クルーズ船とロブスター
匙は、日本の本屋で買った『世界観光地図』の、ハワイのページを開いていた。
青い海。火山。フラの花輪。白い砂。サーフィンと夕焼け。
別冊の旅行パンフレットには、ハワイを周遊するクルーズ船の広告が載っていた。
白い船体と広い甲板、海を見下ろすレストラン。その写真の隅に、赤い殻をした大きな生き物が皿に載っていた。
匙はその写真を指差した。
「顔なし」
「何か」
「この、ハワイのクルーズ船のロブスターというのを食べてみたい」
「ロブスターは大型甲殻類であり、ハワイ近海の名物というより、観光・高級料理として船上で提供される可能性がある」
「長い。食う」
「予約するか」
匙は真顔で言った。
「潜入」
サルがすぐに口を挟んだ。
「だめだ」
「まだ何もしてない」
「潜入と言った」
「見るだけ」
「匙の『見るだけ』は信用できない」
「食べるだけ」
「さらに悪い」
匙は旅行パンフレットを叩いた。
「クルーズ船は、飯を見せびらかしている。なら食われる覚悟がある」
「ない」
「では、どうする」
「正規の乗客として予約して乗る」
匙は少し考えた。
「潜入ではなく、正規侵入」
「乗船だ」
「正規乗船」
「それでよい」
匙はまだ少し不満だったが、パンフレットのロブスターをもう一度見た。
「ただし、ロブスターを食う」
「了解」
******
降ろされたのは、二十一世紀のオアフ島だった。
ワイキキの海岸沿いの通りに出た匙は、最初に空気を確認した。
海の匂い。停車中の観光バスから流れてくる排気ガス。日差しに温められた舗装道路と埃、誰かの日焼け止め、甘い香水。
白と赤の花が咲き、通りの向こうからは揚げ物とコーヒーの匂いがした。ホテルの入口からは冷たい空気が吹き出している。
「匂いが多い」
「観光地である」
「海の匂いが負けそうだ」
匙はしばらく通りを歩き、港へ向かった。
顔なしが予約したクルーズ船は、港に停泊していた。
匙から見ると、異常に大きかった。白い船体には窓が何列も並び、甲板にはすでに大勢の人がいる。
「これは船か、動く建物か」
「大型クルーズ船である」
「海に浮いたホテル?」
「そうだ」
「海にホテルを浮かべる必要があるのか?」
「観光体験として」
「人間、馬鹿だな」
「称賛か」
「半分」
乗船手続きに必要な身分情報や予約は、顔なしが整えていた。周囲の認識にも補正がかけられている。
匙は一人旅の若い観光客として扱われる。
英語は少し変わっているが、会話はできる。客室も食事プランも確保され、必要な料金は支払い済みだった。
「今回は、本当に正規乗船する」
サルが念を押した。
「潜入感が薄い」
「潜入する必要がない」
「つまらない」
「ロブスターは食べられる」
「ならよい」
チェックインの係員が笑顔で迎えた。
“Welcome aboard.”
(船へようこそ)
匙は少し考えてから、英語で答えた。
“Thank you. I came for red sea bug.”
(ありがとう。赤い海虫を食べに来た)
係員は一瞬固まり、それから取ってつけたような笑顔になった。
“Lobster?”
(ロブスターですか?)
“Yes. Red sea bug.”
(そう。赤い海虫)
“Enjoy your cruise.”
(航海をお楽しみください)
匙は小さく頷いた。
「通じた」
船内に入ると、匙は足を止めた。
絨毯の敷かれた廊下が奥へ延び、壁には照明と案内表示が並んでいる。
エレベーターが上下し、乗客が大きな鞄を引いて歩いていた。香水と料理と消毒の匂いが混ざり、遠くから音楽が聞こえる。
窓の外には海があった。
「海の上なのに、海の匂いが少ない」
「船内環境は空調管理されている」
「管理された空気」
匙は船内図を広げた。
客室、レストラン、劇場、プール、バー、売店、医務室、乗員区画。施設が多すぎて、最初はどこにいるのか分からなかった。
やがて救命艇の印を見つけると、匙は指を止めた。
「これ」
「救命艇である」
「どこから乗る」
顔なしが避難経路を示した。
匙は近くの階段と集合場所を確認し、実際にそこまで歩いてみた。途中で曲がる廊下を間違え、一度戻った。
「ロブスターではなく救命艇か」
「飯より先に出口」
匙は船内図を折りたたんだ。
「よし。飯」
ビュッフェは、匙にとってほとんど戦場だった。
料理が並び、人が皿を持って行き交っている。スープ、サラダ、肉、魚、パン。米と麺、チーズ、果物、ケーキ。
奥にはアイスクリームまであった。
匙は入口で立ち止まった。
「飯が無防備すぎる」
「セルフサービス形式である」
「誰も飯を守っていない」
「スタッフが管理している」
「飯を好きなだけ取れるのか」
「規定範囲内では」
「危ない飯」
「なぜ」
「人間は、好きなだけ取ると馬鹿になる」
そう言いながら、匙は皿を持った。
最初は慎重に、米、魚、焼いた野菜、果物、スープを少しずつ取った。皿の上を見て、まだ余裕があることを確認してから席へ向かう。
ところが、食べ終わって戻る途中、デザートの前で立ち止まった。
小さなケーキが何種類も並んでいる。色も形も違う。
「全部少しずつ食べたくなる」
「匙の胃容量には限界がある」
匙はしばらくケーキを見比べ、二つ選んだ。
「今日は二つ」
「了解」
一つはチョコレートで、もう一つは果物の載った白いケーキだった。
匙はどちらも半分ずつ食べてから、残りを食べる順番を決めた。
******
ロブスターは夕食のメインダイニングで提供される予定だった。
匙はドレスコードを聞いて眉をひそめた。
「なぜ飯に服の規則がある」
「船内レストランの慣習である。食事には社交と演出も含まれる」
「飯は飯だろ」
「今回は試してみるか」
「今回だけ」
顔なしが用意した服の中から、匙は比較的シンプルなワンピースを選んだ。
靴は歩きやすいものにした。高いヒールを勧められたときは、履いてみることさえ拒んだ。
「逃げにくい靴は悪い」
夕食の時間になると、匙はレストランへ向かった。
白いテーブルクロスの上にグラスと食器が並び、窓の向こうには夕暮れの海が見えていた。周囲の乗客は昼間よりきちんとした服装をしている。
席に着くと、ウェイターが来た。
“Good evening. Would you like still water or sparkling?”
