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匙の世界線  作者: 灰神楽ねこ
第一部 星船の少女

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13/41

少し疲れた味噌汁

匙は結局、電車に乗らなかった。

駅の音が多すぎた。


改札を出て地上に戻ると、小雨が降り出していた。

道端に、屋根と細長い椅子のある場所があった。雨を避けてそこに座っていると、バスが来た。

バスは大きな箱だった。

でも、鉄の腸よりはましだった。窓があり、地面の上を走る。人が何人か乗るのを見て、匙は少し考えた。

「これならよい」


行き先は読めなかった。

だが、どこへ行くか決めていないのだから、読めなくても同じだった。


バスは商店街を離れ、大きな道へ出た。

坂を少し下ると、道の向こうに赤と白の細長いものが立っていた。先の方は雨に少し霞んでいた。

匙は窓に顔を近づけた。

「あれは何だ」

顔なしはやはり答えない。


しばらく乗ったあと、乗客が次々に降りてバスが空になった。運転手が「終点ですよ」と言いに来たので、匙も降りた。


雨は止んでいた。

人が多く、飲み屋の灯りが強い。

人の声、焼き鳥の匂い、ビールの匂い、そして煙。

匙は、煙のある場所の方が安心する。完全に清潔な場所より、ずっといい。


高架の下の小さな店の前で、焼き鳥を焼いている男がいた。匙は立ち止まった。

男が言う。

「食べてく?」

匙は言った。

「肉か」

「鳥だよ。ねぎま、もも、つくね、皮」

「皮」

「皮ね」

匙は焼ける様子を見た。

星船の厨房には火が見えない。東京のコンビニにも火が見えない。だがこの店には火があった。

匙は、火を見てかなり落ち着いた。


焼き鳥の串を受け取り、店先の小さな椅子に座る。

隣には酔った会社員がいた。

「オヤジ、生、もういっちょ」

「はいよ」

大きな缶とグラスを受け取った会社員は、プシュッと音を立てて缶を開け、グラスになみなみとビールを注いだ。

匙は横目で見た。

「缶の中の黄色い泡」

男も匙を見た。

「嬢ちゃん、外国の子? どこから来たの?」

匙は少し考えた。

「遠い」

「どこ?」

「ブルディガラ」

「え、ブルガリア?」

「違う」

会社員はよく分からないまま頷いた。

「日本語うまいね」

匙は串をかじった。

「顔なしがうるさいから覚えた」

「顔なし?」

「家」


会社員は酔っていたので、深く考えなかった。

「家族か」

匙は少しだけ黙った。

「家族ではない」

「じゃあ何?」

焼き鳥の火がぱちっと鳴った。

「帰ると飯があるもの」

会社員は笑った。

「それ家族じゃん」

「簡単に言うな」

会社員は両手を上げた。

「悪(わり)ぃ悪(わり)ぃ」

たぶん悪い男ではなかった。少なくとも、今この瞬間は。

匙は焼き鳥をもう一本買った。



夜が深くなるにつれ、匙は判断を迫られた。

星船と連絡が取れない。端末は死んでいる。駅は使えるが、どこへ行くか分からない。

現代東京で野宿はできるが、職務質問される可能性がある。

ホテルは身分証が必要そう。

漫画喫茶とかいうものを星船に教えられたことがあるが、仕組みが怪しい。

カプセルホテルとかいうものは「人間を棚に入れる」場所らしいが、匙は荷物ではない。

そもそも、どこも子供を泊めてくれるのかが不明。


彼女は交番の前まで行った。警察官が二人いた。匙は遠くから観察した。

制服、棒、紙。

人に道を教えている。酔った男にも怒鳴っていない。子供にも低い声を出していない。

悪くはないかもしれない。でも、近づくのは最後。


匙は反対方向へ歩いた。そして、深夜まで開いている小さな定食屋を見つけた。

古い店だった。

