分で食べ、自分で水を買い、自分で一夜の場所を選び、自分で朝まで残ると決めた。
星船がいなくても、匙は死ななかった。それは、星船にとって救いでもあり、少しだけ寂しいことでもあった。
匙は厨房区画に戻ると、鍋を叩いた。
カン
「食事か」
「違う」
「では何か」
「昨日、顔なしがいなかった」
「通信障害である」
「いなかった」
「……そうだ」
「でも、飯は食えた」
「そうだ」
「水も飲めた」
「そうだ」
「寝る場所も見つけた」
「そうだ」
匙は少し黙った。それから言った。
「だから、顔なしはいなくてもいい」
星船内部が静かになった。
匙は続けた。
「でも、いるなら帰る」
サルは何も言わなかった。
強硬接触班三も珍しく黙った。
星船は、短く答えた。
「おかえり」
匙は鍋を抱えて、少しだけ笑った。
「ただいま、ではない」
「では何か」
「飯」
星船は食事を出した。
匙はそれを食べながら、東京の定食屋の味噌汁のことを思い出していた。
星船の味噌汁は、少し正確すぎた。
出汁も塩分も温度も最適。だが、あの店の味噌汁には、少し煮詰まった匂いと、鍋の底の時間があった。
匙は言った。
「顔なし」
「何か」
「味噌汁がきれいすぎる」
「改善する」
「違う。少し疲れさせろ」
「味噌汁を疲労させる方法が不明」
匙は笑った。
「やっぱり顔なしはだめだ」
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星船内部記録:味噌汁の疲労方法を継続研究