(こんばんは。普通のお水と炭酸水、どちらになさいますか?)
匙は小声で顔なしに聞いた。
「泡の水?」
「炭酸水」
匙はウェイターに向き直った。
“Still. Water should not fight tonight.”
(普通の水。今夜は水と喧嘩したくない)
ウェイターは笑いをこらえるように口元を引き締めた。
“Still water. Of course.”
(普通のお水ですね。かしこまりました)
匙はメニューを開いた。
Grilled lobster tail with garlic butter, lemon, seasonal vegetables.
指で文字を追いながら、ゆっくり読んだ。
「焼いた赤い海虫の尾。にんにくバター。レモン。季節の野菜」
「正確」
「尾だけか」
「提供形態として一般的」
「全身は?」
「店による」
匙は少し残念だった。
「顔がない虫は、少し物足りない」
「ロブスターの顔を見たいのか」
「食うものの形を知りたい」
「よい姿勢だ」
しばらくして、ロブスターが運ばれてきた。
皿が大きい。赤い殻の中から白い身がのぞき、溶けたバターが表面に光っていた。脇にはレモンと焼いた野菜が添えられている。
匙は身を乗り出した。
ウェイターが食べ方を説明した。フォークとナイフで殻から身を外し、レモンを少し搾り、好みでバターをつける。
匙は真剣に聞いてから尋ねた。
“I can use hands?”
(手を使ってもいい?)
“If you prefer, yes. We can bring a finger bowl.”
(もちろんです。フィンガーボウルをお持ちできます)
匙は顔なしに確認した。
「指を洗う小さい水か」
「そうだ」
「よい。手でいく」
フィンガーボウルが運ばれてくると、匙は中の水を確かめた。
「高い飯でも、手を使って許される」
「甲殻類料理では珍しくない」
「海虫だからか」
「そういう面もある」
匙は最初の一口を、何もつけずに食べた。
噛むと身がほどけ、海の味が広がった。
魚とは違う。蟹にも似ているが、もっと厚く、歯を押し返すような弾力がある。
匙は目を細めた。
「これは、海の筋肉だ」
「甲殻類の筋組織である」
「そう。海の筋肉」
次に、バターをつけて食べた。
濃い脂と塩、にんにくの風味が身にまとわりつく。匙は少し驚いた顔をした。
「これは……強すぎる服」
「バターソースだ」
「海の筋肉に、牛の脂の服を着せている」
今度はレモンを搾った。
酸味が広がると、口の中に残っていた脂の重さが薄くなった。
「レモンは、服を少し脱がせる」
匙はそれから、バターをつけたり、何もつけなかったり、レモンだけを搾ったりしながら、ゆっくり食べ進めた。
隣のテーブルの老夫婦が、その様子を面白そうに見ていた。
“First lobster?”
(ロブスターは初めてかね)
夫の方が尋ねてきた。
“Yes.”
(うん)
“Do you like it?”
(気に入ったかい)
匙は少し考えた。
“Good. But too dressed. I want to see it in the kitchen.”
(おいしい。でも着飾りすぎてる。台所にいるところを見たい)
老夫婦は笑った。
“In the kitchen?”
(台所で?)
匙は頷いた。
“Food has hands before table.”
(飯には、食卓に来る前に手がある)
夫は意味を考えるように首を傾げた。
妻が匙を見て尋ねた。
“You mean the people who cook it?”
(料理を作る人たちのこと?)
“Yes. Their hands.”
(そう。その人たちの手)
妻は頷いた。
“That’s true.”