入口には紺のくたびれた暖簾が掛かり、カウンター席にテレビがあり、味噌汁の匂いがした。

そして店主の女が一人。


匙は店に入った。

「まだ食べられるか」

女店主は顔を上げた。

「食べられるよ。何にする?」

匙は壁のメニューを見た。読めない。


カルタゴの港で食べた魚を思い出した。魚があったら良いと思った。

「魚」

「焼き魚定食?」

「それ」

ご飯と味噌汁、焼き魚。それに漬物と小鉢。匙はそれを見て、しばらく黙った。皿が多い。

女店主は言った。

「お箸使える?」

匙は箸を見た。

「二本の棒か」

「フォーク出そうか?」

「いや。戦う」

女店主は笑った。


匙は箸と戦い、結局途中から魚を手でほぐした。女店主は何も言わなかった。

食べ終わる頃には少し眠くなっていた。


女店主が聞いた。

「あんた、帰るところあるの?」

匙の手が止まった。

この問いは危険だった。昔なら、ここで嘘をつく。今も嘘をつける。

ある、と言えばいい。


匙は店主を見た。

年は五十くらい。目は疲れているが悪くない。厨房の人間の目だった。食べ物を出して片付け、客を見ている目。


匙は言った。

「ある。だが今、家が黙っている」

女店主は、少しだけ眉を上げた。

「喧嘩したの?」

匙は考えた。

「たぶん、家が迷子」

女店主は笑わなかった。

「そりゃ困ったね」

「困った」

「電話は?」

「小さい顔なしが死んだ」

女店主は少し沈黙した。

「スマホの電池切れ?」

「たぶん」

「充電する?」

匙は端末を出した。女店主は見たことのない形に首をかしげた。

「これ、どこの?」

「顔なしの」

「充電器合わなそうだねえ」

匙はうなずいた。

「役に立たない」


女店主は少し考えた。

「終電なくなるよ」

「鉄の腸には乗らない」

「地下鉄?」

「うるさい」


女店主はさらに考えた。

そして言った。

「店、もう閉めるけど、しばらくここにいてもいいよ。朝になったら、また考えな」


匙は、即座には答えなかった。

親切は怖い。親切には理由がある。理由が見えない親切は特に怖い。


「なぜ」

女店主は肩をすくめた。

「なんとなく。変な子だから」

匙は睨んだ。

「子ではない」

「ああ、ごめん。変な人だから」

匙は少し満足した。

「それならいい」


深夜の定食屋で、匙はカウンターの端に座った。女店主は片付けをしている。テレビが小さな音で流れている。

店の奥に、古い招き猫があった。匙はそれを見た。

「猫が客を呼ぶのか」

女店主が答えた。

「呼んでくれるといいんだけどね」

「呼ばないのか」

「まあ、気分だね」

匙は少し考えた。

「猫らしい」


この店は悪くなかった。

火があり飯があり、何よりも鍋がある。

鍋は大事だ。

そして女店主は近づきすぎない。寝ろとも、帰れとも、身の上を話せとも言わない。

匙はだんだん眠くなった。だが、寝るには危険確認が必要だった。

出口、裏口、包丁の位置、女店主の手、窓、椅子の高さ、机の下。

女店主は匙の視線の動きに気づいていた。

気づいたが、何も言わずに薄い毛布を出してきた。

「使う?」

匙は毛布を見た。

「返す」

「うん。返して」

「盗まない」

「うん」

「本当は盗める」

「だろうね」

匙は毛布を受け取った。

その言い方がよかった。盗めることを分かったうえで、騒がない。

匙はそれを信用したのではない。だが、今夜は噛まなくていいと判断した。


******


星船は、ようやく匙の位置をつかんだ。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

位置確定:東京都内小規模飲食店内部。状態:座位。生命兆候安定。摂食済み。睡眠移行傾向。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