(そうね)
匙は少し嬉しくなった。
通じた。
食事が終わっても、匙はロブスターのことを考えていた。
「厨房を見たい」
「調理の様子か」
「ロブスターの手を見たい」
「厨房スタッフの手だな」
「そう」
顔なしが船内の案内を調べると、翌日に乗客向けのギャレー見学ツアーが予定されていた。
「見せるための厨房か」
「見学可能な範囲は限られる。実際の作業も見られる」
「それならいい」
「予約するか」
「正規潜入する」
「予約だ」
「じゃあ、予約」
******
翌朝、匙はギャレー見学ツアーに参加した。
厨房はレストランよりも見応えがあった。
金属の作業台、熱い湯気、大量の皿。冷蔵庫の扉が開閉し、調理器具がぶつかる音が響く。
スタッフは狭い通路を行き来しながら、食材を運び、切り、加熱し、皿に盛りつけていた。
責任者の声が飛び、別の場所から返事が来る。
匙は立ち止まって、その動きを眺めた。
「ここが船の腹だ」
「厨房区画である」
「船の腹」
案内役のシェフは、観光客に向けて厨房の仕事を説明した。
一日に何食を用意するか。食材をどのように保管するか。食物アレルギーにどう対応するか。寄港地での搬入や廃棄物の管理、海上で大量の料理を出す難しさ。
途中で写真を撮り始める乗客もいれば、早く終わらないかという顔をしている者もいた。
匙は説明を聞きながら、スタッフの手元を追っていた。
野菜を切る手、皿を並べる手、熱い鍋を運ぶ手。誰かが通路を通ろうとすると、別の誰かが体をずらす。
大勢が一度に働いているのに、ぶつからない。
シェフへの質問の時間になると、匙は手を挙げた。
“Where does the lobster come from?”
(ロブスターはどこから来るの?)
シェフは仕入れについて説明した。
船で提供されるロブスターは、必ずしもハワイ近海で獲れたものではない。冷凍されたものや、広い流通網を通じて調達されたものが船に積み込まれている。
匙は眉をひそめた。
「ハワイのロブスターではないのか」
シェフは苦笑した。
“Cruise ship lobster isn't always local.”
(クルーズ船のロブスターは、必ずしも現地産ではありません)
匙は顔なしに聞いた。
「観光地図の嘘か」
「広告は船上での食事を紹介している。産地を保証しているわけではない」
「海の上で、別の海の虫を食べたのか」
「そうだ」
匙はノートを出して書いた。
Hawaii cruise lobster may not be Hawaii lobster. Ask where from.
(ハワイのクルーズ船のロブスターは、ハワイのロブスターとは限らない。どこから来たか聞け)
見学はさらに続いた。
食材を保管する場所を通り、配膳の流れを見たあと、一行は洗い場の近くへ来た。
匙はそこで足を止めた。
大量の皿が次々に運ばれてくる。食べ終わった皿、残ったソース、骨と殻、汚れたグラス。
スタッフはそれらを分け、残飯を処理し、皿を洗っていた。
洗浄機の音が絶えず響いている。
前夜、匙が食べたロブスターの殻も、こういう場所に運ばれたのだろう。
匙は皿を運ぶ人の後ろ姿を見ていた。
「こっちが本当の終わりだ」
「食事提供の後工程である」
「飯は、皿が洗われるまで終わらない」
顔なしは少し間を置いた。
「そうだな」
洗い場の若いスタッフが、匙を見て笑った。
“Not glamorous, huh?”
(華やかな場所じゃないだろ)
匙は皿の山を見た。
“Important. Dirty end is still food.”
(大事。汚れた終わりも、まだ飯のうち)
スタッフは一瞬手を止め、それから親指を立てた。
匙も真似して親指を立てた。
スタッフはすぐに仕事へ戻った。後ろからまた皿が運ばれてきて、洗い場の音に紛れていった。
******
夕方、匙は甲板に出た。
船は海の上を進んでいた。低いエンジンの振動が足元から伝わってくる。海風は強く、昼間の船内で嗅いだ香水や消毒の匂いはなかった。
西の空が赤くなり、遠くに島影が見えた。甲板では乗客たちが写真を撮り、グラスを持って笑っていた。
匙は手すりを掴んだ。
「クルーズ船は嘘が多い」
「何が嘘だった」
「ハワイの飯だと思ったら、別の海の虫だった。船なのにホテルみたいで、海の上なのに海の匂いがしない」
匙は足元を見た。
「でも、嘘だけでは動かない」
「どういう意味か」
「本当に海に浮いている。人が働いている。本当に飯が出る。皿を洗う人もいる」
風が吹いて、匙は髪を押さえた。
「風も本物だ」
顔なしは答えなかった。
「だから、嘘を全部捨てると、見えなくなる」
匙はしばらく海を眺めてから、ノートを開いた。
Floating lie. Real kitchen.
(浮かぶ嘘。本物の厨房)
その夜、デザートに小さなアイスクリームが出た。
匙は一口食べて、少し考えた。
「モーリシャスの勝ち」
「アイスの比較か」
「そう」
「理由は」
「船のアイスは、逃げるよい無駄ではない。逃げる普通の無駄」
「評価が厳しい」
匙は残りのアイスをすくった。
「でも食う」