サルは深く処理音を吐いた。

「通信復旧は」

「あと少し」


強硬接触班三が言った。

「迎えに行くか」


サルは、すぐには答えなかった。


映像には、定食屋のカウンターで毛布をかぶり、椅子に座って眠りかけている匙が映っていた。

近くには女店主。危険は低い。

匙は自力で飯を食べた。水を飲んだ。人に助けを求めすぎず、でも完全に拒まず、夜を越す場所を見つけた。

これは、星船が望んでいたことでもあった。

匙が星船なしでも生きられること。だが、実際に見ると、星船は少し寂しかった。


サルは言った。

「すぐには迎えない」

強硬接触班三が驚いた。

「危険はゼロではない」

「ゼロではない。だが匙が選んだ」

「通信だけ復旧させるか」

「小さく」


******


匙が半分眠っていると懐の端末がわずかに震えた。

小さな光が灯る。


「匙」

匙は目を開けた。

「遅い」

「通信障害が発生した」

「顔なしが迷子になった」

「おおむね違う」

「違わない」

「状態を確認する」

「飯を食った。水も飲んだ。店の女は噛まなくていい」

「帰還するか」


匙は、すぐには答えなかった。

女店主は奥で片付けをしている。外は夜。東京はまだ明るい。


「朝」

「朝まで現地滞在するのか」

「そう」

「理由は」

匙は毛布を少し引き上げた。

「私が決めた」

星船は沈黙した。


サルが、星船の返答を短くした。

「分かった」


匙は目を細めた。

「心配したか」

「した」

匙は少し笑った。

「よし」

「よし、とは」

「顔なしは心配しろ。でも迎えに来るな」

「矛盾している」

「人間だから」

星船は、返事に少し遅れた。

「そうだな」

匙は満足して、端末を懐にしまった。


その後、女店主が戻ってきた。

「連絡ついた?」

匙はうなずいた。

「家が見つかった」

「よかったね」

「でも朝までここにいる」

「いいよ」

匙は少し考えてから言った。

「礼を言う」

女店主は笑った。

「はい、どういたしまして」

匙はさらに考えた。

「飯もうまかった」

「そっちの方がうれしいね」

匙は毛布に顔を埋めた。

「東京は変だ」

「そう?」

「飯が多い。人も多い。みんな急ぐ。家が迷子になる」

女店主は、何のことか分からないまま言った。

「まあ、東京だからね」

匙はそれで納得した。

東京だから。便利な言葉だ。



朝、匙は定食屋で味噌汁と白飯と卵焼きを食べた。

女店主は「朝ごはん」と言った。匙はそれを気に入った。

朝に飯が出る言葉。強い。

支払いをしようとすると女店主は半分でいいと言った。

匙は怒った。

「なぜ」

「昨日の残り物だし」

「飯は飯だ」

「じゃあ、また来た時に払って」

匙は警戒した。

「また来いという罠か」

女店主は笑った。

「そうそう。うちの朝ごはんを食べに来る罠」

匙は真顔で言った。

「悪くない罠」



店を出る前、匙はカウンターの端に小さなものを置いた。

星船由来のものではない。東京のコンビニで買った個包装の砂糖だった。

女店主が言う。

「これは?」

匙は答えた。

「印」

「ありがとう」

「盗るな」

「いや、くれたんでしょ」

「そう」

匙は少し照れて、すぐ外へ出た。


店の外には、朝の東京があった。

匙は端末を叩いた。

「顔なし」

「何か」

「迎え」

「現在地点へ転送回収する」

「違う。少し歩いてから」

「了解」

「あと、昨日の店を記録するな」

「……記録しない」

「嘘」

「位置情報は安全上最低限――」


カン


鍋はない。匙は代わりに、近くのガードレールを叩いた。

「記録するな」


サルが割り込んだ。

「店名は記録しない。匙が覚えればよい」

匙はうなずいた。

「それでいい」


******


匙が星船に戻った後、内部会議は荒れた。


強硬接触班三は言った。

「通信途絶下でも匙は高い都市適応能力を示した」


サルは言った。

「評価対象にするな」


生命影響班は言った。

「心理的負荷はあったが、自律行動としては良好」


サルは少し黙った。それは否定できなかった。

匙は戻ってきた。

自分で食べ、自分で水を買い、自分で一夜の場所を選び、自分で朝まで残ると決めた。

星船がいなくても、匙は死ななかった。それは、星船にとって救いでもあり、少しだけ寂しいことでもあった。



匙は厨房区画に戻ると、鍋を叩いた。


カン


「食事か」

「違う」

「では何か」

「昨日、顔なしがいなかった」

「通信障害である」

「いなかった」

「……そうだ」

「でも、飯は食えた」

「そうだ」

「水も飲めた」

「そうだ」

「寝る場所も見つけた」

「そうだ」


匙は少し黙った。それから言った。

「だから、顔なしはいなくてもいい」



星船内部が静かになった。



匙は続けた。

「でも、いるなら帰る」


サルは何も言わなかった。

強硬接触班三も珍しく黙った。


星船は、短く答えた。

「おかえり」

匙は鍋を抱えて、少しだけ笑った。

「ただいま、ではない」

「では何か」

「飯」

星船は食事を出した。


匙はそれを食べながら、東京の定食屋の味噌汁のことを思い出していた。

星船の味噌汁は、少し正確すぎた。

出汁も塩分も温度も最適。だが、あの店の味噌汁には、少し煮詰まった匂いと、鍋の底の時間があった。


匙は言った。

「顔なし」

「何か」

「味噌汁がきれいすぎる」

「改善する」

「違う。少し疲れさせろ」

「味噌汁を疲労させる方法が不明」

匙は笑った。

「やっぱり顔なしはだめだ」


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈

星船内部記録:味噌汁の疲労方法を継続研究


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